丸石神 その33 ― 2012/04/09 21:31
垈のつく地名と言えば、韮崎市相垈(あいぬた)にすばらしい丸石神があるが、藤垈にもみごとな丸石神があった。藤垈のそれは、「火の見櫓・丸石神隣接の経験則」に合致して、火の見櫓の近くにあったが、ふと、「垈地名・丸石神存在の経験則」なるものが頭をよぎった。まあ、これは成り立たたないと思うが、地域文字などというものがあること自体がミステリーなので、想像がふくらんだ。他には、甲斐市双葉町大垈、南アルプス市加賀美垈原、市川三郷町垈、南部町成島大垈といったものが、検索にかかる。
「石子順造的世界」と「重森三玲 北斗七星の庭_展」 ― 2012/01/09 23:43




イタリアで見つけたものなど ― 2011/12/20 12:56





丸石神その32 -再利用- ― 2011/10/25 22:54
『丸石神』(丸石調査グループ編 1980)にも、道祖神石像の頭が丸石になっている写真があり、中沢厚さんが「二基の四神像はいずれも頭部欠落で、代わりに丸石が四つちょこなんと乗って頭の役目を果たしています。そんなユーモラスな趣向は甲州ならではというべきでしょう」と記しているが、村山西割の石仏は、大きさが等身大のこともあって、ノッペラボーという感じが強く、彫刻造形的に、かなり奇妙な味わいになっている。
丸石神その31 -雪だるま型- ― 2011/07/18 21:30
重ねられらた丸石神は、ほかでも見たことはあるが、このように、「造形的」にきっちりとできあがっているものは珍しい。
左は、自性院というお寺の参道の入口にある一座。転げ落ちたことがあったのか、コンクリで接着してある。
右は、JR中央線と中部横断自動車道が交差する辺りにある一座。台座や下段の石が真新しいが、整備前にも、このかたちだったのだろう。台座に銘のようなものはない。
甲斐地方に「丸石道祖神」という民俗があるという知識なしに、この造形を見た場合、「なんじゃこれ」度は、より高くなるだろう。
…まさしく「なんじゃこれ」で、これらの造形は、簡単な意味づけを拒絶していると思っていたのだが、震災を考えることが多いためか、いま、妙な説を思いついた。すなわち、「丸石神は天変地異の観測装置である」という説である。
紀元前の中国に、龍の像がくわえた玉が落ちることで地震を感知した装置があったという。これらの丸石道祖神にも似たような意味があるのでないか。つまり、これらは、「不安定な造形が崩れないことにより、世界の安寧を確認している」という意味があるのではないか、なんて。
丸石神その30 ― 2011/01/25 21:22
道祖神そのものを扱った展示ではなかったが、初めて見る資料など、いくつか新しい知識を得た。
ひとつは、明治五年の、門松、削りかけ、節分の鬼やらい、道祖神祭りを禁止する布告が、以前ここに書いた藤村紫朗氏ではなく、土肥実匡氏の署名によるものだったことである。藤村紫朗氏が県令(権令)になったのは明治六年だった。
美術財産であったこれらの幕絵は、数点を除き、この布告などにより、廃棄されたというから、もったいない。
山梨県立博物館の観覧は3回目だったが、敷地内に丸石神があることを今回初めて知った。写真がそれで、昭和はじめにつくられた「本物」を「遷座」したものだそうだ。ミュージアムショップでは、道祖神祭りの絵葉書とクリアフォルダーを買った。
丸石神その29 ― 2010/12/12 14:48
同神社境内には、穴の空いた石もある。台座の銘によると、鏡石という名で、宝暦七年九月(1758年)に造られたものだ。韮崎市のサイトによると、富士講(富士山信仰)の信者によるものだ。境内は釜無川の河岸の高台で、富士山もよく見える。だが、不思議なことに、穴の方向は富士山からはわずかにずれている。創立時から動いてしまったのかもしれない。現在も、やや斜めからなら、穴を通して富士山を見ることは可能だが、隣接する墓地の塀に裾野が遮られたかたちになる。
