紙縒の犬のつづきの話など2019/11/23 20:04

◆紙縒(こより)の犬 - つづき
紙縒の犬
一つ前の記事に書いた、幸徳秋水も手癖でつくっていたという紙縒の犬についての話のつづきである。

「どういうものなのか不明」と書いたが、ネットで検索すると、伝承と思われる紙縒の犬の写真がいくつか見えた。詳しいことはやはり不明なのだが、それを参考に、わたしもつくって見た。鼻先から対称にねじってゆくだけなので、難しいものではない。『武玉川』の句にあわせて、痩せ犬の風情を強くしてみた。

物思ひ紙縒の犬も痩せがたち

パフォーマンスのバルーンの犬にも似ている。幸徳秋水先生にならって、帰ってほしい客のときはこれをつくるとよいのかもしれない。

◆酉の市
かんざし守
先日の酉の日、大國魂神社の摂社の大鷲神社の酉の市に行って、小さい熊手を買ってきた。熊手と呼ぶには小さすぎるのためか、「かんざし守」という名であった。祭神は、浅草の鷲神社と違って、紙の神様でもある天日鷲神ではなく、ヤマトタケルの別名らしい大鷲大神(オオトリノオオカミ)である。

重陽の節句の「のちの雛」のことを調べようと『守貞謾稿』を手に取ったさい、同書をぱらぱらめくっていると、酉の市のことが書いてあるのも見つけた。

この記述が、「十一月酉の日 江戸にて今日を酉の町(ママ)と号し、鷲神社に群詣す。この社、平日詣人なく、ただ今日のみ群詣して富貴開運を祷ること、大坂の十日戎と同日の論。また群詣も比すべくして、しかも十日戎の盛に及ばず。」と、やや感じが悪い。「この日、江戸四民男女専ら参詣す。けだし熊手を買ふ者は、遊女屋、茶屋、料理屋、船宿、芝居に係る業躰の者等のみこれを買ふ。一年中天井下に架して、その大なるを好とす。正業の家にこれを置く事を稀とす。」ともあって、なんだかトゲがある。「かつては、水商売の縁起物だったんだね」と言うと、妻が「いいの。うちの父は水道局職員で、水商売だったんだから」と返した。(引用は、岩波文庫『近世風俗志四』より。ただし文字遣いをすこし変えた)

酉の市といえば、現代の酉の市の決定方法が、新旧折衷の苦肉のものであるのも面白い。かつての酉の市の期日は、言うまでもなく、太陰太陽暦の霜月(十一月)の酉の日であった。しかし、現代の酉の市は、グレゴリオ暦の11月を用いる。それでいて、酉の日は、十干十二支が巡る「干支紀日法」で決める他はない。この折衷方式は、太陰太陽暦の霜月とすると、酉の日が年明けになる場合がときどきあって、年の瀬の行事としてまずいためだろう。たとえば、来年の太陰太陽暦の霜月二十六日が酉の日だが、これは2021年1月9日である。太陰太陽暦では、来年は閏四月があって一年が長く、かつ十一月に三の酉があるためだ。

古川柳を読む話の続きなど2019/11/21 22:48

あれこれ懸案をかかえながら、帰宅後はブッキッシュな(書物の上のことだけで、実際的でなく、学者ぶった)世界に逃避している毎日なのであった。

◆折り紙教室@府中
ねずみ
日時:11/24(日)13:00-15:00
作品:ねずみ
講師:前川淳
子供や初心者でも。

◆浅野真一展 −机上の天体−
浅野真一展
日時:11/22(金)-12/8(日)11:00〜19:00(日曜17:00まで、火水曜日休廊)
場所:Nii Fine arts@大阪

折り紙作品をモデルにした絵もある、写実の油彩画家・浅野真一さんの個展の案内が来ていた。折り紙の次に、天文趣味をモチーフにするなんて、次々にわたしの琴線をかき鳴らす絵を呈してくるのであった。好きな画家のひとりにハンマースホイを挙げていた浅野さん。来年は都美でハンマースホイ展があるので、これも観に行きたい。

