突然五七五七七2017/03/22 22:25

頂法寺(六角堂)

わが思う心のうちは六の角ただ円かれと祈るなりけり
頂法寺(六角堂)詠歌

先週末、折紙探偵団関西コンベンションに参加したさい、京都の六角堂を初めて参詣した。献灯台とロウソク入れも六角形だった(写真下)が、消防水栓のカバーは八角形だった。写真右上は、京都の中心と言われる境内の「へそ石」である。

観測所の雪(3/22)

うつつにしもののおもいを遂ぐるごと春の彼岸に降れる白雪
斎藤茂吉
(この世界で、なにかの願いをかなえるかのように、春の彼岸に降る雪だ)

『オリガミの魔女と博士の四角い時間』など2017/03/08 21:50

NHK Eテレで、3/11 24:00から4週に渡って放送される『オリガミの魔女と博士の四角い時間』という番組に、いろいろと協力した。わたしの作品やわたし自身も登場し、盛りだくさんな内容である。

◆重版出来!
先日、昨年秋刊行の『折る幾何学』の増刷のしらせがあった。変わった本を買ってくれた奇特な読者に感謝である。

◆確定申告
確定申告の書類の作成中、以下の疑問が浮かんだ。
 私小説作家は、どこまでが必要経費になるだろうか。
逆に、交際費が必要経費になるのというのも、前から疑問なのだけれど。

◆瑠璃唐草
瑠璃唐草
八ヶ岳山麓はまだ春という感じはしないが、東京(郊外)を散歩すると、道端にオオイヌノフグリの花をよく見かける。可憐なこの野の花の、あんまりな名前は、牧野富太郎の命名に基づく。彼が、近縁種に、実のかたちからイヌノフグリ(犬の陰嚢)と名づけた。その後、イヌノフグリ自体は希少種となってしまったが、明治以降の帰化植物であるやや大ぶり(と言っても、ちいさい花)のこの野草がその名となったのである。別名がいくつかあって、そのひとつは瑠璃唐草というらしいが、検索してみると、ネモフィラという花も同じ名前で呼ばれるのでややこしい。

花のかたちを見ると、3弁がほぼ同じまるいかたちで、1弁だけやや細長く、全体として左右対称になっている。そう言えば、と思い出したのは、そのむかし、パーソナルコンピュータに初めて触れたときに、数式を使って花弁を描いたことである。なつかしくなって、「瑠璃唐草」もそれっぽく描いてみた。ただ、きれいな式にすることはできなかった。
パラメットリック曲線

◆『La La Land』(デミアン・チャゼル監督)
『La La Land』のLAは、なるほど、Los AngelesのLAでもあったのかと、先日、LA観光案内でもある同映画を観て腑に落ちたのだが、この言葉が辞書にも載っていることを見つけて驚いた。

la-la land:ロサンジェルス、またはハリウッド。特に、その住人や関係者のライフスタイルや振る舞いに関すること。空想的な状態、または夢の国。(The New Oxford American Dictionaryから)

LA観光映画なので、グリフィス天文台もでてくる。『理由なき反抗』や『ターミネーター』にもでてきたあれだ。LAと星空といえば、思い浮かぶ話がある。阪神淡路大震災のちょうど1年前、ノースリッジ地震で大停電が発生したとき、市民から「空に変なものが見える」という通報が相次いだという都市伝説である。変なものの正体は、普段は街の灯りで見えない天の川である、というのがこの話のオチだ。(たとえば、「ここ」参照) じっさいに数件は通報があったのかもしれない(しかも911ではなく、それこそグリフィス天文台に)。アシモフの『夜来たる』を連想させる話だ。『夜来たる』は、太陽が沈まない六重太陽系の惑星に、2000年に一度の夜が来る...古文書によるとこの星の文明は2000年ごとに滅亡するのだが...というSFである。

◆錯視ピラミッド、別組みの3枚組み立方体、そして、ロングテイル・リザード
錯視ピラミッドほか
一昨日の蛇腹タイルのひろげかたをすこし変えて、うまい具合の角度で撮ると、ピラミッドに見えるということに気づいた。また、3枚組立方体の組みかたをすこし変えると、面に継ぎ目のない立方体になるのであった。そして、蛇腹タイルをいじっていたら、尾の長いトカゲになった。じっさいにこんな感じの尾のトカゲがいることが、「long tail lizard」で検索すると出てくる。

◆ゴジラ雲
ゴジラ雲
今日帰宅時に、「雲がゴジラになっている!」と、急いで写真を撮ったのだが、見る間にかたちが変わってしまった。もっとゴジラぽかったのだが、どちらかというと、リスになっている。なお、山の灯りは、清里のスキー場である。

高橋由一『豆腐』など2017/02/15 23:37

◆絵葉書
絵葉書

仕事場に貼ってある絵葉書は、仙厓義梵『○△□』のほかに、以下である。

◎デューラー『メレンコリア §I』
部屋に、なんでもひとつ本物を飾ることができるということになったら、これだ。

「私は大きな丹精をこめて描きました。... 貴下がそれを綺麗に保存されるなら、それは五百年間美しく瑞々しく保つことを確信しております。... 一五〇九年バルトロマイの日の後の日曜日、ニュルンベルグにて アルブレヒト・デューラー)
(デューラー『自伝と書簡』前川誠郎訳 より。ただし、油絵の保存について書いたもの)

