折り紙作品(固定記事:最新記事はこの下)2038/01/18 18:51

自分で折った作品の写真数点を、冒頭に載せておくことにしました。

Devil&Pyramid
Devil & Pyramid
悪魔(設計:1978 正方形)、ピラミッド(設計:1993 正方形)

Peacock
Peacock
孔雀(設計:1993 正方形)

Beetle
カブトムシ(設計:1994 正方形)

Turkey
七面鳥(設計:2005 正方形)

Sections of the Cubes
立方体の断面(設計:2000 特殊用紙形)

ダリアの図&研究集会&折り紙教室2017/06/12 20:28

◆福島県塙町の「はなわのダリア」というページで、ダリアの花(ユニット折り紙)の図が公開されています。

◆6月17日(土)に、第22回折り紙の科学・数学・教育研究集会があります。
誰でも聴講できます。

◆6月25日(日)に、府中市郷土の森で、折り紙教室の講師をします。
事前申し込みは不要です。

ぼんやりしていても、いろいろある2017/06/07 23:04

「やるべきことがたまっているが、なんだか、ぼんやりしている」
と、ずっと言っているような気がする。

◆忘れていた
日本折紙学会の会員の継続を忘れていたことに気がついて、すぐに申し込んだ。会のスタッフなのに忘れていたのだ。困ったものである。

◆西川誠司著『折り紙学』
『折り紙学』(西川誠司)
学校図書館向けの『○○学』シリーズの一冊として企画された本。折り紙文化のアウトラインの説明として、さすが西川さんというバランス感覚だ。類書もない。わたしも、いろいろと協力した。

◆『切り紙に潜む物理』
『日本物理学会誌』に磯部翠さんと奥村剛さんの『切り紙に潜む物理』という論文が載っていた。きちんとは読んでいないけれど、面白そう。この研究は、数か月前にニュースにもなっていた。

◆パルマーさんの多面体
パルマーさんの多面体
10日ほど前、折紙探偵団九州コンベンションに参加したさいに、クリス・パルマーさんから多面体模型をいただいだ。スクリュー構造になって、内部にスペースがある。パルマーさんは、会うたびに、新しいアイデアを見せてくれる。

◆『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)
私的なベストSFと言ってもよい、『あなたの人生の物語』(テッド・チャン著)の映画化作品。チャン氏の小説を映像化するなら、『地獄とは神の不在なり』がよいのではないかと思っていたが、『メッセージ』(原題:Arrival)は、すばらしいできだった。原作で印象的だった、光学の「フェルマーの原理」の話がなかったのは、ちょっと残念だけれど。

たとえば、こんな言葉を思い出す。
 人は、時間の中で生きるのではなく、永遠の中で生きることは可能であろうか。
(ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』:『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』(黒崎宏)内の部分訳から引用)

◆[P]athematics
先日読んだ小説・『私自身の見えない徴』(エイミー・ベンダー著 管啓次郎訳)に、こんな言葉があった。
Matehematics(数学)の中にはatheist(無神論者)の文字がそっくり含まれている。でも私にいわせれば、それは正反対。

なるほどなあ、と。ただし、すっぽりはまっているのではなく、アナグラムになっている。無神論者(atheist)ではなく、無神論(atheism)もある。そして、atheを含む単語には、以下のようなものもある。

bathetic:竜頭蛇尾、わざとらしい
pathetic:悲しい、無力な

ということで、内容の薄い数学を表現する言葉を思いついた。

bathematics : 内容のない数学
pathematics : 弱々しい数学

完全一致で検索すると、そこそこヒットした。意図的ではなさそうなものもあって、中にはamazonで書名がbathematicsになっているものもあった。ひどい。数学界でいう「ジェネラル・ナンセンス」(一般化しているだけ)や「トリビアル」(自明)を揶揄する表現にぴったりかもしれない。まあ、かくいうわたしも、pathematianというか、なんというか。

