折り紙教室など2023/02/19 20:03

タイミングを逸して、今年になって初めての更新となってしまいました。

◆折り紙教室
2/23(木)13:00-15:00、府中郷土の森ふるさと体験館で、折り紙教室を担当します。府中郷土の森博物館は入場料が必要ですが、教室自体は無料です。
作品は「ねこ」です。
ねこ
目玉シールは、折り紙造形ということでは若干邪道気味だけれど、これはこれで面白い。

◆『折紙探偵団』購読キャンペーン中
『折紙探偵団』(隔月刊、年6号)の購読を申し込むと、今期のものだけではなく、希望のバックナンバーが無料でついてくるキャンペーン中です。

1月末に刊行された『折紙探偵団』(197号)には、「折り紙に逢える宿」という記事(エッセイ)を寄稿し、文脈にぴったりだったので、若山牧水の歌を二首引用したのだが、折り紙(折鶴)のでてくる次の歌を出し惜しみしてしまった。

やまざとは雪の小うさぎ紙のつる姉と弟の春うつくしき 牧水

いい歌だし、記事の内容にも合っているので、引いておけばよかった。

◆テッテ的
今年の初め、調布市文化会館「たづくり」で『つげ義春と調布』展を観た。原画ではなく複製原画だったが、主催の調布市立図書館の司書さんにディープなつげファンがいるのか、なかなかに「テッテ的」であった。そう、「この場合テッテ的というのが正しい文法」なのである。そしてその足で、『ねじ式』誕生の場所である、調布市富士見町の中華・八幡で昼食を摂るという聖地巡礼をした。久しぶりに行った八幡は、猫娘ゆかりでもあるので、猫娘関係の色紙が多数飾られていた。

本当に仲良しなのか鶴と亀
暮-正月につくった新作。
ほんとうに仲良しなのか鶴と亀
こうして並べると、坂東乃理子さんの現代川柳と、その付句にぴったりの古川柳が、どうしても思い浮かぶ。

本当に仲良しなのか鶴と亀 坂東乃理子
鶴の死ぬのを亀が見ており 『武玉川』(現代表記)

髭みたいな藻のついた「蓑亀」という図像になじみのない欧米のひとは、亀の尻尾がどうしてこうなっているのだと思うだろうが、甲羅に緑藻がつく亀というのはじっさいにいるのだそうだ。淡水の亀特有らしいのだが、この折り紙のデザインの前脚は海亀である。

◆7BEE
野辺山45m電波望遠鏡に搭載された最新鋭の広帯域七素子受信機「7BEE ( 7-BEem Equipment for Nobeyama 45m Telescope)」が、順調にその能力を発揮しつつある。最近、食物を7BEEふうに並べてしまう癖がついた(左上端は、「高槻城」という大阪府高槻市の菓子)。
広帯域七素子受信機「7BEE」

七曜

◆比喩としての折り紙
『怪物のゲーム』(フェリクス・J・パルマ、訳)というミステリで、折り紙をつかった表現にふたつ遭遇した。

ラウラとの関係は課外授業と並行して進展したが、折り紙でもするようなどこかもったいぶったスローペースであった。

今もバソルは折り紙でもするつもりなのかナプキンをいじって、オラーヤが沈黙を破るのを待っている。

ひとつ目は、折り紙を用いた比喩表現として典型的な「繊細」や「脆い」といったものではないのが珍しい。折り紙では手順や正確さが重要なことが多く、それをもったいぶっていると感じるむきはたしかにあるのだろう。なお、この小説自体は、面白いのだけれど、誘拐犯の「怪物」から課せられる課題がほんとうにイヤなものなので要注意。

イベントなど2022/10/23 18:03

◆折り紙教室@府中 
コウモリ
10/30(日)13:00-15:00、府中郷土の森ふるさと体験館で、折り紙教室を担当。講習作品はハロウィンに合わせて、「コウモリ」。
…簡単でいて面白い作品を考えるのは難しい。

10/24-11/11
「OrigamiUSA・日本折紙学会共同WODイベント」に参加する。

◆第27回折紙探偵団コンベンション
11/25-11/27、第27回折紙探偵団コンベンションに参加する。わたしの講習作品は「鯉」。
NishikiGoi

◆『数学セミナー』
『数学セミナー』2022年11月号の特集『私の選ぶ「推し図形」』に「正八面体が好きだ」というエッセイを寄稿した。「推し図形」というのは、まあ、『数学セミナー』でなければありえないテーマだ。

