ぎゅぎゅう詰めなど2020/02/05 21:32

◆紙の鑑定
紙の鑑定についての話が出てくるミステリを読んだ。

まずは、ずばり『紙鑑定士の事件ファイル 模型の家の殺人』(歌田年)。主人公が紙鑑定士という、きわめて珍しい肩書きで、プロのモデラー(模型製作者)も出てくる。特殊紙という言葉が出てきたりして、紙に興味があるものとして高揚した。「特殊」といえば、紙業界には、特殊ならぬ特種という文字遣いもある。特種東海製紙の社名によるものだ。レザック66は、特種東海製紙製なので特種紙と呼んでもよいが、OKゴールデンリバーは王子エフテックス製なので特種紙とは呼んではいけない、なんて。そんな話は聞いたこともないし、じっさい、それらの紙を、ファンシーペーパーではなく、特種紙と呼ぶことがあるのかは知らない。ちなみにOKは、王子製紙春日井工場の略だというが、昔は、ゴールデンリバーにOKはついていなかった。皮革ふうのエンボスのあるなかで一番薄いので、折り紙に向いた紙である。

そして、アメリカと日本を舞台にする、アクションたっぷりの私立探偵もの『ジャパン・タウン』(バリー・ランセット著、白石朗訳)。こちらには、和紙にも大量生産と手漉きがあって、手漉きなら産地の鑑定ができるのだが、という話がでてきた。日本在住が長い著者で、日本の描きかたに、ジャンジラ市(『ゴジラ』、何語起源だ?)やイノウエ・サトウ(『ロスト・シンボル』、どっちも苗字かい!)のような杜撰さはなく、作者の知識は厚い。しかし、最高級の和紙の簀桁(すけた)を「目の細かな金網を張った木枠」としているのは、校閲が指摘して修正してほしかった。紙漉きに関心がなければ知らないことだろうが、本格的な簀桁は、金網ではなく、きわめて細い竹ひごや萱ひごを絹糸で編んだもので、それ自体が工芸品である。

◆『千羽びらき』
『千羽びらき』(酉島伝法)
図書館で『すばる』のバックナンバー(2017.9)を借りて、酉島伝法さんの『千羽びらき』を読んだ。スピリチュアルな代替医療が日常となっている世界の話で、黒い千羽鶴を反転して白い折鶴に折りなおし、折ったひとにお礼を述べると、大病も癒えるという習俗がでてくる。千羽鶴が善意に満ちたディストピアの象徴として使われることは面白いし、代替医療を声高に糾弾するのではなく、そういう世界として描くことで、ぞわぞわした感じが表現される。しかし、現実世界における「千羽鶴の置き場所に困る」問題のほとんどはデマなんだよなあ、ということは、折鶴の味方、折鶴の追っかけ(!)としては、どこかでまとめておきたい気もする。

◆ジャケ買い
『金四郎の妻ですが2』(神楽坂淳)
表紙に折鶴が描かれていると手が伸びる。『金四郎の妻ですが2』(神楽坂淳)もその伝で、一作目の『金四郎の妻ですが』と合わせて読んだ。遠山金四郎の伝記的事実をうまくつかっていて、期待以上に面白かった。本文中にも折鶴、そして「千代紙で折った狐」がでてくる。江戸後期の狐の折り紙ってどんなものだろう(フィクションなんだけれどね)。

◆誤植
千代紙といえば、先日、調布PARCOの古本市で、『日本の紙芸』(1969)という本を購入した。江戸千代紙の老舗・伊勢辰の主人である広瀬辰五郎さん(三代目)の著作である。内容と関係なく面白いと思ったのは、目次の「折紙」のページ番号だ。「三」の字の天地が逆になっているのだ。活字の植字だったがゆえのミスである。活字には向きを示す溝(ネッキ)もあるのだけれど、対称性が高く見える文字は、間違いをする可能性が高いのかもしれない。
『日本の紙芸』(広瀬辰五郎)

◆空集合
先日、『ハマスホイとデンマーク絵画展』(東京都美術館)を観てきた。表記が、ハンマースホイでもハンマスホイでもなく、ハマスホイで、あれっと思った。アルファベット表記では、Hammershφiである。oに斜め線がはいったこの文字、ギリシア文字のφ(ファイ)で代用したが、正しくは、ノルウェーやデンマークで使われるアルファベットの一文字である。空集合の記号になっている文字だ。空集合の記号を決めたのは、フランスのアンドレ・ヴェイユで、彼はなぜか、その文字をノルウェー語の文字からとった。ノルウェイの天才数学者・アーベルへの敬意だろうか。そう、空集合の記号はファイと呼ばれることが多いが、そのでどころは、北欧の文字で、ファイではないのだ。
ハマスホイ
ハマスホイの名前が空集合の記号を含むのは象徴的だ。誰もいない部屋の絵は、まさに空集合である。仕事机の横に絵葉書を貼った。

◆クランチ
最近、ダークエネルギー(宇宙の膨張を加速している斥力)はないかもしれないという説がニュースになった。であれば、ビッグ・バンの逆のビッグ・クランチはやはりあるのだろうか。…というような、宇宙が縮小するかという話とはべつに、野辺山観測所は縮小中なのであった。立松所長のこの記事が、かなりつっこんで書いている。

◆レンズ雲と暖冬
今日の野辺山はとても風が強く、30m/s近くにもなっていた。立春過ぎの南風なので春一番になるのか。一昨日も風が強く、川上村の上空あたり(?)にきれいなレンズ雲ができていた。レンズ雲の発生には地形の影響が大きいが、これは、北相木と南相木にまたがる御座山(おぐらさん)と川上の盆地地形によるものだろうか。強風は観測条件としては最悪だが、今日はそもそも観測のない「ホワイト・スロット」であった。
レンズ雲

南風ということもあり、野辺山は今日も零度を上回った。この冬、真冬日(全日零下の日)は、たぶん、12/5、12/27、1/4、1/18、1/21、1/31の6日だけである。まだ寒い日はあるだろうが、例年だと40日はあるのできわめてすくない。

レンズ雲では、昨年の12月1日、中央道の初狩PAから富士山上空に見えたそれもみごとだった。
富士山とレンズ雲

◆ぎゅぎゅう詰め
次の『折紙探偵団』に載るユニット折り紙のタイトルを、「犇犇薗部」(ひしひしそのべ)という奇妙なものにした。ぎっしり詰まった薗部ユニット風のモデルという意味である。犇めくという字が牛×3であることから、ぎゅぎゅう詰めという言葉が生まれた、というのは嘘だけれど、汗牛充棟という四字熟語もあって、なんで牛はいつも詰め込まれるのだろうか。草原でのびのびさせてあげればよいのに。西欧ではこういうとき、オイル・サーディンのイメージで、パックド・ライク・サーディンズなどと、鰯を使うみたいだ。そういえば、本邦にはすし詰めという言葉もある。

こよりアート など2019/12/18 20:13

◆こよりアート
先日来の「こよりの犬」に関する調査(?)は、犬の造形に関することはともかく、こよりに関する話がいくつか集まって、まだまだ続いている。共時性めいていたのは、妻が買ってきた『ビッグイシュー』(12/1:372号)に、「表現する人:紙のこよりで、自然のエネルギーのうねりを追う HITOTSUYAMA STUDIO」という、こよりをつかった現代アートの記事が載っていたことだ。かなりリアルな造形である。『ビッグイシュー』はまれにしか求めないので、思いがけないめぐりあいであった。
HITOTSUYAMA STUDIO@『ビッグイシュー』