劇団SPAC
舞台美術に折り紙を使った、劇団SPACの『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』が上演される。舞台の折り紙に、わたしの作品を元につくった「木」と「鹿」が使われている。

◆牛
牛
先日の名古屋コンベンションの空き時間に、ふと、再来年は丑年かあと、講習会用の中級難度の牛の創作をはじめて、けっこうよいものができた。既作に似るが技法が異なっている。

◆七回の回転対称
江戸切子
実家からもらってきた江戸切子のぐいのみが七回の回転対称だった。江戸切子のグラスには、近年のデザインで折鶴をモチーフにしたものもあるのだが、これはなかなかお高いのであった。

◆シュレッダー
シュレッダー
いつでも使えるシュレッダーである。(時事ネタ)

◆古川柳を読む話の続き
先日から読みすすめていた江戸の川柳選集『排風柳多留』から、さらにいくつかの句を紹介しよう。われながら、ご隠居のうんちく話みたいに話が長い。まずは、芭蕉をネタにしたものから。

はせを翁ほちやんといふと立留リ
古池のそばて(で)はせをハびくりする

「はせを」が芭蕉のことで、「ほちやん」は「ぽちゃん」。しょうもないといえばしょうもない。しかし、芭蕉没後半世紀後にすでにこのように扱われながら、三百年後の今日でもすりきれない古池の句は、いかに絶唱にしてスタンダード・ナンバーであることか、とも思う。

古川柳は、こうしたふざけた句も面白いのだが、わたしが主に関心を持っているのは、以下の三つである。
(1)天文に関係する句
(2)紙細工に関係する句
(3)数字やかたちのでてくる句

(2)に属する「紙雛」の句では、前に挙げたものの他に、以下があった。

紙ひなへ棒を通してぼろを下ケ
紙ひなのゆふれい花の宵に出来
ぐそくひつ紙ひなひとつまぎれ込

一句目、上巳の節句人形というより、写真のような、信州松本の、吊り下げる七夕人形を連想させる。
松本七夕人形

二句目、幽霊花は彼岸花のことなので、雛といっても上巳の節句を詠んだものではない。九月九日の重陽の節句に雛人形を飾る「後の雛」という習俗が江戸中期からあり(『嬉遊笑覧 巻之六下巻』による)、太陰太陽暦で秋彼岸のすこし後になるので、そのことである可能性は高い。しかし、『守貞謾稿 巻二十七』『近世風俗志 四』)によれば、重陽の節句に雛を飾るのは大坂の習俗である。『柳多留』の句は主に江戸のものなのではないか。彼岸花をめぐる民俗も、『野草雑記』(柳田國男)や『ヒガンバナの博物誌』(栗田子郎)等を確認したが、これだというものはなく、句意はいまひとつ不明だ。

三句目はわかりやすい。端午の節句飾りをしまった具足櫃に紙雛が紛れ込んでいるということで、『トイ・ストーリー』的な物語も思い浮かぶ。

紙細工関連句では、お待ちかね(?)の折鶴の句もあった。

靍の一(ト)こへ折かけてかふろたち

かふろ(かむろ)は、遊女見習いの少女のこと。鶴を折って遊んでいる彼女らに、花魁が声をかける。「鶴の一声」と「一声かけて」と「鶴折りかけて」がかかっているという句だと解釈した。ただ、遊郭の風俗を前提にした句は、割り切れない感情も浮かんで素直に鑑賞はできない。

『柳多留』にひとおり目を通したので、続いて、『俳諧武玉川』も読んだ。複数人で互いに句をつけてゆく「付合」の付句を集めたということでは『柳多留』と同様だが、単独では内容が読めない句がより多く、前句も不明なので解釈はさらに困難である。五七五ではなく七七のものも多い。当時は、付句だけを読んで前句を想像するのも読みどころだったのかもしれないが、時代の隔たりが高いハードルになっている。とはいえ、ふむふむ、うんうんというものもある。天文関連句では、まず次の句がわかりやすかった。

星の名を覚て空も伽(とぎ)に成(なる)

