2回折ってひろげた紙など2017/02/22 22:09

◆『折って楽しむ折り紙セミナー』最終回
2月12日発売の『数学セミナー』3月号で、『折って楽しむ折り紙セミナー』の連載が終了した。当初1年の予定の連載だったが、4年になった。月刊の連載というのは簡単ではなかったが、たのしかった。読者のイメージを数人思い描いていたが、そのひとりは、高校生ぐらいのわたし自身だった。

◆2回折ってひろげた紙
2回折ってひろげた紙
折り目のついているポスターを見ていて、2回折って広げた紙の折り目のかたちが気になった。これは4つの錐面の連結である。2回で折るのではなく、4本の折り目を同時に動かしたときの錐面の変移を、すこし考えた。

高橋由一『豆腐』など2017/02/15 23:37

◆絵葉書
絵葉書

仕事場に貼ってある絵葉書は、仙厓義梵『○△□』のほかに、以下である。

◎デューラー『メレンコリア §I』
部屋に、なんでもひとつ本物を飾ることができるということになったら、これだ。

「私は大きな丹精をこめて描きました。... 貴下がそれを綺麗に保存されるなら、それは五百年間美しく瑞々しく保つことを確信しております。... 一五〇九年バルトロマイの日の後の日曜日、ニュルンベルグにて アルブレヒト・デューラー)
(デューラー『自伝と書簡』前川誠郎訳 より。ただし、油絵の保存について書いたもの)

◎フェルメール『天文学者』
好きな絵というより、天文台の仕事をしているから、ということである。

並べてみると、デューラーの『メレンコリア §I』と構図が類似していることがわかる。『天文学者』には対になる『地理学者』という絵があり、その絵の中の人物は、『メレンコリア』の天使と同様、コンパス(ディバイダ)を持っている。この「対幅」は、フェルメールによるデューラーへのオマージュなのではないか。...という説は聞いたことはないけれど、ともに遠近法の巨匠であり、約100年あとに生まれたフェルメールが、デューラーを尊敬していた可能性はある。オランダ語とドイツ語は似ているので、フェルメールはデューラーの『Unterweisung der Messung(測定法教則)』を読んでいたのではないか。などとも。

◎高橋由一『豆腐』
讃岐の金毘羅宮の高橋由一館にある絵である。金毘羅宮に行ったさいに見そこねてしまったので、本物は見ていない。これの本物を見るのが、新潟県の栃尾に行って揚げたての油揚げを食べることなどと並んで、将来の夢のひとつである。

この絵の油揚げの縦横比はだいたい1対2であるが、関西では正方形のものが多い。このことにより、油揚げを二等分してつくる稲荷寿司も、関東では四角、関西では三角が主流になっている。由一は江戸・東京のひとなので、この絵の油揚げも長方形なのだろう。なお、栃尾のものは、縦がより長い。そもそもあれは、油揚げというより、厚揚げである。
いなり寿司の幾何学

◆フィボナッチ
フィボナッチ
13までのフィボナッチ数列を折ってみた。
1, 1, 2, 3, 5, 8, 13 である。13は正方形になっていない。

カタツムリなど2017/02/14 22:09

◆几帳面
わたしは、几帳面なところがある。ただ、どうも肝心なところが抜けている。

ちなみに、「几帳面」は、もののかたちから来た言葉である。几帳(とばりを垂らす家具)の柱につけた細工のことで、より一般的に、木材の辺の面取りの名称となっている。面取りには、丸面、角面などのほか、銀杏面というものもある。ただし、イチョウメンではなく、ギンナンメンである。
几帳面など

◆カタツムリ
最近、動物など具象物の折り紙作品をあまり創作しておらず、講習会向けの未発表作品を考えて、ちょっと困った。幾何作品ばかりだとバラエティーが乏しくなってしまう。ちょうど螺旋の造形を考えていたので、気分転換してカタツムリに応用したら、なかなかかわいらしい作品ができた。
カタツムリ