◎フェルメール『天文学者』
好きな絵というより、天文台の仕事をしているから、ということである。

並べてみると、デューラーの『メレンコリア §I』と構図が類似していることがわかる。『天文学者』には対になる『地理学者』という絵があり、その絵の中の人物は、『メレンコリア』の天使と同様、コンパス(ディバイダ)を持っている。この「対幅」は、フェルメールによるデューラーへのオマージュなのではないか。...という説は聞いたことはないけれど、ともに遠近法の巨匠であり、約100年あとに生まれたフェルメールが、デューラーを尊敬していた可能性はある。オランダ語とドイツ語は似ているので、フェルメールはデューラーの『Unterweisung der Messung(測定法教則)』を読んでいたのではないか。などとも。

◎高橋由一『豆腐』
讃岐の金毘羅宮の高橋由一館にある絵である。金毘羅宮に行ったさいに見そこねてしまったので、本物は見ていない。これの本物を見るのが、新潟県の栃尾に行って揚げたての油揚げを食べることなどと並んで、将来の夢のひとつである。

この絵の油揚げの縦横比はだいたい1対2であるが、関西では正方形のものが多い。このことにより(?)、油揚げを二等分してつくる稲荷寿司も、関東では四角、関西では三角が主流になっている。由一は江戸・東京のひとなので、この絵の油揚げも長方形なのだろう。なお、栃尾のものは、縦がより長い。そもそもあれは、油揚げというより、厚揚げである。
いなり寿司の幾何学

◆フィボナッチ
フィボナッチ
13までのフィボナッチ数列を折ってみた。
1, 1, 2, 3, 5, 8 である。8は正方形になっていない。

『○△□』など2017/02/06 21:07

◆数学少年を描いた映画・『僕と世界の方程式』(モーガン・マシューズ監督)。
まだ観ることができていないが、予告に、6-7才の主人公が直角二等辺三角形のお菓子を正方形に並べているシーンがあり、これだけでぐっときた。

◆ふとした会話で、数学って、ほんとうに嫌われているんだなあと思うことがある。数学が可哀想になる。まあ、数学を擬人化して可哀想と言うのも変である。そして、擬人化したとしても、同情されるような甘いものでもない。わたし自身も、残念ながら、数学に深く愛されていない。「学問のなかでの最たるこの美女にほれこんだ失意の男」(ポール・ヴァレリーの言葉)である。

◆仕事場の机の横に、何枚か絵葉書が貼ってある。その中に、仙厓義梵の書『○△□』がある。四角が、正方形ではなく、1対√2の長方形に近い(図の赤い線参照)ことが、以前から気になっている。『本格折り紙√2』の表紙か扉絵は、これにすればよかったかもしれない。
『○△□』

◆数ヶ月前、『数学セミナー』の連載で、ニューヨーク州のノースポート公共図書館にある、George W. Hart氏の「Millennium Bookball」という彫刻をとりあげた(2016年9月号)。

菱形三十面体の60個の辺に、60の本のオブジェの背を接続した、直径約1.5mのみごとな彫刻である。それぞれの本には、ちゃんとタイトルが刻印されている。同図書館の利用者が1999年に選んだ20世紀の本ベスト60の投票結果だそうだ。

『1984』と『すばらしい新世界』が、アメリカでよく売れているというニュースを聞いて、この彫刻を連想した。リストに、オーウェルの『1984』、ハクスリーの『すばらしい新世界』、ブラッドベリの『華氏451度』が含まれているのだ。

上記リストは1999年のものなので、世紀末の不安感の影響もあったのだろうが、現在これらの本が切実に読まれているというのは、それ自体が、なにか小説の世界の話のようである。
問題:ディストピアでは、ディストピア小説は読まれるだろうか?

今年も3週間が過ぎた2017/01/25 23:29

今年も3週間過ぎてしまった。
以下、本を読んだり映画を観たりなどしかしていないようだが、そんなことはない。
と言いたいのだが、そんなものかもしれない。

●寒中
雪華
何日か前、窓際に落ちた雪が見事な六華だった。大きさは2mmぐらいで、写真は、スマートフォンのカメラで撮ったものである。

自転車禁止
今年の野辺山の最低気温は、いまのところ、今朝(1月25日)5時過ぎのマイナス20.1℃である。

●7777、777
先日、うちを訪問したひとの車のナンバーが777だった。その数日後、コンビニエンスストアの駐車場で、まったくちがう車で、7777と777が並んでいるのを見た。だから、どうということはないけれど。

著者の第三歌集。『トレミーの四十八色』と題された、プトレマイオスの48星座をモチーフにして、結句を色でまとめた連作も収録されているが、石垣島に移住し、結婚し、子供が生まれるという著者の身辺を反映した歌が、私的経験の掛け替えの無さというか、一回性の緊迫感を生んでいて、ひきこまれる。第一歌集の印象とずいぶん違う。

折鶴が出てくる歌があった。この歌には、もののかたちのとらえかたの面白さ(第一歌集でわたしが好きになったところ)と、上に述べた特徴の双方が含まれている。

ベビーカーは折り鶴に似て児を拐ひとぶやもしれず枷鎖購ひにゆく

枷鎖は、囚人につける大きい鉄球のようなイメージだ。乳母車がふわふわと飛んで、赤子はにこにこ、親はパニック、あるいは呆然。

もののかたちのとらえかたの面白さでは、以下の歌が好きだ。

ヴィオロンのG線上を移動する点P として指ひかりゐつ

4本の弦のうちG線だけで弾く『G線上のアリア』は、弦から弦の移動がない分、音が連続的に変化する。1本の弦は連続体で、その並びは並行宇宙だ。

『直感幾何学』(D.ヒルベルト、 S.コーン=フォッセン著、 芹沢正三訳)
『朝倉数学事典』の「線織面」の項の参考文献にあがっているので知った。数学が専門ではないとはいえ、幾何学ファンとして、この本を知らなかったのは不覚だった。あのヒルベルトを共著者にする図版豊富な本である。しかも、独日翻訳されているので、読むことができる。ありがたい。コクセターの『幾何学入門』と並んで、幾何学ファンの必携書なのではないか。ちくま学芸文庫Math & Scienceのラインナップにも加えてほしい。