◆窪東公園のジャングルジム
窪東公園のジャングルジム
国分寺市・窪東公園の多面体トラス状のジャングルジムが面白い。内側のロープによる構造もよい。

◆武蔵野美術大学のピラミッド
武蔵野美術大学のピラミッド
先日行った武蔵野美術大学のピラミッドは、ルーブルのそれよりずっと小さいのであった。

「生きている折り紙」など2017/05/19 22:16

◆「生きている折り紙」
以下のイベントの案内が届いていた。
第94回サイエンス・カフェ札幌「生きている折り紙」 by 繁富(栗林)香織さん
@ 紀伊國屋書店札幌本店、5/27(土)。事前申し込み不要。
詳細:costep.open-ed.hokudai.ac.jp
細胞膜を使った、文字通り「生きている」折り紙の話。栗林さんは、先日も折り紙応用技術的なニュースの解説でTVに出ていたらしい。
この日、わたしは九州。主催のCoSTEP(北海道大学の科学技術コミュニケーションに関する社会人大学的なもの)では、わたしも来年の1月に講師をする予定。

最近、折り紙周辺のニュースがちょこちょこと。

◆テントウムシ
数日前、東京大学の斉藤一哉さんのテントウムシの後ろ翅の折り畳みの研究がニュースになっていて、なんで今なのだろうと思ったら、論文が公けになったということだった。ニュースでは、バイオミミクリ(生物をまねた応用)が強調されがちだが、研究自体に、誰にも伝わる面白さがある。テントウムシは、メタルの巻尺みたいな構造があって、後ろ翅を広げるのが得意で、しまうのは「手繰り寄せ」なのでやや時間がかかる(よって「シミチョロ」をよく見かける)とか、カブトムシは収納するのが得意だけれど、広げるには大きく羽ばたいて遠心力を使うとか。

◆『正解するカド』
『誤解するカド 』というSFアンソロジーがでていて、折り紙的、幾何学的な響きがある題名だなあと思っていたら、この題名の元になった『正解するカド』というアニメーションの中に、球体折り紙が出てきて、筑波大学の三谷純さんが監修していた。

謎の星空2017/05/09 22:49

原故郷のスラヴ民族
先日、国立新美術館のミュシャ展で観た、『スラヴ叙事詩・原故郷のスラヴ民族』。これに描かれた星空がぴんとこなくて、もやもやした。

まず、注目したのは、画面左上のU字をひっくり返した星の並びである。これは、かたちとしては、かんむり座(北のかんむり座)が近い。その右に四角があり、これをヘルクレス座とすれば、位置関係は合う。しかし、かんむり座は、北極星をはさんでカシオペア座と反対側にある星座で、U字の開いたほうを地平に向ける位置は、北半球では考えられない。南のかんむり座と見ると、その右にある星の並びがさそり座に見えてこなくもないが、そもそも、南のかんむり座は、中部ヨーロッパからは見えないだろう。

しし座の頭とするのが一番それらしいかもしれない。その右下のY字ぽいのは、明るい星が多すぎるけれど、かに座、下の地平線近くの円弧は、うみへび座と、こいぬ座。その右の縦長の五角形は、ぎょしゃ座に見えなくもない。1月から5月、中部ヨーロッパの西の空では、これに近いかたちで見えるかも。しかし、ぎょしゃ座の左にあるはずの、ふたご座はどこに行った。その右上にあるV字はなんだ。画面の右のほうもよくわからない。うーん、やはり、かなり苦しい。

というわけで、ミュシャは、基本は写実描写のひとだが、この星空は写実ではなく装飾的なものである、というのが、とりあえずの結論だ。...あ、なんかいろいろ書いたけれど、よい絵です。

字余りの歌について2017/05/03 22:56

『小倉百人一首』
以前、有名な歌が字余りであることについて書いてから、その後、考えたことを、まとめた。

我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
(わがきみは ちよにやちよに さざれいしの いわほとなりて こけのむすまで)
(『和漢朗詠集』よみびと知らず)

この歌は、三句が六音で、五七五七七から外れて字余りである。五音にして「の」を取ると、ここで切れて、三句(腰句)と四句のつながりが悪い、いわゆる腰折れ歌になるので、六音目の「の」は重要だ。

では、この歌が、数ある歌の中で例外的なのかというと、そうでもない。古典の歌、たとえば、『小倉百人一首』の歌にも、字余りがけっこう多い。以下に、例として、上の歌と同様、三句が六音のものを二首を示す。
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り舟
(わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりふね 参議篁)
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間もなし
(わがそでは しほひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらぬ かわくまもなし 二条院讃岐)