◆デュアルモジュール多面体
最近の幾何作品のお気にいりは、対称性のあるふたつの部分を組み合わせる立体である。とくに十二面体の、atan(1/√6)=22.2...≒22.5=90/4という近似が面白い。
デュアルモジュール多面体

『○△□』など2017/02/06 21:07

◆数学少年を描いた映画・『僕と世界の方程式』(モーガン・マシューズ監督)。
まだ観ることができていないが、予告に、6-7才の主人公が直角二等辺三角形のお菓子を正方形に並べているシーンがあり、これだけでぐっときた。

◆ふとした会話で、数学って、ほんとうに嫌われているんだなあと思うことがある。数学が可哀想になる。まあ、数学を擬人化して可哀想と言うのも変である。そして、擬人化したとしても、同情されるような甘いものでもない。わたし自身も、残念ながら、数学に深く愛されていない。「学問のなかでの最たるこの美女にほれこんだ失意の男」(ポール・ヴァレリーの言葉)である。

◆仕事場の机の横に、何枚か絵葉書が貼ってある。その中に、仙厓義梵の書『○△□』がある。四角が、正方形ではなく、1対√2の長方形に近い(図の赤い線参照)ことが、以前から気になっている。『本格折り紙√2』の表紙か扉絵は、これにすればよかったかもしれない。
『○△□』

◆数ヶ月前、『数学セミナー』の連載で、ニューヨーク州のノースポート公共図書館にある、George W. Hart氏の「Millennium Bookball」という彫刻をとりあげた(2016年9月号)。

菱形三十面体の60個の辺に、60の本のオブジェの背を接続した、直径約1.5mのみごとな彫刻である。それぞれの本には、ちゃんとタイトルが刻印されている。同図書館の利用者が1999年に選んだ20世紀の本ベスト60の投票結果だそうだ。

『1984』と『すばらしい新世界』が、アメリカでよく売れているというニュースを聞いて、この彫刻を連想した。リストに、オーウェルの『1984』、ハクスリーの『すばらしい新世界』、ブラッドベリの『華氏451度』が含まれているのだ。

上記リストは1999年のものなので、世紀末の不安感の影響もあったのだろうが、現在これらの本が切実に読まれているというのは、それ自体が、なにか小説の世界の話のようである。
問題:ディストピアでは、ディストピア小説は読まれるだろうか?

今年も3週間が過ぎた2017/01/25 23:29

今年も3週間過ぎてしまった。
以下、本を読んだり映画を観たりなどしかしていないようだが、そんなことはない。
と言いたいのだが、そんなものかもしれない。

●寒中
雪華
何日か前、窓際に落ちた雪が見事な六華だった。大きさは2mmぐらいで、写真は、スマートフォンのカメラで撮ったものである。

自転車禁止
今年の野辺山の最低気温は、いまのところ、今朝(1月25日)5時過ぎのマイナス20.1℃である。

●7777、777
先日、うちを訪問したひとの車のナンバーが777だった。その数日後、コンビニエンスストアの駐車場で、まったくちがう車で、7777と777が並んでいるのを見た。だから、どうということはないけれど。

著者の第三歌集。『トレミーの四十八色』と題された、プトレマイオスの48星座をモチーフにして、結句を色でまとめた連作も収録されているが、石垣島に移住し、結婚し、子供が生まれるという著者の身辺を反映した歌が、私的経験の掛け替えの無さというか、一回性の緊迫感を生んでいて、ひきこまれる。第一歌集の印象とずいぶん違う。

