偽・『紙の単体』2009/09/23 19:29

偽・「紙の単体」
 府中市美術館で、『多摩川で/多摩川から、アートする』という企画展を観てきた。ほかの作品の印象が薄くなるほど共鳴したのは、高松次郎さんの『紙の単体』という作品だった。
 高松さんが、赤瀬川原平さん、中西夏之さんと組んだ前衛芸術集団「ハイレッド・センター」の「ハイ(高)」であることや、川の石にナンバーをつけていく作品などで有名なことは、「教養」として知っていた(つまり、ちゃんと見たことはなかったという意味でもある)が、このシリーズは知らなかった。

 「紙の単体」は、つまり、一枚の紙を破り、それを元のように貼り合わせたという「だけ」の作品である。「だけ」なのだが、もとからはみ出したり、隙間ができたりするのが、じつに面白い。わたしは、この作品の即物的な感じ、冷静な物理実験のような明晰さに惹かれた。思えば、川の石にナンバーをつけていく作品も、複雑系やフラクタルの実験や調査のようだ。「部分と全体」「破壊と再生」などといった観念的なことも、無理すれば考えることができるが、なんだかこれだけで面白いのだ。
 写真は、試作品(偽・「紙の単体」)を透過光で撮ったもの。やってみてわかったのは、物理実験と書いたが、じっさいは、思っていた以上にひとの思惑が混ざるということだった。しかし、そこもまた面白い。これは、わたしの考える「コンセプチュアルアート」のど真ん中にある作品である。
 なお、これの三次元版の「石の単体」というものもあった。

モアレ2009/09/23 19:33

モアレ
 バス停でバスを待つさい、ふと、近くのアパートの階段を見上げると、みごとな六角形のモアレ(干渉縞)がでていることに気がついた。2枚の穴の空いた金属板(パンチングメタル:写真下)によるモアレである。細かい模様などを撮った画像や物理実験、電波干渉計(仕事!)などの、情報化されたり、調整されたもの以外で、これほどみごとな干渉縞を見たのは初めてだった。

モンドリアン ・ポスト2009/09/23 19:50

モンドリアン ・ポスト
 近所を散歩していて、建築設計事務所の玄関に、ピエト・モンドリアンの絵をほうふつとさせるポストを発見した。

バナッハ=タルスキーの逆説2009/09/26 09:18

 「バナッハ=タルスキーの逆説」というものがある。 「球を分割し、その断片を組み合わせると、元とまったく同じ大きさの二つの完全な球に再構成できる」ということである。しかも、この球の中身は詰まっている。どう考えても「おかしい」この内容は、まさに逆説だが、これがなんと、きっちり証明される立派な定理なのである。「選択公理」(複数の集合からひとつづメンバを選択することで新しい集合をつくることがきるといったことで、それ自体は当たり前のことに思える)を仮定すると、これが証明されてしまうのである。
 無限が関係すると、話がややこしくなることの典型である。わたしは、これを、『ホワイト・ライト』(ルディ・ラッカー著 黒丸尚訳)というぶっとんだSF(MF(Mathematical Fiction)?)で知ったのだが、最近読んだ『世界でもっとも奇妙な数学パズル』(ジュリアン・ハヴィル著 松浦俊輔訳)にも説明があった。そこの部分は流し読みだったのだが、なんとなく頭にのこっていたので、どことなく似たところがなくもない『紙の単体』により惹かれたのかもしれない。

アイコンとしての折り紙2009/09/26 09:20

 先日、書店の店頭で、『シンプルな英語で日本を紹介する』(曽根田憲三、ブルース・パーキンス著)というCD-ROMつきの本が、折鶴のアイコンを表紙にしていることに気がついた。よく見ると、風車、手裏剣、兜なども使われていた。「娯楽」という項目には、「折り紙」「千羽鶴」などの例文もあった。日本のアイコンとして折り紙が使われていたり、折り紙が取り上げられているのはうれしい。ただ、(立ち読みしただけなので申し訳ないけれど、)例文中に、「遊びのための折り紙は室町時代から」といった文意があったのはちょっと残念だった。室町時代の遊戯折り紙は確認されておらず、その根拠はほぼ否定されている。まあ、この説は流布されてきたので、無理がないところもある。(後記:2014/09:室町時代を広義に天正元年より前までとすると、たしかな証拠はないが、可能性はなくもない)なお、折り紙の風車も、明治以降に西洋から輸入されたものであることが確実である。
 伝統と思われるものがそう古くなく、伝統を必要とする場合などに「生み出される」ということは多い。ニーチェのいう「結果と原因の遠近法的倒錯」というものだ。歴史を知る面白さのひとつは、単なる事実で、そうした物語がひっくり返るところにある。

『ジャングル大帝』ラストシーン2009/09/27 12:24

『ジャングル大帝』
 「全滅」した探検隊の中にあって、レオの自己犠牲により、ムーン山からひとり下山したヒゲオヤジ。彼は、広いアフリカの大地の中、人間社会から逃れてきたレオの息子・ルネに偶然出逢う。レオの毛皮にからだをこすりつけるルネ。地平線の彼方にあがる積乱雲。ヒゲオヤジがつぶやく。
「ごらん あの雲はレオにそっくりじゃないか」
(記憶で書いているので細部は違うところがあると思う)
 ということで、昨日、『ジャングル大帝』のラストシーンような雲を見た。数分後、雲は姿を変えて、白いかたまりになっていた。
 なお、『ジャングル大帝』には異版がいろいろあるらしいけれど、わたしが昔読んだものでは、このシーンは文字通りのラストシーンではなく、「ある日本の地方都市で」というエピソードがあったと記憶している。