早川のポケミスの新刊『 鏡の迷宮 パリ警視庁怪事件捜査室』( エリック・フアシエ、加藤かおり訳)は、七月革命直後のパリを舞台にした話だが、ストーリーに絡む人物として、師範学校を放校になる直前のエヴァリスト・ガロアが登場する。急進共和主義者の会合で、酒場のメニューを折って符牒にするという折り紙ネタ(?)的な話もでてきた。化学者から捜査官となった、若き警部ヴァランタンを主人公とするこの話はシリーズ化され、本国では第2弾もでている。今後、ガロアについても書き遺している数学者・マリー=ソフィ・ジェルマンも登場するのではないかと期待している。

◆「マエカワ」について
先日、海外からのメールで、Maekawaを、Makaewaと間違えていたひとがいて、マカエワというのは中央アジアぽい響きがあるなあ、と思った。アガサ・クリスティー賞受賞の同志少女よ敵を撃て』(逢坂冬馬)に、カザフスタン人のアヤ・マカタエワという人物がでてくる。なになにエワというのは、ロシア人名の女性語尾と似たものかと思ったのだが、それとは違うようで、カザフスタンには、国民的詩人のムカガリ・マカタエワというひとがいて、男性であった。

10年以上前にバンクーバーの日系文化センター博物館を訪れたさい「前川商店」の看板を見たのだが、横文字での綴りはMAIKAWAであった。aeはドイツ語などのaウムラウトの代用表記でもあるが、英語では長音と認識されてミーカワとなってしまい、マイカワのほうがマエカワの発音に近いからだろう。
前川商店

前川の横文字表記ということでいえば、テキサスに稲作を導入したことで知られる、前川一族(?)中の偉人・前川真平に由来するヒューストン市の地名・マイカワの綴りはMykawaで、産業機械で知られる前川製作所はMaykawaである。

そういえば、以前、『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(ガイ・ドイッチャー著、椋田直子訳)という本を読んでいて、フィンランド語のmakeaという単語が「甘い」の意味だと知った。フィンランド人にとって、マエカワという姓はちょっと甘い感じがするのかもしれない。

make-workという形容詞表現もマエカワにすこし似ている。これには「雇用創出」のような意味もあるが、「人を遊ばせないためだけの無意味な仕事」という含意もある。なんだかなあとも思うが、カミュの『シジュフォスの神話』を思い浮かべると、生きること自体がそういうことだとも、思ったりして。

野辺山宇宙電波観測所特別公開2022/08/26 21:44

8/28(日)、オンラインで、国立天文台・野辺山宇宙電波観測所の特別公開があります。
以下のアドレスからどうぞ。

オリジナルコンテンツとして、折り紙のビデオもあります(すでに公開中)。
当日は、研究者の発表のほか、仮想空間での(Gather.Town)展示があります。

折り紙教室など2022/07/04 20:27

◆折り紙教室@府中
7/24(日)、10:00-12:00と13:00-15:00 府中郷土の森ふるさと体験館で、
「折り紙教室中級編 - クワガタムシを折ろう! -」という折り紙教室があり、
講師をします。
参加費は、300円(別途博物館入場料)で、事前の申し込みが必要です。
詳細は、ここからどうぞ。7/12(火)以降に電話で申し込みがはじまります。

クワガタムシ

むずかしいといえば、むずかしい作品ですが、根気よくていねいに折ることができるひとなら、ギブアップすることはないだろうということで、中級編となっています。
書籍などでは発表していませんが、好きな作品で、むずかしい折り紙にチャレンジしたいひとは、大人も子供もぜひどうぞ。

◆『呑川のすべて』
『本の雑誌』7月号のべつやくれい氏の書評で、『呑川のすべて 東京の忘れられた二級河川の物語 』(近藤祐)という本が上梓されていることを知り、早速買ってきて読んだ。この本の著者と同じく、少年時代に世田谷区と大田区の境界あたりを流れる呑川の近くで過ごしたので、その川の名前に反応したのである。そして、読んで驚いた。著者とは生年が同じで、通った小学校も中学校も同じだったのだ。著者が住んでいた家の近くの幼稚園は、わたしが通った幼稚園であった。

文中に記された土地の描写は、そうそうそうなんだというものばかりで、たとえば、大田区石川町の石川神社の脇から東京工業大学の隙間を通る道は、たしかに「探検」という名に相応しい佇まいで、異世界への通路を思わせた。などと懐かしくなったのだが、個々のエピソードにわたしの記憶と直接ぴったりと重なる思い出はなく、彼と同じクラスだったことはなかったようであった。小学校六年と中学校一年、わたしが父の転勤で茨城にいたということも関係しているのかもしれないし、中学校の卒業アルバムも引っ張り出してみたが、著者と同じ名前を見つけることができなかったので、生年は同じでも一学年異なるのかもしれない。

