折り紙作品(固定記事:最新記事はこの下)2038/01/18 18:51

自分で折った作品の写真数点を、冒頭に載せておくことにしました。

Devil&Pyramid
Devil & Pyramid
悪魔(設計:1978 正方形)、ピラミッド(設計:1993 正方形)

Peacock
Peacock
孔雀(設計:1993 正方形)

Beetle
カブトムシ(設計:1994 正方形)

Turkey
七面鳥(設計:2005 正方形)

Sections of the Cubes
立方体の断面(設計:2000 特殊用紙形)

月刊『みすず』など2020/07/04 22:44

◆月刊『みすず』
みすず書房の月刊誌『みすず』で、『空想の補助線』というエッセイの隔月連載を始めた。一回目は、自己紹介ということもあり、折り紙について書いたが、編集者さんと、いろいろ話題を広げていきましょう、と話している。最近、文章を書いて披露する機会が増えていて、不思議な気分である。

◆黄金薔薇匣
先週、美術大学のリモート講義で、非常勤講師をした。講義のアウトラインは、折り紙造形における黄金比の話とした。講義の準備で「ゴールデン・ボックス」という黄金比を使った作品をあらためて検討しているうちに、山折りと谷折りを変えるだけで、薔薇のような模様ができることに気がついた。組むのはパズルだが、面白い。
黄金薔薇匣

◆ストレスは案外低い
タイガースファンは、プロ野球が始まってむしろストレスが増えたと言っているらしい。しかし、無観客ゲームで練習のような感覚もあり、まあこんなものかと、思いの外ストレスは低い。ただし、パ・リーグ最下位のバファローズの勝ち星の数は気になって、「今日のオリックスくんはどうかなあ」とチェックをしている。

◆『紙幣鶴』
斎藤茂吉が、『紙幣鶴』という短いエッセイ書いていたのを見つけた。1920年代、オーストリアのカフェで、彼の地の千円紙幣(この言いかたも面白い)で鶴を折って飛ばす女性が、「墺太利のお金は、こうやってどんどん飛ぶわ」とか 「 fliegende oesterreichische Kronen!」(オーストリアの王冠を飛ばすといった意味)と言っていたという話である。

飛ばしたといっても、たちまち床に落ちたとあるので、あまりよく飛ばなかったようで、それはそれで納得(ふつうの折鶴は紙飛行機のようには飛ばない)なのだが、気になるのは、長方形(約2:1)の紙幣で、どのように鶴を折ったのかということだ。まさか、正方形に切ったわけではあるまい。そもそも、それはほんとうに鶴だったのか。

折り畳んで正方形にしていたのであろうが、長方形をそのまま使ったとすれば面白い。長方形の頂点を、そのまま頂点とする四角形ではなく、長辺の中点ふたつと、長辺の延長が無限遠で「交わる」点ふたつ、その4点を頂点とする四角形を考えると、そのかたちからも、基本条件を満たす折鶴がきれいにできることを川崎敏和さんが指摘している。写真は、玩具のドル紙幣を用いて、その方法で折ったものだ。名付けてT$URU)。1920年代のオーストリアで、そんな鶴を折っていたひとがいたとは、まず考えられないけれど。
T$URU

◆『獨楽吟』
7月末に刊行される日本折紙学会の機関誌『折紙探偵団』に、『折り紙がでてくる小説から』という記事を書き、幕末の国学者・橘曙覧(たちばなあけみ)の『獨楽吟』から一首を引いて、題辞として使った。

たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中(うち)に我とひとしき人をみし時

『獨楽吟』は、「たのしみは」の初句で始まる五十二首で、ほかに次のような歌がある。

たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無かりし花の咲ける見る時
たのしみは常に見なれぬ鳥の来て軒遠からぬ樹に鳴きし時
たのしみは人も訪(と)ひこず事もなく心をいれて書(ふみ)を見る時

現在、基本的にリモートワークではなく、出勤して仕事をしているが、感染症による交流の自粛で、そうでなくても隠居じみていたわたしの生活は、よりその面が強化され、まさにこの歌みたいになっている。

家の周囲は、今年は草刈りが遅れたこともあって、螢袋(ヤマホタルブクロ)がよく育っている。花の上で羽化した蝉の抜け殻も見た。たぶん、蜩(ひぐらし)だ。一週間ほど前に今年初めてその声を聞いたばかりである。螢袋の花は、タコウィンナーにも似ていてるが、花弁は五裂で、桔梗の同類であることも主張している。
ヤマホタルブクロ

垂れて咲く螢袋は雨の花 澤村芳翠
かはるがはる蜂吐き出して釣鐘草 島村元

釣鐘草は螢袋の別名だ。この句のように、螢ならぬ蜂がその花の中に潜り込んでいるのはよく見る。暗闇で中に螢がはいっていたら雅趣があるが、家の近くには螢はいない。しかし、この季節になると螢を見たくなる。ということで、先日、より標高の低い螢の棲息地に行き、ふわふわと舞う螢火に、ああ今年も螢を見たなあと納得した。
螢