『数値計算の常識』(伊東正夫、藤野和建)
いまさらなのだが、仕事で遭遇する問題を確認したいと思って買い、ぱらぱら読んで、うんうんと頷いている。

『数学的な宇宙』(マックス・テグマーク著 谷本真幸訳)
昨年の暮れに、『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト著 寺町朋子訳)を読んでいたのだが、同様のテーマの本として、最近読みおわったこちらのほうが、わたしには面白かった。最初のほうの数章は、現代宇宙論の啓蒙書としてわかりやすく、頭が整理されてうれしい。

題名に反して、数式はほとんどでてこない。扱われる並行宇宙は、「ほんものの無限」を想定しないと成り立ちそうもなく、そこが最大の難点なのではないかと読みすすんでいくと、最後のほうに無限のやっかいさの話がちゃんとでてきた。話としては、要するに、究極のプラトニズムで、バリントン・J・ベイリーのSFのようでもある。ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイクガイド』への言及が多いのもうれしい。

些細なことというか、余計な話であるが、図版のイラストはもっとうまいひとが描けば、より名著になったのになあ、と思った。プレゼンテーションのスライドによくでてくるような、顔のマークとか、線と丸で書いたひとのかたちとかは、なんか安っぽく見えてしまう。

『侏儒の言葉』(芥川龍之介)
ひさしぶりに手に取ったら、子規の「真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」が引用されていることに気がついた。すこし前に野暮なことを考えた歌である。わたしがこの歌に最初に触れたのも『侏儒の言葉』だったということになるのだが、覚えていなかった。そもそも、同書中には、「詩人」とあるだけで、子規の名がでてこない。芥川さん、ひどい。

「天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いていることは出来ない。」という文章もでてくる。ヘラクレス星群というのはなんぞ。たぶん、ヘルクレス座にある球状星団M13かM92のことだろう。ともに、天の川銀河系内の恒星の集団である。距離は、最新の値で、それぞれ、2.51万光年、2.67万光年(理科年表2017)で、上の記述とオーダーも合っている。

上の文章は、「...永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。」と続くが、これが、どこから得た知識なのかは謎である。現在の知識では、M13、M92などの球状星団は、100億年以上の年齢があって、銀河形成の初期からあるものとされる。銀河の円盤部より古い。そもそも、銀河系内の星団が別の銀河になるようなシナリオはまずないだろうし、現代から見ると、いろいろと変な話なのだが、芥川が「星群」と星雲を使い分けているのは興味深い。芥川の頭の中に、「島宇宙」というイメージがあり、その意味で星雲という言葉を使った可能性があるからだ。

『侏儒の言葉』が書かれたのは1923年から、彼が物故する1927年までだ。ちょうどこのころ、天文学史的に、ちょっととしたコペルニクス的転回があった。アンドロメダなどの「渦巻き星雲」は、はたして、銀河系内にあるのか、銀河系と同列の「島宇宙」であるのかという論争の決着である。島宇宙説自体は、哲学者カントの主張など、より以前からあったわけだが、科学的にひとまず決着がついて「宇宙が広くなった」のは、1923年のハッブルの観測と翌年の論文によってである。

まあ、細部の知識を更新したところで、芥川の感慨は変わらなかっただろう。芥川の話は、よくある「宇宙の広大さに比べればひとの一生はちっぽけ」というものではなく、ひとの一生も星の一生も似たようなもので、流転の中にある、という話である。しかし、流転するので退屈しないというのではなく、「星も我我のように流転を閲すると云うことは -- 兎に角退屈でないことはあるまい。」と結ばれるのだ。最後の二重否定は、ややわかりにくいが、似たようなことの繰り返しで退屈である、ということであろう。そもそもここの話は、「太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。」で始まっている。

どんなに広く、永い時間を経ている宇宙も、代わり映えしないよね、という、ニーチェの永劫回帰みたいな話である。前掲の『数学的な宇宙』の並行宇宙も、言ってみれば、「あり得ることはどこかであり得る」ということで、永劫回帰の考えかたに通じなくもない。しかし、それが実感としてぴんと来るかというと、そうでもない。前掲の『山椒魚が飛んだ日』ではないが、ひとは、やりなおしできない一回性にこころを震わせて生きる感覚を持っている。錯覚かもしれないけれど。

『三四郎』(夏目漱石)
有名なせりふ「滅びるね」をたしかめたくなって、読み始めて、最初から最後までしっかり読んでしまった。その日、仕事の予定が変わったので休みをとり、ぽっかりと時間が空いたのだが、手元に読みかけの本がなかったので手に取ったのである。妻から「あなたは、仕事と折り紙と本を読む以外のことはしないのよねえ」と呆れるように言われるままの行動である。主観的には、そうでもないのだけれど、やっぱり、そんなものかもしれない。

読んだはずなのに、細部はまったく覚えていなかった。寺田寅彦をモデル(の一部)にした野々宮博士の光の圧力の話のくだりの成り立ちは、中谷宇吉郎『「光線の圧力」の話』に詳しいが、『漱石が見た物理学』(小山慶太)という本にも解説があったはずと思って探してみると、以下のように書いてあった。以下、『三四郎』を引用している部分のさらなる引用である。