類書がないということだけでも得がたい本で、哲学者ガストン・バシュラールの引用なども衒学的なくさみはなく、新たに得た知識も多かったのだが、呑川を扱いながら『シン・ゴジラ』(庵野秀明監督)への言及がなかったことは不思議だった。カマタくんこと、かの怪獣の幼生が遡上するのが、この呑川の下流なのである。『呑川のすべて』の中で紹介されている観音政治という、著者が美術教師ではないかと想像するひとが描いた半世紀以上前の油彩画『新呑川橋』のアングルは、映画のシーンときれいに相似形なのに。わたしの年代は、庵野監督もまたそうであるように、幼いころに『ウルトラQ』『ウルトラマン』の洗礼を受けたのだが、近藤氏は、自由が丘にあった東宝の封切館でクレイジーキャッツの映画と二本立てになった『三大怪獣地球最大の決戦』は観なかったのだろうか。そして、庵野氏や樋口真嗣氏が少年時代の夢を実現させるように撮った新しいゴジラ映画には興味を惹かれなかったのだろうか。『シン・ゴジラ』で防衛拠点が設置された多摩川浅間神社に言及がなかったのも、そのためだろうか。少年時代の彼の行動範囲は、自宅より東側の大田区の洗足池方面で、自宅から南の多摩川浅間神社や、それに連なる多摩川台公園、田園調布の宝来公園などには馴染みがなかったことも関連しているのだろうけれど。

というわけで、近藤氏には、同時代アルアルで盛り上がるようなひととはすこしずれた、アウトサイダー的な雰囲気もあるのだが、それをかたちづくったかもしれない、微妙に周辺的(マージナル)な感覚は、彼自身も書いている。彼やわたしが通った東玉川小学校は、世田谷区と大田区の境界に建つため(校舎が世田谷区で、校庭が大田区にあった)、世田谷区立でありながら大田区からの越境通学の児童もいた。近藤氏の住所は世田谷区だったが、大田区から転校してきたこともあって、どちらかというと大田区に住む級友と仲良くしていたという。大田区といえば、高級住宅街の代名詞である田園調布の大半は大田区に属する。その町は、半世紀以上前から、野球選手や作家、政治家が住んでいたり、お嬢様学校があったりと、気どった街という雰囲気だったが、田園調布は世田谷とか大田というより「田園調布」で、全般には、世田谷区より大田区のほうが、いわゆる下町である。ここで下町というのは、商工業地域の意味だ。わたしの家のあった世田谷区の町はそういう町ではなかった。畑をつぶしてできた新興住宅地。商店も少ない純粋な住宅地で、住む者の多くは俸給生活者で、家族構成はサザエさん的なものであった。わたしの祖父は畑ばかりだった戦前にそこに越してきた。「近藤くん」は「わたしたち」のことを、土地の陰影が薄い、舞台じみた高台のほうに住むひとたちだと思っていたのかもしれない。

世田谷区に越してくる前は大田区の久が原に住んでいたということだが、久が原といえば、環状八号線建設のことも思い出す。わたしの家に近いあたりは、この道路の工事が比較的早く進んだ。工事中の道路は見たことのない広さで、そのガランとした空間は、工事が休んでいるつかのま、子供たちの遊び場になることもあった。ある日、この工事はどこまで進んでいるのだろうと、すこし先まで足をのばした。誰も誘わずにひとりで行ったように記憶している。すると、久が原に立ち退きを拒否した家があって、そこで道路がプツリと切れていた。わたしは、なんで?とは思わず、この家のひとはなんかすごいなと思ったのであった。

折り紙教室(東京府中市)と折紙探偵団九州コンベンション2022/05/20 23:30

◆折り紙教室
5/22(日)13:00-15:00、府中郷土の森ふるさと体験館で、折り紙教室を担当します。府中郷土の森博物館は入場料が必要ですが、教室自体は無料です。
講習作品は「かたつむり」です。
かたつむり

◆第11回折紙探偵団九州コンベンション
5/28(土)-29(日)の第11回折紙探偵団九州コンベンションにも参加します。

◆『リアルのゆくえ』展
平塚市美術館で開催中の『リアル(写実)のゆくえ』展で、前原冬樹氏の、超絶技巧の彩色木彫『一刻 - 鉄板に折鶴-』を観ることができた。ためつすがめつしても木彫りには見えないのであった。

