アンティキテラの機械2009/10/03 10:22

  『アンティキテラ - 古代ギリシアのコンピュータ』(ジョー・マーチャント著 木村博江訳)を読み了えた。
 いまから約100年前、ギリシア・アンティキテラ島の沿岸、2000年前の沈没船の中で、いわゆる「オーパーツ(場違いな遺物)」が発見された。青銅製の精巧な歯車を組み合わせたその機械は、1000年以上時代を先んじているとしか思えず、あまりにも謎めいていたため、深く研究もされず、博物館の倉庫に眠っている時間が長かった。しかし、近年になって、想像していた以上の驚くべき機能を持っていたことが判明した。
 というわけで、その遺物の研究の歴史を記したノンフィクションがこの本だ。
 興味深かったのは、まず、この機械の具体的な機構だった(なんとなく仕事に関係しているので)。そして、この機械のルーツにアルキメデスが関係しているらしいということに驚いた。どんだけ天才なんだよ、アルキメデスさん。
 さらに、古代ギリシア文明の重要な部分が、ローマ・ヨーロッパ世界には直接継承されず、アラブ・イスラム世界に継承されたという記述に、深く頷いた。オーパーツだと騒ぐのもヨーロッパ視点ゆえのことだと言える。イスラムは、古代ギリシア文明のみならず、インド文明も吸収し、ルネサンスへの架橋となった。このあたりの話を概観するには、『地中海世界のイスラム - ヨーロッパとの出会い』(ウィリアム・モンゴメリ・ワット著 三木亘訳)という本がわかりやすかった。
 人間ドラマとしては、Ph.D.を持たない学芸員・マイケル・ライトの奮闘の物語にこころが動いた。
 とまあ、以上にように、これは読みどころ満載の本なのであった。

『本格折り紙√2』2009/10/08 21:13

『本格折り紙√2』
 『本格折り紙』の続編・『本格折り紙√2』(本格折り紙ルート2)が、来週あたりから書店に並びます。amazon等のネット書店はまだのようです。(10/9から、amazonなどでも)定価は2200円+税。
 『2』ならぬ『√2』なのは、数点を除き、A4などの規格用紙に使われている1対√2の比率の紙からの作品ばかりを集めた本だからです。
(なぜか、新刊告知は、ですます調)

 本を出版するのは、うれしいと同時に、どこか気恥ずかしい。思い浮かぶのは、次の歌。
いつか是非、
出さんと思ふ本のこと、
表紙のことなど、
妻に語れる。
(石川啄木)

松籟2009/10/15 21:25

風向風速
 一週間前の台風が来た日、野辺山観測所の観測棟で試験をしていたのだけれど(望遠鏡は待機状態)、ふと見た風向風速の気象情報モニタが興味深かった。
 最大風速(写真赤)は8時30分頃に26メートルで、それはまあそんなもんかなという感じなのだが、その直前を境に、風向(写真緑)ががらりと変わっているのだ。台風が近くを通り過ぎた時刻なのだろう。

 こういう特殊な場合だけではなく、通常の風速の変動、すなわち「風の息」というのも面白い。風の強さの分布は、地震の強度のように、たぶん冪(べき)乗則(たとえば、強さが2倍のものの頻度は2の2乗分の1の1/4になるとか)に従っているのだろう。

 そして、そういう分析的なものでなくても、ぼんやりと梢をわたる風を見ていても、小さな神秘を感じることがある。いちばん不思議だなと思うのは、ぴたりと止まっていた風がふと動き始めるときだ。きっかけのようなものはなにもないように思えるのだが、逆に、絶妙なタイミングにも感じられる。

 いま、八ヶ岳山麓は、落葉松(からまつ)が、(まだやや早いが)落葉の季節である。凍ったように止まっていた枝に突然の風が過ぎると、黄金色の小さな針葉がざーっと舞う。それは、ほんとうに、なにかの呼吸のようだ。