こよりの調査から派生して、折鶴に関しても興味深い話があったのだが、それはまた別の話。

◆ゲノム・エンジン・オリガミ
テッド・チャン氏の第二短編集『息吹』(大森望訳)の一編『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』に、ゲノム・エンジンというシステムソフトウェアがでてくる。プラットフォームの違いでいくつか種類あって、その中にオリガミというものがあった。

「向きづけされた遺伝的アルゴリズムを用いたマイクロカーネル(Oriented GA (Genetic Algorithm)-applied  Microkernel)」の略でOriGAMiという設定はどうだろう、などと考えた。考えすぎとは思うが、テッド・チャンさんならそんなことまで設定しているかもしれない。もうひとつのシステム名・ファベルジェは、ロシアの有名な金細工師の名前らしく、これもセンスがよい。

◆紙と紙飛行機
市川優人さんの第26回鮎川哲也賞作『ジェリーフィッシュは凍らない』に、紙飛行機と紙の話がでてきた。

航空工学とは乱暴に言ってしまえば、『航空機』を開発する学問です。『航空機に使われる素材』を開発する学問ではありません。紙飛行機で喩えれば、より遠くまで飛ぶ紙飛行機の形や折り方、飛ばし方を考えるのが航空工学であって、紙そのものを作るのは彼らの本来の仕事ではないのですよ

この記述は、「紙飛行機」が「折り紙飛行機」を指す場合が多いことの例にもなっている。これは、折り紙の文献調査をするときの注意点である。「紙飛行機」が、紙などを使った模型飛行機で「折り紙飛行機」でない場合もあるからだ。

◆クリスマスツリーのエンブレム
クリスマスツリーのエンブレム
先日、講習会用のシンプルなクリスマスツリーを考えたとき、別の造形のアイデアも漠然と頭の中にあった。それをじっさいのかたちにしてみた。ツリーのシルエットをインサイドアウト技法でエンブレム風にしたものだ。わるくない。

◆ふたつの正八面体
ふたつの正八面体
ふたつの正八面体を、共通する軸にそって90度回転させた状態で貫入させた立体はどうなるか。どこまで貫入させるかは、とりあえず面の中点までとする。明快で、造形としての面白さもあるので、これを折り紙でつくってみようとした。直感的に、すっきりした構造になるように思えたのである。しかし、そうでもなく、面上の「穴」の、直角に見える部分も、120 - atan(√3(√2-1))=84.34...°という値なのであった。とりあえず2枚組でつくってみたが、あまりエレガントな構造にはならなかった。

◆哀悼
若いひとが亡くなるのはつらく、歳を重ねていても大事なひとが亡くなるのは苦しいだろう、という思いで、花代を送り、弔電を打つことが続いた、年の暮になった。

◆「暮」という文字
最近の『数学セミナー』は、劉慈欣さんの『三体』が売れているのに便乗(!)して、最新号で三体問題を特集するなど、なんだか攻めている。一年前の投稿コーナー『数学短歌の時間』も、思えば不思議な企画だった。選歌されなかったが、ブログに載せたところ、気にいってくれたひとがいた歌があった。

Q.E.D.示す墓石の記号には打ち捨てられた思索も眠る■

数学の論文で、Q.E.D.(証明終了)が「■」で示される場合があり、これは「墓石」記号とも呼ばれる。最後の■は、文字化けに見えそうだし、きわめてニッチな歌だ。気にいってくれたひとも数学関係者であった。

そのひとが、すこし前、わたしのブログに書いてあったこの歌の「ぼせき」の「ぼ」が「暮」になっています、と教えてくれた。ハカでなくてクレなのである。えっと思って確認すると、たしかにそうなっていたので修正した。いつも使っているMacBookで「ぼせき」と打つと、「墓石」より前にこの字が出た。初期設定に近い別のMacでもそうなったので、学習によるものではなさそうだ。いくつか辞書を調べたが、こんな言葉は見つからなかった。Apple Japan、日本語の辞書がテキトーだぞ。

関連して辞書をめくっていて、「暮歯」が老年を示すことを知った。使う機会はあまりなさそうな言葉ではあるが、鯨や象の歯にできるという年輪の話が思い浮んだ。

暮と墓の共通部分は「莫」である。否定と果てのなさを意味する字だ。命を失って土になるのが墓、日がないのが暮、水が少なかったり無かったりするのが沙漠である。獏はじつは獣ではなく、募るのは力がないからだろうか、などと考えた。じっさいのところは、莫はたんに音符のようで、模型は木のこともあり、幕は布である。

紙縒の犬のつづきの話など2019/11/23 20:04

◆紙縒(こより)の犬 - つづき
紙縒の犬
一つ前の記事に書いた、幸徳秋水も手癖でつくっていたという紙縒の犬についての話のつづきである。

「どういうものなのか不明」と書いたが、ネットで検索すると、伝承と思われる紙縒の犬の写真がいくつか見えた。詳しいことはやはり不明なのだが、それを参考に、わたしもつくって見た。鼻先から対称にねじってゆくだけなので、難しいものではない。『武玉川』の句にあわせて、痩せ犬の風情を強くしてみた。

物思ひ紙縒の犬も痩せがたち

パフォーマンスのバルーンの犬にも似ている。幸徳秋水先生にならって、帰ってほしい客のときはこれをつくるとよいのかもしれない。

◆酉の市
かんざし守
先日の酉の日、大國魂神社の摂社の大鷲神社の酉の市に行って、小さい熊手を買ってきた。熊手と呼ぶには小さすぎるのためか、「かんざし守」という名であった。祭神は、浅草の鷲神社と違って、紙の神様でもある天日鷲神ではなく、ヤマトタケルの別名らしい大鷲大神(オオトリノオオカミ)である。

重陽の節句の「のちの雛」のことを調べようと『守貞謾稿』を手に取ったさい、同書をぱらぱらめくっていると、酉の市のことが書いてあるのも見つけた。

この記述が、「十一月酉の日 江戸にて今日を酉の町(ママ)と号し、鷲神社に群詣す。この社、平日詣人なく、ただ今日のみ群詣して富貴開運を祷ること、大坂の十日戎と同日の論。また群詣も比すべくして、しかも十日戎の盛に及ばず。」と、やや感じが悪い。「この日、江戸四民男女専ら参詣す。けだし熊手を買ふ者は、遊女屋、茶屋、料理屋、船宿、芝居に係る業躰の者等のみこれを買ふ。一年中天井下に架して、その大なるを好とす。正業の家にこれを置く事を稀とす。」ともあって、なんだかトゲがある。「かつては、水商売の縁起物だったんだね」と言うと、妻が「いいの。うちの父は水道局職員で、水商売だったんだから」と返した。(引用は、岩波文庫『近世風俗志四』より。ただし文字遣いをすこし変えた)

酉の市といえば、現代の酉の市の決定方法が、新旧折衷の苦肉のものであるのも面白い。かつての酉の市の期日は、言うまでもなく、太陰太陽暦の霜月(十一月)の酉の日であった。しかし、現代の酉の市は、グレゴリオ暦の11月を用いる。それでいて、酉の日は、十干十二支が巡る「干支紀日法」で決める他はない。この折衷方式は、太陰太陽暦の霜月とすると、酉の日が年明けになる場合がときどきあって、年の瀬の行事としてまずいためだろう。たとえば、来年の太陰太陽暦の霜月二十六日が酉の日だが、これは2021年1月9日である。太陰太陽暦では、来年は閏四月があって一年が長く、かつ十一月に三の酉があるためだ。

