塙町ダリアの折り紙 など2021/01/11 10:01

◆塙町ダリアの折り紙
遅ればせながら、昨年末におこなわれた「塙町ダリアの折り紙募集」審査結果。よい作品がたくさんありました。

◆計算尺
古いものを整理をしていて、むかし、父から譲りうけた計算尺を見つけた。宮崎駿監督の『風立ちぬ』を観たさい、「鯖の骨と計算尺と高原の風が主役」との感想を持ち、父から貰ったあの計算尺はどこにいったのだろうと思いながら確認できずにいたのだが、それがでてきた。

わたしが理学部に入学したときに買った関数電卓は、たしか1万円近くして、それもまた時代の流れを感じさせるが、計算尺の時代は疾うのむかしに終わっていて、実用で使ったことはない。父が学生時代の戦中のものではなく、戦後のものだとは思うが、いずれにせよ、かるく半世紀以上は前のものである。しかし、道具としての精度はまったく劣化していない。主要素材が竹なのもよい味で、狂いなくスムーズに動くさまは、物としての魅力にあふれている。

計算尺

黄金比(1.618...)の逆数が黄金比マイナス1(=0.618...)であることを確認してみた。対数を用いた演算なので結果は6.18..になっており、桁は換算しないといけない。

◆折鶴型飛行機械
ひさしぶりに『鉄腕アトム』を読んで、『青騎士』の敵役・ブルグ伯爵の乗る飛行機械が折鶴のかたちをしていることに気がついた。ちょっとしたことろにも見どころがあって、手塚さんはやはりすごいなあ、と。
『青騎士』


◆谷折り線の謎

谷折り線をながめ一日 髭面の男の胸にウッドストック 東直子

谷折り線という、折り紙創作家にとって無視し難い言葉がでてくるので、気になる歌なのだが、歌意はきわめてわかりにくい。上の句の中で大きく切れていることは、分かち書きがあることで明白だが、その切れは、空白一文字ぶんよりはるかに大きい断絶になっている。なぜ谷折り線をながめているのか、誰がそうしているのか、後半がその解明のヒントになっているのかと期待すると、そういうわけではないので肩透かしをくらう。ウッドストックは、伝説的なあの音楽フェスティバルのことではなく、スヌーピーのともだちの黄色い鳥のことだろうが、それも解読のヒントにならない。

この歌が収録されている歌集『春原さんのリコーダー』に付されている解説でも、高野公彦さんが、東さんの多くの歌は「分からない」と率直に書いている。氏はその説明にアンドレ・ブルトンのオートマティスム(自動記述)の概念を援用している。東さんの歌の多くは、俳諧でいう「取合わせ」に偶発性を持ち込んだもので、「解剖台の上のミシンと傘の偶然の出逢い」のようなものだと、わたしも思う。理路をもって内容を読み取ろうとしても読み取れないのだ。わからないままに受けとり、ほとんど意味を剥奪されながら無視できない言葉の残響を味わうのが筋なのだろう。しかし、谷折り線という言葉に思いいれが強いので、わたしのもやもやはおさまらない。山折り線はどこに行ったのだ。たぶん、このもやもやを発生させることこそが彼女の歌柄の重要な部分で、わたしがその状態になったこと自体、すでに彼女の術中なのだろう。

わたしの最近の趣味のひとつは、折り紙や数学や天文のでてくる歌や句のコレクションだ。以下の歌もそうしたものなのだが、これまた、上下の句のつながりが特異で不連続だ。
(蛇足ながら、「特異」と「不連続」は、数学用語の singular と discontinuous の含意)

折鶴のかたちを残し火は消える たったひとりをたったひとりに 東直子
数式のほどけるように雪が降るこんなさびしいうれしい島に

上の句だけ抜き出して五七五にすると、かなり素直に受けとれる。

折鶴のかたちを残し火は消える
数式のほどけるように雪が降る

前者、江戸時代の奇術書『仙術日待種』(センジュツヒマチグサ、一七八四、花山人)に「火中より鶴を出す術」というものがある。コンニャク粉を水で溶いたものをひいた紙で折鶴を折り、まるめた紙の中に隠しておくと、燃えたあともかたちが残りやすいというタネの奇術だ。以前、コンニャク粉を買ってきて実験に成功したが、粉が大量に余った。一握りの粉から大量にコンニャクができるので、その後、余った粉でしばらくコンニャクを食べることになった。