光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力の方は半径の三乗に比例するんだから、物が小さくなればなるほど引力の力が負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片(パーチクル)から出来ているとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされる訳だ。

 こうして野々宮くんの長い演説は終わる(なお、蛇足ながら、彗星が尾を引くのは、光の圧力のためではなく、正しくは、太陽から放出される粒子の流れ[太陽風]を受けるからである)。

『漱石が見た物理学』はよい本だと思うのだけれど、あらためて読むと、カッコ内の小山さんの説明はすこしおかしい。

彗星の尾には、荷電粒子、ダスト(塵)、そして、中性ナトリウムの3種があって、一番目は太陽風のつくる磁場、あとのふたつは、主に光圧(放射圧)で尾を形成する、と、ものの本(『現代の天文学9 太陽系と惑星』など)に書いてある。野々宮博士は「小片」と言っているので、ダストを想定している。当時は、彗星の尾に種類があることも知られていなかっただろうし、観測しやすいのはダストテイルのようである。そのダストに働く力は、主に重力と光圧である。重力の係数である質量は、ダストの大きさ(長さ)の三乗に比例し、光圧の係数である面積は、大きさの二乗に比例するので、微細な塵は光圧の影響が大きくなる、というのが、野々宮博士の話す仮説の要点だ。きわめて理にかなっているし、ダストテイルの説明として、この話は正しい。明治の小説の、直接ストーリーとは関係のないところに、なんでこんな正しいことが書いてあるんだぐらいの正しさである。寅彦、漱石すごいな。

と、まあ、彗星についてちょっと詳しいのは、宇宙電波観測所で働いているという門前の小僧的なものだけれど、最近、まったく別のことで、彗星と流星について知識を確認しておきたい、ということがあったためでもある。

『三四郎』は、青春小説ということもあってなのか、読んでいて、森見登美彦さんの小説の直接の先祖みたいにも感じた。森見さんの文章が擬明治文的だからでもあるのだろう。

●『ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー』(ギャレス・エドワーズ監督)
ドンパチは食傷なんだけれど、と思いながら、シリーズずっと観てきたからなあ、ということで劇場に行って、たのしく観た。帝国軍のシャトルが折鶴にちょっと似ていた。これまでに出てきたシャトルと違って、真ん中の垂直翼の幅が細いところと、ボディーがステルス機風にカクカクしているところが、より折鶴らしい。案外ネット上に画像がないので描いてみた。こんな感じである。
帝国軍シャトル

しばらく読んでいなかった京極さんの小説をたて続けに読んだ。『書楼弔堂』シリーズのつくりは、山田風太郎さんの得意技の「じつはあのひとが!」である。そうした話には、王道の面白さがあって、「そうきたのね」と読者の衒気も刺激するのであった。
ちなみに、「衒気」というのは、「自分の学問や才能をひけらかしたがる気持ち」(大辞林)である。二十歳前後、「衒気溌剌!」という標語(?)を思いついて、日記に大書した記憶がある。アホだ。

『虚実妖怪百物語』は、実在人物に名前も知らないひとも多いのだけれど、たぶん、京極さんの描写のままなんだろうなあと、笑ってしまうのであった。レオ☆若葉くんの、コメディリリーフならぬ「馬鹿リリーフ」も癖になる。お話も、フレドリック・ブラウンの『発狂した宇宙』の妖怪版で、滅法たのしい。時事性というか批評性もあって、水木しげる的なものが隅々まで沁みこんでいる。

作中で榎木津平太郎が水木先生に会ったときの緊張の描写が、10数年前のわたしと同じ感じだったのも、いたく共感した。以下、日本折紙学会の機関紙『折紙探偵団 87号』(2004年)に書いた報告である。

 ニセ豆腐小僧、水木賞選考に立ち合う(前川淳)
 八月三日、妖怪折紙コンテスト水木賞選考のため、西川代表のお供をして水木プロを訪問してきました。当日のわたしは、一次専攻を通過した妖怪折紙作品八点のはいった行李箱を掲げ持ち、両手がふさがって扉も開けられない格好で、その様はさながら豆腐小僧のようでありました。豆腐小僧というのは、豆腐を乗せたお盆を持っているいるだけでなにをするでもないという、なんとも間が抜けた妖怪であります。水木しげる先生を尊敬するニセ豆腐小僧は緊張しておりました。じっさい、水木先生は妖怪然としており、コンテストの選考は即決でありました。作品とぐっとにらむや、順に作品を指し示し、「これとこれとこれだね」とひとこと。「どのあたりがよいでしょうか」と訊ねても、穏やかに「これとこれとこれがいいね」という返答でした。たぶん妖怪アンテナによる選考だったのでありましょう。
(大賞は山田勝久さんの「河童」)

上記の企画展のギャラリートークに行って(学芸員さんの名前メモし忘れた)、いろいろと面白い話を聞いた。たとえば、以下である。

祭祀遺跡として知られる金生遺跡のその名は、ほかの遺跡と同じように集落名からついたものだが、地名そのものが「金精さま」からきていると考えられる。つまり、遺物(石棒=石の陽物)が多く見つかるところだったことから、土地の名がついたと推測できる。開墾した土地の中から、そうした遺物が見つかるのは神秘に感じただろうし、それらを道祖神などに祀ったのだろう。面白いのは、いったん、ひとの居住が途切れている土地ということだ。つまり、信仰自体が受け継がれたのではなく、呪物の再利用があったというのが、この土地の歴史である。