折鶴が出てくる歌があった。この歌には、もののかたちのとらえかたの面白さ(第一歌集でわたしが好きになったところ)と、上に述べた特徴の双方が含まれている。

ベビーカーは折り鶴に似て児を拐ひとぶやもしれず枷鎖購ひにゆく

枷鎖は、囚人につける大きい鉄球のようなイメージだ。乳母車がふわふわと飛んで、赤子はにこにこ、親はパニック、あるいは呆然。

もののかたちのとらえかたの面白さでは、以下の歌が好きだ。

ヴィオロンのG線上を移動する点P として指ひかりゐつ

4本の弦のうちG線だけで弾く『G線上のアリア』は、弦から弦の移動がない分、音が連続的に変化する。1本の弦は連続体で、その並びは並行宇宙だ。

『直感幾何学』(D.ヒルベルト、 S.コーン=フォッセン著、 芹沢正三訳)
『朝倉数学事典』の「線織面」の項の参考文献にあがっているので知った。数学が専門ではないとはいえ、幾何学ファンとして、この本を知らなかったのは不覚だった。あのヒルベルトを共著者にする図版豊富な本である。しかも、独日翻訳されているので、読むことができる。ありがたい。コクセターの『幾何学入門』と並んで、幾何学ファンの必携書なのではないか。ちくま学芸文庫Math & Scienceのラインナップにも加えてほしい。

『数値計算の常識』(伊東正夫、藤野和建)
いまさらなのだが、仕事で遭遇する問題を確認したいと思って買い、ぱらぱら読んで、うんうんと頷いている。

『数学的な宇宙』(マックス・テグマーク著 谷本真幸訳)
昨年の暮れに、『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト著 寺町朋子訳)を読んでいたのだが、同様のテーマの本として、最近読みおわったこちらのほうが、わたしには面白かった。最初のほうの数章は、現代宇宙論の啓蒙書としてわかりやすく、頭が整理されてうれしい。

題名に反して、数式はほとんどでてこない。扱われる並行宇宙は、「ほんものの無限」を想定しないと成り立ちそうもなく、そこが最大の難点なのではないかと読みすすんでいくと、最後のほうに無限のやっかいさの話がちゃんとでてきた。話としては、要するに、究極のプラトニズムで、バリントン・J・ベイリーのSFのようでもある。ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイクガイド』への言及が多いのもうれしい。

些細なことというか、余計な話であるが、図版のイラストはもっとうまいひとが描けば、より名著になったのになあ、と思った。プレゼンテーションのスライドによくでてくるような、顔のマークとか、線と丸で書いたひとのかたちとかは、なんか安っぽく見えてしまう。

『侏儒の言葉』(芥川龍之介)
ひさしぶりに手に取ったら、子規の「真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」が引用されていることに気がついた。すこし前に野暮なことを考えた歌である。わたしがこの歌に最初に触れたのも『侏儒の言葉』だったということになるのだが、覚えていなかった。そもそも、同書中には、「詩人」とあるだけで、子規の名がでてこない。芥川さん、ひどい。

「天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いていることは出来ない。」という文章もでてくる。ヘラクレス星群というのはなんぞ。たぶん、ヘルクレス座にある球状星団M13かM92のことだろう。ともに、天の川銀河系内の恒星の集団である。距離は、最新の値で、それぞれ、2.51万光年、2.67万光年(理科年表2017)で、上の記述とオーダーも合っている。

上の文章は、「...永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。」と続くが、これが、どこから得た知識なのかは謎である。現在の知識では、M13、M92などの球状星団は、100億年以上の年齢があって、銀河形成の初期からあるものとされる。銀河の円盤部より古い。そもそも、銀河系内の星団が別の銀河になるようなシナリオはまずないだろうし、現代から見ると、いろいろと変な話なのだが、芥川が「星群」と星雲を使い分けているのは興味深い。芥川の頭の中に、「島宇宙」というイメージがあり、その意味で星雲という言葉を使った可能性があるからだ。

『侏儒の言葉』が書かれたのは1923年から、彼が物故する1927年までだ。ちょうどこのころ、天文学史的に、ちょっととしたコペルニクス的転回があった。アンドロメダなどの「渦巻き星雲」は、はたして、銀河系内にあるのか、銀河系と同列の「島宇宙」であるのかという論争の決着である。島宇宙説自体は、哲学者カントの主張など、より以前からあったわけだが、科学的にひとまず決着がついて「宇宙が広くなった」のは、1923年のハッブルの観測と翌年の論文によってである。