これらも、三句の一音を取ると三句と四句が切れてしまうので「と」と「の」は重要である。

そして、とても興味深いのが、字余りのある句には単独母音(あ-お)が含まれているという「法則」である。このふたつの歌の場合、「いでぬ」の「い」と、「いしの」の「い」である。後者は句の先頭の音もそうだが、句の中の音に注目すべきであろう。

この説の初めは、本居宣長の『字音仮名用格』(じおんかなづかひ、1776年、国会図書館デジタルコレクション(1892年の活字版)8ページ参照)である。なお、宣長は「え」は含めていない。この法則を知ったとき、ほんとうか?と疑念を持った。そこで、まずは、『小倉百人一首』を例にとって、検証してみた。

『小倉百人一首』の約3100文字では、単独母音(ここでは「え」も含めた)の出現頻度は0.06であった。5文字/47文字≒0.1より小さい。この0.06で、句の中に単独母音がすくなくともひとつ現れる確率を計算する。これは、すべて単独母音以外であることの対偶なので、1-0.945、もしくは1-0.947となり、五音で0.27、七音で0.35となる。約3割である。0.1で計算すると4割から5割である。

この値は、高くはないが、そんなに低くもない。宣長の法則には例外もあるだろうし、偶然の可能性もあるのではないかとも考えた。しかし、『小倉百人一首』においても、なんと、33首、35句(複数の句が該当する歌がある)の字余りがあり、そこには、法則の例外はひとつもなかったのだ。宣長のいう「古今集ヨリ金葉詞花集ナドマデハ此格ニハツレタル歌は見エズ」(「格」=法則)は、どうやら誇張ではない。

数が少なく、例外もあるのなら、偶然の可能性も上がるが、そうではないのだ。法則どおりの字余り句を35、それが偶然である確率を、上記の見積もりから0.3とすると、そのすべてが偶然でも起きうるのは、0.335で、その桁数は、35*log0.3=-18.3..、つまり、0.000...と、ゼロが18続く値になる。ありえない。しかも、これは100首だけの標本である。『小倉百人一首』では、藤原定家がそうした歌のみを選んだという可能性もなくはないが、ここは宣長を信用しよう。母集団はもっと大きい。しかも、「え」を含めず、後述のように句の先頭や最後の音を対象にしないとなると、偶然の確率はさらに下がる。というわけで、この法則には妥当性がある。

宣長は「是ハ予ガ初テ考ヘ出セルトコロ」と自慢しているが、自慢するだけのことはある。かつてはよく知られていた、あるいは意識せずとも守られていた決まりが忘れられ、宣長によって再発見されたということなのであろう。わたしの知識を基準にするのも説得力がないが、この法則は、学校の「古文」で聞いた記憶もなく、それほど広く知られていないと思われる。

ただ、この法則への言及は、たとえば、正岡子規の『字余りの和歌俳句』(青空文庫)などにもある。最後の段落に注釈のように、次の文が書かれている。
和歌の字余りには古来遵奉し来れる法則あり。即はち「ア」「イ」「ウ」「オ」の四母音ある句に限り字余りを許したるなり。
宣長を参照したものと思われる。しかし、子規の文章の主意は、ときに規則を破ることもよいということであり、彼の興味の中心は、文芸・表現としての歌で、言語学的、音韻論的な検討はない。

次に当然気になるのは、上の法則の逆は成り立たっているのか、ということだ。つまり、単独母音のある句は必ず字余りになるのか、ということである。これは、想像がつくように、成り立っていない。たとえば、以下の『小倉百人一首』の二つの歌には、同じ「ありあけ」があるが、前者は字余りなしで、後者は字余りである。
ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる
(ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる 後徳大寺左大臣(徳大寺実定))
朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪
(あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに よしののさとに ふれるしらゆき 坂上是則)

宣長の法則は、音便化や無声化などの言語学的、音韻論的な説明とも関係して、さらに細かい条件に整理可能とも考えられる。たとえば、『小倉百人一首』で確認しただけだが、句の先頭文字や最後の文字は省略音の対象でないことも間違いなさそうだ(宣長の「中ニ右ノあいうおノ音アル句ニ限レル」の中(ナカラ)の意味も、句の先頭と最後を除外しているとも読める)。これは、句の頭や最後の音は、詠唱時に省略しにくいことに関係するように思える。