 松の葉を渡る風や、その音を指す、松籟(しょうらい)、松韻(しょういん)という言葉がある。なぜ、松だけに特別な言葉があるのか、落葉松の場合にもそう呼ぶのかはわからないが、この季節、落葉松を渡る風の音は、わたしの小さな詩心を呼び起こす。
 野原と云つても多くは落葉松の林である。見る限りうす黄に染つたこの若木のうち続いてゐる様はすさまじくもあり、また美しくも見えた。方数里に亙つてこれであろう。
『木枯紀行』(若山牧水)
 牧水が、約100年前の野辺山原のことを書いたものだ。落葉松が「若木」なのは、植林したばかりだからだろう(八ヶ岳南麓の落葉松のほとんどは人工林である)

からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
(略)

世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
『落葉松』(北原白秋)より
 これは、浅間山麓の詩だが、口ずさむことがある。暗唱しているわけではないので、細部は変わってしまっている。「からまつの林を過ぎて、わが行く道はつづけり。」とか。

パレイドリア2009/10/15 21:57

秋の妖精
 板の節目や壁のしみ、雲のかたちなどが意味のある画像に見える錯角を、心理学用語でパレイドリアというらしい。エイドス(形相)に、副・偽などを意味するパラをつけた言葉だ。病的なものではなく、だれにでも起きる錯角である。最も見えやすいかたちは、ひとの顔だ。社会的動物であるヒトは、顔という情報にきわめて敏感であるためだ。
 写真は、先日散歩していて見つけた「秋の妖精」。虫食い穴の位置が絶妙だ。最近のカメラについている顔検知機能は、この木の葉に反応するだろうか。

ホームにて2009/10/17 19:12

プラットフォームのジャコランタン
 顔に見えるものといえば、今日、とある駅で、ジャコランタン(ハロウィンのカボチャ提灯)を発見。ジャコランタンの「目」は三角なのが基本だけれど、「口」のぎざぎざがそれらしいので、ああハロウィンだなあ、と。

「コンセント小僧」ほか2009/10/20 20:52

「コンセント小僧」
 顔に見えるシリーズ。「コンセント小僧」を二種類。驚く双子と、怯える四人組。

 なお、ひとつ前の記事に書いた、「ホームの線」で、次のようなことを思い出した。
 たぶん、きわめて小数派だと思うが、わたしは、「黄色い線の内側でお待ちください」というアナウンスを聞くと、「内側ではなく、外側ではないか」と思ってしまうのである。
 駅のプラットフォームというのは、一見、狭く閉じた領域に見えるが、跨線橋や改札を通じて、鉄道システムの「外」にある広い世界につながっている場所である。いっぽう、黄色い線の向こう側の「線路の領域」は、内側と呼ぶのに相応しい閉じた領域ではないか…と。

ビリリのおじさん2009/10/22 20:16

ビリリのおじさん
 コンセントファミリーからもうひとりどうぞ。
 「手」のポーズが「レレレのおじさん」を彷彿とさせる「ビリリのおじさん」です。

正弦曲線と折鶴2009/10/25 17:17

正弦波
 堀江敏幸さんのエッセイ集『正弦曲線』に、「折紙で赤い鶴を折り、ネギを切るひと」と題された一編があった。黒田三郎さんの『夕方の三十分』という詩を紹介し、その詩の一節「折紙で赤い鶴を折る/ネギを切る」を、そのままエッセイのタイトルにした一編である。堀江さんの文で折り紙に遭遇したのは、三回目だろうか。
コンロから御飯をおろす
卵を割ってかきまぜる
合間にウィスキイをひと口飲む
折紙で赤い鶴を折る
ネギを切る
一畳に足りない台所につっ立ったままで
夕方の三十分

僕は腕のいい女中で
酒飲みで
オトーチャマ
小さなユリの御機嫌とりまで
いっぺんにやらなきゃならん
半日他人の家で暮したので
小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う
(『夕方の三十分』(黒田三郎)から)

 本のタイトルの『正弦曲線』は、『優雅な袋小路 -正弦曲線としての生』というエッセイなどからとられたものだ。「サイン、コサイン、タンジェント」という言葉の呪文じみた響きや「正弦」という言葉の字面の話題からはじまって、うねうねした波を思う内容である。