後者は、五七五だけ抜き出しても奇抜な比喩だが、次のように想像すると物理的な感触が濃密になる。

数千メートルの上空、マイナス15度前後の大気において、飽和状態にあった水蒸気の平衡状態が相転移して結晶が発生する。自己相似的で平坦な六回回転対称の構造に成長した水の結晶は、上昇気流と重力のバランスが崩れて落下し始める。そのとき、平坦な結晶がいくつか絡まりあった複雑な形状もあって乱流が発生し、単純な落下ではなく舞うような運動をする。雪という現象は、このように、解析的には解きにくい、しかし、膨大な演算にしたがった理に適った現象として生まれ、そして消えてゆく。それはまさに「数式のほどけるよう」な感じ、といえなくもない。なお、東さんには「雛のある部屋に足し算教えつつ雪降るように切なさが降る」という歌もあって、これも上掲歌につながる。

東さんの歌がみなこんなにわかりにくいかというと、そうでもなく、『折紙探偵団』171号に書いたエッセイ『折紙歌合(おりがみうたあわせ)- 折り紙が詠み込まれた短歌と俳句 -』で引いた歌は、謎がありながらわかりやい。

気持ち悪いから持って帰ってくれと父 色とりどりの折り鶴を見て 東直子

このとき持ち帰った折り鶴を家で燃やしたときの歌が、「折鶴のかたちを残し…」であるという解釈はどうだろうか、とあらためて思った。ただ、中途半端に燃え残ったのでなければ、(コンニャクびきをされていない紙なので)燃え崩れてしまったはずなので、折鶴のかたちは灰の中に思念として残ったものと見たほうがよい。なんにしても、言葉の意味自体はとることができる。いっぽう、次のふたつの「数学短歌」は、またまた難問である。

数字から数字が生まれしんみつな灯芯としてひんやり燃える 東直子
マイナスになれば輝く数値あり瞼で割れる夢のたのしさ

一首目、自然数からゼロや負の数が生まれ、有理数や無理数が生まれ、複素数や四元数が生まれ、といった数学の歴史や、リヒャルト・デデキントの『数とは何かそして何であるべきか』という、それ自体が短詩のようでもある書名を連想した。二首目は、シャボン玉のような夢を瞼で割っているイメージだ。眼を閉じることではなく開けることで割るので、符号が反転するのか、夢のシャボン玉は非ユークリッド的な負曲率の「擬球」で、それが球である眼球と対比されているのか、などと。

こんなふうに読んでいると、詩歌に使われた専門用語から生じる連想と、科学用語の濫用、いわゆる「ファッショナブル・ナンセンス」は同種なのかという問題も頭をかすめる。そして、暗示や喚起が詩の核心だとしても、詩においては言葉が明晰でなくても許されるのはなぜか、という身も蓋もないことも考える。

寒星2021/01/01 22:10

あけましておめでとうございます。

職員にも配られた国立天文台の今年のカレンダー。暮れに掛け替えて、1月の「VERA 水沢観測局の20mと10m電波望遠鏡、そして冬の星座たち」と題された写真を見ると、オリオン座と並ぶふたご座の中央下部にひときわ明るい星がある。あれっと思ったが、ざっくり確認してみたら、2014年の1月ごろ、そこに木星があったので、その頃の写真なのだろうと納得した。
NAOJカレンダー1月

木星といえば、暮れの12月21日前後に、木星と土星が離角0.1度まで接近した。下の写真は、12月19日、野辺山45m電波望遠鏡(別の天体を観測中)越しに見た、離角がかなり小さくなっている木星と土星である。
野辺山:木星と土星

今日1月1日の日没直後、東京の自宅から富士山の左上を見ると、木星と土星、だいぶ離れたが、まだまだ近くに輝いていた。
木星と土星と地球

冬の星のことを俳句では寒星(かんぼし)という。中村草田男さんの句が有名だが、岸風三樓さんの句も気になる。

寒星や神の算盤たゞひそか 中村草田男

寒星や地上に逃ぐるところなし 岸風三樓

岸氏は、反戦俳句の弾圧事件「京大俳句事件」にも関係していたらしいので、そのときの句なのだろうか。冬の星の句では、加藤楸邨さんの句も強く印象に残っている。これは、出征する教え子を思って詠んだ句らしい。

