世界を変えた書物展2018/09/17 22:54

昨日、予定されてた会合がキャンセルとなったので、急遽予定を変えて、時間があれば行きたいと思っていた展覧会に行った。上野の森の美術館で開催中(-9/24)の「世界を変えた書物展」、金沢工業大学所蔵の科学(主に物理、数学)の貴重図書の展示である。驚くべきラインナップで、ニュートンの『プリンキピア』、デカルトの『方法序説』、ガリレオの『星界の報告』などのいずれも初版。オイラーやライプニッツ、ボヤイやリーマンなどもある。この展覧会、なんと無料で写真も自由。ということもあってか、とても混んでいたが、行っておいてよかった。

ミュージアムグッズにも面白いものが多くて、ケプラーの『世界の調和』から採った多面体の図を配した傘を買った。写真は、その傘と、傘ごしに見た我が家の多面体。
ケプラーの『世界の調和』の傘

折り紙教室2018/09/13 21:26

◆折り紙教室@第8回ダリアの華展
池袋サンシャインシティの第8回ダリアの華展で、ダリアの花の折り紙教室をします。
10/6(土)  11:45-12:35、14:30-15:20 (各回10名、無料)

◆折り紙教室@府中
9/24(月・祝)13:00-15:00、作品:うさぎ(写真)
10/8(月・祝)13:00-15:00、作品:ハロウィンのカボチャ
うさぎ

9月24日は太陰太陽暦で八月十五日、中秋の名月なので、うさぎである。うさぎは何種類か創作していて、これは、尻尾と耳の長さに特徴のあるタイプで、15年ぐらい前に小松英夫さんの図でイギリス折り紙協会の図集に掲載したものだ。

月と兎ということでは、最近知った次の古い俳句がよい。
兎ならちと出て遊べ月の中 八町
『新編 俳諧博物誌』柴田宵曲著、小出昌洋編)より
「月の中」というのは、月光の中ということで、あんたの親玉は玉兎とかなんとか言って月にゆかりがあるのだから、このきれいな月夜、姿を見せて愛嬌をふりまけ、みたいな句である。宵曲によるこの句の解説はさらりとしたものだが、月と兎という定番の組み合わせをすこしだけ俳味でひねったところがわかりやすく、岩波文庫『俳諧博物誌』の表紙の内容紹介にも採られている。もっと広く知られてよい句だとも思うのだが、作者の八町というひとはどういうひとなのか、ざっと調べた限りでは、まったくわからず、そのことからも、俳諧の裾野の広さと、宵曲の、万巻の書を読む博識がわかる。宵曲の『古句を観る』の「はじめに」には、次の言葉もある。

世に持囃(もてはや)される者、広く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる。

専門家と愛好家がフラットに並びうる分野のひとつである折り紙においても、示唆的な言葉だ。

なお写真の皿は、月面と宇宙飛行士をかたどった蚊取り線香立ての灰受け皿。
蚊取り線香立て(月面)

7OSMEと422018/09/11 23:45

◆42
今日夕方、イギリスから帰宅した。
Answer to the Ultimate Question of Life, the Universe, and Everything
帰国便のヒースロー空港で、ゲート番号が42であった。そして、往きのシート番号が42だった。42は、日本では縁起の悪い数字だが、ブリティッシュ・ジョーク的には、最高の数字だ。

7OSMEでも関連した話があった。幾何作図セッションで、ホルヘ・ルセロさんの「3次元ユークリッド空間の折り畳み」という話で、3次元空間を「折り面」で「折る」操作が50種になるという内容があり、そのさい、(聴き間違いでなければ)「42でないのが惜しい」というコメントがあったのだ。これは、「あのネタ」として間違いないが、ちょっとわかりにくい。誰もがぽかんとしている感じだった。これは、おふざけSFの傑作『銀河ヒッチハイク・ガイド』(ダグラス・アダムス)にある、「生命、宇宙、そして万物にたいする究極の疑問の回答」が「42」であるというネタであろう。イギリスだし。

わたしのイギリス旅行も、銀河ヒッチハイクガイドに祝福されていたのであった。最近翻訳の出たアダムスさんの『長く暗い魂のティータイム』(安原和見訳)では、ヒースロー空港が爆破されていたけれどね。