専門的な知識もないまま、音韻論的という言葉を使ってみたが、そうした検討がなされている国文学関係の研究もあるようだ。そして、それに類する「自然なリズム」に関することは、宣長も述べている。言葉の中にある単独母音が、「海→ミ」「浦→ラ」などとされることがある例も引いて、この法則を「耳ニタゝザルハ自然ノ妙」のゆえとしているのだ。耳にひっかからないのでよいといった意味である。詠ずるときにほぼ省略される音もある、というのはありそうな話だ。わたしにとってわかりやすい例は、たとえば、山部赤人の「田子の浦」である。
田子の浦にうち出てみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ
あるいは、
田子の浦ゆうち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりつつ
(たごのうらに うちいでてみれば しろたへの ふじのたかねに ゆきはふりつつ
 たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりつつ 山部赤人)

どちらも、頭句(一句)と胸句(二句)が字余りである。きわめて有名な歌だが、この歌の「に(ゆ)」と、「うちいでて」の「い」にひっかかりを感じていたひとは多いのではないだろうか。それが、「たごのぅらゆ うちぃでてみれば」、もっと言えば、「たごのらゆ うちでてみれば」と詠じられたのではないかと想像すると、なにか納得できる。

ただ、字余りが、すべて音韻論的にきれいに説明できるかというと、そうとも思えない。上にあげた「ありあけのつきと」が、まさにそのような例かもしれない。これは、たしかに形式的には宣長の法則に則しているが、「ありあけ」が「ありぁけ」となり「ありゃけ」「ありけ」と音便化することは、考えにくい。「ありあけ」の意味的な語幹は「あけ」なので省略しにくそうだ。もとは、音韻論的な法則があったのだが、その法則が形式化したのちに「ありあけ」を含むような字余り歌が生まれた、といったことも考えられる。字余り歌にも、歴史的な変遷もあるということである。ただ、この歌は、読んでみると、不思議と、リズムの狂いのようなものは感じられないので、説明は可能かもしれない。

さて、最初に戻って、「わが君は」である。これは、「ハツレタル歌は見エズ」の『古今和歌集』にも取られていている歌である。字余りの三句「さざれいしの」には、法則どおりに「い」の音が含まれている。「耳ニタゝザル」に即すると、三句を詠するときは、「さざれぃしの」と、「い」音を控えめに発声するのが、それらしいのではないかと思われる。

これには、傍証というか、そもそも「さざれ石」は「さざれいし」と読まれていなかったのではないか、という例がある。これを見つけたときは、おっと思った。見つけたと言っても、有名な例だとは思うのだが、「苔のむすまで」の歌に関係する話は、ややタブー化して、言挙げがあまり表にでてこないからか、あるいは、わたしの専門外の無知ゆえの驚きか、「見つけた」気分になったということである。ともあれ、以下の歌は、万葉仮名で書かれているので、音の特定がしやすいのであった。
信濃奈流知具麻能河泊能左射礼思母伎弥之布美弖婆多麻等比呂波牟
(しなのなる ちくまのかはの さざれしも きみしふみてば たまとひろはむ
 信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ)

万葉仮名は1字2音の場合もある(上記の「信(しな)」のように)ので、「左射礼思母」の「礼」を「レイ」と読む可能性はまったくないとは言えないのかもしれないが、通常は「レ」のようだ。つまり、これは「さざれしも」として、まず間違いない。「さざれいし」ではなく、「さざれし」なのである。

ここで、古い和歌を歌詞にして、近代に曲をつけた『君が代』という楽曲を見てみる。それは、西洋式の4分の4拍子の楽譜(林廣守作曲)で、「いしの」の「い」は、第6小節の先頭である。通常、西洋式の楽曲では、小節の先頭は強拍である。じっさい、そのように歌われている例は多いだろう。つまり、本来はないかもしれない音が強拍となっている。明治になってできたこの楽曲の歌われかたは、西洋式の音楽の浸透によって、和歌の詠じかた、さらには、朝廷の楽人であった林廣守そのひとの作曲・作譜の意図に対しても、乖離が生じている可能性が高い。皮肉な言いかたをすれば、これは、宣長的には「からごころ」である。