蜂と螢袋は共生しているようだが、ムシトリナデシコは戦っている。虫取撫子は、紅色の五弁の小さい花が、分岐する茎の先端に多数咲く野草だ。食虫植物ではないが、葉の下の茎に粘液を分泌する部分があり、虫が捕らえられる。写真は、じっさいに虫が脚をとられていたさまだ。受粉に利さない蟻のような虫を避けるということらしい。今年はじめてそれと知った花だが、父母の遺品である『日本大歳時記』にも載っていた。別名を小町草というのだそうだ。
虫取撫子

その歳時記によると、薊(あざみ)は春の季語だが、花期は初夏から夏なので、ひぐらしの季語が秋であることと同様に、納得しがたい。ただ、夏薊という季語もある。
薊の蕾
薊の蕾を初めてしみじみと見ると、向日葵の種のようなフィボナッチ螺旋状になっていてみごとだった。

というふうに、環境に恵まれていると、身の周りに広がる小世界でも、充分満足できる。しかし、こんな言葉もある。

草の庵を愛するも咎とす 閑寂に着するもさはりなるべし
(草庵を愛するのも罪である。静謐に執着するのも悟達の障害となる)(『方丈記』

隠遁者にも我執があることを述べているのだが、それとはまた別に、昨今は、小世界での充足の外の世界で苦しんでいるひとがいる情況を思わざるをえない。『橘曙覧全歌集』を通して読んださいも、曙覧が尊王攘夷思想に陶酔し、彼の自己肯定感が身辺と皇国日本だけを巡っているのには、もやもやした。

などと考えているからか、最近は、「ここは平和だなあ」が口癖になっている。夕刻にひぐらしの声を聞き、風に揺れる螢袋を見て、そう呟くこと自体、惧れであり、後ろめたさの表明なのだろう。ちなみに、「後ろめたい」の語源は「後ろ目痛し」すなわち、視線が痛いということであるという。

ブックデザインなど2020/06/21 10:18

◆ブックデザイン
『宇宙と素粒子』(千夜千冊エディション)(松岡正剛)の装幀に、作品を提供した。

宇宙と素粒子』(松岡正剛)

◆折り紙パズル
折り紙による幾何の問題を思いついた。自分で考えたいひとのために、解答は「シール」で隠しておく。

◇問題
・正方形の紙を折って、その中心に、面積1/25の正方形(辺が1/5の正方形)を作図せよ。
・工程は6回とする。
・1回の工程は、明確な目安で折り目をつけることのみとする。
(つまり、折って戻すことで直線を引くことのみとする)
(よって、6回の工程のうち4回は、正方形の辺を描く工程になる)

◇解答
1/25折り紙パズル

◆90度の1/4
ふと見た温度計が、22.5度という「折り紙好きのする数値」になっていたので、写真を撮った
22.5度

◆ひび割れ
先日、眼鏡が破損してつくりかえたが、今度は、スマートフォンの画面に盛大にひびがはいった。木製の床の上に1mぐらいの高さから落下し、それほど強い衝撃ではなかったと思うのだが、条件が重なったためか、みごとなひびになった。
ひび
ガラス面と床面が角度なしに両のてのひらを合わせるように衝突した。べゼル(枠)に接する部分にすでに小さな亀裂があったので、それが初期条件になって破壊が広がったようだ。それゆえか、端点(左下)から成長した、木の枝や稲妻に似た構造があるように見える。ある意味きれいで、寺田寅彦先生に見てもらいたい(!?)。

日食と角香箱2020/06/16 21:54

次の日曜日(6月21日)に、日食がある。日本では部分日食となるが、九州や沖縄など西南地方ではかなり大きく欠ける。『理科年表』を見ると、福岡での最大食分が0.618となっていた。おお、これは、黄金比の逆数ではないか。
21June2020日食

食分というのは、影の部分の幅/太陽の視直径という定義なので、下図のようになる(白い線については、後述)。なお、厳密には、月と太陽の視直径はぴったり同じではない。とくに今回は、中心食帯でも金環食なので、そのずれがある。影の部分の幅は、太陽の視半径+月の視半径-太陽と月の中心の角距離と定義される。ここではそれを単純化して描いた。

部分食の食分が黄金比であること自体にとくに意味はないが、ふたつの円が黄金比で交わるこの図を描いたのは、そこに面白い図形の性質はないだろうかと思ったからだ。そして、見ているうちに、「角香箱の近似黄金比」のことを思い出した。角香箱(つのこうばこ)というのは、伝承の折り紙作品のひとつである。それを思い出したのは、この図に、白い線で示したように、直角の1/4と1/8の近似値が見えるからだ。
食分黄金比の日食