古川柳を読む話の続きなど2019/11/21 22:48

あれこれ懸案をかかえながら、帰宅後はブッキッシュな(書物の上のことだけで、実際的でなく、学者ぶった)世界に逃避している毎日なのであった。

◆折り紙教室@府中
ねずみ
日時:11/24(日)13:00-15:00
作品:ねずみ
講師:前川淳
子供や初心者でも。

◆浅野真一展 −机上の天体−
浅野真一展
日時:11/22(金)-12/8(日)11:00〜19:00(日曜17:00まで、火水曜日休廊)
場所:Nii Fine arts@大阪

折り紙作品をモデルにした絵もある、写実の油彩画家・浅野真一さんの個展の案内が来ていた。折り紙の次に、天文趣味をモチーフにするなんて、次々にわたしの琴線をかき鳴らす絵を呈してくるのであった。好きな画家のひとりにハンマースホイを挙げていた浅野さん。来年は都美でハンマースホイ展があるので、これも観に行きたい。

劇団SPAC
舞台美術に折り紙を使った、劇団SPACの『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』が上演される。舞台の折り紙に、わたしの作品を元につくった「木」と「鹿」が使われている。

◆牛
牛
先日の名古屋コンベンションの空き時間に、ふと、再来年は丑年かあと、講習会用の中級難度の牛の創作をはじめて、けっこうよいものができた。既作に似るが技法が異なっている。

◆七回の回転対称
江戸切子
実家からもらってきた江戸切子のぐいのみが七回の回転対称だった。江戸切子のグラスには、近年のデザインで折鶴をモチーフにしたものもあるのだが、これはなかなかお高いのであった。

◆シュレッダー
シュレッダー
いつでも使えるシュレッダーである。(時事ネタ)

◆古川柳を読む話の続き
先日から読みすすめていた江戸の川柳選集『排風柳多留』から、さらにいくつかの句を紹介しよう。われながら、ご隠居のうんちく話みたいに話が長い。まずは、芭蕉をネタにしたものから。

はせを翁ほちやんといふと立留リ
古池のそばて(で)はせをハびくりする

「はせを」が芭蕉のことで、「ほちやん」は「ぽちゃん」。しょうもないといえばしょうもない。しかし、芭蕉没後半世紀後にすでにこのように扱われながら、三百年後の今日でもすりきれない古池の句は、いかに絶唱にしてスタンダード・ナンバーであることか、とも思う。

古川柳は、こうしたふざけた句も面白いのだが、わたしが主に関心を持っているのは、以下の三つである。
(1)天文に関係する句
(2)紙細工に関係する句
(3)数字やかたちのでてくる句

(2)に属する「紙雛」の句では、前に挙げたものの他に、以下があった。

紙ひなへ棒を通してぼろを下ケ
紙ひなのゆふれい花の宵に出来
ぐそくひつ紙ひなひとつまぎれ込

一句目、上巳の節句人形というより、写真のような、信州松本の、吊り下げる七夕人形を連想させる。
松本七夕人形

二句目、幽霊花は彼岸花のことなので、雛といっても上巳の節句を詠んだものではない。九月九日の重陽の節句に雛人形を飾る「後の雛」という習俗が江戸中期からあり(『嬉遊笑覧 巻之六下巻』による)、太陰太陽暦で秋彼岸のすこし後になるので、そのことである可能性は高い。しかし、『守貞謾稿 巻二十七』『近世風俗志 四』)によれば、重陽の節句に雛を飾るのは大坂の習俗である。『柳多留』の句は主に江戸のものなのではないか。彼岸花をめぐる民俗も、『野草雑記』(柳田國男)や『ヒガンバナの博物誌』(栗田子郎)等を確認したが、これだというものはなく、句意はいまひとつ不明だ。

三句目はわかりやすい。端午の節句飾りをしまった具足櫃に紙雛が紛れ込んでいるということで、『トイ・ストーリー』的な物語も思い浮かぶ。

紙細工関連句では、お待ちかね(?)の折鶴の句もあった。

靍の一(ト)こへ折かけてかふろたち

かふろ(かむろ)は、遊女見習いの少女のこと。鶴を折って遊んでいる彼女らに、花魁が声をかける。「鶴の一声」と「一声かけて」と「鶴折りかけて」がかかっているという句だと解釈した。ただ、遊郭の風俗を前提にした句は、割り切れない感情も浮かんで素直に鑑賞はできない。

『柳多留』にひとおり目を通したので、続いて、『俳諧武玉川』も読んだ。複数人で互いに句をつけてゆく「付合」の付句を集めたということでは『柳多留』と同様だが、単独では内容が読めない句がより多く、前句も不明なので解釈はさらに困難である。五七五ではなく七七のものも多い。当時は、付句だけを読んで前句を想像するのも読みどころだったのかもしれないが、時代の隔たりが高いハードルになっている。とはいえ、ふむふむ、うんうんというものもある。天文関連句では、まず次の句がわかりやすかった。

星の名を覚て空も伽(とぎ)に成(なる)

星の名前を覚えると、夜空がお伽話の舞台になるという句意だ。当時、西洋の星座やギリシア神話は知られていたはずもないので、七夕の話などであろうが、星空への親しみというのは、時代によらず、こういうところから始まるのだろう。逆にというか、現代でも「あるある」なのは、天文研究者が星座の伝説などにまったく無知ということで、次の句は、その感覚に通じる。

天文台て(で)なふらるゝ星

七七の付句で、以前、海部宣男さんの著書『宇宙をうたう』(1995)でも見たことがあった。海部さん曰く「天文台というあやしげなところでは、一体何をしているのだろう。さぞや星をつつきまさわしているのではないか。これは、昔も今も変わらない、市民の感覚かもしれない」 と。上掲の「星の名を…」の付句にしても、たとえば芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天河」に付けても味がでる。

興味深いのは、天文台という言葉がこの頃からあったことだ。司天台とも言ったようだが、この句は『武玉川』の一二篇(1758)に掲載されているので、その前年まで神田佐久間町(秋葉原駅の近く)にあり、宝暦暦の完成で解体された幕府天文方の佐久間天文台(1746-1757)のことを指していると考えて、まず間違いがない。

ただ、佐久間天文台は、日本天文学史上、誇れるような天文台ではない。徳川吉宗の命でつくられたときは、西洋天文学の導入という考えがあったのだが、吉宗の死もあって、その企ても中途半端なものに終わり、できた宝暦暦は、改暦後10年も経たずに、在野の天文家が予測した日食の予報を外すなど、失敗した暦となった。佐久間天文台では、「星をなぶる」ほどの、つっこんだ研究はできていなかったのである。(参考:『天文方と陰陽道』(林淳))

わたしの関心のその2である「紙細工に関係する句」では、『武玉川』にも紙雛の句があった。

紙雛の物にかまハぬ立すかた
紙雛ハ雛の中ての通り者

通り者というのは、もののわかったひとということだそうで、贅沢品の雛人形の中で、紙雛は気安いという意味であろう。立ち姿の句も同様である。変わったところでは、紙縒(こより)細工の犬を詠んだと思われる句もあった。