以上、古き世より定まれるものと言っても、その中身はいろいろ、という話である。...歌の内容にはまったく触れていないな。

『Pasta by Design』など2017/04/28 23:50

◎『Pasta by Design』
まず、前の書き込みの補足である。パスタの幾何学的形状については、いずれ本格的に考えたいと思っていた。フッジリについて考えたのもそれゆえである。

ただし、これには先行研究がある。最近、数学雑誌の編集者さんから教えてもらったもので、『Pasta by Design』(George L. Legendre)という本である。まだ入手していないのだけれど。

著者のルジャンドルさんという名前もインパクトがある。建築が専門のイギリス人のようだけれど、ルジャンドル変換などで有名な18世紀フランスの大数学者の子孫だったりするのだろうか。

さらに、『The Geometry of Pasta』(Caz Hildebrand、Jacob Kenedy)という本もある。ただし、こちらは、書名ほど幾何学ではないみたいだ。

『Pasta by Design』の表紙になっているファルファレ(蝶)は、可展面からの変形としてたしかに面白いが、コンキリ(貝)や、フッジリ(銃身)、カヴァタッピ(栓抜き、図)などのほうが、わたしは好きだ。食感ではなく、かたち自体がである。ジリというのもあって、百合の花ということらしいが、キクラゲみたいな「The・負曲率曲面」に見える。これらは、たぶん、型抜きでできているのではなく、製造工程によって「自然に」かたちづくられている。それらに比べると、ルオーテ(車輪)などは、すこし面白みが減る。
カヴァタッピ

フッジリは、旋盤の削り屑や、ネコザメの卵(あまりよい写真ではないけれど、10数年前に下田海中水族館で撮影。検索するともっと鮮明な写真がいろいろある)にも似ている。ネコザメの卵も、あらためて見ると、常螺旋面というより、類似螺旋面に近い。ただし中央部は円柱ではなく紡錘形である。
ネコザメの卵

紡錘形と言えば、そのかたちのパスタもあって、長粒種のコメみたいなかたちで、リゾーニという。これは、まさにコメの意味だ。小麦粉で米をつくるというのは、倒錯的だ。

◎「おりがみパヅル」と「入れ子風車」
折紙探偵団九州コンベンションが近づいてきた。まだ申し込んでいないが、今年も参加の予定である。

昨年の九州コンベンションで、面白いパズルの話を聞いたことを思い出した。名づけて、「おりがみパヅル」。折鶴のパズルなので、パヅルなのである。探したところ、問題を書いたコピーはとってあったのだが、出題者の名前をメモし忘れていた。

問題:1枚の正方形の紙に切り込みを入れて連鶴をつくる。11羽のものはいかに?
ただし、以下の条件とする。
(1)紙を余らせない。
(2)鶴の翼は、左右どちらも別の鶴の翼に接続する。

解くのに1時間以上かかった。
ネットを検索したら、出題者のブログに記述があったが、わたしが偉いひとみたいに書いてあって、汗顔である。

解答はどうだったかなと思い出す過程から、「千羽鶴」のバリエーションを思いついた。『千羽鶴折形』の「風車」を無限化(写真では3段階まで)したものである。上の問題の解答とはまったく違うもので、羽での連結もやめているが、繰り返しパターンがわかりやすくてよい。1か所ではなく、向かい合う部分を分岐させるなどのバリエーションも考えられる。シンプルな発想なので、だれかがやっていそうではある。
入れ子風車

◎蔵書
桑原武夫さんの遺族から京都市に寄贈された桑原さんの蔵書が、古紙回収に出されて処分されてしまったというニュースを聞いた。詳細を把握していないので、この件そのものへのコメントはひかえるが、ひとつ連想したことがある。

神保町の古書店の店頭で、趣味嗜好が明確な一群の本が並んでいるのを見ることがある。買い取って整理される以前のものだ。ある日見たのは、パズルと和算と数学の啓蒙書の取り合わせであった。「わたしに関心の近いひとが亡くなったのか」と思った。うちの蔵書の行く末を考えると、すこししんみりした。

