踏切のある参道2010/01/04 21:36

踏切のある参道
 有名神社・仏閣はどこも混んでいるので、「初詣」は、今年も地元の神社にした。といっても、当方、どこが地元なのか定かではない根無し草、この社の氏子という神社もないので、ここ数年、近くの神社・仏閣をいろいろと浮気している。今年は、元旦に調布市の飛田給薬師堂、二日に、府中市にある武蔵国府八幡神社 を参拝した。
 二日、府中市の有名神社・大國魂神社は大変な混雑だったが、そこから東に1kmの武蔵国府八幡神社は、静寂に包まれていた。この神社には、こんな話がある。

 大國魂大神(大国主命)が武蔵の国に来たさい、宿を探してくると言った八幡神に待たされた。待ちくたびれた大国主命は「マツは憂いもの、つらいもの」とつぶやき、マツが嫌いになった。それゆえに、大國魂神社の境内に松の木がない。府中では、正月飾りにも松を使わない。(見たところ、最近はけっこう使っていたけれど)

 ダジャレである。日本の神様はダジャレが好きなものだが、とってつけたような話である。しかも、二世紀建立とされる大國魂神社のほうが、八幡神社より古いはずである。

 とは言うものの、武蔵国府八幡神社も由緒ある古社だ。今は大國魂神社の境外末社になっているが、八世紀の一国一社の国府八幡宮のひとつなのである。律令制の地方行政府の鎮守である。本殿、拝殿とも小さいが、社地は広い。
 そして、じつに珍しい立地の(立地になってしまった)神社なのである。鉄道(京王競馬場線)が横切るために、参道に踏切があるのだ。どうせなら、遮断機に下がるヒラヒラを純白の紙垂にしてはどうだろうなどと、ばかなことも考えたくなるくらい、どうにも奇妙な光景なのである。

 なお、参道は拝殿の前で直角に曲がり、拝殿(というか門)から本殿の向きは東向きになっている。これは、以前からそうなのだろうか。拝殿から本殿の向きが東になるのは、太陽信仰から言っても珍しくないが、最近そうなったのならば、鉄道からの邪気を防ぐ方違え(かたたがえ)かもしれない。ちなみに、踏切前の鳥居を奉納したのは京王電鉄であった。
 大国主命を待たせたことを反省した八幡神が、大國魂神社の方角である西を向いて礼を示しているというのも、「らしい話」かもしれない。

 というように、神社・仏閣は、そう有名でなくても謎があり、小さな社が予想外に古かったりして、面白いのであった。

√2の日と中島敦のロック2010/01/05 23:04

√2
何者か 我に命じぬ 割り切れぬ 數を無限に 割りつづけよと
(中島敦『夢』から)

 もうすこし前に気がつけばよかったのだけれど、昨日、就寝時に上の歌を読んで、割り切れぬ→無理数→√2→1.4...ということで、思いついた。そう、3月14日が円周率の日ということらしいので、1月4日を√2の日にしよう、と。より細かく、1月4日14時21分35..秒が、√2の時でもよい。10進法と60進法が混ざるのは変だけれど。

 √2と言えば、わたしは、2ヶ月ほど前に『本格折紙√2』という本を上梓した。その表紙と裏表紙の背景には、√2の小数展開の数列が配されている。表紙は、帯をはずすと数列が途中で切れてしまっているのだが、これらの数字は、言うまでもなく、どこまでもどこまでも続くものである。上に、表紙のデータより、さらに桁数を増やしたものを示す。

 さて。ここに示したような数値を得るためには、特別な工夫、特別な計算法が必要である。計算機でよく使われる倍精度実数の有効桁数が、せいぜい15桁ぐらいだからだ。このデータをつくるためにプログラムを組んだのだが、上の歌「何者か 我に命じぬ…」-これ自体は循環小数のことのようだが-を、プログラムのつぶやきと考えたら、プログラムがいじらしくなった。なお、プログラマがプログラムを擬人化するのはよくあることだ。
(その後、LongHandという、有効桁数を指定できるとてもよくできた計算機ソフトウェアがあることも見つけ、わざわざ自分で組む必要もなかったことも判った)

 そして、中島敦の歌というのが、じつに面白いことも、発見したのだった。たとえば、
眼瞑(と)づれば 氷の上を 風が吹く 我は石となりて 轉(まろ)びて行くを
(中島敦『石とならまほしき夜の歌』から)
って、ボブ・ディランじゃん! Blowin' in the windで、 Like a rolling stone だぞ。

自己補対(?!)八面体2010/01/05 23:13

自己補対(?!)八面体
 今日、野辺山観測所で、シニュアス(波状)アンテナに関する談話会があった。シニュアスアンテナというのは、広帯域観測などのための、同心円構造を発展させたギザギザ形状のアンテナである。ここでは、四つの同じパターンを組み合わせている(図は中心部分を省略)。アンテナ相手の仕事をしているのに、アンテナにまったく詳しくない愚生、その図形パターンの美しさに惹かれた。
 このアンテナの特徴のひとつは、アンテナ部分と隙間が同じかたちになることだ。このようなアンテナを、自己補対(self complement)アンテナと呼び、周波数によらずインピーダンスが一定になるのだそうだ。なお、自己補対アンテナの原理は、八木・宇田アンテナの発明者である伝説の工学者・八木秀次、宇田新太郎の直弟子・虫明康人さんの発見とのことである。日本のアンテナ技術って伝統があるんだなあ。

 で、帰宅してから、自己補対だけが気になって、それを使った造形ということだけを考えてしまうのが「かたちバカ」のわたしなのだった。正八面体の表面から自己補対構造と言えるものがつくりやすいことを使って、四枚の正三角形で、自己補対八面体(つまり、四つが面で残り四面は穴になる八面体)をつくること。今夜のテーマはそれに決定!