物思ひ小よりの犬も痩かたち

岩波文庫版の索引では「物思い紙縒の犬も痩せがたち」という文字遣いになっている。『嬉遊笑覧』にもこの句が引かれているが、句を引用するだけで、詳しい説明はなく、どういうものなのか不明だ。郷土玩具の藁馬のようなものだろうか、と頭をひねっていたのだが、意外なところ、『夫・幸徳秋水の思ひ出』(師岡千代子、1946)に、ヒントになる記述があった。

秋水には人の知らない奇妙な癖があつて、來客が不快な時や話しに退屈した時には、紙縒で犬を造つて机の上に竝べるのであつた。で、その犬の有無や數に拠つて、大體秋水の氣持ちや客の性質を知ることが出來たが、人に依つては、一度に五六匹の犬を見受けることがあつた。

土佐の幸徳家(さかのぼると幸徳井(かでい)家)は陰陽師の家系なので、この紙細工がその伝承だとするとさらに面白いが、とりあえずそんな話はない。

秋水とくれば、昨今の世相もあって、大逆事件に衝撃を受けて啄木が書いたという『時代閉塞の現状』を連想した。あらためて読んだら、以下の部分などは、今になまなましいのであった。

すべての青年の権利たる教育がその一部分- 富有なる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税の費途なども目撃している。

「…正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」(略)それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである。

今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。

『武玉川』の話をしていたのであった。折り紙関連句では、こんな句もあった。

紙屑へ折そこなつて捨小舟

折り紙創作家、愛好家は、その多くが、折りそこなった、しかしまだものになるかもしれない、通称「折りゴミ」をためた箱を持っている。というわけで、「紙屑へ折そこなう」というのは、折り紙愛好家にとって、250年の時を越えて、とても身近な感覚である。「捨小舟」は「すておぶね」と読むようで、辞典にも載っている言葉であった。「乗る人もなく捨てられたままの舟。多くは頼る者のない寂しい身の上の比喩に用いる」(『大辞林』) なんとも、寂々たる思いになる言葉で、西行の歌も連想した。

大浪に引かれ出でたる心地して助け舟なき沖に揺らるる 西行

取り残された感覚が真に迫る歌だ。などと、哀愁に浸っていないで『武玉川』に戻ると、折鶴の句もあった。

鶴折て恋しい方へ投て見(みる)

昭和歌謡曲の『折鶴』(安井かずみ作詞、浜圭介作曲、千葉紘子歌)の歌詞みたいな句である。以前あげた『柳多留』の「池のみぎわに靏を折待つて居る」にも通じる。そして、次の句。これは、折鶴の意味や来歴を考える意味でも興味深い。

折靍をふく時あたら貌替り
(注:貌(かほ)の文字は、引用元では、「貌」から偏を取った、白に「貝あし」である)

折鶴は最後に息を吹き込むもので、そこに呪術的な意味もあるという岡村昌夫さんの説を補強する。同時に、「折鶴」という言葉が18世紀半ばにつかわれていたことを示す例のひとつである。案外その実例は少ないのだ。和算の書籍にも「折鶴」という表記はあったが、それらは擬似漢文なので「鶴折リテ」などと読む可能性もある。これに比べて、上掲句は五音の上句なので、ヲリヅルハ、もしくはヲリツルハで間違いがない。

さらに、こんな句もあった。

指先を綺麗につかふ紙細工

わかりやすすぎて、むしろ拍子抜けするくらいだが、折り紙の本の巻頭の題辞にしたい気もする。連想するのは以下の現代川柳だ。

手が好きでやがてすべてが好きになる 時実新子

「(3)数字やかたちがでてくる句」では以下が面白かった。

上り藤思へは無理な紋所

家紋の「上り藤」(のぼりふじ、あがりふじ)は、藤の花を象った紋だが、房が上向きになっていて、たしかに無理やりである。「裏桔梗思へば無礼な紋所」など、いろいろできる。「裏桔梗」というのは、キキョウの花をガクの側から描いた、つまり尻を向けた紋である。変な紋を探すのは面白い。たとえば、よく知られた紋だが、真田の平時の紋「結び雁金」のねじれた鳥の翼も、冷静に見るととても変だ。結んでいないのに「結び」というのは、数学的にも納得できない。末端をつなげたとき、交点数2以下は結び目にならない。This is not a knot. (伝統的なダジャレ)である。
裏桔梗と結び雁金

ジオデシック四面体など2019/06/24 22:01

◆停電と雹
野辺山の雹(6/23)
観測所の仕事を終わって山荘に帰ると、山梨県の広域15万戸が15時半から1時間ほど停電していたということで、電子機器の時計が点滅していた。交通信号も広い範囲で消えていたそうだ。3.11をすこし思い出した。長野県の野辺山は別系統の中部電力なので、停電はなかったが、16時過ぎに激しく雹が降った。野菜や果物にかなり被害があったのではないか。雨上がりにはみごとな虹がかかっていた。
八ヶ岳山麓の虹

◆ジオデシック四面体
土曜日の、第26回折り紙の科学・数学・教育研究集会で司会をした。
前回(昨年12月)は、前夜に母が亡くなって、会の運営を西川誠司さんに頼み欠席したので、なんというか、復帰した感じになった。前日の金曜日に、父母の霊園のあれこれを手伝ったこともあって、半年たったのか、との思いもあった。

発表では、西本清里さん、堀山貴史さん、舘知宏さんの「ジオデシック四面体」(正四面体に正三角形グリッドの折り目を加えることで得られる多面体)にでてきた数字が、ラマヌジャンのタクシー数であったことに昂揚した。三乗数の和が出る構造なので、不思議はないとも言えるのだが、タクシー数であるというわたしの指摘を、堀山さんが面白がっていたので、この件は、まだ発展があるかもしれない。堀山さんは、その場でプログラムを組んで、Tax(3)=87539319も、Tax(4)=6963472309248も、「ジオデシック四面体数」(ジオデシック四面体の面の数)であることを確認していた。タクシー数のエピソードは知っていても、案外、数そのものは覚えていないひとが多いのであった。

91は、タクシー数ではないが「ジオデシック四面体数」である。この数が立方数の和(3^3+4^3)であることは、再認識した。ほんの2週間前にこのブログに、加藤文元さんの『宇宙と宇宙をつなぐ数学』の感想で、91と1729のことを書いたばかりというのは不思議な感じだ。

というわけで、土曜日は、折り紙の学術研究の集まりだったのだが、日曜日は、幼児や小児相手の折り紙の講師で、狭いようで広い折り紙の世界は面白いのであった。わたしが『オリガミの魔女と博士の四角い時間』の博士の「知り合い」だということを知った少女から「わたしをしょうかいしておいて」とも言われた。滝藤さん、子どもの好感度高いぞ。

◆三本の直方体B
三本の直方体(折り紙)
先週、上野で堀内正和さんの彫刻をひさしぶりに観たことをきっかけにつくった『三本の直方体B』の折り紙モデルを、長さも実物の比率にそろえて、マット銀紙でそれらしく折ってみたら、なかなかの金属感がでた。「堀内正和さんの彫刻に折り紙を思う」という話は、以前もエッセイに書いたことがあるが、また、まとまった話もしてみたい。

◆『方形の円』
幻想小説・『方形の円』ギョルゲ・ササルマン著、住谷春也訳)を入手、36編のうち、何編かを読んだ。「ル=グインも驚嘆! カルヴィーノ『見えない都市』に比肩する超現実的幻想小説集」という惹句で、各編に著者による図形のアイコンが印され、カバー裏や表紙に円積問題の図が描かれているとあっては、SFファン(ゆるいけれど)の図形マニアとしては、手にとらずにはいられない。ギョルゲ・ササルマンという名前もインパクトがささるまん。