まあ、細部の知識を更新したところで、芥川の感慨は変わらなかっただろう。芥川の話は、よくある「宇宙の広大さに比べればひとの一生はちっぽけ」というものではなく、ひとの一生も星の一生も似たようなもので、流転の中にある、という話である。しかし、流転するので退屈しないというのではなく、「星も我我のように流転を閲すると云うことは -- 兎に角退屈でないことはあるまい。」と結ばれるのだ。最後の二重否定は、ややわかりにくいが、似たようなことの繰り返しで退屈である、ということであろう。そもそもここの話は、「太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。」で始まっている。

どんなに広く、永い時間を経ている宇宙も、代わり映えしないよね、という、ニーチェの永劫回帰みたいな話である。前掲の『数学的な宇宙』の並行宇宙も、言ってみれば、「あり得ることはどこかであり得る」ということで、永劫回帰の考えかたに通じなくもない。しかし、それが実感としてぴんと来るかというと、そうでもない。前掲の『山椒魚が飛んだ日』ではないが、ひとは、やりなおしできない一回性にこころを震わせて生きる感覚を持っている。錯覚かもしれないけれど。

『三四郎』(夏目漱石)
有名なせりふ「滅びるね」をたしかめたくなって、読み始めて、最初から最後までしっかり読んでしまった。その日、仕事の予定が変わったので休みをとり、ぽっかりと時間が空いたのだが、手元に読みかけの本がなかったので手に取ったのである。妻から「あなたは、仕事と折り紙と本を読む以外のことはしないのよねえ」と呆れるように言われるままの行動である。主観的には、そうでもないのだけれど、やっぱり、そんなものかもしれない。

読んだはずなのに、細部はまったく覚えていなかった。寺田寅彦をモデル(の一部)にした野々宮博士の光の圧力の話のくだりの成り立ちは、中谷宇吉郎『「光線の圧力」の話』に詳しいが、『漱石が見た物理学』(小山慶太)という本にも解説があったはずと思って探してみると、以下のように書いてあった。以下、『三四郎』を引用している部分のさらなる引用である。

光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力の方は半径の三乗に比例するんだから、物が小さくなればなるほど引力の力が負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片(パーチクル)から出来ているとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされる訳だ。

 こうして野々宮くんの長い演説は終わる(なお、蛇足ながら、彗星が尾を引くのは、光の圧力のためではなく、正しくは、太陽から放出される粒子の流れ[太陽風]を受けるからである)。

『漱石が見た物理学』はよい本だと思うのだけれど、あらためて読むと、カッコ内の小山さんの説明はすこしおかしい。

彗星の尾には、荷電粒子、ダスト(塵)、そして、中性ナトリウムの3種があって、一番目は太陽風のつくる磁場、あとのふたつは、主に光圧(放射圧)で尾を形成する、と、ものの本(『現代の天文学9 太陽系と惑星』など)に書いてある。野々宮博士は「小片」と言っているので、ダストを想定している。当時は、彗星の尾に種類があることも知られていなかっただろうし、観測しやすいのはダストテイルのようである。そのダストに働く力は、主に重力と光圧である。重力の係数である質量は、ダストの大きさ(長さ)の三乗に比例し、光圧の係数である面積は、大きさの二乗に比例するので、微細な塵は光圧の影響が大きくなる、というのが、野々宮博士の話す仮説の要点だ。きわめて理にかなっているし、ダストテイルの説明として、この話は正しい。明治の小説の、直接ストーリーとは関係のないところに、なんでこんな正しいことが書いてあるんだぐらいの正しさである。寅彦、漱石すごいな。