折り紙になじみ深いそれらの角度から、黄金比のよい近似がでてくることがあることは、ほとんど知られていない。以前、永田紀子さんの折り紙作品を分析していて、この近似に気がついたのだが、わたしも、ほとんど忘れていた。「こんなところに黄金比の近似値があったなんて」ということを私信で伝えただけだったが、以下にそれを示す。
角香箱近似黄金比
この図に示したように、角香箱の底面の辺の長さと「口」の辺の長さの比は、ほぼ黄金比なのである。

日食に話を戻そう。『理科年表』の食の欠けかたを示す値は、食分だけであるが、面積比もわかりやすい指標だ。明るさが面積にほぼ比例するからだ。太陽も月も視直径が等しい円盤であるとして、食分(横軸)と面積比(縦軸)の関係は図のようになる。あまりきれいな式ではないが、グラフからもわかるように、この関係は、食分>0.4においてはほぼ直線で、面積比=1.2×食分-0.2と近似できる。
日食の食分と面積比

那覇の最大食分0.837から、面積比を上記の近似式で計算すると約0.8で、まだ20%の明るさがある。やや厚い曇りの日ぐらいだ。今回、中国やインドでは、金環食を見ることができるが、そのとき、太陽と月の視半径は、それぞれ、15分44.2秒と15分24.1秒(『理科年表』)で、これから計算される金環の面積は太陽の約100分の4となる。これはちいさな数字に思えるが、それでもかなり明るい。皆既日食のときは、コロナ(光冠)が見えるが、その明るさは太陽全体の100万分の1ぐらいなので、部分日食や金環日食ではそれを見ることはできない。100万分の1といっても、満月の明るさと同じ桁なのだが、いかに太陽本体が明るいかということだ。

なんてことを書いていると、半年前までは、コロナといえば太陽の光冠であり、太陽コロナに見た目が似ているコロナ放電であり、天文観測的には、かんむり座(Corona Borealis : CrB)と南のかんむり座(Corona Australis : CrA)であり、ストーブなどのメーカー(我が家にあるのもそうだ)で、そんな自動車の名前もあったよな、ということだったのになあ、と思う。

展開図、眼鏡、気球、サリンジャー、そして『しししし』2020/06/14 14:02

先日、ひさしぶりに都心の大型書店に行った。もとめた本のひとつが、歌集『展開図』(小島なお)だった。まずは、タイトルと装幀に惹かれた。円錐の展開図が、カバーと扉に描かれ、表紙では、その図がエンボスになって刻印されている(装幀:日本ハイコムデザイン室)。これはかっこいい。しかし、われながらめんどうくさいのだが、シンプルな幾何図形を見ると、検証をしたくなる。
『展開図』(小島なお)

円錐の展開図では、底面の円周と円錐面になる扇形の円弧の長さが一致していなくてはならない。したがって、360度/扇形の内角=扇形の半径/底面の半径となるはずだ。しかし、この図から計測した値は、360/扇形の内角=3.08で、扇形の半径/底面の半径=3.25で、わずかなずれがあった。3.08と3.25の違いを一瞥で読み取れたはずもないが、あらためて図に示すと、円錐面に糊しろができた。
『展開図』表紙から

字余りもまた定型詩の魅力であるということを象徴しているのかもしれない…とか。

そもそも、球と違って無限のバリエーションがある円錐で、なぜこのかたちなのだろうか。値が3.1前後なので、比率を円周率にするのは、きれいかもしれない。底面の半径を1とすれば、円錐面の面積がπ^2となって、特別な円錐という気がしないでもない。

次に考えたのは、√10=3.16...という比率だ。これも悪くない。こうすると、円錐の高さがぴたり3になり、底面の半径を1として、体積がちょうどπになる。

しかし、もっと単純に3とするのが、やはりすっきりときれいである。扇形の内角も120度でわかりやすいほかに、半径が同じ球と表面積(円錐面と底面の合計)が同じになる。
球と同じ表面積の円錐
半径と表面積が同じ球と円錐

歌の中にも円錐がでてくるものがあった。

林道に青鳩が鳴き十和田湖の円錐空間に雲が湧き立つ

ほぼ円形の湖を円錐の底面として、その上空に大きな円錐を描いたということか、巨大なスポットライトのような情景が目に浮かんだ。ただし、十和田湖を確認してみると、より円形と言えるのは田沢湖で、十和田湖は、M.C.エッシャーのモノグラム(サイン)のEの字のようなかたちである。

この歌集には、次の、数学を詠んだ歌もあった。

数学はきれいと教えてくれたひと壜底めがねの上原早霧(うえはらさぎり)