原題の『Cuadratura Cercului』(ルーマニア語)は、いわゆる「円積問題」のことで、ル=グインさんの英訳も、それを示す『Squaring the Circle』であるが、『方形の円』という邦訳の題もカッコイイし、カバーのレタリングもよい。なお、円積問題というのは、解決(否定的解決)に2000年かかった「定規とコンパスで、円と同じ面積の正方形を作図せよ」という問題である。πが超越数なので、代数的には有限項ではもとめられないのだ。
『方形の円』(Cuadratura Cercului)

『方形の円』

三本の直方体2019/06/19 22:31

15日のエッシャー生誕121年記念テセレーション講演会の会場は、上野の東京都美術館のスタジオだった。同日、企画展示室で開催中のクリムト展で暴力事件があったらしいが、2階のスタジオでは、なごやかにエッシャー好きの集まりが催されていたのであった。

クリムト展は観ていない。『マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像』が展示されていれば、ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』を携帯音楽プレイヤーで聴きながら、絵の中に、マルガレーテと隻腕のピアニスト・パウルの弟であるルートヴィヒの面影を探してみたい気もする、…などとすかしたことを言ってみました。

「my sky hole 85-2」(井上武吉)と「三本の直方体B」(堀内正和)
同美術館のエントランスにある、井上武吉氏と堀内正和氏の彫刻を、ひさしぶりに見た。写真は、『my sky hole 85-2』(井上武吉)と『三本の直方体B』(堀内正和)である。ただ、15日は雨だったので、これは10年余り前に撮ったもので、『三本の直方体B』の設置場所の様子はすこし変わっていた。

『三本の直方体B』は、直交して接する3つの正四角柱を正六角形の断面で切って(図参照:円盤が切断面である)、60度、クリっと回転させただけのものだ。構造がわかると「なるほど」となる、じつに「堀内正和的」な作品だ。
三本の直方体

三本の直方体

折り紙でもつくってみた。彫刻に比べて四角柱がやや短く、上下の長さも異なるプロポーションになっているのは、わかりやすいように1:2の長方形の用紙にしたためで、長くするのは簡単である。折れ曲がった四角柱の凸凹が合わさってきれいにまとまる面白い構造になった。
三本の直方体(折り紙)

静かな日曜日2019/06/16 11:02

◆冠雪
今朝、ベランダから見た富士山が冠雪していた。
富士再冠雪

◆『趣味摺紙大全』
台湾版(繁体中国語版)の『本格折り紙』が届いた。綾辻行人さん「盛讃」とあるのが、綾辻さんの彼の地での人気の高さ、知名度を示している。
『趣味摺紙大全』

◆大きな水滴
先日、窓際の水滴が直径が2センチメートル近くになっていて、そのまるまると太っているさまに見とれてしまった。この窓枠は、それほど特別な撥水加工がされているとも思えないのだが、ぬれやすさを示す「接触角」が、不思議に大きい。
大きな水滴

◆鬼太郎ひろば
東京都調布市。京王線が地下化したあとの土地(下石原2-56)に「鬼太郎ひろば」という児童遊園ができた。鬼太郎の家、ぬりかべのボルダリング、一反木綿の滑り台(?)など、遊具の意匠が面白い。ベンチにあるぬらりひょんの像は、夜に見るとこどもが泣くんじゃないか。
鬼太郎ひろば

◆『黒白く』(鳥越眞生也)
昨日参加したエッシャー生誕121年記念テセレーション 講演会に集まったひとたちが濃かった。わたし自身は名刺持っていくのを忘れてしまったのだが、いただいた名刺がみな面白いのが、さすがエッシャー好きのひとたちであった。その昔、ひとりで敷き詰め絵を描いているとき、まったく情報がなく、ひとに見せる思いすら希薄で、想像上でエッシャーそのひとに見てもらうという思いだったが、同好の士というのは、どこかにいるものなのだなあ、と。

写真は、懇親会で、グラフィックデザイナーの鳥越眞生也さんからいただいた、回文の本で、絵も「さかさ絵」になっている。
『黒白く』

『黒白く』

親バカの心境 など2019/06/07 17:54

NHK-Eテレ。今晩も放送があるが、6月は、毎週末金曜(6/7、6/14、6/21、6/28)22:45-23:00に4回放映されるということだ。

◆親バカの心境
『エッシャー生誕121年記念 テセレーション講演会』6/15(土)13:30-16:00(東京都美術館(上野) 2F スタジオ)で、発表させてもらえることになったので、スライドをつくるため、昔描いた絵をひっくりかえしていたら、親バカの心境というか、若いころの自分の絵が面白くて、感心してしまった。
テセレーション講演会のスライドから
こういうのだけではなく、テセレーション(敷き詰め絵)もたくさん描いている。

◆42と43
『ビバ!おりがみ』(1983)の収録作品は42で、『本格折り紙』(2009)の収録作品は43だ。42は「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」(『銀河ヒッチハイクガイド』ダグラス・アダムス)であり、43はそれに+1した素数で、味わい深い数字である。

『折紙探偵団』に書いているエッセイ『折り紙四六時中』は、「数」の話題にするというしばりを自らかけてしまったので、次は、この42と43の話にしようと思った。しかし、うーんと考えて、別の話(0.1mmの話)を思いついたのでそちらにした。

『折紙探偵団』の次号では、上のエッセイのほかに、布施、川村、川崎さんと交代で連載しているユニット折り紙の図が、わたしの担当だ。今回は、ひとつ、トピカルなネタ(?)をいれてみた。M87ブラックホールシャドウ撮像記念、「相対論的ジェットキューブ」(「スーパーウィンド銀河キューブ」)である。

◆ゴジラ
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ監督)は、公開日(伊福部昭さんの誕生日)に観た。キングギドラをモンスター・ゼロと呼んだり、『地球最大の決戦』の鳥居を前景したギドラを彷彿とさせる十字架が前景のアングルがあったり、あの秘密兵器、双子の女性博士、伊福部&古関旋律など、予算潤沢なファンムービーの感があった。あそこまでやるのなら、次のようなオマージュも無理なくできたのになあ、とも。

・芹沢博士が目を負傷し眼帯をする。
・エマ・ラッセル博士が「こんなものつくるんじゃなかった」と頭を抱える。
・芹沢博士が「幸福に暮らせよ」と言う。

ゴジラに触れるシーンで「先生、直接手を触れないほうがいいです」という声も聞こえてしまった。ストーリー上、この言葉がでる必然性はないので、この幻聴は、完全に初代ゴジラ教の信徒のものである。
以上のような感想は、「またじいさまのゴジラかよ」現象ともいう。
「終わりっ!」

◆六芒星と三角形
瀬名秀明さんの『魔法を召し上がれ』に続いて、やはりマジックがモチーフの『トリック』(エマヌエル・ベルクマン著 、浅井晶子訳)を読んだ。謎を解こうとして読んでしまう癖があるので、プロットが読めてしまったが、よい小説だった。黄色い六芒星(とピンクの三角形)という重いテーマを扱っているのだが、ほのかなユーモアがあって、短い章立てのテンポも読みやすかった。