生きてあれ冬の北斗の柄の下に 加藤楸邨

読書で折り紙に遭遇した話をふたつ2020/11/08 22:09

いつも本を読んでいる、そして、天文台の仕事をしているわたしには、次の言葉は、ちょっとした呪いの言葉だ。

探偵小説、詩、天文学は、すべて、いわゆる「現実」からの逃避の異なったかたちを表している。
(バートランド・ラッセル 『Flight from Reality』

わたしも「現実」から逃げているらしい。ただ、ラッセルは、escapeを、必ずしも否定的な意味で使っているわけではない。

以下、読書で折り紙に遭遇した話をふたつ。

◆その1
『時間旅行者のキャンディーボックス』(ケイト・マスカレナス著、茂木健訳)
1960年代にタイムマシンが実現した世界を舞台にした、タイムトラベルがひとの心理に与える影響を描くSFである。冒頭早々にこんな記述があった。

「こんなものが、玄関の前に置いてあった」 彼女は、祖母が座るピクニックテーブルの上に折り紙のウサギを立てた。

このウサギは、殺人事件の死因調査の通知書で折られたもので、物語は、ハウダニット(どうやって)と被害者と犯人にたいするフーダニット(誰が)のミステリとして進行する。イギリス人(父アイルランド系、母セーシェル系)の作者がオリガミに馴染みがあるのは間違いないようで、以下のような比喩もでてきた。

手や首は今にも折れそうだし、皮膚もひどく薄いため、まるで全身が折り紙でできているみたいだった。

タイムマシンの燃料となる物質「アトロポジウム」は柘榴石から採取するという設定だ。
というわけで、シンプルなウサギの折り紙と柘榴石の標本と一緒に記念写真を撮ってみた。
『時間旅行者のキャンディーボックス』

◆その2
銀紙で折ればいよいよ寂しくて何犬だらう目を持たぬ犬

石川美南さんの歌集『体内飛行』の一首だ。

現代折り紙では、紙の裏表の色の違いなどを用いて、目を表現する折り紙作品もすくなくはない。龍の図を描いたさいは、目を開く工程を最後にして「折龍点睛」を意識したこともある。しかし、多くの折り紙の動物に目がないのはたしかだ。講習会で小さい子供たちに簡単な動物の折り紙を教えたとき、かれらがそれに目を描きたがることもしばしば経験する。

石川さんにおける「銀紙の寂しさ」は、生き物らしさとかけ離れてしまうという感覚だろうか。折り紙者としては、これに近い感情として次のようなものもある。
フォイル紙は、折り目が安定しやすいので、粘土細工的な造形が可能で、それをうまく使うこともできる。しかし、厚みもあり弾性反発もある紙の特性をも含んだ造形のほうが、より「折り紙らしく」、かつ生き生きしていると感じる。

この歌からは、次の有名な歌も連想した。

海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の戀しかりけり
『路上』 若山牧水 より)

最近、夢野久作がこれに想をとった歌をつくっていることも知った。

深海の盲目の魚が
戀しいと歌つた牧水も
死んでしまつた
『猟奇歌』 夢野久作 より)

牧水の歌の「海底」は「かいてい」ではなく「うなそこ」であろうことから、久作の歌の上の句も、「わたつみのめしひのうおがこひしいと」と読よみたいところだが、久作の歌はあえて破調なのでそのまま読むのがよいのだろう。

これらの歌は、立原道造の『白紙』という掌編のつぎ文章も連想させる。少年が電車の中で会った少女に手紙を渡すという、初恋物語のプロトタイプのような話で、牧水の歌を意識した表現であるのは、たぶん間違いない。

やがて僕は、海の底にゐるメクラの魚のやうに苦しくなり出す。
これが、僕の愛情のきざしだつた。
『白紙』立原道造 より)

石川さんの歌から想をとった歌と折り紙作品もつくってみた。見ると、キース・ヘリング氏の描く犬にも似ていた。思えば、彼の犬のイラストレーションにも眼がない。

銀紙の盲(めしひ)の犬の愛(いと)ほしく彼のねぐらの屋根に空色
銀紙の盲の犬

「盲目」と「折り」ということでは、盲目の折り紙作家・加瀬三郎さんや葛原勾当も連想した。

葛原勾当といえば、最後に折り紙の歴史研究の第一人者・岡村昌夫さんと話をしたときも、彼が話題になった。そう、いまわたしは、岡村昌夫さんが亡くなったという喪失感の中にある。思えば、こういう(文芸がらみの)話は、どこかで、岡村さんに読まれること、岡村さんが面白がるだろうかという思いをもって、書いてきたような気がする。