上原早霧という美しい名は、架空なのか実在なのかと検索すると、数学オリンピックの出場者にその名があり、スポーツデータの解析を行う会社・データスタジアムで活躍している研究者になっているひとだった。小島さんと同年代の若いひとだ。小島さんの歌には、この歌の他にも、陸上の桐生祥秀氏の名前をそのまま詠んだものなどもあるので、ニュースなどで見た名前なのだろう。小島さんから上原さんへの、異なる方面での才能への畏敬と解釈できるが、壜底めがねという強い表現からは、アイザック・アシモフのエッセイ『無学礼賛』(『生命と非生命の間』山高昭訳、所収)も思い出した。

アシモフは、そのエッセイで、眼鏡をかけた女性がそれを外すと魅力が増すというハリウッドの類型描写を痛烈に批判している。眼鏡が女性の魅力を損なうという考えは、「教養が目立ちすぎると社会で邪魔になり不幸をもたらす」「知性の発達がおさえられれば幸せがくる」ことを示す悪習であると断罪する。アシモフ自身も度の強うそうな眼鏡をかけていたので、その意味での恨みもあったのだろう。

眼鏡といえば、感染症の緊急事態がとりあえず解除されて、眼鏡店が営業再開するのを待って、眼鏡をあたらしくつくった。緊急事態中、横づらを車の窓にぶつけて、眼鏡のツルの先の樹脂の部分が割れてしまっていたのだ。その部品は交換すればよいとして、長年使ってレンズやフレームに細かな傷もあるので、あらたにもうひとつつくることにした。遠近両用眼鏡は、振り向いて後ろを見たとき(車のバックなど)に、顎が上がって近距離焦点部分で見てしまい、視野がぼやけることがある。これに対応するには、意識的に顎をひくとよいのだが、いつもうまくできない。窓に顔をぶつけたのも、横を向いたときのフォーカスのずれだと思うが、いずれにせよ、加齢ゆえなので気をつけなくてはならない。

とまあ、話があっちこっちに飛んでいるが、『展開図』には眼鏡を詠んだ歌もあった。

甲虫の肢(あし)内側に折るように眼鏡を畳むきょうの終わりは

小島さんも眼鏡をかけているのだろうか。それにしても、眼鏡のツルが昆虫の肢に似ているというのは、膝をたたきなるような見立てだ。甲虫ではないが、先日見た、アカスジキンカメムシの肢もまた、金属光沢で眼鏡のツルみたいだった。アカスジキンカメムシは、とくに珍しい虫ではないはずだが、歩く宝石とも呼ばれ、ひさびさに見た。
アカスジキンカメムシ

眼鏡店での視力検査のさい、小さなカタカナのほかに、気球の映像が映る機械も用いた。これで視力がわかるのですかと訊くと、「だいたいはわかります」との回答だった。原理をあとで調べると、無限遠を見るような映像 -地平線まで続く道の果てに見える気球- を見せ、水晶体に赤外線をあてて屈折状態を見る機械ということだった。この映像については、伊波真人さんによる、次の歌がある。

眼鏡屋で視力検査のとき見える気球の浮かぶ場所にいきたい

彼の歌集は手元になく、この歌はたまたま知ったのだが、一度読むと、あの機械による視力検査のたびに思い出すのが必至となる。なお、伊波さんの歌は、4月末に出た『しししし』の3号にも載っていた。『しししし』は、「双子のライオン堂」書店さんが年に一回刊行している文芸誌だ。

その、「双子のライオン堂」書店が、『本の雑誌』7月号の連載『本棚が見たい!』に、店主の竹田信弥さんの笑顔の写真とともにとりあげられて、ページをめくって「おっ」と声をあげてしまった。
「双子のライオン堂」(『本の雑誌』より)と『しししし』3号

『しししし』3号はサリンジャーを特集としているのだが、『展開図』の小島さんの第二歌集の題名は『サリンジャーは死んでしまった』という。

というような、若干のシンクロニシティじみたこともあったので、『しししし』を再度宣伝しておく。同誌は、小説、評論などのほかに、上記にように短歌も載っている文芸誌で、大槻香奈さんの装画による表紙もクールだ。

なぜかそこに、わたしの文章も載っている。しかも、専門の折り紙にも、仕事の天文にも直接関係がない、サリンジャーについての文章だ。以前、『折る幾何学』に関するイベントを双子のライオン堂さんでした縁だが、どこにいても場違いな感じがするわたしの有り様がにじみでている。

菫程小さき人に生まれたし2020/05/30 21:14

◆錐面の接続
「超立体」という商標のマスクは、超立方体(四次元正八胞体)とは関係はなく、ふたつの錐面の接続である。
錐面の接続

◆Funghetto
ドラゴンポテト
コンビニエンスストアで、「ドラゴンポテト」というスナック菓子に遭遇した。「"カリッ"と"サクッ"の3D食感」とのキャッチコピーがあり、「3D食感ってなんぞ」と思ったものの、面白いかたちであることは間違いない。ただ、これは独自のものではなく、フンゲット(イタリア語でキノコの意味)というパスタと同じ曲面である。