◆幸福を語ることが…
すこし前、穂高明さんから、文庫化された『青と白と』をご恵贈いただいた。宮城県出身の穂高さんが震災を描いた、自伝的な部分もある小説だ。単行本で読んでいたのだが、文庫でより広く読まれることになって、穂高さんのファンとしてとてもうれしい。…と思ったのに、紹介していなかった。

これは、震災の被害を直接受けていないひとでも、世界と日常の関わり合いという意味で、こころに響く小説だ。

わたし自身も震災の直接の被害は受けていない。しかし、震災後、関連のニュースに接すると、宮澤賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』1926)という言葉を思い出すのが条件反射化していた。じっさいにそう思うというより、この言葉を思い浮かべるのが自動化していた。

賢治のこの言葉を論理命題のように考えると、幸福の不可能性が結論となるだけだ。こうした言明は、高潔であるほど、ときに、ひとをしばるドグマとなる。三木清は、『人生論ノート』(1941)に、「幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのやうに感じられる今の世の中は不幸に充ちてゐるのではあるまいか」と書いた。三木のこの言葉は、認識の言葉であって教条的な言葉ではない。賢治の言葉もそのようにも読めばよいのだ。世界が不幸に満ちているという認識は、個人が幸福であろうとする実践を妨げるようなものではない。三木は、次のようにも書いている。
「我々は我々の愛する者に對して、自分が幸福であることよりなほ以上の善いことを爲し得るであらうか。」

わたしは、『青と白と』という小説のテーマもそういうことかもしれない、と思って読んだ。なお、穂高さんとは、彼女がかなりの天文好きで、彼女の夫君が折り紙好きということから、知り合った。

◆イトゲン
先日、阪神タイガースの糸原健斗内野手の活躍を見ていて、糸原をイトゲンと読むと、ウィトゲンシュタインぽいなと思った。上本博紀内野手がタイガースファンの間でウエポンと呼ばれていることからの連想である。そこで、20世紀の天才たちで、ほかにもそれらしい名前を考えてみた。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン: 糸原飛雄(イトハラ トビオ)
アラン・チューリング: 中林新太(ナカバヤシ アラタ)
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン: 原沼翼(ハラヌマ ツバサ)
ジョン・フォン・ノイマン: 野間純(ノマ ジュン)
クルト・ゲーデル: 鯨出拓人(クジライデ タクト)
ダフィット・ヒルベルト: 蛭本旅人(ヒルモト タビト)
エルヴィン・シュレディンガー: 守礼院川照敏(シュレインガワ テルトシ)

しょうもない。しかしこういう名前の見立ては、江戸川乱歩以来の、本邦ミステリ界の伝統をひきつぐと言えなくもない。ということで、これらを登場人物として、ミステリを考えてみた。

舞台は、とある大学。事件の発端は、物理科の学生・守礼院川が可愛がっていた猫が密室で殺されていたことだった。数学科の鯨出は論理的に考察するが袋小路にはまる。同じく数学科の原沼は、ホームシックにかかっていてぶつぶつと呟くだけだ。哲学科の糸原と情報工学科の中林は、言い合っているだけで話が進まない。じれた中林が、同じ学科の後輩・野間に相談するが、猫が死んだことの何が問題なんだと、非情な対応をするばかりである。中林は教授の蛭本にも相談するが、「この問題は解かれなければらなない。そして、解かれるであろう」などと言うだけで、埒があかない。そんな中、中林の死体が齧りかけの毒リンゴとともに発見される。果たして事件の真相は? 才気あふれる若き研究者の卵たちが交錯する本格探偵小説『語りえぬもの』! 乞うご期待! (嘘)

◆アイルランド
阪神タイガースといえば、先日、こんなことも考えた。「超常恋愛サスペンス」と銘打った『クロストーク』(コニー・ウィリス著、大森望訳)を読んで、どうやらアイルランド人には超能力があるらしい(!)、という話からの連想である。元阪神タイガースのトーマス・オマリー氏は、O'で始まる苗字で、ミドルネームがアイルランドの聖人・聖パトリックのパトリックなので、アイルランド系のどまんなかで、マット・マートン氏も赤毛なのでアイルランド系かもしれない。そうか! 彼らの投球の「読み」がよかったのはそれなのか、ということだ。というふうに、人種というセンシティブな話題も、こういうジョークのネタになっているぶんには、微笑ましい。

◆Θリンクと91
『宇宙と宇宙をつなぐ数学』(加藤文元)。これはさくさくは読めないだろうなと思って読み始めると、ぐいぐい読めるのでびっくりした。なんとなくわかった気にさせてもらえる加藤さんの文章力がすばらしく、グレッグ・イーガンの『ルミナス』なども連想した。しかし、加藤さんは、この本自体を、IUT理論の世界から数学ファンへの「Θリンク」には例えてはいない。別の宇宙をつなぐということで、ぴったりとは言えないまでも、よいアナロジーだと思うのだけれど、言い過ぎになるのだろうか。じっさい、数学の内容が簡単に腑に落ちるなんてことはありえないので、この本を読むのは、絵葉書を見て登山を想像するみたいなものだろう。ただ、たいへん魅力的な絵葉書である。

なお、わたしが読んだのは、91が素数の例になっている誤記のある初版であった。57をグロタンディーク素数という「故事」にならって、加藤文元さんの名から、91はブンゲン素数ということになったらしい。ブンゲン素数のようなエピソードは、個々の図形や数を愛でる数学ファンと、それらを抽象化して数学世界を見渡す数学者の違いを示す例かもしれない。星座に詳しい天文ファンとそうでもない天文学者みたいに。ただし、たとえばラマヌジャンは、前者が突き抜けたひとだったと思う。

91は、数字好きには面白い数である。まず、91は7×13であり、13は暦と親和性の高い数、1年52週の1/4である。よって、91を4倍すると、364で、+1で平年の日数になる。そして、もうひとつ面白いのが、これを19倍すると、ラマヌジャンのタクシー数1729になることだ。つまり、1729は、91×19という、「ひっくり返した」数の積でもあるのだ。かつ、なんと、1+7+2+9=19なのである。1729という数字の面白さは、ふたとおりの立法数の和で表せる(1^3+12^3=9^3+10^3)最小の数というだけではないのである。(「ふたとおり…」は、「タクシー数」の由来である。病床のラマヌジャンを見舞ったハーディ「今日のタクシーの番号は1729だった。つまらない数だったよ」 ラマヌジャン「そんなことはありません。ふたとおりの…」という話) なお、この19という数も暦と親和性のある数だ。19太陽年は、月相と日付がほぼ一致するメトン周期なのだ。次の満月は6月17日だが、19年前の2000年6月17日も満月である。まあ、だからどうしたという話。

へウレーカ!など2019/05/21 19:57

「紙1枚で何が折れますか?」
5/22日(水)22:00-22:45 NHK Eテレ
三谷純さん、フラクタル日除けの酒井敏さんが出演。
わたしに関連する話もちらりと出ると聞いた。

追記(5/22 22:45):酒井さんのフラクタル日除けは、東京近郊では、町田市鶴間5-3-30で見ることができます(はずです。すくなくとも5年前

TVといえば、5/17の『美の壺 進化する折り紙』に、三浦公亮さん、岡村昌夫さん、三谷純さん、有澤悠河さんが出演した。再放送は、5/25(土)6:30-7:00 NHK BSプレミアム。

エッシャー生誕121年記念 テセレーション講演会
6/15(土)13:30-16:00(13:00より受付)
講 師:荒木義明、谷岡一郎、藤田伸、他、日本テセレーションデザイン協会メンバー
場所:東京都美術館(上野) 2F スタジオ
定員:40(先着)

たぶん(?!)わたしも日本テセレーションデザイン協会のメンバーにはいっている。
121周年というのは11の平方だからかなあ?