 正弦曲線と言えば、一ヶ月ほど前、小海町高原美術館で観た「オリバー・マースデン展」も思い出した。
 一周期のサイン波だけが描かれた、たしか『サイン波の調和』と題された、4号か5号ぐらいの小さい絵があった。正確には、ベージュ色のキャンバスに白い絵の具を塗り、正弦曲線のところだけキャンバスの色を残すという描きかただった。写真の撮りかたなのか、色調が記憶と違うが、このページにちょっと写っている。横長5mぐらいの大きいキャンバスを使った、回転対称の心拍のような波形を描いた「波の調和」という作品もあった。電波観測所の玄関に飾るのに最適な絵かもしれない。

 堀江敏幸さんの本は、装丁がいつも美しいが、この本はまた特別だ。ふつうの単行本よりやや小さく、エンボスのついた函入りになっている。装丁家は間村俊一さん。
 最近、函入りの本というのは少なくなったと思うが、じっさいはどうなのだろう。20年前に物故した、本の装丁をたくさん手がけた叔父がいたのだが、四半世紀前は、いまよりも函入りの本が多かったように思う。

Je pense, donc je suis.2009/10/25 19:12

 堀江敏幸さんのエッセイ集『正弦曲線』では、フランス語の「Je pense, donc je suis.」(我思う、ゆえに我あり)が「我包帯を巻く、ゆえに我あり」に聞こえてしまう、というジョークがあることも知った。

 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、ラテン語の「Cogito, ergo sum.」として知られるが、もともとラテン語だったのではなく、デカルトの母語であるフランス語による「Je pense, donc je suis.」がオリジナルである、ということを最近知って、以下のようなことを考えたばかりだった。

 「Je pense, donc je suis.」をラテン語に訳したのは、メルセンヌ素数で知られるメルセンヌ神父だとのことだ。それはさておき、ラテン語は動詞に人称語尾があって人称代名詞が省略されることが多いようで、まさに「Cogito,..」もそうなっていると見える。
 で、このラテン語訳が本家本元のように流通しているのは、この「名言」にとって、あまり望ましい状況ではないのでは…、というのが、ここでの話である。

 フランス語の「Je pense, donc je suis.」では人称代名詞のJeが2回でてくる。日本語訳の「我思う、ゆえに我あり」や英訳の「I think. therefore I am.」も同じだ。わたしはもちろん「我思う...」としてこの命題を知ったのだが、そのとき、「我」が2回でてくるところがキーであると感じた。そう思ったひとはほかにも多いはずで、じっさい、そのことを言っていた友人がいたことも思い出される。人称代名詞の繰り返しは、後段が「存在」の述語であることと相まって、この命題がトリッキーな自己言及構造であることを明示している、と言えなくもない。この命題は、それ自身が「ジェネレータ」(フラクタル幾何学で基本となる図形)となり、「我思う、ゆえに我あり、と我思う、ゆえに我あり、と我思う..」と無限に続く構造をつくる。これにより、この命題は、精神と物質を分ける単純な命題などではなくなっているのではないか。『方法序説』の文脈でどう語られているかを別にして、まあ、そんなことを思ったのである。
 このような、言説や意識の無限の入れ子構造は、「文学青年」や日記をつけているひとには、なじみ深いものではないかと思う。たとえば、自分についてなにかを書くと、どこかにごまかしが生じるが、そのごまかしを、さらに書くことで否定しようとしても、有限のやりかたではおさまらなくなるもどかしさのようなものとして。
 というような「問題」を、かつて「理科系の文学青年」であったわたしは、無限に発散する物理量を有限量として扱う「くりこみ理論」の考え方に対比させて、納得しようとしていた、なんてことを思い出す。

祝儀包み2009/10/28 20:52

祝儀包み
 今週末の姪の結婚式のために、祝儀包みを創作した。ほどほどに複雑で、しかし、すっきりしていて、わるくない作品だと思う。縁起物なので、もちろん「切り込み」はない。しかし、はたと気がついた。これ、表書きをどうしようか。

 妻からの示唆でつくったのだけれど、自意識過剰気味にいえば、冠婚葬祭時に親戚が集まると、「折り紙のおじさんとして、芸をみせて」という暗黙の要請を感じる、ということもちょっとある。親戚に必ず何人かいる「なにをしているかわからないおじさん」のポジションである。