献本拝謝など2020/10/12 23:32

なんか、ひさしぶりの更新になった。

◆ハート鶴
北杜市地域振興券
山梨県北杜市の地域振興券に使われているマークが、折り紙のハートと折鶴である。デザイナーは三井宏美さんいうかただという。

◆柘榴石
11月末刊行の『折紙探偵団』184号のユニット折り紙の図は、凧形二十四面体の骨格とその関連作品にした。
柘榴石骨格、八目

凧形二十四面体の骨格は、柘榴石の結晶にこの形状があるので「柘榴石骨格」という題名にした。下の写真は、このモデルの記念(?)に、新宿紀伊国屋ビル1Fにある「東京サイエンス」で買った柘榴石の標本である。貴石なので値が張るのかというと、そんなことはなく数百円である。なお、同店のレジ横には、Tレックスの折り紙が飾ってあって、わたしのモデルだったので「おっ」と思った。
柘榴石

図を描くために「柘榴石骨格」の工程を整理しているうちに、その構造の応用(?)で、海亀とスカラベができた。ユニット折り紙から具象作品に発展するケースはあまり記憶がない。
カメ、スカラベ

◆だじゃれ
「柘榴石骨格」とその関連モデル「八目(やつめ)」は、6枚組の直交座標を基本構造としたモデルだが、似た構造で、だじゃれネタのモデルも思いついた。名づけて「新撰『組み』」。
新撰「組み」

◆献本拝謝その1
綾辻行人さんからご恵贈いただいた、大部800ページの一冊『Another 2001』を読み終わった。若いひとを生き生きと描く(…ひとがばたばた死ぬストーリーで「生き生きと」もないが)綾辻さん、感性が若いなあと感心することしきりだった。伏線の張りかたがたいへん大胆。

◆献本拝謝その2
『月間みすず』『空想の補助線』というエッセイを隔月連載している縁で、みすず書房さんから『「第二の不可能」を追え!』(ポール・J・スタインハート著、斉藤隆央訳)をいただいた。めっぽう面白いサイエンス・ノンフィクション。準結晶の話なので、ペンローズ・タイルが重要な役割を持つ。

ペンローズ御大といえば、今年のノーベル物理学賞のひとりが彼で、なんでいまなのだろうと思ったが、昨年のイベント・ホライズン・テレスコープによるM87中心の撮像が影響しているということなのだろうな、と。そして、ゲンツェルさんらの天の川銀河中心のブラックホール確認が受賞対象になるなら、同時期、野辺山45m鏡を用いた中井直正さんらによる、NGC4258の水メーザーによる確認も、評価対象なのになあ、と。

国立天文台野辺山 特別公開2020『今年はおうちで特別公開』2020/08/28 17:51


折り紙のビデオも公開しています。(今日から先行公開中です
今年は「電波望遠鏡」と「日時計」のふたつです。

日時計は、プリントした紙でつくるもので、使ってみてください。

夏らしい雨が
ゆれうごく高い梢の中から
降りそそぐとき 日時計は暫く休む
なぜなら 日時計にはその時間をどう表していいか分からないからだ
(ライナー・マリア・リルケ『日時計』富士川英郎訳より)

紙袋2020/08/09 10:25

柴崎友香さんの『百年と一日』。もっとゆっくり読むべきだったが、読み終わってしまった。ジョイスの『ダブリン市民』をさらに断片化したような、褪色して消え去ってゆくような話を、すくい取るように、しかし淡々と描いた短編集だ。

ここ何冊か、ハリウッド映画の脚本みたいな小説ばかり読んでいたので(それはそれで面白いのだけれど)、小説を読むこと以外では得られない時間をくれる小説にひさしぶりに触れた気がした。

カバーの紙袋の絵もすばらしい。毛並みのみごとな茶虎猫の絵『猫』で有名な長谷川潾二郎氏の絵だ(装幀:名久井直子)。並んだ瓶ばかりを描くジョルジョ・モランディの静物画を連想した。

紙袋といえば、工芸家・小松誠さんデザインの、紙袋をモチーフにした陶器をひとつ持っている。
『百年と一日』

そしてさらに紙袋といえば、思い出すことがある。直方体型の紙袋の側面の畳みかたは、谷折り3本のY字+山折り1本が典型だが、これについて、D. J. BalkcomさんやE. D. Demaineさんらの論文『Folding Paper Shopping Bags』に示されている次の定理があるのだ。
ショッピングバッグは、伝統的な折り目による剛体折りはできない
Y字+1の折り目では、面を歪めることなく畳むことはできないということである。

月刊『みすず』など2020/07/04 22:44

◆月刊『みすず』
みすず書房の月刊誌『みすず』で、『空想の補助線』というエッセイの隔月連載を始めた。一回目は、自己紹介ということもあり、折り紙について書いたが、編集者さんと、いろいろ話題を広げていきましょう、と話している。最近、文章を書いて披露する機会が増えていて、不思議な気分である。