月の話と北斗七星の話2017/01/05 23:15

○月の話
大晦日の三日月
大晦日の東京郊外の夕暮れ、三日月と富士山の写真である。写真にすると、肉眼では気がつきにくい地球照がよくわかるのが面白い。地球照というのは、地球の反射光による、月の暗い部分への照射である。この日は、太陰太陽暦12月3日(正午の月齢が1.8。月齢+1が日付になる)だったので、正しく三日月だ。実際はもっと細いが、写真ではやや太く見える。

「三日月!」という月が、じつは5日ぐらいというのはよくある話だ。『月のうた』を書いた小説家の穂高明さんも、「三日月は(一般に思っているより)とても細い」と書いたのだが、意見があって削ったとのことだった。たしかに、3日前後の細い月を総じて三日月ということはある。なお、三日月は細いだけでなく、見つけてから沈むまでの時間が短いというはかなさもある。

1月2日の月と金星
翌々日の1月2日、この日は「五日月」と並ぶ金星がきれいだった。さらにその次の日の1月3日は、「六日月」と火星が並んでいた。1月1日にテロがあったトルコでも、翌日2日の日没時には、金星と月が、この写真よりも離れているが、並んでいたことになる。宵空に天の「新月旗」を見て平和を願ったひとたちもいたのだろう、などと考えた。

月は、天球上を約1ヶ月で1周する。月の公転に地球の公転も加わるので、その周期(恒星月)は、満ち欠けの周期(朔望月、29日余)より短く、約27.3日である。つまり、月は、天球上で1日に360°/27.3=約13°動く。中国の天文学で赤道帯を28に分ける二十八宿も、月のこの動きに基づくとされている。27ではないのは、東西南北の四方位に合わせるために4の倍数としたためだろうか。この約13°/日という動きはけっこう大きい。上にも書いたように、1月2日に金星と並んでいた月は、3日には大きく離れ、火星の近くにあった。月はせわしないのである。

天球上での月の通り道は白道と称し、地球と月の公転面に角度があることから、1年で太陽が1周する黄道と、約5°の角度がある。黄道と白道はともに天球上の大円で、そのふたつある交点付近に太陽が来たときが、月と太陽がほぼ重なって、日食や月食の機会となる。ただし、このとき、太陽と地球の間に月がはいるポジション、つまり、新月とうまく重ならなければ、日食にはならない。

しかし、交点でぴたり新月とならなくても、月と太陽の視直径が大きい(0.5°)ことと、月と地球が近いことで視差(地心座標と測心座標のずれ)が最大約1°(atan(地球の半径/月までの距離))になることから、それらを足した1.5°以内にあれば、地球上のどこかから見て、月と太陽は、重なったり、かすめたりすることになる。つまり、交点から両側で、1.5°/tan5°≒17°以内であれば、日食はおきる。日食限界といわれる値である。太陽がその範囲にあるのは、365*17*2/360で、約34日である。これは約1ヶ月なので、この間、月は必ず一度は新月になる。要するに、年に2回、日食はおきる。案外頻繁なのである。この30日余の間に、新月が2回のこともある。さらに、白道と黄道の交点は、太陽による摂動で移動する(約19年で一周:サロス周期)ので、食に関する1年は365日ではなく約347日である。よって、日食が、年に3回以上となることも稀ではない。たとえば2029年には、部分食が4回ある。問題は、どこから見えるかということだ。

今年は、2月26日に金環食、8月21日に皆既食がある。残念ながら、いずれも日本からは見えないが、8月の皆既食は、北米で広範囲に見える。

とまあ、年末年始に月を気にしていたのは、いつも見ているといえばそうなのだが、野辺山の45m望遠鏡に積んだ筑波大学の新しい受信機が、月や金星を試験観測用の天体としていたためでもある。今回、新装置の制御ソフトウェアの一部をつくったのと、前からある機能ではあるが、めったにつかわない月の追尾なので、東京で月を見ながら、トラブルがないとよいなあ、とメールをチェックし、ログ(観測記録)を見ていたのだ。この試験は、ひとまず成功して「ファーストライト」を得たので、めでたしであった。

観測所の計算機運用といえば、元日には、うるう秒もあった。わたしは休みだったが、なにもなければ休みなのに出勤したひともいた。日本は朝9時だからまだよいが、1月1日にうるう秒いれるのをやめてほしいと思ったエンジニアはとても多かったはずである。天体現象に基づく(地球の自転による協定世界時と国際原子時のずれの補正)のだが、いついれるかは恣意的なので、1月1日はやめてほしい。

☆北斗七星の話
天文と氣象
卍:北斗七星説

植村卍さんによる「妙見信仰と卍の関わり」説と似た話が、1950年の『天文と氣象』のグラビアにあることを見つけた。編集部による記事のようで、説のでどころのみならず、執筆者も不明である。同号には、著名な気象学者・藤原咲平氏による「渦巻」と題された解説記事も載っているが、そこに、この北斗七星の話がでてくるわけではない。なお、この『天文と氣象』は、昨年、神保町の古本のワゴンでたまたま手にとったものである。

読書日記的なあれこれ2016/12/26 00:20

瀬名秀明さんの折り紙青春小説『この青い空できみをつつもう』の記憶も新しいところで、近刊の折鶴小説をふたつ紹介しよう。昨年の『紙の動物園』(ケン・リュウ)といい、もろもろの映像作品といい、「折り紙 in 文芸」や「折り紙 in 映画」は来ているのか? などと。たまたまだろうけれど。