東京ミッドタウンの螺旋面2017/04/26 21:08

防衛庁の跡地にできた「東京ミッドタウン」は、再開発から10年経つそうだが、行ったのは、先々週の週末が初めてだった。隣接する国立新美術館のミュシャ展を観に行ったのである。妻がミュシャを好きなのだ。


DESIGN SIGHT@東京ミッドタウン

「DESIGN SIGHT」という建物が、すこし折り紙的だった。設計は安藤忠男氏。安藤さんは、国立競技場のコンペティションの審査や、動線のはっきりしない渋谷駅などでいろいろ言われていて、わたしも渋谷駅は行くたびにイライラしているが、これは、とてもクールである。

 

ベンチ@東京ミッドタウン

誰のデザインかわからないが、街路樹を囲むベンチも面白かった。この写真では、壊れているようにも見えなくもないが、高さが変化しているのだ。様々な座高のひとが利用可能ということかとも思ったが、低いところが低すぎるので、機能的な発想ではないのだろう。

 

孔の空いた円に切り込みをいれて、切った部分を持ち上げると、ほぼこのかたちになるが、素材に伸び縮みがないとすると、そうはならない。このベンチの理想的な幾何モデルとなる「常螺旋面(right helicoid)」は、可展面(平面から変形可能な面)ではない。切り込みをいれた孔の空いた円を、なるべく面を水平に近く保つようにして、この方法で曲面にしようとすると、途中で大きく曲率が変わる曲面になってしまう。面を伸び縮みさせずに、よりなめらかな曲面とする方法は、面を円錐状に変形させ、末端をやや重ね合わせるようにして、縁をなめらかな弦巻線にすることだ。それは、弦巻線の接線の軌跡である「類似螺旋面(helical convolute)」という曲面となる(はず)。

helical convolute


と、考えていて、ふと思った。マカロニ、というかパスタに螺旋面状のものがある。フッジリと言われるものだ。漠然と、螺旋面だと思っていたが、はたして、それはたしかだろうかと。で、気になって、スーパーで買ってきた。中心に孔(基本の弦巻線が巻きつく円柱)はないものの、面は円錐状になっていて、常螺旋面より類似螺旋面に近いのであった。(下図:左:類似螺旋面、右:常螺旋面)

らせんマカロニ(フッジリ)


まいまいず井戸2017/04/24 21:48

日曜日、府中市郷土の森博物館の学芸員の佐藤智敬さんの誘いで、府中市郷土の森で折り紙教室の講師を担当した。以前、同博物館の「お稲荷さんの世界」展を観に行ったさいにできたちょっとしたつながりである。学芸員というのは、研究者でもあるわけだが、いろいろとアンテナを張って、幅広く頑張っているなあと感心する(某大臣の難癖とは違って)。

府中市郷土の森は、博物館の建物内だけではなく、野外の展示もある。私的な見どころとしては、「まいまいず井戸」の復元がある。らせん好き(ってなんだかよくわからない属性だが)なら見逃せない物件である。「まいまい(ず)」はカタツムリのことで、井戸に向かう道が、らせん状になっているのだ。
まいまいず井戸

郷土の森のこの井戸は、府中市内の別の場所で見つかったものを復元したものだが、本物としては、羽村市の駅前に、昭和30年代まで現役だったものがあり、これも、以前見にいったことがある。そこにある案内板には、「鑿井技術の未発達の時代に筒状井戸の掘りにくい砂礫層の井戸を設ける必要から、このような形態をとるにいたった」とあった。

この形態の井戸を指すとものとして、「ほりかねの井」という言葉もある。歌枕として、埼玉県入間市の堀兼神社の境内にある井戸のことだが、そもそもは「掘り難い」の意味で、武蔵の国周辺に多いこの井戸のかたちを指す言葉であるともされる。三十六歌仙のひとりである伊勢の読んだ以下の歌が、一番古いらしい。

いかてかと思ふ心は堀かねの井よりも猶そ深さまされる

上に「らせん好き」と書いた。別のところにも書いたことがあるが、らせんということばはけっこうややこしい。螺と螺で、DNA的な「弦巻線」と、蚊取り線香的な「渦巻線」を区別することもあるのだが、かならずしも一般的ではない。そして、この井戸の道のかたちは、弦巻線とも渦巻線ともすこし違ったconical helix(円錐弦巻線)である。弦巻線が、円柱にそったものであるのに対して、これは円錐にそっている。弦巻線と渦巻線の双方の特徴を持ったかたちとも言えなくもない。
conical helix