Funghetto曲面
この曲面はどうなっているのかと、数式をつかって描いてみた。パスタの形状を幾何学的に解析する『Pasta by Design』(G. L. Legendre)という本があり、欲しいと思いながらまだ入手していないのだが、フンゲットも載っているのかどうか、とても気になっている。

◆渡らないジョウビタキ
オレンジ色が目立つ小鳥がいて、ヤマガラにしては鮮やかだなと思ったが、黒い羽の白いワンポイントなどから、ジョウビタキ(♂)であることがわかった。図鑑によると、夏にはロシア方面に渡る、いわゆる冬鳥のはずなのだが、鳴き声からも間違いなくジョウビタキである。火打石に似る鳴き声からヒタキ(火焚き)と名づけられたという説もあるようだが、バードコールの「キッ」という摩擦音が一番近い。昨年まではこの声を聞いた記憶がなく、なぜ冬鳥が夏にいるのか、帰りそこねた『幸福な王子』の逆バージョンかと心配したのだが、この10年、北に帰らずに留鳥となり繁殖している観察例が多いそうで、研究者や日本野鳥の会も注目しているらしい。
ジョウビタキ

なお、昨日求めた『俗信の辞典 動物編』(鈴木棠三)には、「ヤマガラの少ない年は流行病が多い」云々と書いてあった。しかし、ヤマガラも普通に来ているのであった。まさに俗信である。

◆タンポポの綿毛
タンポポの綿毛
タンポポの綿毛を多面体として見ると、「4価頂点」が目立っているということに気づいた。あらためて考えてみると、花は球状ではないのに、熟してくるときれいに球状になるというのも面白い。花が終わったばかりの綿毛はゆるいドーム状で、段階を追って球状になる。球状になる意味で考えられるのは、風を受ける面積を増やすことや、散布を無方向にするといったことだが、どうなのだろう。上述のように、種の幾何学的な配置も面白いが、これは、りんごの皮むきというか、下図のように、球面状の螺旋のそって等間隔に種が並んでいるように見えなくもない。(追記:この構造は、ヒマワリで有名な螺旋の重なった花序とも類似している。じっさいはそちらの構造なのだろう)
タンポポ種子の配置の推定

◆スミレほど小さき人
タチツボスミレ
スミレを見ると、漱石の句が思い浮かぶ。

菫程小さき人に生まれたし

気難しいおじさんという漱石のイメージゆえか、スミレと言っても、宝塚的、星菫派的なきらきらしたものではなく、幻覚のような奇妙な味がある句だ。英国で妖精の話を見聞きしたことが影響しているのかもと思ったが、渡英の前の句で、コナン・ドイルも騙されたという「コティングリー妖精写真事件」もずっと後年のことであった。

『幻覚の脳科学 - 見てしまう人びと』(オリヴァー・サックス著、大田直子訳)によると、偏頭痛は、小人が見える幻覚を伴うこともあるらしい。偏頭痛持ちのルイス・キャロルが、『不思議の国のアリス』において、身体の拡大縮小を描写したのは、その影響ではないかともいう。ということで、漱石の小人感覚も偏頭痛のためか!と思った。芥川の歯車の幻覚が「閃輝暗点」の典型的な症状であることはよく知られているが、「スミレほど小さき人」は、その漱石版ではないか、と。しかし、漱石の愁訴は胃痛と肩こりと追跡妄想で、書簡等をつらつら見ても、比喩としての頭痛はあってもじっさいの頭痛の描写は見当たらないのであった。

とりとめのない話2020/05/24 16:41

◆幻の池
南アルプスと田植え前の水田
苗を植える前の水を張った水田が好きだ。見慣れた風景の中に、代掻きから田植えまでの短い間、多数の池が生まれる。写真は一週間ほど前のもので、山は、甲斐駒ケ岳から鳳凰山へと続く峰と、その向こうに白く輝く北岳である。

◆県外ナンバー
最近、ずっと職場(観測所)の近くにいるのだが、二地域居住者なので、車のナンバーは県外だ。これへの差別(!)を不安に思うひとのために、当地の自治体が、車に表示する「在住カード」を用意した。親切だが、それが必要となる世間というのは、なんだか息苦しい。

車の運転ということでは、次のような妙な心配もした。マスクに消毒アルコールをスプレイして乾燥前に装着したとき、飲酒運転検査にかかってしまう例はないのだろうか、と。

◆クラリネット協奏曲
隣家に、クラリネットのソリストが住んでいる。いまは、商売あがったりで、雌伏の状態だが、先日、その家から、モーツァルトのクラリネット協奏曲の練習の音がかすかに聞こえてきた。得した気分になり、しばらく家の外に出て聴いていた。昨今の自粛生活では、近隣の騒音トラブルもあるというのに、わたしはなんだか恵まれていて、大好きな曲の生演奏にうっとりしていた。