と、まあ、彗星についてちょっと詳しいのは、宇宙電波観測所で働いているという門前の小僧的なものだけれど、最近、まったく別のことで、彗星と流星について知識を確認しておきたい、ということがあったためでもある。

『三四郎』は、青春小説ということもあってなのか、読んでいて、森見登美彦さんの小説の直接の先祖みたいにも感じた。森見さんの文章が擬明治文的だからでもあるのだろう。

●『ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー』(ギャレス・エドワーズ監督)
ドンパチは食傷なんだけれど、と思いながら、シリーズずっと観てきたからなあ、ということで劇場に行って、たのしく観た。帝国軍のシャトルが折鶴にちょっと似ていた。これまでに出てきたシャトルと違って、真ん中の垂直翼の幅が細いところと、ボディーがステルス機風にカクカクしているところが、より折鶴らしい。案外ネット上に画像がないので描いてみた。こんな感じである。
帝国軍シャトル

しばらく読んでいなかった京極さんの小説をたて続けに読んだ。『書楼弔堂』シリーズのつくりは、山田風太郎さんの得意技の「じつはあのひとが!」である。そうした話には、王道の面白さがあって、「そうきたのね」と読者の衒気も刺激するのであった。
ちなみに、「衒気」というのは、「自分の学問や才能をひけらかしたがる気持ち」(大辞林)である。二十歳前後、「衒気溌剌!」という標語(?)を思いついて、日記に大書した記憶がある。アホだ。

『虚実妖怪百物語』は、実在人物に名前も知らないひとも多いのだけれど、たぶん、京極さんの描写のままなんだろうなあと、笑ってしまうのであった。レオ☆若葉くんの、コメディリリーフならぬ「馬鹿リリーフ」も癖になる。お話も、フレドリック・ブラウンの『発狂した宇宙』の妖怪版で、滅法たのしい。時事性というか批評性もあって、水木しげる的なものが隅々まで沁みこんでいる。

作中で榎木津平太郎が水木先生に会ったときの緊張の描写が、10数年前のわたしと同じ感じだったのも、いたく共感した。以下、日本折紙学会の機関紙『折紙探偵団 87号』(2004年)に書いた報告である。

 ニセ豆腐小僧、水木賞選考に立ち合う(前川淳)
 八月三日、妖怪折紙コンテスト水木賞選考のため、西川代表のお供をして水木プロを訪問してきました。当日のわたしは、一次専攻を通過した妖怪折紙作品八点のはいった行李箱を掲げ持ち、両手がふさがって扉も開けられない格好で、その様はさながら豆腐小僧のようでありました。豆腐小僧というのは、豆腐を乗せたお盆を持っているいるだけでなにをするでもないという、なんとも間が抜けた妖怪であります。水木しげる先生を尊敬するニセ豆腐小僧は緊張しておりました。じっさい、水木先生は妖怪然としており、コンテストの選考は即決でありました。作品とぐっとにらむや、順に作品を指し示し、「これとこれとこれだね」とひとこと。「どのあたりがよいでしょうか」と訊ねても、穏やかに「これとこれとこれがいいね」という返答でした。たぶん妖怪アンテナによる選考だったのでありましょう。
(大賞は山田勝久さんの「河童」)

上記の企画展のギャラリートークに行って(学芸員さんの名前メモし忘れた)、いろいろと面白い話を聞いた。たとえば、以下である。

祭祀遺跡として知られる金生遺跡のその名は、ほかの遺跡と同じように集落名からついたものだが、地名そのものが「金精さま」からきていると考えられる。つまり、遺物(石棒=石の陽物)が多く見つかるところだったことから、土地の名がついたと推測できる。開墾した土地の中から、そうした遺物が見つかるのは神秘に感じただろうし、それらを道祖神などに祀ったのだろう。面白いのは、いったん、ひとの居住が途切れている土地ということだ。つまり、信仰自体が受け継がれたのではなく、呪物の再利用があったというのが、この土地の歴史である。

