五出ナル説、取リ難シ2010/01/24 23:12

五出ナル説、取リ難シ
立春後ノ雪、ミナ五出ナル説アレトモ、取リ難シ
『雪華圖説』(土井利位1832)

 イルミネーションなどでもたまに間違いを見ることがあるが、日清の『CUP NOODLE WHITE クリームシチューヌードル』のパッケージの雪の結晶(?)が、五角形だったのは残念だった。ひとつだけそうなのではなく、カップやフタに散りばめたすべてがそうなっているのだ。誰も指摘するひとはいなかったのだろうか。それとも、なにか事情があるのだろうか。しかしそうであっても、サイエンスリテラシーの問題(?)だ。雪の異称が、六花(ろっか、りっか、むつのはな)なのは基本でしょう…

 ただし、雪の結晶と言えば六角形かというと、それも間違いである。単に不定形にくずれたものというのではなく、次のような結晶もあるのだ。
普通に雪の結晶の代表と思われている六花状のあらゆる種類の結晶は勿論のこと、余り知られていないところの樹枝状の結晶の枝が立体的に伸びているもの、それから稀(めず)らしいとされている角錐状の結晶、鼓型の結晶、それが数段になっている段々鼓型などの結晶...
昨年の冬には二核から成る結晶の存在が確かめられて、従来多年の懸案となっていた三花や四花の結晶の成因がすらすらと解決...
(いずれも『雪の十勝』(中谷宇吉郎)から)

 以上のように、雪の結晶にはさまざまある。しかし五角はない。

 ということで、今日は、コンビニエンスストアでこのカップラーメンを購入したあと、『中谷宇吉郎随筆集』を読み直していた。すると、こころに染みてくる文章にいくつか出会った(再会した)。
 寒い目にあって散々苦労をして、こんな雪の研究なんかしても、さてそれが一体何の役に立つのかといわれれば、本当のところはまだ自分にも何ら確信はない。しかし面白いことは随分面白いと自分では思っている。世の中には面白くさえもないものも沢山あるのだから、こんな研究の一つ位はあっても良いだろうと自ら慰めている次第である。
(『雪雑記』)
 1937年、盧溝橋事件の年、いわば、戦時下の随筆の結びである。まったく古びていないというか、新しい。終戦からわずか2ヶ月後の『原子爆弾の話』(1945.10)もたいへんな先見の明である。
しかし私は負け惜しみでなく、原子爆弾が我が国で発明されなかったことを、我が民族の将来のためには有難いことではなかろうかと思っている。「原子核内の勢力が兵器に利用される日が来ない方が人類のためには望ましい」という考(え)は、八年前も今も変わらない。
「原子核内の勢力が兵器に..」とあるのは1937年の『弓と鉄砲』という文章の自引用だが、ウランの核分裂発見は1938-9年である。
米英両国以外でも間もなく色々な型の原子爆弾が出来る日はもう遠くあるまい。そしてそれが長距離ロケット砲と組み合わされて、地球上を縦横にとび廻る日に人類最後の姿を想像することは止めよう。
 「科学は人類に幸福をもたらすものではない」という西欧の哲人の言葉は、益々はっきりと浮かび上がって来そうな気配がある。しかし科学というものは本来は、そういうものではないはずである。自然がその奥深くに秘めた神秘への人間の憧憬の心が科学の心である。われわれの次の時代の科学はもっと本来の姿のものであって欲しい。そういう願いを持つ人は、我国ばかりではなく、米国にも英国にも沢山いることであろう。

 それから65年、まだ、中谷宇吉郎先生の想った「次の時代」にはなっていないようである。