◆折紙探偵団九州コンベンション
先週末は、佐賀大学での、折紙探偵団九州コンベンションに参加した。
わたしの講習作品は、ぱくぱくと口を動かして遊ぶ「大口のサカナ」。
大口のサカナ

1年ぶりの九州。何人かのかたから、おみやげをいただいた。ありがとうございます。
写真は、Yさんからの、カプセルトイ・「折リアル鶴」。なんじゃこりゃと。
折リアル鶴

歌の話あれこれ2019/05/17 00:45

今回も、話が長い。

◆天命反転住宅、シェレルプ・マリスタニー彗星、謎のマンドロンダン
三鷹天命反転住宅

なにゆゑに室は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まわす 前川佐美雄
四角なる室のすみずみの暗がりを恐るるやまひまるき室をつくれ
丸き家三角の家などの入りまじるむちやくちやの世が今に来るべし

『植物祭』(前川佐美雄、1930)に収録されたこれらの歌から75年後、球や円筒状の部屋がある三鷹天命反転住宅(荒川修作、マドリン・ギンズ設計:写真)が建築された。この建物は、国立天文台三鷹キャンパスの近くにあるので、同キャンパスでの仕事のさい、昼休みの散歩で横を通ることが多い。何度見ても、不思議な建物である。隣には、オオサワベーカリーというパン屋さんがあって「天命反転パン」という商品もあるのだが、いつもあるわけではないので買いそびれている。
(追記5/28:先日三鷹に行ったら、オオサワベーカリーさん、なんと閉店。機械の故障とのこと。先月まで、営業していたのに…)

『植物祭』では、次の歌も印象深かった。

千年のつきひはやがてすぎ行かむされども星は地にかへり来ぬ

一読して、ただ雰囲気のある言葉を並べたのではなく、具体的な天体現象を描写した歌に思えた。写生を嫌ったことで知られる佐美雄だが、なぜかこの歌には、事実に即した手応えがあった。歌聖・定家の『明月記』の記述が貴重な古天文記録となっていたり、牧水の火星やハレー彗星を詠んだ歌が時日をほぼ特定できるのも連想した。

これは、1927年12月に近日点を通過した、シェレルプ・マリスタニー(Skjellerup-Martistany)彗星を詠んだ歌として、まず間違いないと思う。『短歌の道』というエッセイに「『植物祭』は大正十五年(引用者注:1926年)九月以降の作」とあるので、時期も合っている。

1927年12月、近日点を通過したシェレルプ・マリスタニー彗星は、日中でも観測できるほどに輝いた。等級はマイナス6、尾は視角40度あったという(『Comet of Century』 Frewd Schaaf、1997による)。離心率は0.9998、遠日点が海王星軌道の約70倍(13光日)もある長周期彗星で、その周期は36532年にもなる。千年経っても、「かへり来る」どころか、遠ざかる道のりの20分の1ほどを往ったにすぎない。しかし、離心率がぎりぎり1未満なので(1だと放物線軌道、1より大きいと双曲線軌道で、非周期彗星になり、戻ってこない)、軌道が撹乱されない限り、戻ってくる。前々回の接近時には、絶滅したネアンデルタール人もこの星を見上げていたはずで、3万6千年後には、人類が絶滅しているかもしれない。

シェレルプ・マリスタニー彗星
海王星の軌道(小さい丸)とシェレルプ・マリスタニー彗星の軌道(赤い長楕円)の比較図(じっさいは、S-M彗星の軌道傾斜角が90度に近いので、両者の軌道はほぼ直交している。この図はあくまで大きさの比較の図である)

『植物祭』にある次の一連の三首も、やはり星を歌った歌だが、上の歌ほどには、これだという解釈はできていない。

てんかいに遅遅とほろびて行く星の北斗もあればわれのねむりぬ
あたらしく北斗となれるペルセウスの星をながめて夜夜さびしめり
つひに北斗もマンドロンダンの星に狙はれて蒼き光を夜夜に嘆けり

恒星の固有運動を詠んだ歌とも思ったのだが、ひとが眠りにつく晩秋の深夜の空(下図)を詠んだ歌としたほうが妥当だろう。しかし、「あたらしく北斗となれる」は不思議な表現で、「マンドロンダン」という謎の言葉をアンドロメダとする解釈にも自信はない。

晩秋深夜の北天
11月末深夜零時、東京近辺の北の空(北斗星が地平近く、ペルセウス座とアンドロメダ座が天頂近くにある)

◆短歌について考えている
とまあ、『数学セミナー』の投稿短歌コーナーが終わってから半年、歌はつくっていないが、歌集を読み、短歌について考えている。

個々の歌ではなく、短歌や俳句全般についても考えている。型というものの機能、そのオルタナティヴ(もうひとつの)アート性、旧い権威に担保されたフラットさ、箴言としての機能、引用の構造などである。そして、それらの関心の中心にあるのは、折り紙とのアナロジーだ。

漢詩の短歌訳を試行してみたり、定型詩を称しての「ピタゴラス的」というボードレールの記述や、「短歌的叙情」を糾弾する小野十三郎さんの評論を図書館で探して読んだりもした。どうやらわたしは、齢重ねて、かつてそうだった文学青年的なナイーヴさに遡行している。

最近読んだ歌集で印象的だったのは、昨年末にでた藪内亮輔さんの歌集『海蛇と珊瑚』だった。藪内さんがこれらの歌をつくったのは、数学専攻の大学生-院生のときだそうだ。さきごろわたしも歌想にした(?)、数学者・カラテオドリの名を詠んだ歌もあった。

フロマンタンとカラテオドリの名前おもしろさ選手権カラテオドリの勝利 藪内亮輔

ちなみに、カラテオドリは数学者だがフロマンタンは違う。そして、こういう歌ばかり読むひとではない。そもそも、数学に想をとった歌はあまりない。歌も、数学にたいしての立ち位置も、真剣で切実なので、簡単には混ぜられないのかもしれない。露悪的な表現も多いのだが、そこに騒(ぞめ)いたものはなく、静謐で、しかし、ひりひりした若さを感じさせる歌が並ぶ。ときに、「わしには強すぎる」と、飛行石を見たポムじいさん(『天空の城ラピュタ』)の気持ちになる歌たちだ。

われのいかりは本を投げ捨て鉛筆を投げ捨てつひにわれを投げ捨つ

わたしの最近の趣味である「折々の歌探索」(折り紙に関係する歌や俳句の探索)のコレクションに加わった歌もあった。

感情を折り合ひながら君とゐるそれはときどき飛行機になる

「折り合う」という言葉に、なぜ「折る」が使われるのかというのをふと疑問に思ったが、「我を折る」(我を曲げる)など、主張を変えることの「折る」からきているのだろうと得心した。この「折る」は、どちらかというと、面よりも線を曲げる感じ、ベクトルを変化させるイメージだ。ただ、そのベクトルを法線ベクトルとみれば、平面が対応しているので、「折り合い」は折り紙になりうる。…考えすぎである。