◆ブラックウェル書店、そして『文字渦』
日曜日、7OSMEとBOSコンベンションのすべての日程が終わったあと、オクスフォード市内を散歩し、書店を何軒かはしごした。古書も扱っている店には、留学生か研究者の置き土産なのか、日本語の本もあって、興味深いものがあったが、中でも、世界的に有名な書店・ブラックウェルのたたずまいは雰囲気満点だった。地上の入り口からは想像のつかない広大な地下の空間に、本が満ちている。日曜日は17:00に閉まってしまったので、帰国日の朝もスーツケースをひきながら寄って、小一時間過ごし、使う本、読む本というより、『オクスフォード数学辞典』と、ワイルの『シンメトリー』とアボットの『フラット・ワールド』のペーパーバックを、お土産に買ってしまった。で、『オクスフォード数学辞典』と『Origami ^7』で記念写真。
『オクスフォード数学辞典』と『Origami ^7』

『オクスフォード数学辞典』と『Origami ^7』

いまどき紙の本なんてと思うひとも多いと思うが、旅行の飛行機や列車で紙の本を読むのを楽しみにしていて、やっぱりなぜか紙の本がよいというひとも多いのではないか。今回のわたしも、荷物になるのに、とか言われながら、日本からも、会に関係ない本を3冊持っていって読んだ。

帰りの飛行機の中で読んだのが、円城塔さんの『文字渦』である。全編、手のこんだ冗談のような話のひねくれ具合がよくて、紙の本ならではの読書のたのしみにもあふれていた。さまざまな「情報」が詰め込まれているので、それをあれこれ考えるのもたのしそうだ。なお、次の箇所はちょっと気になった。

いわゆるプラトン立体である。ここで、六面体の角を綺麗に落としてやると八面体に、十二面体の角を綺麗に落としてやると二十面体となり、逆も成り立ったりして興味深い。(略)ちなみに、四面体の角を綺麗に落とすとまた四面体が現れて、自分自身で循環している。

正多面体の双対関係を述べており、間違いではない。しかし、プラトン立体をおぼろ気にしか知らないようなひとに説明する直感的な表現としてはややわかりにくい。正多面体の双対関係を直感的に示すなら、「角を落とす」より、「面の中心を結ぶ」にしたほうがよい。

たとえば、「六面体の角を綺麗に落とす」と言ったとき、多くのひとは、図下・左のような切断面(円で表示)を思い描くはずである。小説を読んでいて、幾何図形を確認するひとは少ないだろうけれど、思い描いたとすれば、このような図ではないだろうか。

しかし、この図でできるのは、正八面体ではなく、立方八面体、つまり、立方体と正八面体をミックスしたようなかたちである。正二十面体、正十二面体でも同じで、「綺麗に角を落とす」と、立方八面体と同様、準正多面体の二十・十二面体になる。正四面体も同様で、辺の中点までで切り落とすと、正八面体になる。

「間違いでない」というのは、図下・右のように、切り落とす面を中心に近づけて交差するようにして切れば、面の中心を結ぶのと同じことになるからだ。しかし、この図を想像するのは、かなりのマニアである(なんのマニアだ)。
立方八面体と正八面体

7OSME(つづき)2018/09/08 15:29


洋上風力発電所(イギリス)
来るときに、飛行機の窓から見たブリテン島の南東にあった、洋上風力発電所。奇妙な風景だった。

7OSME終了。
今日からBOS(イギリス折り紙協会)のコンベンションに参加。

写真を撮るのは川村みゆきさんにまかせた(?)のだけれど、いくつか。
オクスフォード大学・セントアンカレッジ
右端に写っているのが発表会場のホールの裏側。個人の家みたいな建物も事務などに使われているみたいだ。「大学」の雰囲気が違う。

オクスフォード大学セントアンカレッジゲストハウス
ドミトリー(個室だからゲストハウスというのかな)の窓からの眺め。わたしの棟は、トイレとシャワー共同だったけれど、窓から見る中庭に雰囲気があって、いまさっきもリスが樹をのぼっていた。

7OSME舘知宏さん講演
最終日の全体公演の舘知宏さんは、才気が全身からあふれるように颯爽としていた。折り紙は既にユニバーサルだし、日本がどうのはないのだけれど、舘さんと三谷さんという若く優秀な研究者が近くにいるというのは、たいへんありがたい。