鏑木蓮さんの『黒い鶴』は、デビュー10周年記念短編集で、表題作は、12年前の幻のデビュー作とのことである。アイデアのてんこ盛りに意気込みを感じる一作だった。鏑木さんは『思い出探偵』でも折鶴を小道具に使用していた。

現役医師でもある浅ノ宮遼さんの短編集・『片翼の折鶴』の表題作は、意識不明となった女性のかたわらにあった翼がちぎれた折鶴の意味は?という話である。医療ものに「日常の謎」(ミステリ用語)というのは変かもしれないが、そんな感じの4編である。まあ、犯罪より病気のほうが、日常であるのは間違いがない。著者は、表題を「カタヨク」ではなく「ヘンヨク」と読ませている。また、「折鶴」のローマ字表記はoriduzuとなっていた。これに関連しては、先日、『千羽鶴折形』の研究をしているひとの集まりがあり、似たことが話題になった。『千羽鶴折形』を海外に紹介するとき、se[m n]ba[z d ts]uruのどの表記にするかということである。た行の濁音はDにすべしという話もあるが、かならずしもそうばかりでもないので、難しいのである。

という感じに、例によってだが、「忙しいときに読書」現象に陥っている。えい、ついでだ。この一ヶ月ぐらいに読んだ何冊かについて、書きたくなったので、由無し言を記そう。

まずは、松村由利子さんの『短歌を詠む科学者たち』。松村さんに、『31文字のなかの科学』『与謝野晶子』という著書があり、前者のみならず、後者の中にも科学と関連づけた内容があることを知り、せんだってこのブログに晶子の『颱風』の話を書いたので、シンクロニシティの感覚もあり、これも入手して読んだ。残念ながら同書の中に『颱風』に関する言及はなかった。

『短歌を詠む科学者たち』で取り上げられた科学者はバラエティーに富んでいて、懐石料理に招待された感じだった。ただ、斉藤茂吉の負の側面(戦争詠など)の記述がないことなどが、妙に気になってしまった。一冊の本になにもかも書くことはできないので、ないものねだりなのだが、読んでいて、なぜか頭の中に強迫的に浮かぶ「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)という言葉に呪縛された感じになった。同様の思いは、冒頭の湯川さんに関する記述から感じたものなのだが、これはたぶんかなり特殊な感想である。

『短歌を詠む...』の第1章は湯川さんである。そして、『詩と科学 -子供たちのために-』という湯川さんのエッセイにある「詩と科学は遠いようで近い。近いようで遠い。」という言葉が、書物全体の基調になっている、と読める。高野文子さんの『ドミトリーともきんす』にも出てきたこのエッセイは、名編で、ポオやキーツという詩人からの科学に対するアンチテーゼを、ドーキンス(『虹の解体』の中でキーツを批判している)よりも慎重に止揚した言葉として読むことができる。しかし、わたしには屈折がある。

湯川秀樹博士や朝永振一郎博士は偶像だ。とりわけ日本で物理を学んだ者にはそうで、物理の業績のみならず、人格や平和運動への姿勢、文章の気品などにおいて、仰ぎ見る存在である。しかし、批判するひとも当然いる。たとえば、唐木順三さんの『「科学者の社会的責任」についての覚え書』がそれだ。わたしはこれを、まさに物理科の学生だったときに読んで、すくなからぬ衝撃を受けた。この本の中で、唐木さんは、朝永さんと対比させて、湯川さんを激烈に非難している。

その論旨をきわめておおざっぱに要約すると、「科学者は、科学そのものが内包する原罪性や危険性を強く自覚すべきだが、湯川博士にはそれが欠けている」といったものだ。かなり一方的な論難で、いまより純真だったわたしでも言葉通りには受けいれなかったが、ある種のトゲとして刺さった。たぶんわたしはこのとき、ひとを尊敬することと偶像化することは違うということを学んだ。

わたしは、湯川さんがそうだったとは思ってないが、原爆の効果的な使用法を示したフォン・ノイマンや、水爆の父・テラーのように、天才というものが、無邪気に虚無を抱えることがある、とは思っている。話が単純でないのは、彼らがわかりやすい悪人や阿呆ではなく、美と真の探求者で、その才能が眩いばかりに輝いていたひとたちだったことにある。これは恐ろしい話で、恐ろしいがゆえのリアリティーがある。思うに、科学の美しさの言挙げの中には、世界の終わりのような極端なものを見たいという欲望に通底するものがあるのではないか。そうしたことを考えるとき、科学は価値中立であるという「弁解」がうわすべりした言葉に思えるのもたしかだ。