まいまいず井戸的なものといえば、野辺山宇宙電波観測所の展示室にあるブラックホールの玩具の、ボールの軌道もそうだ。この曲面は円錐ではなく、Flamm's Paraboloidと呼ばれる曲面だが、ボールのたどる軌道は、まいまいず井戸的である。
ブラックホール玩具

というわけで思いついた、伊勢の歌の現代物理学版が以下である。

いかでかと思う心は重力の井よりもなおぞ深さ勝れる

どうしてだろうと思う心は、重力井戸より深い。
なんか、かっこよいではないか。ちなみに「重力井戸」という用語は、物理学や天文学の用語というよりは、SF用語的なものだが、じっさいにある言葉だ。

そう言えば、先日読んだ『麗しのオルタンス』や、読み始めた『誘拐されたオルタンス』(ジャック・ルーボー著、高橋啓訳)に登場する、架空の国「ポルデヴィア」には、らせん崇拝があり、カタツムリが重要な動物とされているのであった。この国の井戸は、まいまいず井戸が相応しいだろう。

マグニチュード など2017/04/20 22:26

◆マグニチュード
昨年の熊本・大分の地震における4月14日と同16日のマグニチュード(M6.5とM7.3)の比較で、「エネルギーが16倍」という話があった。マグニチュードは常用対数(1増えると10倍)だったような記憶があったので、0.8の差で10倍以上なのはなぜだろう、と疑問に思って確認してみると以下だった。
地震の規模とエネルギーとの関係
(Gutenberg-Richter)
log E = 4.8 + 1.5M
ただし、E:地震波として放出されたエネルギー(単位はJ)
『理科年表』 2017)

エネルギーとの換算式で、Mに係数1.5がかかるのである。であれば、たしかに、0.8違うと約16倍である(10(1.5*0.8)≒16)。ここ数年間、ずっと地震の話を聞いてきたのに、ぼんやりした知識だった。
なお、101.5=31.6...だが、指数を1.505...とすると、101.505...=32=25で、(2進法が日常的なプログラマとしては)きりがよい。104.8のほうも、4.816...であれば、104.816...=65536=216できりがよい。上の式の4.8と1.5が2進法を起源とするのかは調べきれていないが、ありそうな話ではある。

『理科年表』を見ると、観測データからのマグニチュードの計算式には、すくなくとも7つの種類がある。しかし、物理的な意味としては、「約32を底とする(1増えると約32倍、2増えると1000倍になる)対数表示の、地震波として放出されたエネルギーの単位」ということで間違いない。さまざまな計算式は、要するにエネルギーの見積もりかたが異なるということである。

エネルギーなので、カロリーにも換算できる。1calは4.184Jという定義(もとは1gの水を1標準気圧で1度あげる熱量)なので、M1=10(4.8+1.5)≒2000kJ≒500kcalである。そして、爆弾のエネルギーである「TNT換算トン」もカロリーで定義(1TNT換算グラム=1000カロリー)されている。広島の原子爆弾は15キロトンと言われ、約6.3*1013Jである。これはM6の値(10(4.8+1.5*6)≒6.3*1013)にほぼ等しい。

M1は、ラーメン1杯の代謝熱量にほぼ等しい程度だが、M6になると、広島の原子爆弾に並ぶということである。

◆比喩表現としての折り紙
日本の折り紙のように華奢な夢の架け橋が崩れ落ちそうになり、そして目が覚めるとアラペードはベッドの中にいた。
『麗しのオルタンス』ジャック・ルーボー著 高橋啓訳)

比喩表現としての折り紙のひとつの典型の、脆いものとしての折り紙である。原著は1985年、フランスでは英語圏ほど「オリガミ」という言葉が使われていないので、原文は、プリエ・ド・パピエとか、プリアージュ・ド・パピエだろうかとも思うのだが、どうなのだろう。「日本の」とあるから、やはりorigamiなのかな。

いろいろと深読みが可能な小説で、重要な数字がなぜ53なのかなどが気になったのだが、「クノー数」というものがあるらしい。