石子順造と丸石神 ― 2010/10/17 13:52
丸石神をテーマにしたシンポジウムがあるということ自体、丸石好きとしてたいへんうれしかったのだが、講演は淡々と聴いていた。主に評論家の石子順造さんの再評価という動機による会なので、丸石神「自体」の面白さが語られることはあまりないだろうと予想しており、内容はその想定内であった。
わたし自身の丸石神への関心も、「折り紙のマージナルアート性→キッチュ論への興味→石子さんの著作を通して丸石神を知る→山梨でじっさいの丸石との遭遇し、幾何アート好きの琴線に触れる」ということで、石子順造さんの影響なのだが、石子さんの評論を読み返すと、論旨は錯綜しており、正直、情熱は伝わるが共感はできないことのほうが多い。
今回の会で一番面白かったのは、中沢新一さんが紹介した、氏の父上にして民俗学研究者の中沢厚さんのエピソードだった。石子さんらを案内した中沢厚さんは、丸石神を前に「近代を超える。近代を否定する」等々と口角泡を飛ばして議論する彼らを見ながら、「愛情のある皮肉」を込めて、「あのひとたちは近代に反発しているけれど、近代的なひとだねえ」と言ったというのだ。
鼎談の中で椹木さんが、「石子さんは、反近代、非近代を考え続けるがゆえに、逆に近代に呪縛されていたのかもしれない」といったことを発言されていたが、そうした強迫的な心性の解毒剤として最も有効なのも、わたしには、中沢厚さんのような態度としか思えない。それは、じっさいに現場で多くの実物に接し、さまざまな視点からそれについて考えているものの強みである。また「外」にいるものの強みである。中沢厚さんも丸石の美しさを語るが、美術の「外」にも「美しい」ものがあるのは、考えてみれば、当たり前なのである。
会に、質問の時間がなかったのは残念だった。
道祖神祭り禁止と擬洋風 ― 2010/10/04 22:55
道祖神祭りの禁令に関しても記述されていたが、明治五年の山梨県の布告で、門松や追儺(節分の豆まき)なども禁止されたというのは、驚いた。
このような禁令は、当時の県令(現在の県知事にあたる)であった藤村紫朗氏による。(追記:藤村紫朗氏が県令(権令)になったのは、明治6年からであったが、藤村紫朗氏が民俗信仰を抑圧したのはたしかである)
この藤村という名前に聞き覚えがあった。山梨には、明治初期の「擬洋風建築」、すなわち、日本の職人が建てた西洋風の建築が多いのだが、それらが、このような建築を奨励した県令の名に因んで「藤村式」と呼ばれているのである。
擬洋風建築では、信州松本の開智学校が有名だが、山梨の津金学校や舂米(つきよね)小学校も、なかなか味がある。たとえば、写真の富士川町増穂にある舂米小学校である。中央に六角形の鐘楼のような「太鼓堂」があり、そのてっぺんにシャチホコがひとつだけついているというものだ。愛らしいが、どこか奇妙な建築である。
民俗信仰を根こぎにするかのような禁令を出した「開明派」の県令の名をとどめ、じっさいに文明開化の拠点であった学校。それが、いま見ると、国籍不明であることによって、きわめて「日本的」に見えるというのは、じつに面白い。
丸石神その28 ― 2010/09/23 11:16
『甲斐路 ふるさとの石造物』(山梨県編)によると、そもそもは道祖神として集落の辻々にあったものが、「道祖神祭廃止の通達」(明治五年:四年という資料もある)のさいに、神社境内に集められたものであるという。
明治の初めは、いわゆる国家神道による、他宗教や民俗信仰への淫祠邪教扱いが苛烈だった時期である。五島崩れなど潜伏キリシタン(隠れキリシタン)の殉教もこの時代だ。
甲斐の山村の民俗信仰も、そこで一部断ち切られたわけである。神社が「六社神社」なのも、小祠が集められたためかもしれない。







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