今回概要を知った研究もいくつか。思いついたものをふたつ。

チェアを務めた「剛体折り紙その1」セッション(といっても、この発表は曲線折りを扱ったものだけれど)での、最小作用によって「自然な」曲面を決めるジェイコブ・バジャーさんらの研究。曲線折りは、折り目だけを決めても、拘束条件がないと自由度が高く、母線の選びかたも任意性が高い。それをエネルギーがミニマムになるように決める。錐面になりそうなものが、接線曲面になるというのは、直感にも合っていて、結果がきれいだった。

作図セッションでの、アダム・ウォーターハウスさんによる、折り紙作図を、誤差の観点で見る話。折り紙コミュニティーに直接関係する萌芽的な研究として面白かった。誤差の蓄積はどうなるのかなど難しい問題が多いけれど、そもそも、折り紙を折るときに、点を合わせるのがよいのか、線を合わせるのがよいのか、じっさいの紙では厚みをどう逃すかなど、折紙者ならみな経験的に持っているノウハウは、案外言語化されていない。厚みを逃す話では、厚みのある剛体折りの話題もいくつかあったし、初日の講演セルジオ・ペレグリーノさんの大面積構造物の折りたたみのために、折り目にスリットをいれてしまう方法(KIRIGAMIと呼ばれている)も関連している。

工学系、応用系の発表は、セッションがパラレルになっていて、ほとんど聴き損ねた。

サイエンスとアートを結びつける仕事をしているマシュー・ガーディナーさんなど、旧知のひとにも会って(何人かは、顔と名前が結びつかなくて失礼なのであった)、充実した会だった。

7OSMEなど2018/09/02 22:31

◆浅野真一個展 わたくしといふ現象
浅野真一個展 わたくしといふ現象
サロンモザイク(大阪市北区天神橋1-14-11 天神ビル1F)にて、9/1(土)〜9/17(月)、具象画家・浅野真一さんの個展が開催中だ。折り紙をモチーフにした絵もあるという。(わたし自身は、残念ながら見に行けない)

◆7OSME
7OSME(第7回折り紙の科学・数学・教育国際会議)とBOS(イギリス折り紙協会)コンベンションに参加するため、明日から渡英。台風21号から逃げるみたいなかたちである。

◆空-地球錯視
空

空(上下反転)
以前、空を撮った写真を180度回転させると、宇宙空間から撮った地球の写真のようになるという話を見た。この写真は、それを試してみたものだ。上がそのままで、下が180度回転させたものだ。たしかにそうなっているように見えなくもない。

これは、「クレーター錯視」の一種だと思われる。クレーターの写真を180度回転させると、凹みが山に見えるという錯視だ。クレーターの場合、その錯視の要因は主に陰影によるものだが、空の写真の場合はそれとは異なる。その理屈をすこし考えてみた。

空は、視点を中心にした球面の一部分として目に映る。目だけではなく、標準レンズでもそのように映り、広角レンズならなおさらである。まずは、雲の連なりなどから、球面座標を自然に読み取るのだろうと考えられる。それを上下逆にすると凸に見えるということだが、ここが簡単ではない。

球面を「自然」に読み取るとして、その座標だけを描くと、図のようになる。
球面座標
180度回転させた図の下は、下側への半球を中からみた図であると認識しても不思議ではない。ただ、ここで注意すべきなのは、そのような画像を見る機会はないということだ。空は上にあって、巨大な凹面を見下ろすということは、まずない。いっぽう、現代人は、宇宙空間から見下ろした地球の画像というものを見慣れている。上下反転させた空の画像は、それにあてはめて、中心が凸になったように見えるのではないか。

つまり、これが凸に見えるのは、類似の画像を見慣れたことにもよる、とも考えられる。となると、以前、このブログに以前書いたポオの『軽気球夢譚』にあった、高空からは地表が凹面に見えるという現象も、じっさいにある(あった)ような気もしてくる。

下の写真は、野辺山宇宙電波観測所にある日本初の電波望遠鏡(1949)のレプリカをいれて空を撮ったものである。上下反転させると、人工衛星からの画像のように見えなくもない。
1949電波望遠鏡レプリカ

1949電波望遠鏡レプリカ(上下反転)

