石の表層としての世界2008/12/06 00:22

 『日本石巡礼』(須田郡司著)をぱらぱらとめくっている。著者の須田さんは「フォトグラファー(石の写真・語りべ」である。
 写真の中には、当然(と言ってよいだろう)、甲斐の丸石神の写真もある。山梨市七日市場の、数ある丸石神の中でも最大とされるものだ。わたしは、まだこの実物を見ていない。桃畑のわきにあるものなので、来春にでも見てこようと思っている。

 この本をながめつつ、石の魅力とはなんだろうかと考えた。とりあえずの結論は、この世界において、石が、質量と輪郭と表層として機能していること、と思いいたった。三つも挙げるといろいろ機能があるということかと思うかもしれないが、そうではなく、単純であるとの意味である。
 生物や機械は、複雑な機能を持ち、その機能に対応して構造も複雑である。輪郭は単純であっても、内部の構造はややこしい。しかも、それらは、ときに予想に反する振る舞いをする。あるいは、すぐに壊れてしまう。自らの肉体もそういうものなのだが、そうしたものは、気になり出すとどうにも落ち着かなくなる。
 石にはそんなことはない。石を見るとき、その内部の構造など想像しないひとがおおかただろう。同じようなものがぎっしり詰まっていると思うだけである。じっさい、ほとんどの石がそうである。この単純さがよい。なにがはいっているのかわからない箱を渡されて、それを開けることができないとき、ひとは不安になる。世界に存在するものはだいたいがそうしたものである。しかし、石はただ、質量と輪郭と表層として存在する。じっさいにそうであるかどうかは別にして、石という「箱」は、ぎっしり詰まっていながら、あるいは、それゆえにこそ、内部を意識させず、ただそこにある。この小細工のなさが心地よい。