『短歌を詠む科学者たち』にも、そういう科学の非倫理性、没倫理性を詠んだ歌はでてくる。たとえば、次のような、一種露悪的な歌だ。
「科学者も科学も人をほろぼさず十九世紀をわが嘲笑す」(坂井修一)
というふうに、科学者の社会的責任の問題がこころの片隅でもやもやしていたところ、近刊に『ヒトラーと物理学者たち』(フィリップ・ボール著、 池内了、小畑史哉訳)という本があったので、これも手に取った。著者が、『かたち』シリーズのフィリップ・ボール氏だったのが意外だった。『かたち』シリーズの過不足ない記述もすばらしかったが、調査の行き届いた本書の内容にも感心した。本書の「主要登場人物」である、プランク、ハイゼンベルグ、デバイには、まだ、苦悩や葛藤があるが、レーナルトやシュタルクの道化ぶりには呆れた。後世から見た評価ではあるが、それは滑稽ですらあった。しかし、彼らとて「偉い」学者だったのだ。こういうのを読むと、自分が偉いひとでなくてよかったなあ、という小市民的感想も浮かぶ。しかし、平凡な者でも、いつなんどき自分が加害者になるのかわからないのが、現代社会でもある。以下は、『ヒトラーと物理学者たち』からの引用の引用で、科学史家ヨーゼフ・ハーベラーの言葉である。素朴にも聞こえる言葉だが、正鵠を射ていると思う。
真の問題は、レーナルトやシュタルクのような科学の訓練を受けた人たちが、いかにして狂信的な国家社会主義者(引用者注:ナチスのこと)となり得たのか、ということだ。ノーベル賞受賞者があのように染まりうるのならば、科学の訓練や実践によって、行き過ぎた非論理的で、私的で、経済的、社会的、政治的な行動を、どのようにして防ぐことができるのだろうか? 
以下も引用されていたもので、ちょっとわかりにくい訳(あるいは、原文も?)だが、直球で痛いところをついてくる。ヤスパースの言葉である。
私たちは、オッペンハイマーのような科学者から風変わりな言葉を耳にする。・・・彼は「美」について語る。すなわち美を、遠くにある奇妙でなじみのない場所や、あるいは広大に開かれた風の強い世界において存在し続ける道の中に見出す、という人間の能力について語る。(略)そうした文章のなかに、洗練された耽美主義への逃避、(略)惰眠性のある言葉づかいへの逃避しか見出すことはできない。

科学者が詩をつくることは、科学にも詩があるというより、もっと単純に、逃げ場であることも多いだろう。水爆の父・テラーのピアノのようなもの、心理学でいうところの補償作用である。しかし、逃げ込み場所であったはずのものが、精神を削るようになることもあるのが、またややこしい。そういう点では、いわゆる余技を完全に超えているひとの話が興味深い。たとえば、『短歌を詠む科学者たち』中の、永田和宏さんの以下の話である。
インタビューなどでどうして二つを両立しているのか訊ねられると「どちらにも発見の喜びがある」などと答えていたものの、自分にそう信じ込ませたかったというのが本当のところで、実際には納得していなかった。
 しかし、あるとき不意に「サイエンスと文学はまったく違ったものなのだ」という当たり前のことに気づいた。「二つは何の関係もなく、二つのことを一人の人間が生涯をかけてやることに何の必然もない」と思った瞬間、科学と短歌を「同じ重さでやってきたというスタンスと、その時間の累積」が、初めて自分の中でかけがえのないものであったと思えた。
この話には、個人的にも共感した。スケールはちいさいが、わたしにも似たような感覚があるためだ。...と、極私的な話となる。

この1ヶ月も、なんやかんや折り紙の活動が多い。本来怠け者なのに、ぼんやりとした週末がほとんどない。もろもろの会議のほか、先月末は折紙探偵団・静岡コンベンション、先週は、第21回折り紙の科学・数学・教育研究集会と『千羽鶴折形』に関する座談会だった。そして、先月の第2週は、天文台の仕事を休んで、「数学的モデリングと解析の国際会議2016 - 折り紙を基にしたモデリングと解析」という会に出席していた。こちらは科学や工学の研究会だが、ウィークデイだったので、仕事を休んで行った。数学を使うといっても、天文と折り紙では、頭を切り替えるし、こういう研究会で、天文台のソフトウェアエンジニアですと言っても話が発展することはあまりないので、折り紙アーティストなどと名乗ることになる。まさに、「二つは何の関係もなく、二つのことを一人の人間が生涯をかけてやることに何の必然もない」のである。

研究会そのものは、幅広い研究者に会えるのと、自分のまとめの機会、若いひとの成果に触れることができるのでたのしい。文化としても研究としても、マージナル(周辺的)なものであった折り紙が、偉くなったよなあと感慨も深い。しかし、自分が偉くなったわけではないので、ふわふわとした奇妙な立ち位置にいるなあ、とも思うのである。

話が妙なほうに流れてしまったが、読書日記的なものに戻ると、前にこのブログにも書いた(1 2,3)竹本健治さんの『涙香迷宮』が、年末の各種ミステリベスト10で上位(1位も!)だったのには驚いた。万人受けとは思えないので、心配である。「なんで、あんたが心配するのか」と、いうことではあるけれど。

そして、いまさっき読み終わった、森見登美彦さんの『夜行』には、以下の文章があった。
「これらは『夜行』と呼ばれる連作で四十八作あります。」
天鵞絨(ビロード)のような黒の背景に白い濃淡だけで描きだされた風景は、永遠に続く夜を思わせた。いずれの作品にも一人の女性が描かれている。目も口もなく、滑らかな白いマネキンのような顔を傾けている女性たち。「尾道」「伊勢」「野辺山」「奈良」「会津」「奥飛騨」「松本」「長崎」「青森」「天竜峡」・・・・一つ一つの作品を見ていくと、同じ一つの夜がどこまでも広がっているという不思議な感覚にとらわれた。
フィクションの中に野辺山という地名がでてくることはなくはなないけれど、多くはない。『夜行』の中でじっさいに語られるのは、尾道、奥飛騨、津軽、天竜峡、鞍馬で、野辺山は語られぬエピソードだったが、夜の闇の物語は似合う。星空は、まさに降るごとくだ。最近、闇に隠れた事件もあったのは嫌な感じだけれど。なお、作中に描写されている版画は、長谷川潔さんのイメージ(氏は静物が多く、風景画はすくないが)だが、表紙絵はなぜかいまどきのアニメーションぽい絵であった。