◆富田菜摘展「シャングリラ」
新宿中村屋サロン美術館の富田菜摘展『シャングリラ』にも行った。図録に富田さんと布施知子さんの対談が載っている。廃物を使った動物たちは、折り紙でも重要な「見立て」のセンスにあふれていて、とにかくたのしい。江戸の見世物「つくりもの」や、島根県出雲市の伝統行事「平田一式飾り」の現代版とも言える。

絶望名言2022/02/27 07:51

今晩というか明日というか、2/28(月)04:05、NHKラジオ『ラジオ深夜便』内の頭木弘樹さんの『絶望名言』で、『老子』二十章の前川の私訳が引用される。汗顔なのだが、ひょんなことでその訳を頭木さんが目にすることになった、という経緯である。

『月刊みすず』の2021年9月号の『空想の補助線7 単純にして超越』(前川)で、寺田寅彦が老子について書いた文章と「大方無隅」について、そして『老子』二十章に関して触れた。このエッセイの本筋は円周率についてだったのだが、わたしの文章は枝ぶりが錯綜しているのだ。

そこでとりあげた寅彦のエッセイは、ウラールというひとによる『老子』のドイツ語訳が妙に腑に落ちたという話である。古典というものは、解釈が的を射ているかは別にしても、訳が変わることで新鮮に受け取られることがある。その話題から、担当編集者の市原加奈子さんに、そのドイツ語訳を「それこそ頭木さんに重訳してほしい」ともらした。それが頭木さんに伝わり、わたしの「訳」も彼に伝わったのであった。ここでいきなり頭木さんの名前がでたのは、彼も『月刊みすず』に連載中で、担当編集者が市原さんだったからだ。

ラジオを聞いて検索をしてここを見つけるひとがいるかもしれず、当該エッセイでも『老子』二十章の私訳の全文は載せなかったので、以下に載せておくことにした。ただ、これはあくまでも、漢籍や古代中国思想にきちんとした識見を持たない者による訳であることは念頭において、興味を持ったひとは原典にあたってもらいたい。

理系の文学青年というか、モラトリアムのど真ん中にいた白面の書生、つまり、生白い青二才が、自分の可能性に行き詰まり、為しうることや自由に生きることついて悶々としていたとき、手にとった古典の中に身につまされる言葉を見つけて、自分に引きつけた言葉として書いたメモが元になった「訳」である。また、わたしの老子にたいする「情けないがゆえに魅力的な老人」というイメージは、老子を描いた魯迅の『出関』を評した花田清輝さんの『魯迅』にも大きく依っている。あれから何十年、わたしはいまも変わらずに、沌沌、昏昏としていて、花田さんの書いた「黄塵の渦まくなかを、のろのろと、砂漠にむかって消えていく老子のすがた」に惹かれている。

『老子』二十章

絶學無憂
唯之與阿 相去幾何
善之與惡 相去何若 
人之所畏 不可不畏 荒兮其未央哉
衆人煕煕 如享太牢 如春登臺 
我獨怕兮其未兆 如孾兒之未孩
儽儽兮若無所歸
衆人皆有餘 而我獨若遺
我愚人之心也哉 沌沌兮
俗人昭昭 我獨昏昏
俗人察察 我獨悶悶
澹兮其若海 飂兮若無止
衆人皆有以 而我獨頑似鄙
我獨異於人 而貴食母

学ぶことをやめてしまえば憂いはない。
「はい」と「ええ、まあ」とどう違うんだ。
善と悪はどう違うんだ。
ひとが嫌がることはしないほうがよいけれど、きっちりやっていたらきりがないじゃないか。
世間のひとは、笑いあって、ご馳走食べて、春の日の高台にいるみたいだけれど、
わたしは独り怖気づいて何の兆しもなく、笑うこともない嬰児みたいだ。
疲れて果てて身の置き場もない感じだ。
世間のひとはみな何かを持っているのに、わたしは独りなにもかも失ってしまったみたいだ。
わたしの愚か者のこころはぐちゃぐちゃだ。
世の中のひとは何をするかを知っているのに、わたしだけは真っ暗だ。
世の中のひとは何をするかわかっているのに、わたしだけは悶々としている。
ふらふらと海に漂うようで、風のようにゆき先もしれない。
みんなはなにかをなしているのに、わたしだけは独り引きこもっている。
わたしは独りひとと違っていて、母に生かされていることに甘えている。