特別公開など2018/08/27 18:00

◆野辺山宇宙電波観測所特別公開
一昨日、8/25(土)、野辺山宇宙電波観測所の特別公開で折り紙教室。(ここで、事前に報せるのを忘れていた...)
棒渦巻銀河
モデルは「棒渦巻銀河」。われわれの天の川も外からみると、中心部分がやや長く、その両端から渦状腕がでた「棒渦巻銀河」と考えられる。
教室では、Oristのメンバー3人に手伝ってもらった。Nさん、Nさん、Kさん、ありがとう。
そして、野辺山観測所は、まだまだ成果の出せる観測所なので、日々の仕事に励みましょう、と。

◆鳥よけ凧
トビ凧
稲田の上を鳶のような鳥が旋回していた。しかし、よく見るとおかしい。これは、鳥よけの凧なのであった。カラスなどは賢いからずっとは騙されないと思うが、どうなのだろう。
鳶凧2

◆22.5
22.5
先日、車の燃費が、22.5km/lになったので記念写真を撮った。
22.5のなにがよいのかは折り紙者でないとわからないと思う。(これに関しては、『折紙探偵団』の次号掲載予定のエッセイでも触れた。補足8/28:直角の1/4で、折り紙によく出てくる角度である)

『数学セミナー』9月号2018/08/10 23:43

今日から折紙探偵団コンベンション。いろいろと忙しいけれど、楽しもう、と。

帰路、『数学セミナー』9月号を購入した。高野文子さんのインタビューで、名前をあげてもらっていてうれしい。『数学短歌の時間』(永田紅さん、横山明日希さん)でも、投稿歌を2首とってもらった。そのひとつは、「題・素数」で、以下である。

五五五五五七七七七七七七五五五五五七七七七七七七七七七七七七七

31桁のこの数が素数であることを発見して、おおっと思って、そのまま歌(?)にしたのである。このブログの2018/05/28に書いた「きれいな数字のならびの素数」のことである。

ガウスの素数定理で計算すると、この桁では、素数の出現頻度は1/70ぐらいの確率なので、調べて、素数であったのはびっくりした。ひとつ前は、5555577777775555577777777777599、ひとつ後は、5555577777775555577777777777843である(間違いないはず)。

あまりに面白い偶然だったので、すでに言及があるかもしれないと、「5555577777775555577777777777777 素数」で検索し、「一致する情報は見つかりません」を確認して投稿したのだが、さきほど、ふと気になって、「5555577777775555577777777777777」だけで検索すると、フラワーしげる(西崎憲)さんが、ツイッターで詠んでいたことが判明した(https://twitter.com/shigeru_flower/statuses/694844290204184576)。 ああ...  素数であることには言及していないようで、算用数字と漢数字の違いもあるが、これは、同じ歌になるのだろうか。

さて。明日から、折紙探偵団コンベンション本番。もう寝ないと。

されど天界は変わらず2018/08/03 00:52


火星

眼のさめてしづかに頭もたげつつまたいねむとす窓に星見ゆ 若山牧水

『されど天界は変わらず』という本があった。いい題名だ。やるべきことは多く、時間は足りないので、モチベーションあげないと。

(なにを言っているの? という文章になっている)

かの星に人の棲むとはまことにや2018/08/01 21:46

昨日は、火星の大接近だった。距離0.385au(5759万km)で、等級はマイナス2.8、しばらくの間、火星は木星やシリウスより明るい。そして、火星といえば、以下の歌である。

かの星に人の棲むとはまことにや晴れたる空の寂し暮れゆく 若山牧水

1910年(明治四十三年)、天文学者・パーシヴァル・ローウェルの火星人説やH. G. ウェルズの『宇宙戦争』が話題を呼んでから約10年後の歌で、「かの星」は火星のことと考えられる。しかし、牧水はじっさいに火星を見て作歌したのか、という疑問を持つひともいる。これを検証してみた。

正確な作歌の日付は調べることができていないが、この歌は、「自 明治四十三年一月 至 同四十四年五月」とある歌集 『路上』(1911)の収録歌である。同歌集内、この歌のほぼ直後に配された次の歌が、時期特定の参考になる。

