「充填八面体」 ― 2008/12/01 23:21
そして、このかたちが、1対√2の長方形から正方形を切り出した余り(1対1+√2)2枚からすっきりと組めることも発見した。1対√2の長方形2枚組よりも、紙の隅が隠れるので、工芸的完成度は高いとも言える。写真右のように、透明の素材を使っても面白い。透明素材は折りにくいが、折り目が少ないモデルには悪くない。
「カクテルグラスキューブ」 ― 2008/12/01 23:23
カクテルグラスや乾杯のシャンペングラスが円錐形なのは、飲み切りサイズのためだという。円柱と円錐は、高さと口径が同じならば体積は3対1になるわけで、いわば「幾何学的上げ底」である。このかたちは、「こわれもの(Fragile)マーク」という印象も強い。
正四面体 ― 2008/12/01 23:25
ひとは立体図形そのものをイメージすることはなく、それを平面図形で代用する場合がほとんどなのだろう、ピラミッドは、四角錐というより三角形のイメージなのである。ピラミッドと言えば、金字塔という言葉が本来は「金の字に似た塔」でピラミッドを意味することを知ったときは、なるほどであった。
四面体として最も身近な品物は牛乳のテトラパックだったが、これは最近あまりみかけなくなった。そして、見たさいには確認してほしいのだが、じつは、テトラパックの面は正三角形ではない。すなわち、正四面体ではない。それをすこし引き延ばした二等辺三角形による四面体なのだ。
正四面体に近いかたちでは、ソバの実、砂糖菓子、コーヒーシュガーや豆菓子の小袋などがあるが、最もよく見る正四面体的物品は、消波ブロック、いわゆるテトラポッドだろう。正四面体の中心から各頂点への線をふくらませたかたちが一般的だが、稜線が構造材となったタイプもある。写真がそれで、先日長崎県の福江島で見たものだ。
なお、写真のモデルは、「表裏同等穴開き正四面体」なるもので、見た目よりずっと難しい。用紙形は正方形で、中央に正方形の面が隠れている。神谷哲史さんによるよく似た前例を見た記憶がある。
月見団子の積みかた ― 2008/12/02 21:39
四角錐に積めば、9+4+1=14、三角錐なら、10+6+3+1=20、または、6+3+1=10 で、15個をうまく積むことは難しいのである。取りあえず納得した積みかたは、図右下のような、1段目と2段目が台形の、9+5+1というかたちであった。
和菓子屋さんでパッケージされた月見団子には、白い団子が14個で黄色い団子がひとつというものもある。この場合、14個を四角錐に積んで、1個を横に置くのがよいと思う。
ガードパイプの研究と記号化された梅の花に関する考察 ― 2008/12/03 20:30
物好きとしか言いようがないが、好事家・M氏は、ガードパイプのコレクションをしていたこともある。その中から数点を紹介しよう。
都道はイチョウだが、国道は目玉(?)である。ちなみに、この目玉タイプには、切れ長やどんぐり眼などがある。そして、東京都北区には北の字があり、山梨に行けば、富士や逆さ富士、長野市ではリンゴを見ることができる。リンゴは、青森県にも別種のものがあったのだが、その写真を撮り損ねて、M氏はたいへんくやしい思いをしている。
東京都府中市には、樹木・鳥・梅の3点セットがある。市のシンボルの欅と雲雀と梅をかたどったものだが、中でも興味深いのは梅(右下)だ。
梅の花はこのようなかたちで図案化されることが多いが、思えばこれは奇妙なものである。これは、本来、五弁の花を斜めから見た図である。じっさい、江戸初期の、たとえば尾形光琳の絵や図案などを見ると、手前の花弁は楕円などに描かれて、写実性を残している。しかし、いつのころからか、これが小さい円で描かれるものが出るようになる。どう見ても手前の花弁が小さく見える図で、投影法や遠近法から大きく逸脱した描法である。しかし、花札の図案などはまさにこの図が使われ、梅の花の記号として定着していくのだ。この記号性を知らないと、このガードパイプは、幼児の描いた車か、鼻孔を強調した鼻のようにも見えるであろう。
誤植4 明解と明快 ― 2008/12/05 21:36
69ページ「立ち姿の鶴」
誤:角度を規格化することは、作品を明解にする近道のひとつです。85ページ「馬」
正:角度を規格化することは、作品を明快にする近道のひとつです。
誤:明解な構成ですが、基準のA点を見つけるのには、ちょっとした工夫が必要です。
正:明快な構成ですが、基準のA点を見つけるのには、ちょっとした工夫が必要です。
わたしの頭にあったのはクリアという意味だが、いままで意識の上にあがらなかった間違いだった。ワープロが明快と変換していれば、それはそれで、そのままだったようにも思う。洒落の「洒」の字を、ずっと「酒(サケ)」という字だと思っていて、そうでないことを知ったときに愕然としたことなども思い出した。
さて。
「明快」は「さっぱりして心持ちのよいこと。筋道が明らかですっきりしていること」(広辞苑 第五版)で、「明快な」というふうに形容動詞的にも使われる。論理メイカイも単純メイカイも「明快」である。
一方、「明解」は「はっきりと解釈すること、明白にわかること」(広辞苑 第五版)である。
これだけでは、それこそ「明白にはわからない」が、「明解」を「半解」や「正解」「詳解」に対応する単語と考えると、すこしわかりやすくなった。「明解」は、「解釈」や「解説」という範疇の中にある言葉なのである。つまり、「解釈」や「解説」は「明解」になるが、「作品」や「構成」は「明解」にはならない。さらに言えば、もともと「解釈」や「解説」という限定した意味をさらに限定した言葉なので、単語を限定するために使う形容動詞的な「明解な」という用法も、あまり適切ではない、と思われる。
ただし、「明解」が「正解」や「詳解」に対応しきっているかというと、これにも疑問はある。「正解する」や「詳解する」という表現はあるが、「明解する」は聞いたことがないからだ。こうしたことは、「明解」の意味・用法に、「明快」のそれが浸食してきているためではないか、とも思う。じっさい、自らを棚にあげる口実ではないが、「明快」と「明解」の誤用・混同は広く見られる。快という文字が享楽的なものを連想させ、解のほうが理性的に思えるためかもしれない。
なお、角度を規格化することで折り紙作品が明快になるのかどうか、わたしの「馬」の折り目の構成が明快かどうかは、読者の判断にまかせたい。
それにしても、書籍をつくるということは、恥をかくことでもあるのを実感している。この国のいまの首相の読み間違いは度を越しているが、ひとのことは笑えない。
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