星の名前を覚えると、夜空がお伽話の舞台になるという句意だ。当時、西洋の星座やギリシア神話は知られていたはずもないので、七夕の話などであろうが、星空への親しみというのは、時代によらず、こういうところから始まるのだろう。逆にというか、現代でも「あるある」なのは、天文研究者が星座の伝説などにまったく無知ということで、次の句は、その感覚に通じる。

天文台て(で)なふらるゝ星

七七の付句で、以前、海部宣男さんの著書『宇宙をうたう』(1995)でも見たことがあった。海部さん曰く「天文台というあやしげなところでは、一体何をしているのだろう。さぞや星をつつきまさわしているのではないか。これは、昔も今も変わらない、市民の感覚かもしれない」 と。上掲の「星の名を…」の付句にしても、たとえば芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天河」に付けても味がでる。

興味深いのは、天文台という言葉がこの頃からあったことだ。司天台とも言ったようだが、この句は『武玉川』の一二篇(1758)に掲載されているので、その前年まで神田佐久間町(秋葉原駅の近く)にあり、宝暦暦の完成で解体された幕府天文方の佐久間天文台(1746-1757)のことを指していると考えて、まず間違いがない。

ただ、佐久間天文台は、日本天文学史上、誇れるような天文台ではない。徳川吉宗の命でつくられたときは、西洋天文学の導入という考えがあったのだが、吉宗の死もあって、その企ても中途半端なものに終わり、できた宝暦暦は、改暦後10年も経たずに、在野の天文家が予測した日食の予報を外すなど、失敗した暦となった。佐久間天文台では、「星をなぶる」ほどの、つっこんだ研究はできていなかったのである。(参考:『天文方と陰陽道』(林淳))

わたしの関心のその2である「紙細工に関係する句」では、『武玉川』にも紙雛の句があった。

紙雛の物にかまハぬ立すかた
紙雛ハ雛の中ての通り者

通り者というのは、もののわかったひとということだそうで、贅沢品の雛人形の中で、紙雛は気安いという意味であろう。立ち姿の句も同様である。変わったところでは、紙縒(こより)細工の犬を詠んだと思われる句もあった。

物思ひ小よりの犬も痩かたち

岩波文庫版の索引では「物思い紙縒の犬も痩せがたち」という文字遣いになっている。『嬉遊笑覧』にもこの句が引かれているが、句を引用するだけで、詳しい説明はなく、どういうものなのか不明だ。郷土玩具の藁馬のようなものだろうか、と頭をひねっていたのだが、意外なところ、『夫・幸徳秋水の思ひ出』(師岡千代子、1946)に、ヒントになる記述があった。

秋水には人の知らない奇妙な癖があつて、來客が不快な時や話しに退屈した時には、紙縒で犬を造つて机の上に竝べるのであつた。で、その犬の有無や數に拠つて、大體秋水の氣持ちや客の性質を知ることが出來たが、人に依つては、一度に五六匹の犬を見受けることがあつた。

土佐の幸徳家(さかのぼると幸徳井(かでい)家)は陰陽師の家系なので、この紙細工がその伝承だとするとさらに面白いが、とりあえずそんな話はない。

秋水とくれば、昨今の世相もあって、大逆事件に衝撃を受けて啄木が書いたという『時代閉塞の現状』を連想した。あらためて読んだら、以下の部分などは、今になまなましいのであった。

すべての青年の権利たる教育がその一部分- 富有なる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税の費途なども目撃している。

「…正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」(略)それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである。

今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。

『武玉川』の話をしていたのであった。折り紙関連句では、こんな句もあった。

紙屑へ折そこなつて捨小舟

折り紙創作家、愛好家は、その多くが、折りそこなった、しかしまだものになるかもしれない、通称「折りゴミ」をためた箱を持っている。というわけで、「紙屑へ折そこなう」というのは、折り紙愛好家にとって、250年の時を越えて、とても身近な感覚である。「捨小舟」は「すておぶね」と読むようで、辞典にも載っている言葉であった。「乗る人もなく捨てられたままの舟。多くは頼る者のない寂しい身の上の比喩に用いる」(『大辞林』) なんとも、寂々たる思いになる言葉で、西行の歌も連想した。