◆黄金薔薇匣
先週、美術大学のリモート講義で、非常勤講師をした。講義のアウトラインは、折り紙造形における黄金比の話とした。講義の準備で「ゴールデン・ボックス」という黄金比を使った作品をあらためて検討しているうちに、山折りと谷折りを変えるだけで、薔薇のような模様ができることに気がついた。組むのはパズルだが、面白い。
黄金薔薇匣

◆ストレスは案外低い
タイガースファンは、プロ野球が始まってむしろストレスが増えたと言っているらしい。しかし、無観客ゲームで練習のような感覚もあり、まあこんなものかと、思いの外ストレスは低い。ただし、パ・リーグ最下位のバファローズの勝ち星の数は気になって、「今日のオリックスくんはどうかなあ」とチェックをしている。

◆『紙幣鶴』
斎藤茂吉が、『紙幣鶴』という短いエッセイ書いていたのを見つけた。1920年代、オーストリアのカフェで、彼の地の千円紙幣(この言いかたも面白い)で鶴を折って飛ばす女性が、「墺太利のお金は、こうやってどんどん飛ぶわ」とか 「 fliegende oesterreichische Kronen!」(オーストリアの王冠を飛ばすといった意味)と言っていたという話である。

飛ばしたといっても、たちまち床に落ちたとあるので、あまりよく飛ばなかったようで、それはそれで納得(ふつうの折鶴は紙飛行機のようには飛ばない)なのだが、気になるのは、長方形(約2:1)の紙幣で、どのように鶴を折ったのかということだ。まさか、正方形に切ったわけではあるまい。そもそも、それはほんとうに鶴だったのか。

折り畳んで正方形にしていたのであろうが、長方形をそのまま使ったとすれば面白い。長方形の頂点を、そのまま頂点とする四角形ではなく、長辺の中点ふたつと、長辺の延長が無限遠で「交わる」点ふたつ、その4点を頂点とする四角形を考えると、そのかたちからも、基本条件を満たす折鶴がきれいにできることを川崎敏和さんが指摘している。写真は、玩具のドル紙幣を用いて、その方法で折ったものだ。名付けてT$URU)。1920年代のオーストリアで、そんな鶴を折っていたひとがいたとは、まず考えられないけれど。
T$URU

◆『獨楽吟』
7月末に刊行される日本折紙学会の機関誌『折紙探偵団』に、『折り紙がでてくる小説から』という記事を書き、幕末の国学者・橘曙覧(たちばなあけみ)の『獨楽吟』から一首を引いて、題辞として使った。

たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中(うち)に我とひとしき人をみし時

『獨楽吟』は、「たのしみは」の初句で始まる五十二首で、ほかに次のような歌がある。

たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無かりし花の咲ける見る時
たのしみは常に見なれぬ鳥の来て軒遠からぬ樹に鳴きし時
たのしみは人も訪(と)ひこず事もなく心をいれて書(ふみ)を見る時

現在、基本的にリモートワークではなく、出勤して仕事をしているが、感染症による交流の自粛で、そうでなくても隠居じみていたわたしの生活は、よりその面が強化され、まさにこの歌みたいになっている。

家の周囲は、今年は草刈りが遅れたこともあって、螢袋(ヤマホタルブクロ)がよく育っている。花の上で羽化した蝉の抜け殻も見た。たぶん、蜩(ひぐらし)だ。一週間ほど前に今年初めてその声を聞いたばかりである。螢袋の花は、タコウィンナーにも似ていてるが、花弁は五裂で、桔梗の同類であることも主張している。
ヤマホタルブクロ

垂れて咲く螢袋は雨の花 澤村芳翠
かはるがはる蜂吐き出して釣鐘草 島村元

釣鐘草は螢袋の別名だ。この句のように、螢ならぬ蜂がその花の中に潜り込んでいるのはよく見る。暗闇で中に螢がはいっていたら雅趣があるが、家の近くには螢はいない。しかし、この季節になると螢を見たくなる。ということで、先日、より標高の低い螢の棲息地に行き、ふわふわと舞う螢火に、ああ今年も螢を見たなあと納得した。
螢