ほかにも「夕空を折り畳む」という表現の歌もあって、そのうちのひとつが以下だ。

夕空は折り畳まれてきみの目に入つて涙にも火にもなる

これは、より数学的というか、コンボリューション(たたみこみ:重畳積分)であろう。これは考えすぎではない…と思う。

衆目の一致する秀歌は、数学とは関係がないもので、事実上のデビュー作らしい連作の中の一首である。平易な表現で、ありふれた日常の中の特別な一瞬が、鮮やかに切り取られている。うますぎるぐらいうまい。

傘をさす一瞬ひとはうつむいて雪にあかるき街へ出でゆく

最近見つけた、「数学短歌」では、杉崎恒夫さんの次の歌が好きだ。

カウンターにぽつんと腰をかけている数直線の√2の位置

ルート記号と数直線を、スツールとカウンターテーブルに見立てている。この歌を10年前に知っていれば、『本格折り紙√2』の題辞につかったのになあ。

杉崎さんの歌は、どこか宮沢賢治的だ。理科趣味で、透明で、しかし切ない。ただ、賢治の詩にはときに切羽詰まった感じがあるが、杉崎さんの歌では、そうしたものは意図的になのか避けられ、その調べは穏やかだ。

毒のないぼくの短歌とよくなじむ信仰心のうすいマシュマロ

上の薮内さんは若い歌人だが、杉崎さんは、2009年に90才で亡くなった歌人だ。歌集も晩年、そして亡くなったあとに出ており、多くは老境にはいっての作歌である。しかし、その穏やかさは老巧とは違うものだ。歌柄はおどろくほど瑞々しい。

灯台の白い破片が飛びちっているのではない風のかもめら

氏は、国立天文台の三鷹キャンパス(当時東京大学東京天文台)で、経理の仕事をされていたらしい。何度か歌に詠まれているアインシュタイン塔(一般相対性理論検証用の太陽分光写真儀)や、セミの声に満たされる夏の林は、わたしにも親しい。上にも書いたが、月に数回仕事で行く三鷹キャンパスの構内や周辺を、昼休みにひとりで散歩するのを、わたしは習慣にしている。同僚と一緒に食事をすることはなく、独りで散歩する。社交性に問題があるわけではない…たぶん。

語尾ひきてトラツグミ鳴けり朝暗きアインシュタイン塔のかたより
ひとかけらの空抱きしめて死んでいる蝉は六本の足をそろえて
落ち蝉の翅の網目に刻まれし夏つかのまの光の記憶

退官されたときと、わたしが天文台の仕事を始めたのがほぼ同じころなので、接点はまったくないが、もし時代が重なっていたなら、「杉崎さんですか。事務の用事ではありません。あなたの歌のファンなのです」と事務室を訪ねたのではないか、などとも考えた。というように、わたしは社交性がないわけではない…たぶん。

『食卓の音楽』の解説(前田雪子さん)を読むと、杉崎さんは、1980年代初頭、開所したばかりの野辺山観測所で、歌の師の前田透さんを案内したことがあるという。そのさいに詠まれた前田さんの歌が次だ。野辺山45m電波望遠鏡(ヨンゴー)を詠んだ、珍しい歌である。

宇宙電波に白き影おくアンテナはさみどりの野に日をかえしおり 前田透

野辺山45m電波望遠鏡

さみどりとあるので、季節もちょうどいまごろだろう。まあ、野辺山の気温は、5月にはいってから、マイナス5度を下回った日もあったのだけれど。

杉崎さんの歌で、わたしの「折々の歌アンテナ」にかかったのは次である。

音荒く雨ふる夜明け胸という一まいの野を展げていたり

胸は、枯野か沃野か、いずれにせよ広い草原で、ふだんのそれは折り畳まれている。しかし、夜明けには、そこに風が吹き、雨が降り注ぐ。事実、肺胞はフラクタル的な構造になっていて、その面積は100平方メートルに近いという。現実の肺胞は展げることはできないが、想像の中にある胸は、展開可能な「ミウラ折り」構造になっているのかもしれない。ちなみに、杉崎さんは若いころの結核で、肺は片方だけになっていたという。

◆フナムシとムカデ
船虫の無数の足が一斉に動きて船虫のからだを運ぶ 奥村晃作

奥村さんのこの歌がすばらしいので、類想の歌や句はないかと、フナムシのでてくる句を探していたら、次の二句が対になっていて面白かった。

舟虫のとまれば脚のみなそろふ  阿部夕礁
船虫の動けば足のみな動く 谷口三居

フナムシの句には、ほかにも面白いものが多かったのだが、合わせてムカデの句も調べたら、これは、すこし気が滅入った。たたきつぶす句ばかりなのだ。とりわけ、山口誓子さんのムカデ嫌いはきわ立っていた。

身をくねる百足虫を見れば必殺す 山口誓子

どうやら、家にたくさん出て閉口していたらしい。生息域の違いで、家にはあまりあがってこないフナムシとは違って、ほかの俳人もみなムカデと闘っていた。

勝つ事は勝てり蜈蚣(むかで)と闘ひて 相生垣瓜人
蜈蚣死す数多の足も次いで死す (同)

これらは攻防の必死さがあってまだよいほうかもしれない。全般にひどい扱いなのだ。現代の句や歌では、ゴキブリもこの扱いであることが多い。「ミミズだって オケラだっけ アメンボだって みんなみんな生きている」(やなせたかし)のに。

わたしだって、ムカデの脚を見ればぞわぞわするが、波のような動きのある脚は美しいとも思う。先日も、家の中にちいさいムカデがいたので、紙でつまんで外に逃した。わたしは殺しませんよ、ということを強調したいわけではない。殺生戒の強いジャイナ教徒のような信仰心は持っておらず、家の周りに大量発生したら薬剤を撒くかもと思うので、欺瞞でもある。来世も信じていないので、カンダタのような救いを期待しているわけでもない。それでも、千年前の『蟲愛づる姫君』が「毛虫は毛などが面白いのに、話にもでてこず、残念で物足りない(かは虫は毛などはをかしげなれどおぼえねばさうざうし)」と嘆いた頃からあまり変わっていないなあ、と思う。ただこれは、虫は文芸の視野にもはいっていないという嘆きなので、現代短歌や俳句では詠まれているだけでもましと言えるかもしれない。

ムカデといえば、1年半前の折紙探偵団名古屋コンベンションのとき、アメリカの折り紙創作家・ブライアン・チャンさんと、以下の会話があった。

わたし:「今日の講演で、あなたは、ネコバスはムカデの一種と話していたけれど、ケンタウロスは昆虫ですね」
チャンさん:「カマキリの一種ですね」
ブライアン・チャンさんの作品

むろん、折り紙の造形を構造的に見た上での、同類であるとの認識だ。なお、ケンタウロスが昆虫的であるという話は、星新一さんが『救世主』という話にも書いている。

ムカデは英語でcentipedeである。センチメートルのcentiすなわち百と、pedestrian(歩行者)などの語幹のpede(足)からなる言葉で、漢字の百足と同じ命名法だ。いっぽう、和語のムカデは、百手(ももがで)だという。足ではなく「手」なのだ。いずれにせよ百である。しかし、じっさいのムカデ綱に属する動物の脚の数は百ではない。15、21、23、37、41対など奇数対だという。フナムシとダンゴムシも7対で奇数、昆虫も3対で奇数だ。なぜかは、ざっと調べてもわからない。『The On-Line Encyclopedia of Integer Sequences』で、この「15、21、23、37、41」という数字の並びを検索してもヒットしない。