◆ヒヨコの変更版
ヒヨコ
先日できた折り紙のヒヨコの短い翼の出しかたを変更した。翼を上げたり下げたりさせることで、雛の何も考えていないバタバタ感がでて、愛らしくなった。

◆取材
5/17の『朝日中高生新聞』と、5/21の『朝日小学生新聞』で、『折る幾何学』が紹介された。電話取材と写真および図の提供であった。合目的的には、こういう取材で充分で、いままでの取材や会議でじっさいに会っていたのはなんだったのだろうと、この世相の中で、あらためて思う。ネットでのやりとりのほうが、言いたいことがうまく伝わることさえある。しかし、ひとに会うというのは、気が重いこともあるが、目的の決まったなにかのためだけではなく、きっかけであり、気分転換であり、そこから派生することが重要な場合もあるのを忘れてはいけない。

◆Unconvention
毎年NYで行われるOrigami USAのコンベンション(大会)が、テレビ会議システムをつかったunconventionとして開催されるという。unconventionという名詞は辞書にはないが、convention(大会、集会)という単語には「しきたり」という意味もあり、それの否定の形容詞化であるunconventionalという単語は、「慣習に従わない、型にはまらない、風変わりな」といった意味を持つ。ネイティブか英語に堪能でないと思いつかない、洒落た言葉遊びだ。より説明的には、unconventional conventionだろうか。いつも通りではない大会。

「unなになに」という名詞が存在せず、「unなになにal」という形容詞がある単語をほかにも探して、constitutionを見つけた。unconstitutionalには「憲法違反の」以外の意味はないようで、constitutionのほうに「憲法、規約、体質、構成、組織、政治体制」などの意味がある。unconstitutional constitutionは、憲法違反の政治体制といった意味になるのだろうか。なんだか笑えない。

◆福祉のパラドクス
『日本国憲法』第二十五条は、個人にたいして生存権(「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」)を保証し、国に「すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」ことを義務づける。思い出すのは、次の、福祉のパラドクスだ。

福祉のパラドクス:本当に困っているひとをだけを救おうとする政策は、本当に困っているひとを助けることはできない。

次のような言葉も連想する。

義務的なことは可能でなければならず、したがって不可能なことは義務的であってはならない『パラドクスの匣』(P・ヒューズ、G・ブレヒト著、柳瀬尚紀訳)より)

これは、解釈によっては、論理パズル的にも面白い命題になる。

◆あのひとと感染症
1665年、英国でペストが蔓延し、ロンドンだけで死者の数が3万人を超える惨状となった。ケンブリッジの各カレッジも閉鎖され、トリニティ・カレッジを卒業したばかりの23才の青年アイザック・ニュートンは、故郷ウルソープに帰ることになった。彼は2年間ひきこもって、ひとり研究に没頭し、科学史を塗り替える、というよりも、近代の扉を開く革命的な業績、すなわち、微積分、光に関する理論、万有引力の法則をつくりあげた。

という話は、今回の感染症の蔓延においても、「創造的休暇」として言及するひとが多かったエピソードだ。状況を奇貨として、自らの研鑽や学習、研究に励みなさいと。

しかし、これはかなり粉飾した話である、ということを、ずいぶん昔に読んだ記憶があった。書棚を探すと、岩波新書『ニュートン』(島尾永康、1979)にこのことが書いてあるのを見つけた。ニュートン自身の手帳、ケンブリッジの閉鎖状況などをつぶさに調べた研究(ホワイトサイド)よると、彼が1665年から1666年に驚異的な成果を出しているは間違いないが、この2年ずっと田舎にいたわけではなく、「重要な数学研究もまたほとんどケンブリッジ滞在中に、大学やコレッジの図書館を利用してなされたという結論は避けられない」というのだ。

感染症の蔓延からの疎開が、そのひとの転機になったという話が疑わしいということでは、以前調べたデューラーもそうだった。そもそも、デューラーの故郷ニュルンベルグでペストの蔓延は起きていないのではないか、と。

世の中がどうであっても、やるひとはやるというだけなのかもしれない。

◆スペイン風邪
とは言え、感染症の流行や戦争が、個人史に与える影響は大きい。『カルカッタの殺人』(A Rising Man、アビール・ムカジー著、田村義進訳)というミステリを最近読んだのだが、これはたいへんよくできた近代歴史ミステリで、物語の背景にスペイン風邪もでてきた。主人公が、インドに赴任したばかりの元スコットランド・ヤードの警部なのだが、第一次大戦の従軍と、スペイン風邪で妻を喪ったトラウマの中にある、という設定なのだ。舞台となる年は1919年である。