蜂と螢袋は共生しているようだが、ムシトリナデシコは戦っている。虫取撫子は、紅色の五弁の小さい花が、分岐する茎の先端に多数咲く野草だ。食虫植物ではないが、葉の下の茎に粘液を分泌する部分があり、虫が捕らえられる。写真は、じっさいに虫が脚をとられていたさまだ。受粉に利さない蟻のような虫を避けるということらしい。今年はじめてそれと知った花だが、父母の遺品である『日本大歳時記』にも載っていた。別名を小町草というのだそうだ。
虫取撫子

その歳時記によると、薊(あざみ)は春の季語だが、花期は初夏から夏なので、ひぐらしの季語が秋であることと同様に、納得しがたい。ただ、夏薊という季語もある。
薊の蕾
薊の蕾を初めてしみじみと見ると、向日葵の種のようなフィボナッチ螺旋状になっていてみごとだった。

というふうに、環境に恵まれていると、身の周りに広がる小世界でも、充分満足できる。しかし、こんな言葉もある。

草の庵を愛するも咎とす 閑寂に着するもさはりなるべし
(草庵を愛するのも罪である。静謐に執着するのも悟達の障害となる)(『方丈記』

隠遁者にも我執があることを述べているのだが、それとはまた別に、昨今は、小世界での充足の外の世界で苦しんでいるひとがいる情況を思わざるをえない。『橘曙覧全歌集』を通して読んださいも、曙覧が尊王攘夷思想に陶酔し、彼の自己肯定感が身辺と皇国日本だけを巡っているのには、もやもやした。

などと考えているからか、最近は、「ここは平和だなあ」が口癖になっている。夕刻にひぐらしの声を聞き、風に揺れる螢袋を見て、そう呟くこと自体、惧れであり、後ろめたさの表明なのだろう。ちなみに、「後ろめたい」の語源は「後ろ目痛し」すなわち、視線が痛いということであるという。

ブックデザインなど2020/06/21 10:18

◆ブックデザイン
『宇宙と素粒子』(千夜千冊エディション)(松岡正剛)の装幀に、作品を提供した。

宇宙と素粒子』(松岡正剛)

◆折り紙パズル
折り紙による幾何の問題を思いついた。自分で考えたいひとのために、解答は「シール」で隠しておく。

◇問題
・正方形の紙を折って、その中心に、面積1/25の正方形(辺が1/5の正方形)を作図せよ。
・工程は6回とする。
・1回の工程は、明確な目安で折り目をつけることのみとする。
(つまり、折って戻すことで直線を引くことのみとする)
(よって、6回の工程のうち4回は、正方形の辺を描く工程になる)

◇解答
1/25折り紙パズル

◆90度の1/4
ふと見た温度計が、22.5度という「折り紙好きのする数値」になっていたので、写真を撮った
22.5度

◆ひび割れ
先日、眼鏡が破損してつくりかえたが、今度は、スマートフォンの画面に盛大にひびがはいった。木製の床の上に1mぐらいの高さから落下し、それほど強い衝撃ではなかったと思うのだが、条件が重なったためか、みごとなひびになった。
ひび
ガラス面と床面が角度なしに両のてのひらを合わせるように衝突した。べゼル(枠)に接する部分にすでに小さな亀裂があったので、それが初期条件になって破壊が広がったようだ。それゆえか、端点(左下)から成長した、木の枝や稲妻に似た構造があるように見える。ある意味きれいで、寺田寅彦先生に見てもらいたい(!?)。

日食と角香箱2020/06/16 21:54

次の日曜日(6月21日)に、日食がある。日本では部分日食となるが、九州や沖縄など西南地方ではかなり大きく欠ける。『理科年表』を見ると、福岡での最大食分が0.618となっていた。おお、これは、黄金比の逆数ではないか。
21June2020日食

食分というのは、影の部分の幅/太陽の視直径という定義なので、下図のようになる(白い線については、後述)。なお、厳密には、月と太陽の視直径はぴったり同じではない。とくに今回は、中心食帯でも金環食なので、そのずれがある。影の部分の幅は、太陽の視半径+月の視半径-太陽と月の中心の角距離と定義される。ここではそれを単純化して描いた。

部分食の食分が黄金比であること自体にとくに意味はないが、ふたつの円が黄金比で交わるこの図を描いたのは、そこに面白い図形の性質はないだろうかと思ったからだ。そして、見ているうちに、「角香箱の近似黄金比」のことを思い出した。角香箱(つのこうばこ)というのは、伝承の折り紙作品のひとつである。それを思い出したのは、この図に、白い線で示したように、直角の1/4と1/8の近似値が見えるからだ。
食分黄金比の日食