 で、幾何学的には点で繋がることになるわけだが、糊付けと、小さな切り込みを使ってつくってみた。すでにありそうなものだが、なかなか美しい。

タイリング絵のこと2010/01/07 23:22

タイリング絵(トラ)
 自己補対(自己相補)ということで連想するのは、M.C.エッシャーのタイリング(敷き詰め or 正則分割 or テサレーション)絵だ。動物や人物など、複雑な輪郭をしたものが、ぎっしりと充填された絵である。

 エッシャーのこのタイプの絵に関しては、語りたいことはたくさんあるのだけれど、指摘されることがほとんどない、以下のふたつの点を書いておきたい。

 まず、第一点。モチーフに合わせて図の向きを明確に意識していること。たとえば、動物の絵で、脚が上向きになっていることはほとんどない。(ただし、習作を除く) 逆転する図を含む絵は、上から見たり、見上げたりという別視点の図柄であるか、浮遊するもの、あるいは、そもそも「異なる座標系」の中にある絵、と見ることができる。

 そして、二点目。これは、変遷もあり、一点目より例外も多いが、二色で塗り分け可能なものが多いことだ。ゲシュタルト心理学的な「図と地」(まさに相補性である)というモチーフと、版画という技法に密接に関わっている、と考えられる。

 版画ということに関しては、こんなことも言える。
 エッシャーの作品は、技法や表現から切り離して、構造だけを話題にすることも可能だ。そのために、そもそも美術であることを見落とすことも多い。しかし、美術としてのエッシャー作品は、版画であること(さらに細かく言えば、木版やリトグラフという個々の技法)に、極めて大きい意味がある。

 …で、わたしも、エッシャーさんの顰みにならってタイリング絵を描くのだが、この二点が不得意なのである。たとえば、上図左は、ちょうど一巡りした年賀状だが、一列ごとに逆転している。図右の今年の年賀状の背景は、逆転していないが、これは、図が単純だからだ。(単純なので、あえて複雑にするために、一列ごとに逆転しようかとも思ったのだが、美しくなかった。そのとき気がついたのは、「寅」という字は、正面から見たトラの姿にも見えるということだった)

付箋ピラミッドと正八面体骨格2010/01/08 23:46

付箋ピラミッド
 三つの正方形を、頂点が接するように互いに交差させると、体積を持たない「三面体」ができる。できあがったそのかたちは、正八面体の骨組みになる。折り紙でも、ロバート・ニールさんの作品や拙作など、作例がいくつかあるかたちだ。

 そして、写真。これは、その正八面体骨格を半分にしたものだが、今日、ふと、正方形の付箋を「めくるだけ」でこのかたちになることに気がついた。めくるだけと言っても、紙が紙を突き抜けないといけないので、切り込みは必要である。切り込みのしかたには複数の方法があり、単純だけれど、ちょっとトリッキーだ。

 この正八面体骨格は、ロズウェル事件にも登場する。1947年、ニューメキシコ州ロズウェル付近で、「不思議な物体」が回収されたという、あの事件である。残念ながらというべきか、ロズウェル事件は、地球外からの飛来物でも異星人でもなんでもなく、プロジェクト・モーガルという軍の実験だったことがほぼ確実だが、その実験で使われたレーダーターゲットのかたちが、この正八面体の骨組みによく似ているのである。たとえばここ(The Committee for Skeptical Inquiry)に図がある。

 レーダーターゲットというのは、XYZどの軸にも反射させるために、この形状がよいらしい。これは、ヨットなどの小型船舶でも使われている。強化プラスティックのヨットはレーダーに映りにくいため、レーダーリフレクターなるものをつけることがある。たとえば、これだが、「折りたたみ式」とあるように、折り畳みにも向いたかたちである。

鶴ではないものが入っている千羽鶴2010/01/10 11:18

 せきしろさんと又吉直樹さんの自由律俳句集『カキフライが無いなら来なかった』に、以下の句があった。
ちょっと違う鶴も入っている千羽鶴 (詠:せきしろ)

 日本折紙学会のスタッフ会議で、「最近、千羽鶴でくちばしの部分を折ってはいけないという風説がひろまっている。『首を折る』に通じるということらしい」という話題がでて、ちょうど、その帰宅の電車で読んだ。以下のような変奏も考えた。

 鶴ではないものが入っている千羽鶴

 この句集は、なかなかに味わい深い。
お湯が六分の一ぐらいの湯船でじっと待つ
醤油差しを倒すまでは幸せだった (詠:せきしろ)
へんなとこに米が入ってとれない。
潰れてた日本一上手い店という看板を残して (詠:又吉直樹)

 以前、妻とチャットをしていて(ということ自体、すこし恥ずかしいが)、なにか書いたあとに(放哉)をつけるという遊びをやった。ちなみに、放哉は、尾崎放哉(ほうさい)のことで、「咳をしても一人」などで知られる、種田山頭火(「うしろすがたのしぐれてゆくか」)と並ぶ、自由律の俳人である。
 似たようなことは、エッセイストの宮田珠己さんもやっていたが、ただのチャットの言葉が、(放哉)をつけるだけで、もっともらしくなるのだった。

応答せよ だめか だめだ(放哉)
鍋の野菜を食べ尽くした(放哉)
脚が四本しかない虫(放哉)

↑放哉の句ではない(後山)
後山という俳号を考えてみた しゃらくさい(後山)