月の話と北斗七星の話2017/01/05 23:15

○月の話
大晦日の三日月
大晦日の東京郊外の夕暮れ、三日月と富士山の写真である。写真にすると、肉眼では気がつきにくい地球照がよくわかるのが面白い。地球照というのは、地球の反射光による、月の暗い部分への照射である。この日は、太陰太陽暦12月3日(正午の月齢が1.8。月齢+1が日付になる)だったので、正しく三日月だ。実際はもっと細いが、写真ではやや太く見える。

「三日月!」という月が、じつは5日ぐらいというのはよくある話だ。『月のうた』を書いた小説家の穂高明さんも、「三日月は(一般に思っているより)とても細い」と書いたのだが、意見があって削ったとのことだった。たしかに、3日前後の細い月を総じて三日月ということはある。なお、三日月は細いだけでなく、見つけてから沈むまでの時間が短いというはかなさもある。

1月2日の月と金星
翌々日の1月2日、この日は「五日月」と並ぶ金星がきれいだった。さらにその次の日の1月3日は、「六日月」と火星が並んでいた。1月1日にテロがあったトルコでも、翌日2日の日没時には、金星と月が、この写真よりも離れているが、並んでいたことになる。宵空に天の「新月旗」を見て平和を願ったひとたちもいたのだろう、などと考えた。

月は、天球上を約1ヶ月で1周する。月の公転に地球の公転も加わるので、その周期(恒星月)は、満ち欠けの周期(朔望月、29日余)より短く、約27.3日である。つまり、月は、天球上で1日に360°/27.3=約13°動く。中国の天文学で赤道帯を28に分ける二十八宿も、月のこの動きに基づくとされている。27ではないのは、東西南北の四方位に合わせるために4の倍数としたためだろうか。この約13°/日という動きはけっこう大きい。上にも書いたように、1月2日に金星と並んでいた月は、3日には大きく離れ、火星の近くにあった。月はせわしないのである。

天球上での月の通り道は白道と称し、地球と月の公転面に角度があることから、1年で太陽が1周する黄道と、約5°の角度がある。黄道と白道はともに天球上の大円で、そのふたつある交点付近に太陽が来たときが、月と太陽がほぼ重なって、日食や月食の機会となる。ただし、このとき、太陽と地球の間に月がはいるポジション、つまり、新月とうまく重ならなければ、日食にはならない。

しかし、交点でぴたり新月とならなくても、月と太陽の視直径が大きい(0.5°)ことと、月と地球が近いことで視差(地心座標と測心座標のずれ)が最大約1°(atan(地球の半径/月までの距離))になることから、それらを足した1.5°以内にあれば、地球上のどこかから見て、月と太陽は、重なったり、かすめたりすることになる。つまり、交点から両側で、1.5°/tan5°≒17°以内であれば、日食はおきる。日食限界といわれる値である。太陽がその範囲にあるのは、365*17*2/360で、約34日である。これは約1ヶ月なので、この間、月は必ず一度は新月になる。要するに、年に2回、日食はおきる。案外頻繁なのである。この30日余の間に、新月が2回のこともある。さらに、白道と黄道の交点は、太陽による摂動で移動する(約19年で一周:サロス周期)ので、食に関する1年は365日ではなく約347日である。よって、日食が、年に3回以上となることも稀ではない。たとえば2029年には、部分食が4回ある。問題は、どこから見えるかということだ。

今年は、2月26日に金環食、8月21日に皆既食がある。残念ながら、いずれも日本からは見えないが、8月の皆既食は、北米で広範囲に見える。

とまあ、年末年始に月を気にしていたのは、いつも見ているといえばそうなのだが、野辺山の45m望遠鏡に積んだ筑波大学の新しい受信機が、月や金星を試験観測用の天体としていたためでもある。今回、新装置の制御ソフトウェアの一部をつくったのと、前からある機能ではあるが、めったにつかわない月の追尾なので、東京で月を見ながら、トラブルがないとよいなあ、とメールをチェックし、ログ(観測記録)を見ていたのだ。この試験は、ひとまず成功して「ファーストライト」を得たので、めでたしであった。