折り紙になじみ深いそれらの角度から、黄金比のよい近似がでてくることがあることは、ほとんど知られていない。以前、永田紀子さんの折り紙作品を分析していて、この近似に気がついたのだが、わたしも、ほとんど忘れていた。「こんなところに黄金比の近似値があったなんて」ということを私信で伝えただけだったが、以下にそれを示す。
角香箱近似黄金比
この図に示したように、角香箱の底面の辺の長さと「口」の辺の長さの比は、ほぼ黄金比なのである。

日食に話を戻そう。『理科年表』の食の欠けかたを示す値は、食分だけであるが、面積比もわかりやすい指標だ。明るさが面積にほぼ比例するからだ。太陽も月も視直径が等しい円盤であるとして、食分(横軸)と面積比(縦軸)の関係は図のようになる。あまりきれいな式ではないが、グラフからもわかるように、この関係は、食分>0.4においてはほぼ直線で、面積比=1.2×食分-0.2と近似できる。
日食の食分と面積比

那覇の最大食分0.837から、面積比を上記の近似式で計算すると約0.8で、まだ20%の明るさがある。やや厚い曇りの日ぐらいだ。今回、中国やインドでは、金環食を見ることができるが、そのとき、太陽と月の視半径は、それぞれ、15分44.2秒と15分24.1秒(『理科年表』)で、これから計算される金環の面積は太陽の約100分の4となる。これはちいさな数字に思えるが、それでもかなり明るい。皆既日食のときは、コロナ(光冠)が見えるが、その明るさは太陽全体の100万分の1ぐらいなので、部分日食や金環日食ではそれを見ることはできない。100万分の1といっても、満月の明るさと同じ桁なのだが、いかに太陽本体が明るいかということだ。

なんてことを書いていると、半年前までは、コロナといえば太陽の光冠であり、太陽コロナに見た目が似ているコロナ放電であり、天文観測的には、かんむり座(Corona Borealis : CrB)と南のかんむり座(Corona Australis : CrA)であり、ストーブなどのメーカー(我が家にあるのもそうだ)で、そんな自動車の名前もあったよな、ということだったのになあ、と思う。

展開図、眼鏡、気球、サリンジャー、そして『しししし』2020/06/14 14:02

先日、ひさしぶりに都心の大型書店に行った。もとめた本のひとつが、歌集『展開図』(小島なお)だった。まずは、タイトルと装幀に惹かれた。円錐の展開図が、カバーと扉に描かれ、表紙では、その図がエンボスになって刻印されている(装幀:日本ハイコムデザイン室)。これはかっこいい。しかし、われながらめんどうくさいのだが、シンプルな幾何図形を見ると、検証をしたくなる。
『展開図』(小島なお)

円錐の展開図では、底面の円周と円錐面になる扇形の円弧の長さが一致していなくてはならない。したがって、360度/扇形の内角=扇形の半径/底面の半径となるはずだ。しかし、この図から計測した値は、360/扇形の内角=3.08で、扇形の半径/底面の半径=3.25で、わずかなずれがあった。3.08と3.25の違いを一瞥で読み取れたはずもないが、あらためて図に示すと、円錐面に糊しろができた。
『展開図』表紙から

字余りもまた定型詩の魅力であるということを象徴しているのかもしれない…とか。

そもそも、球と違って無限のバリエーションがある円錐で、なぜこのかたちなのだろうか。値が3.1前後なので、比率を円周率にするのは、きれいかもしれない。底面の半径を1とすれば、円錐面の面積がπ^2となって、特別な円錐という気がしないでもない。

次に考えたのは、√10=3.16...という比率だ。これも悪くない。こうすると、円錐の高さがぴたり3になり、底面の半径を1として、体積がちょうどπになる。

しかし、もっと単純に3とするのが、やはりすっきりときれいである。扇形の内角も120度でわかりやすいほかに、半径が同じ球と表面積(円錐面と底面の合計)が同じになる。
球と同じ表面積の円錐
半径と表面積が同じ球と円錐

歌の中にも円錐がでてくるものがあった。

林道に青鳩が鳴き十和田湖の円錐空間に雲が湧き立つ

ほぼ円形の湖を円錐の底面として、その上空に大きな円錐を描いたということか、巨大なスポットライトのような情景が目に浮かんだ。ただし、十和田湖を確認してみると、より円形と言えるのは田沢湖で、十和田湖は、M.C.エッシャーのモノグラム(サイン)のEの字のようなかたちである。

この歌集には、次の、数学を詠んだ歌もあった。

数学はきれいと教えてくれたひと壜底めがねの上原早霧(うえはらさぎり)