というわけで、明日から野辺山か。

さらば昴よ2016/12/13 20:01

昨日、ラジオから谷村新司氏の「昴」から流れてきた。有名な歌だが、わたし自身、聞いたのは久しぶりで、「我は行く。さらば昴よ」という歌詞の「さらば」はどういう意味なのだろうと、ふと疑問にかられた。

★たとえば、「南極に行く」という解釈が可能である。すばる(プレアデス星団)は、赤緯(天体の座標で、天の北極が90、赤道が0)が約24度なので、90度からこれを引いた値の南緯66度以上の地に行くと、見ることができない。南緯66度以上にある土地と言えば、南極大陸である。つまりこれは、南極観測隊員の決意の歌だったのだ。すばるの赤緯が地軸の傾きにほぼ等しいのも興味深い偶然である。南緯66度というのは白夜になる境界に相当する。つまり、「昴とさよならした土地」は、季節によっては、一日中星空そのものが見えない土地でもある。
「タロー!ジロー! さらば、昴よ〜♪」

★すばるは、黄道(太陽の1年の通り道)の近くにある星である。5月の約1ヶ月間は、ほとんど太陽と重なって、日没の直後や日の出の直前であっても、太陽にかき消されて見えない。つまり、「さらば 昴よ」は、「ああ、5月だなあ」という意味でもある。
「夏も近づく八十八夜♪ さらば、昴よ〜♪」

★町で見上げた星空では、すばるの特徴、すなわち、多数の星が集まっている散開星団であることがわからない、ということもある。すばるの中で最も明るいアルキオネ(η Tau)は2.87等級であり、それ以外はみな3等級以上である。空の明るい東京では、条件がよい日でも、肉眼で確認できる星は3等級がぎりぎりぐらいなので、すばるは、薄暗いぼやっとしたものと認識することがせいぜいで、ほぼ見えない。つまりこの歌は、地方から都会にでていくひとの歌である。
「恋人よ僕は旅立つ〜♪ さらば、昴よ〜♪」

★明治末、文芸誌『スバル』(集英社の『すばる』とは異なる)の創刊に関わった石川啄木が、次第にそこから離れていったという話とも符合する。『スバル』の最終号より啄木の物故のほうが前になるので、「我は逝く」ということでもある。なお、谷村氏は、「呼吸(いき)をすれば、胸の中」のところ、啄木から、本歌取りというか、明白な引用をしている。
「呼吸(いき)すれば、胸の中(うち)にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音! さらばスバルよ」

★富士重工業の社員が、他社にヘッドハンティングされたときの感慨を歌った歌としてもぴったりだ。あるいは、富士重工業の車のユーザが他社に乗り換えたとか、運転者が高齢となって免許を返上して車も売ったということかもしれない。
「崖の上のスバル〜♪ さらば、スバルよ〜♪」

★身近なところで、国立天文台ハワイ観測所(すばる望遠鏡)での任期が終わって、他の観測所などに異動になった国立天文台職員の感慨でもある。
「いざ、その星影、窮めも行かむ♪ さらば、すばるよ〜♪」

『五年目のひとり』他2016/11/05 17:31

◆『五年目のひとり』
11月19日(土)21:00-23:06の放映が決まった山田太一ドラマスペシャル『五年目のひとり』(TV朝日系)(山田太一脚本、堀川とんこう監督、渡辺謙主演)で、小道具としての折り紙を担当した。折り紙作品は、ある程度見栄えもするように、しかし、凝りすぎないようにと考えた。

6月、撮影に立ち会い、待ち時間に渡辺謙さんと「タイガースは調子出ませんねえ」という話をするなど、非日常的な経験をした。要するに、ぽかんとスタジオを見学しているおじさんであった。

◆ICMMA 2016
8日から、ICMMA 2016 'Origami-Based Modeling and Analysis' という国際会議に参加する。

『奇蹟がくれた数式』(The Man Who Knew Infinity)2016/10/25 20:42

一昨日、映画『奇蹟がくれた数式』(The Man Who Knew Infinity)を観た。これまで、フィクション中のラマヌジャン(1887- 1920 インドの数学者)は、えーっというものもあったのだけれど、これは、しみじみとよい映画だった。

ラマヌジャンが妻に「数学以外に興味はないんだ。ただし、君を除いて」みたいなことを言うのは、愛おしいし、宗教的な食事の禁忌の問題は、現代日本でも同じようなことがあるなと、はっとするところだった。

数学ミーハーとして気になっていた、タクシー数1729の使いかたは、史実とされている話とは違っていたが、小ネタ以上の扱いだった。ハーディーが1年内に2度、1729のタクシーに遭遇したことになっていたが、今よりはるかにタクシーの数は少ないだろうし、ケンブリッジはそんなに大きい街ではないので、その確率も一応計算されているとみた。

ちなみに、我が家から半径200m以内の駐車場には、ナンバー1729の車が2台確認できている。駐車場密度の見積もりをもとに、まったくのランダムなものとして計算してみると、範囲内に1729がふたつある確率は1000分の1ぐらいである。高くはないが、そんなに低くもない。

リトルウッドの法則なるものもある。映画で好感度抜群に描かれていたリトルウッド(彼も数学の殿堂入りの天才)による、以下の「法則」である。
「100万回に1回起こることを奇跡、その分母になる事象を1秒に1回起きる事と定義すれば、ひとは1ヶ月に1回ほど奇跡的な事象に遭遇する」
これはかなり高い。