ややしばしわれの寂しき眸(まみ)に浮き彗星(はうきぼし)見ゆ青く朝見ゆ

これは間違いなく、1910年5月に最接近したハレー彗星を詠んだ歌である。夕方ではなく朝に見たということなので、近日点通過前の4月下旬か5月上旬であろう。つくられた順に編まれているとも限らないが、『路上』を読みとおすと、そうした入れ替えは最小限と思われ、前後の歌から読みとれる季節からも、「かの星に」は、4月ごろの歌と推定できる。この歌は、注釈として「五 戸山が原にて」と記された五首の五番目でもあり、それらの歌も「摘草」「梢あをむ木蔭」など、春から初夏を思わせる。

ただ、このころの日没時の空(東京)を確かめてみると、火星は明るくない。地球との距離は約2au(3億km)である。それでもこの年の4月、陽の沈んだ西の空、オリオン座とぎょしゃ座に挟まれた仰角40-50度ぐらいの空に、約1.5等級の火星が見える。大接近時にくらべて1/50ほど暗く、一番暗いときに近いぐらいだが、北極星よりやや明るい。「寂し暮れゆく空」を「陽が沈んで、地平線にやや赤みの残る夜空」と解釈すれば、歌にぴたりの状況だ。

今から108年前の4月ごろ、牧水が、戸山が原(現新宿区戸山)で、火星を火星として見たのはまず間違いがないというのがわたしの結論である。牧水は、いわゆる自然主義なので、見ていないもの、経験していないことを歌うひとでもない。1910年のハレー彗星は、尾の中に地球がはいることで毒ガスの危険あり云々の流言も生み、自転車のチューブが売れたりしたそうだが、これは一面で一種の天文ブームでもある。この年、一般にも、星空を見上げる機会は増えていたに違いない。

最後に豆知識として、火星の明るさは地球との距離だけで決まるわけではないことにふれておこう。最も遠いときと大接近の距離は約1/7倍なので、明るさの比はその二乗の約50倍になりそうだが、大接近と最遠の実視等級の差は4.6(-2.8と1.8)で、等級の定義から、明るさは、(100^0.2)^4.6≒70倍となる。火星は外惑星で満ち欠けもない。季節の変化での極冠の大きさが変わる反射率の違いもあるだろうが、そんなに大きくはない。では、なぜか。答えは単純で、太陽と火星の距離で火星自体の絶対等級が変わるためである。大接近のときは、近日点近くであり、遠日点に比べて太陽-火星の距離がに0.83倍近い。そもそも大接近が、会合周期(太陽から見て、火星と地球が同じ方向になる周期)の780日でなく、15年ぶりになるのも、火星の軌道の離心率が高いからだ。この楕円軌道によって、近日点では、距離の比の二乗の逆数の1.4倍ほど明るくなる。これと、地球との距離による約50倍が掛け合わされて、約70倍の明るさの差となる。

月、ミジンコ、深海魚、めかぶ2018/07/30 22:31

◆見えなかった月食と千羽鶴
一昨日、関東に台風のせまる明けがた、雲間に皆既月食の月が見えるのではないかと寝床を抜け出し、ベランダから空を見たが、月影はまったく見えず、ふたたび眠りについた。雲の向こうの月食となったが、最近知った次の歌を紹介したい。

月蝕のくらき部分は蝕すすむままにあはれに明るみてゆく 佐藤佐太郎
『佐藤佐太郎歌集』 佐藤志満編)

食の進んだ暗い部分が、暗黒ではなく、地球大気による散乱と屈折により、明るく(赤く)見えるさまを詠んでいる。ここでの「あわれ」はpityではなく「もののあわれ」的なことだろう。影は欠けはじめでも赤いはずだが、輝面比が下がると、暗い部分の赤さが目立つので、「すすむままに」「明るみてゆく」ことになる。

関連した話がある。先日ラジオでかかっていた『ガラスの林檎』(松本隆作詞、細野晴臣作曲、松田聖子歌)を聴いて思ったことだ。「蒼ざめた月が東からのぼるわ」という歌詞なのである。昔は別になんとも思わなかったが、まさに月がのぼろうとするとき、朝日が赤いように、蒼ざめることは考えにくい。ひとの色覚は単純ではないので、周囲との比較で青く見えることもあるかもしれないが、地平線近くの月は、だいたい赤い。などと、もやもやと考えた。まあ、そもそも、たとえば松本さんの「はっぴいえんど」時代の歌詞は、リアリティーなんぞ知るかてなもんであり、それもまたよい。