上原早霧という美しい名は、架空なのか実在なのかと検索すると、数学オリンピックの出場者にその名があり、スポーツデータの解析を行う会社・データスタジアムで活躍している研究者になっているひとだった。小島さんと同年代の若いひとだ。小島さんの歌には、この歌の他にも、陸上の桐生祥秀氏の名前をそのまま詠んだものなどもあるので、ニュースなどで見た名前なのだろう。小島さんから上原さんへの、異なる方面での才能への畏敬と解釈できるが、壜底めがねという強い表現からは、アイザック・アシモフのエッセイ『無学礼賛』(『生命と非生命の間』山高昭訳、所収)も思い出した。

アシモフは、そのエッセイで、眼鏡をかけた女性がそれを外すと魅力が増すというハリウッドの類型描写を痛烈に批判している。眼鏡が女性の魅力を損なうという考えは、「教養が目立ちすぎると社会で邪魔になり不幸をもたらす」「知性の発達がおさえられれば幸せがくる」ことを示す悪習であると断罪する。アシモフ自身も度の強うそうな眼鏡をかけていたので、その意味での恨みもあったのだろう。

眼鏡といえば、感染症の緊急事態がとりあえず解除されて、眼鏡店が営業再開するのを待って、眼鏡をあたらしくつくった。緊急事態中、横づらを車の窓にぶつけて、眼鏡のツルの先の樹脂の部分が割れてしまっていたのだ。その部品は交換すればよいとして、長年使ってレンズやフレームに細かな傷もあるので、あらたにもうひとつつくることにした。遠近両用眼鏡は、振り向いて後ろを見たとき(車のバックなど)に、顎が上がって近距離焦点部分で見てしまい、視野がぼやけることがある。これに対応するには、意識的に顎をひくとよいのだが、いつもうまくできない。窓に顔をぶつけたのも、横を向いたときのフォーカスのずれだと思うが、いずれにせよ、加齢ゆえなので気をつけなくてはならない。

とまあ、話があっちこっちに飛んでいるが、『展開図』には眼鏡を詠んだ歌もあった。

甲虫の肢(あし)内側に折るように眼鏡を畳むきょうの終わりは

小島さんも眼鏡をかけているのだろうか。それにしても、眼鏡のツルが昆虫の肢に似ているというのは、膝をたたきなるような見立てだ。甲虫ではないが、先日見た、アカスジキンカメムシの肢もまた、金属光沢で眼鏡のツルみたいだった。アカスジキンカメムシは、とくに珍しい虫ではないはずだが、歩く宝石とも呼ばれ、ひさびさに見た。
アカスジキンカメムシ

眼鏡店での視力検査のさい、小さなカタカナのほかに、気球の映像が映る機械も用いた。これで視力がわかるのですかと訊くと、「だいたいはわかります」との回答だった。原理をあとで調べると、無限遠を見るような映像 -地平線まで続く道の果てに見える気球- を見せ、水晶体に赤外線をあてて屈折状態を見る機械ということだった。この映像については、伊波真人さんによる、次の歌がある。

眼鏡屋で視力検査のとき見える気球の浮かぶ場所にいきたい

彼の歌集は手元になく、この歌はたまたま知ったのだが、一度読むと、あの機械による視力検査のたびに思い出すのが必至となる。なお、伊波さんの歌は、4月末に出た『しししし』の3号にも載っていた。『しししし』は、「双子のライオン堂」書店さんが年に一回刊行している文芸誌だ。

その、「双子のライオン堂」書店が、『本の雑誌』7月号の連載『本棚が見たい!』に、店主の竹田信弥さんの笑顔の写真とともにとりあげられて、ページをめくって「おっ」と声をあげてしまった。
「双子のライオン堂」(『本の雑誌』より)と『しししし』3号

『しししし』3号はサリンジャーを特集としているのだが、『展開図』の小島さんの第二歌集の題名は『サリンジャーは死んでしまった』という。

というような、若干のシンクロニシティじみたこともあったので、『しししし』を再度宣伝しておく。同誌は、小説、評論などのほかに、上記にように短歌も載っている文芸誌で、大槻香奈さんの装画による表紙もクールだ。

なぜかそこに、わたしの文章も載っている。しかも、専門の折り紙にも、仕事の天文にも直接関係がない、サリンジャーについての文章だ。以前、『折る幾何学』に関するイベントを双子のライオン堂さんでした縁だが、どこにいても場違いな感じがするわたしの有り様がにじみでている。