観測所の計算機運用といえば、元日には、うるう秒もあった。わたしは休みだったが、なにもなければ休みなのに出勤したひともいた。日本は朝9時だからまだよいが、1月1日にうるう秒いれるのをやめてほしいと思ったエンジニアはとても多かったはずである。天体現象に基づく(地球の自転による協定世界時と国際原子時のずれの補正)のだが、いついれるかは恣意的なので、1月1日はやめてほしい。

☆北斗七星の話
天文と氣象
卍:北斗七星説

植村卍さんによる「妙見信仰と卍の関わり」説と似た話が、1950年の『天文と氣象』のグラビアにあることを見つけた。編集部による記事のようで、説のでどころのみならず、執筆者も不明である。同号には、著名な気象学者・藤原咲平氏による「渦巻」と題された解説記事も載っているが、そこに、この北斗七星の話がでてくるわけではない。なお、この『天文と氣象』は、昨年、神保町の古本のワゴンでたまたま手にとったものである。

アニメーション『算法少女』2016/12/25 01:42

『算法少女』
渋谷でプレミア上映中の『算法少女』(遠藤寛子原作、外村史郎監督)を観てきた。

18世紀の同名の和算書をもとにした遠藤寛子さんの原作は、ちくま文庫になっているが、我が家には、古い岩崎書店版もあって、映画公開を『数学セミナー』の編集者さんから聞いて、あの作品の映像化なら行かなくてはと、和算好きとして観にいった。すると、キーヴィジュアルに折鶴が使われていて、折り紙者としてびっくりすることになったのであった。(パンフレットの写真参照)

映画には登場しないが、原作に登場する鈴木彦助(のちの会田安明)の弟子の渡辺一が、折鶴を数学の問題として扱った最初のひとと考えられ、その問題が円周率(円積率)の問題に関係している可能性も高いなど、和算と折鶴は無縁ではないのだが、映画の折鶴は、どうやら、監督の外村さんの直感的な演出によるものらしい。

なお、このプレミア上映は、メールか電話で事前に申し込むかたちになっていたのだが、メールで申し込んだところ、プロデューサの三村渉氏から、同姓同名のアニメーション脚本家の前川淳(あつし)氏と勘違いされた返事があり、「いやいや違います」という話になったのであった。

『折る幾何学』型紙選集2016/12/04 20:30

『折る幾何学』の変則型紙モデルのうち5点が、「型紙選集」として、販売されています。(価格:税込1080円)(こちらを参照

最適の素材と精度の高い加工技術によるもので、独立したパズルとして楽しめて、できあがったものは、オシャレな(!)オブジェとなります。

これはとてもよい。(作者なので、当然ひいき目はある)

高野文子さんの色紙と『もののかたち』2016/10/27 21:09

『折る幾何学』の表紙や扉の絵を描いていただいた高野文子さんによる色紙である。透明樹脂でつくった「ねじれ立方体」(『折る幾何学』収録)の中に悪魔を封じ込めたものを贈ったお返しだ。海老で鯛を釣った。
高野文子さんの色紙

悪魔inねじれ立方体

ほんとうにうまいなあという絵で、たとえば、「折り紙人形」の空洞部分の輪郭にも躍動感がある。「表紙の少年の顔は前川さんにちょっとだけ似せました」というのが高野さんの言だったが、この色紙の人物は、「お腹がちょっとでているところがあなたに似ている」というのが妻の感想である。

擬人化された正八面体が描かれているのは、『折る幾何学』内の、「正八面体が好きだ」「正八面体は健気だ」という、誰に通じるのかわからない話(一応、理論化してあるけれど)に基づいている。