第一次世界大戦と1919年のインドとなると、警部が塹壕で対峙していた反対側には、オーストリー・ハンガリー帝国の兵士で、戦場で『論理哲学論考』の草稿を書いていたルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがいて、警部がインドに向かった船には、ケンブリッジで病んだ天才数学者・シュリニバーサ・ラマヌジャンが帰国するために乗っていたかもしれない、などと想像した。なお、ラマヌジャンの命を奪った病気は、インフルエンザではなく、結核かアメーバ性の肺炎だという。

上に、やるひとはやると書いたけれど、ウィトゲンシュタインの思索は、極限状態でなければ深まらず、ラマヌジャンは、イングランドでハーディーやリトルウッドと仕事をしなければ成果は残せなかった、とも思う。

◆柳田國男と永井荷風
スペイン風邪と言えば、柳田國男による、1920年の夏から秋の旅行の記録をもとにした『雪国の春』には、お盆の切子灯籠に関して、以下の記述がある。

不幸のあった翌々年の盆まで、この燈籠は掲げる習いになっている。(略)吉里吉里村などは、小高い所から振り返ってみると、ほとんど一戸として燈籠の木を立てぬ家はない。どうしてまたこのようなおびただしい数かと思うと、やはり昨年の流行感冒のためであったのだ。

井上ひさし氏の小説のモデルとして有名になる、岩手県の吉里吉里(きりきり)における、スペイン風邪の「後遺症」である。これは、以前、多面体(切子というのは多面体一般を意味することがある)や紙に関わる民俗を調べていたさいに見つけた。わたしは、こうした伝統的習俗と切れたところで育ったので、お盆の切子燈籠が、毎年ではなく、新盆とその翌年だったことを知って、へぇと思った。

なお、柳田の記述には「昨年の」とあるが、これはいわゆる第二波で、翌年には第三波がくる。永井荷風が罹患したのは、この第三波だ。(『断腸亭日乗』大正九年

正月十三日。体温四十度に昇る。

正月十九日。病床万一の事を慮りて遺書をしたゝむ。

正月廿二日。悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。
正月廿五日。母上余の病軽からざるを知り見舞に来らる。

正月卅一日。病後衰弱甚しく未起つ能はず。卻て書巻に親しむ。

荷風、このとき40歳。憔悴しきった時にかえって読書にふけるというのはリアルだ。

ふと、「命をとりとめる」と、「とりとめのない」が、いずれも「とりとめ」という言葉を使うことが気になって、考えた。いずれも「ちょっとしたきっかけ」という意味であるとすると、納得できる。

以上、とりとめのない話でした。

妖怪転じてヒヨコとなる2020/05/04 16:15

5月2日、第2回の折紙探偵団オンライン例会に参加した。講師は萩原元さんだった。
次は、約1ヶ月後の予定。こちらをチェックされたい。

萩原さんは、講習のほかにも、幕末の『暴瀉病流行日記』(山梨県立博物館蔵)という資料に記述されている、感染症退散の幻獣、ヨゲンノトリ(命名:山梨県立博物館)を折って、紹介していた。新作紹介の時間には、織田さんのアマビエもあった。

折り紙とは関係がないが、わたしは、アマビエの親戚であるアマビコの一種・尼彦入道と、そのまた親戚のアリエの図が載っている『帝都妖怪新聞』(湯本豪一)という本が手元にあったので、紹介した。アマビエと同様(というかアマビエはアマビコの派生らしい)、感染症の流行を予言し、その絵を写せば難から逃れられると言って去ったという幻獣たちである。
尼彦入道とアリエ(『

アマビエとアマビコの絵は、つい先日発売され、送っていただいた文芸誌『しししし』同封の、双子のライオン堂さんの絵葉書にも描いてあった。(すこし前にも書いたが、この文芸誌に、なぜか、わたしの文芸評論(?)が掲載されているのである)
アマビエとアマビコ(双子のライオン堂)

この絵を見ても、アマビエやアマビコのキャラクター性が高いことがわかるが、明治九年六月十七日の『甲府日日新聞』(現・山梨日日新聞)に載ったアリエ(上の『帝都妖怪新聞』の図参照)も負けていない。ヨゲンノトリをつくった萩原さんに、アリエも折ってみてと無茶振りをしたのだが、じつは、わたしも折ってみようと試行してみた。しかし、妖怪アリエ用に考えた顔の輪郭の構造が、ヒヨコぽくなっていって、当初の目的を離れてヒヨコが完成した。
ニワトリとヒヨコ

「背骨」を正方形用紙の対角線にすることでも、辺と辺の二等分線にすることでも、同じ輪郭、同じ大きさができるのが、このヒヨコの構造の面白さである。下の写真のお尻が可愛いのが辺の二等分線構造で、脚を三本にした「ヤタガラスの雛(!)」が対角線構造である。
ヒヨコとヤタガラスの雛

