謎に迷う2009/11/19 23:01

謎に迷う
 綾辻行人さんの辻の字のしんにょうは、点がふたつである。謎という字もそうだったような記憶があったが、手持ちのパソコン(Mac)でふつうにタイプすると、点はひとつだった。
 しかし、「ヒラギノ明朝ProN」など、Nのつくヒラギノフォントでは、同じ文字コードで、点がふたつになった。「辻」もそうであり、ほかにも、釈迦の「迦」や遁走の「遁」、遡行の「遡」などがそうだった。「異体字」がコードによってではなく、フォントで区別されているのである。そういうものもあるのか、と認識を新たにした。面白いのは、「謎」の「つくり」となっている「迷」のしんにょうであった。これは、「ヒラギノ明朝 ProN」などでも、点ひとつのしんにょうなのである。

週末は折り紙三昧2009/11/23 18:53

フクロウなど
 今日は、たっぷりと寝坊をして、妻からの電話で起き、簡単に家事をしたあと、冬枯れの落葉松林の中を散歩するという、「なべて世はこともなし」というか、妻からも「優雅ねえ」と言われた日だったが、前日まで、車での移動距離が長く、ばたばたと、しかし、たのしい日々を過ごしていた。

 金曜日は、途中からだったが、「計算力学援用による折紙工学の推進とその応用に関する調査研究分科会」に顔を出し、杉原厚吉さんの不可能立体を紙でモデル化する話、小林秀敏さんの、芽や蕾の中の花弁の折り畳みを数理的に解析する話、宮崎興二さんの四次元幾何の話と、興味深い話を聞くことができた。懇親会では、杉原厚吉さんとちょっとだけエッシャー談義も。

 また、土日の「折紙探偵団名古屋コンベンション」では、ひさしぶりに、ゆったりと、ほとんど折り紙のことだけを考えて過ごした。講習したのは、「フクロウ」(別名「袋状フクロウ」)と「表裏同等正四面体」。(写真:田中将司さんの「タイニータナカタイガー」も映っている)
「表裏同等正四面体」は、講習したのは正方形版だが、 変則用紙形版もある。そして、期間中にもっとエレガントな 変則用紙形版を思いつき(写真右下)、自ら「これはいいぞ」と納得してしまった。(わたしは自分のモデルを「傑作だ」と言うらしく、「前川さんは、自分が好きなんだよなあ」などと笑われる)
 なお、金曜日の会でも会ったWさんは、コンベンションにも出席予定だったが、体調不良で出席できなくなり、残念で、心配。

穴の開いた包み紙を閉じる2009/11/26 02:05

穴の開いた包み紙を閉じる
 さて寝るかというときに、靴下に穴が開いているのを見て、「穴の開いた紙で、エレガントにきちんと閉じたかたちをつくる」というアイデアが突然降ってきた。明日の朝も早いし寝なければと思いつつ、どうしても気になって、はまってしまった。かなり会心のものができたが、いかん、もう こんな時間だ。

『アフリカにょろり旅』2009/11/26 23:46

 「事業仕分け」ですばる望遠鏡の経費も削られるとのニュースが流れ、メールボックスの中に、それに対しての緊急アピール集会のメールを見つけた今日、たまたま読み始めた、東京大学海洋研究所「ウナギグループ」の著者による、ウナギ探索冒険記『アフリカにょろり旅』(青山潤著)という、めっぽう面白い本で、以下のくだりに遭遇した。
大学院修士課程を終えた私は、ある時、ひょんなことから塚本教授に食ってかかった。
「研究者なんて糞だと思います。何もできないくせに口ばっかりで!」
すると窓の外に目をやった先生は、静かな声でこう言った。
「糞だって時間が経てば肥料になるんだ。百年二百年先には役に立つかもしれないじゃないか」
(そんな事じゃない! 今、この瞬間にも役立っているのかってことだ。ただの空論なんて聞きたくもない) キッと睨みつける私の視線を、先生は寂しそうな顔で受けとめた。
 しばらくたって、市民講座で先生の講演を聴いた。私にとっては目新しくもない「いつものウナギの話」だった。しかし、講演の後、決して豊かとは言えない身なりをした老人と孫なのだろう、連れて来た子供が目をキラキラ輝かせ、話す声が耳に残った。
「面白かったね。ウナギはすごい所まで泳いで行くんだね。不思議だね」
 その時私は、初めて生態学研究が何も作り出さないのではなく、自分自身が作り出したものを料理出来ないだけだったことに気がついた。
(そうか、俺が未熟なだけだったんだ)
 一見なんの役にも立たないようだが、研究活動は立派に人々の心の糧を作り出していたのである。

 そもそも、研究には、何かの「実利」を目的とするものと、好奇心という理由以外のなにもないものがある。研究者の名誉や生活なんてこともあるが、それらはとりあえずカッコにいれておく。多くの場合、名誉は小さな灯火で、報酬は少ない。好奇心という動機に基づくものに対して、役に立つ云々という問い、それは、文学が何の役に立つのか、音楽が何の役に立つのか、という問いにほぼ等しい。

 フェルミ研究所のロバート・ウィルソンが、大型加速器を視察にきた上院議員に応対した話も有名だ。(ちょっとひっかかるところもあるのだが、それは措く)
バスター上院議員「この加速器は我が国の防衛の役に立つのかね」
ウィルソン「何の役にも立ちませんが、我が国を守るべき価値あるものにすることには関係があります」

 ファラデーの話もよく知られている。
某貴婦人「その発見というのは、何の役に立ちますの?」
ファラデー「生まれたばかりの赤ん坊が何の役に立つのかと言われても困ります」

 「それはなんの役に立つの」という問いは、じっさいに問いであることもあるが、その多くは、「わたしは興味が持てない」という告白なのではないか。
 『アフリカにょろり旅』は、上の引用のあと、以下のように続いていた。
思えば、アンデスの友人たちも夜空を見上げて、星の不思議について語り合っていた。たとえ貧しくとも、人が人である限り、知的好奇心は心の栄養になっていることを知った。