この八面体くん、書中の扉絵にも登場しているが、正八面体好きとしてうれしい以上に、一種のなつかしさを感じて、なんだったかなあ、とひっかかっていた。それに関して、昨日、あっ!と、思い出した。

レイ・ブラッドベリの『もののかたち』(The Shape of Things 1948)という小説の印象と重なっていたのだ。

『もののかたち』は、分娩機なる機械の不具合により「次元」の混乱がおき、我々の世界では青いピラミッドとして生まれた赤ちゃんと夫婦を描いた話である。『クレージー・ユーモア 海外SF傑作選』(福島正実編  1976)というアンソロジーに収録されていて(斎藤伯好訳)、高校生のころに読んだ。

あらためて読むと、「クレージー・ユーモア」というよりは、もっと批評性のある小説だった。『明日の子供』(Tomorrow's Child)という別タイトルもあるようで、昨年出た『歌おう、感電するほどの喜びを![新版]』にも収録されていた。

正八面体は、単視点ではピラミッド(四角錐)としてしか認識できない。そして、『もののかたち』のなかで、青いピラミッドの子供は「ピイ」と呼ばれている。ということで、最近できた6枚組みの正八面体モデルも、通称ピイちゃんとなった。
ピイちゃん

排キューブ、そして、有心六角数2016/10/23 11:11

「排キューブ」(バレーボールのような立方体)の、すっきりしたバリエーションができた。
排キューブ
最近のバレーボールは革のかたちが異なるものもあるが、最も一般的なものは、3枚の長方形によって正方形をつくり、それを6個組み合わせた立方体、さらにそれを球に投影したかたちである。

その立方体を、規格用紙(実質的には、5:7の長方形)6枚を使って組んでみたものが、上の写真だ。見た目、かなり地味なモデルだが、全部組むまでの不安定さに面白さがある。
 
このモデルは、内部が9個の空間に分かれている。1辺を3とした場合、体積1の小空間8個と、それらを除いた体積19の空間である。

「19かあ」ということで、すこし考えた。19という数は、囲碁盤の線(路)の数であり、素数でもある。
 
3^3に分割された立方体と19ということでは、同時に見ることができる分割された立方体の最大数も19個だ。これを一般化をして、n^3に分割した立方体で、一度に見ることができる立方体の数を考える。これは、連続する立方数の差 n^3-(n-1)^3、すなわち、3n(n-1)+1となる。この数は、n=15までで、以下が素数となり、このあとも素数が多い。

(1), 7, 19, 37, 61, 127,  217, 271, 331, 397,  547, 631

ここまでで合成数となるのは、以下の3つである。
91(=7*13), 169(=13*13),  469(=7*67)

でてくる約数が7か13であるのが、ちょっと面白いが、この数は、2や3、そして、5や11の倍数にならないので、合成数である場合、小さい約数は、7や13になる。式のかたちから、2や3の倍数にならないのはすぐわかり、5や11の倍数にならないことは、剰余演算(mod)のありがたさがわかる練習問題である。(剰余演算に関しては、I氏から示唆)

この数列を眺めているうち、この数が、円をならべて六角形にするときの円の個数(有心六角数)に等しいということにも気づいた。これは、以下のように、直感的にも理解しやすい。

3面が見える方向から立方体を見た場合、六角形となる。そして、立方体を分割したとき、その小立方体の配置は、円をならべて六角形にしたものと同じになる。
有心六角数19

偶然の面白さでは、(いくつか前の記事・「十三・七つの意味」にも、関連する話が出てきたけれど)これらの数が、7曜日、メトン周期(月齢と、太陽年での通算日がほぼ一致するようになる周期)の19年、(37は飛んで、)連続する2ヶ月が必ずはいる数の61、1クール(1/4年=91日=7日×13週)と、暦と相性のよい数になっているということがある。19と暦と言えば、囲碁盤も一説には、19^2=361が一年を象徴するとも言われる。以前、有心六角数をカレンダーのデザインに利用できないだろうかということを考えたこともあった。