このヒヨコ、ちょっとした風でも倒れない安定感があるので、小鳥の餌場にヒマワリの種と一緒においたところ、シジュウカラとツーショットになった写真を撮ることができた。シジュウカラくん、初めは警戒していたが、くちばしの部分を正面からつつくなど、折り紙のヒヨコに喧嘩を売っていた。決定的瞬間を撮り損ねてしまったのが惜しい。
シジュウカラと折り紙のヒヨコ

ついでに、「小鳥」とヒマワリのタネの写真も。こちらは風ですぐ倒れる。
小鳥

Unfolding the Mystery of √22020/04/20 21:28

4月11日に新型コロナウィルス感染症で亡くなった、天才数学者・ジョン・ホートン・コンウェイさんについては、4月12日の書き込みでも触れたが、彼が、リチャード・K・ガイさんと共に書いた『数の本』(『The Book of Numbers』1996、根上生也訳)という、数学のたのしさを伝える本がある。(なお、なんと、ガイさんも、今年の3月9日に、103歳で亡くなっていた。新型コロナではないけれど)
『数の本』

この本では、√2という数が無理数であることの説明に、折り紙が使われている。
(これを知ったのは、『本格折り紙√2』を書いたあとだったので、同書では触れることができなかったのはすこし残念であった)。

正方形の辺と対角線の比率が、12対17という整数比だとする。これを図の右のように折る。すると、ちいさな直角二等辺三角形が現れる。これの短辺と長辺の比率も同じになるはずだが、そうすると、17/12 = 7/5ということになってしまう。
同様に、別の整数aとbをおいても、異なる整数の比で表せることになって矛盾が生じる。これはつまり、整数比では表せない比率なのである、という話だ。きっちりとした証明にするには、さらなる工夫が必要だが、ほかで見たことがない説明が面白く、折り紙をつかっていることがうれしかった。

ちなみに、根上さんの訳文では「折り紙を使って説明できます」となっているが、残念ながら、原文には「Origami」という単語はなく、直訳すれば、「√2の無理数性は、正方形の折り畳みで示すことができます」という記述であった。いっぽう、図7.3のキャプション「√2の謎を解き明かす」の原文は、「Unfolding the mystery of √2」となっていて、「明らかにする」と「展開する」という意味のあるunfoldingという言葉を使っているのが洒落ている。

また、この直後にでてくる、「整数の平方根が整数にならなければ、それは有理数ではない」、つまり、整数の平方根には整数と無理数しかない、という命題も、わたしには目からウロコだった。

風ひかぬ魘(まじない)2020/04/18 20:39

日本折紙学会のオンライン例会で講師を担当した。まずはやってみようということだが、会の関係者には有能なひとが多いので、とてもたのもしい。

オンライン例会・講習作品
講習作品は「(ちょっとかっこいい)兜」と「折り紙作品を飾る台」という、シンプルな作品とした。「兜」は、中央の「鍬形台」のかたちにバリエーションがあって、正八角形の半分になっているもの(左)は、下に折り返すと、顔のガードである「面頬(めんぽお)」みたいにもなる。「台」は、ネコが乗っているもので、きっちりした角錐台である。

写真の後ろに置いた絵は、『北斎漫画三編』(青幻社の文庫版より)から、鍾馗と疫神である。五月人形で知られる鍾馗は、病魔退散の神でもある。なぜ端午の節句に、鍾馗や兜が関わるようになったのかは、調べるといろいろ興味深い。

江戸末期の考証随筆『嬉遊笑覧』にも「鍾馗画、風神送り」の項があり、「風ひかぬ魘(まじない)に鍾馗の画像を用ること」という記述にはじまり、『東海談』(大田南畝編)から以下の文章が引用されている。

享保十八年七月上旬より、東都に疫癘(えきれい)行り、上下貴賎みな此気に中(あた)りて病(やむ)。十三・十四日の頃、大路往来もたえだえ也。これは医書のいはゆる天行時疫といふものか。邑里(ゆうり)ともに藁にて疫神の形を作り、かね太鼓をならして是を送り、南海に流しぬ。官もゆるして咎めず。是(これ)戯(たわむれ)なりといへども、又三代の遺風なりと思はる

「天行」も「時疫」も、いまでいう感染症のことである。これは、1733年、数年前にヨーロッパで流行したインフルエンザが日本にも上陸したことを記したものだ。この年、江戸では1ヶ月に8万人のひとが死んだという。そして、隅田川の花火は、この年から死者を弔う施餓鬼として始まったのだそうだ。現在の世界もたいへんな状態だが、ご先祖さまも同様のことを生き延びてきたのである。関連する話として、次号『折紙探偵団』の連載コラムに、「ユニット折り紙は感染症を避けるおまじないの伝統につながって…いなくもない」という話を書いた。

ユニット折り紙もソーシャル・ディスタンス(その2)
ソーシャル・ディスタンスをとるユニット折り紙(作品:犇犇薗部(ひしひしそのべ))のCGその2も載せておく。