と書いて、あっ!となった。はっぴいえんどの『風街ろまん』所収の『あしたてんきになあれ』の歌詞に、折鶴がでてきたことを、唐突に思い出したのだ。アナログレコードで繰り返し聴いていたアルバムなのだが、「折鶴コレクター」として忘れていた。その後、テープも買ったお気に入りであるが、30年ぐらい聞いていなかった。テープはすぐに見つかって、ひさしぶりに聞いてみた。

さっきまで駆逐艦の浮かんでた通りに のっぴきならなぬ虹がかかった
その虹で千羽鶴折った少女は ふけもしない口笛 ひゅうひゅう
『あしたてんきになあれ』松本隆作詞)

八ヶ岳山麓に戻る途中、韮崎大村美術館に寄った。ノーベル生理学・医学賞受賞者にして、女子美術大学の名誉理事長でもある大村智さんが収集した絵画などを展示する美術館である。想像以上のコレクション(展示されているのはほんの一部)の中で、堀文子さんの『極微の宇宙』に惹かれた。
「極微の宇宙」堀文子 絵葉書

わたしは、小学5-6年生のころ、プランクトン少年だった。安い顕微鏡で、身の回りの池の水などをかたっぱしからのぞいていた。昆虫少年のプランクトン版である。鼻先が長いゾウミジンコや、柄がバネみたいになっているツリガネムシ、ちょっと非対称で不思議なかたちのツノモなどが好きだった。接着用のバルサムやメチレンブルーなどの染色剤なども入手して、プレパラートもつくっていた。

この絵に描かれているのは、オオミジンコ、ケンミジンコ(タマゴあるなし)、ミドリムシ、アオミドロに付着したツリガネムシなどだ。右下のはボルボックスで、ほかの丸いものや折れ線状のものは珪藻だろうか。アオミドロの中身の葉緑体は螺旋状なのだが、たしかにこの絵のようにも見える。太陽電池パネルのようで、宇宙感が強まって、ミジンコはミクロ宇宙のスターチャイルド(『2001年宇宙の旅』のアレ)のようだ。

この絵は人気のようで、ミュージアムショップで、絵葉書とクリアケースも売っていた。ただし、それらは『極微の宇宙に生きるものたちII』で、今回展示されていたのは、『極微の宇宙』であった。「II」に比べると、ミジンコがもう一体と、三角の珪藻、クンショウモのようなものが描かれているほか、ミドリムシの配置が変わっていた。

◆深海魚の目
台風の様子を確認するためにつけていたTVで深海生物の番組をやっていた。そこにでてきた、8000m超の海底に棲むマリアナスネイルフィッシュという白いナマズのような魚には目があった。赤外線が見える目とかなのだろうか。

海底(うなぞこ)に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり 若山牧水

海底に眼のある魚も棲むといふいつたい何をどうして見るのか

『ねみみにみみず』(東江一紀著、越前敏弥編)
東江一紀(あがりえかずき)さんのエッセイ集『ねみみにみみず』を読んだ。東江さんは、4年前に60少し過ぎで亡くなった翻訳家だ。このエッセイ集は、「デジタルは及ばさるがごとし」、「神経をサカナで擦る」など、ダジャレ満載である。中でも章タイトルにもなっている「待て馬鹿色の日和あり」はすばらしく、色紙に大書して、日々の指針として、壁にかけておきたい。
「待て馬鹿色の日和あり」東江一紀

東江さんの駄洒落では、どこに書いてあったのか忘れたが、"「めかぶの酢の物ください」 「『め』か『ぶ』かはっきりしろ」" というものも忘れがたく、我が家では、めかぶを見るたびに、「『め』か『ぶ』かはっきりしろ」が口の端にのぼることが習慣化している。ありがとう、東江さん。

東江さんは、フィリップ・カー氏(このひとも今年の春に、60少しで亡くなった)とか、『数学小説 確固たる曖昧さ』(スリ&バル)とか、爆発的に売れることはなさそうな、しかし、読みたくなる小説を訳してくれるひとなので、ありがたかった。デイブ・バリー氏のエッセイに大笑いしたのも、もう20年前になるのか。ありがとう、東江さん。

しかし、命を削っていたような仕事ぶりを見ると、哀しくなり、ひとごとでもないと思ったのだが、考えてみれば、わたしはそんなに働いていないのであった。