大浪に引かれ出でたる心地して助け舟なき沖に揺らるる 西行

取り残された感覚が真に迫る歌だ。などと、哀愁に浸っていないで『武玉川』に戻ると、折鶴の句もあった。

鶴折て恋しい方へ投て見(みる)

昭和歌謡曲の『折鶴』(安井かずみ作詞、浜圭介作曲、千葉紘子歌)の歌詞みたいな句である。以前あげた『柳多留』の「池のみぎわに靏を折待つて居る」にも通じる。そして、次の句。これは、折鶴の意味や来歴を考える意味でも興味深い。

折靍をふく時あたら貌替り
(注:貌(かほ)の文字は、引用元では、「貌」から偏を取った、白に「貝あし」である)

折鶴は最後に息を吹き込むもので、そこに呪術的な意味もあるという岡村昌夫さんの説を補強する。同時に、「折鶴」という言葉が18世紀半ばにつかわれていたことを示す例のひとつである。案外その実例は少ないのだ。和算の書籍にも「折鶴」という表記はあったが、それらは擬似漢文なので「鶴折リテ」などと読む可能性もある。これに比べて、上掲句は五音の上句なので、ヲリヅルハ、もしくはヲリツルハで間違いがない。

さらに、こんな句もあった。

指先を綺麗につかふ紙細工

わかりやすすぎて、むしろ拍子抜けするくらいだが、折り紙の本の巻頭の題辞にしたい気もする。連想するのは以下の現代川柳だ。

手が好きでやがてすべてが好きになる 時実新子

「(3)数字やかたちがでてくる句」では以下が面白かった。

上り藤思へは無理な紋所

家紋の「上り藤」(のぼりふじ、あがりふじ)は、藤の花を象った紋だが、房が上向きになっていて、たしかに無理やりである。「裏桔梗思へば無礼な紋所」など、いろいろできる。「裏桔梗」というのは、キキョウの花をガクの側から描いた、つまり尻を向けた紋である。変な紋を探すのは面白い。たとえば、よく知られた紋だが、真田の平時の紋「結び雁金」のねじれた鳥の翼も、冷静に見るととても変だ。結んでいないのに「結び」というのは、数学的にも納得できない。末端をつなげたとき、交点数2以下は結び目にならない。This is not a knot. (伝統的なダジャレ)である。
裏桔梗と結び雁金

ジオデシック四面体など2019/06/24 22:01

◆停電と雹
野辺山の雹(6/23)
観測所の仕事を終わって山荘に帰ると、山梨県の広域15万戸が15時半から1時間ほど停電していたということで、電子機器の時計が点滅していた。交通信号も広い範囲で消えていたそうだ。3.11をすこし思い出した。長野県の野辺山は別系統の中部電力なので、停電はなかったが、16時過ぎに激しく雹が降った。野菜や果物にかなり被害があったのではないか。雨上がりにはみごとな虹がかかっていた。
八ヶ岳山麓の虹

◆ジオデシック四面体
土曜日の、第26回折り紙の科学・数学・教育研究集会で司会をした。
前回(昨年12月)は、前夜に母が亡くなって、会の運営を西川誠司さんに頼み欠席したので、なんというか、復帰した感じになった。前日の金曜日に、父母の霊園のあれこれを手伝ったこともあって、半年たったのか、との思いもあった。

発表では、西本清里さん、堀山貴史さん、舘知宏さんの「ジオデシック四面体」(正四面体に正三角形グリッドの折り目を加えることで得られる多面体)にでてきた数字が、ラマヌジャンのタクシー数であったことに昂揚した。三乗数の和が出る構造なので、不思議はないとも言えるのだが、タクシー数であるというわたしの指摘を、堀山さんが面白がっていたので、この件は、まだ発展があるかもしれない。堀山さんは、その場でプログラムを組んで、Tax(3)=87539319も、Tax(4)=6963472309248も、「ジオデシック四面体数」(ジオデシック四面体の面の数)であることを確認していた。タクシー数のエピソードは知っていても、案外、数そのものは覚えていないひとが多いのであった。

91は、タクシー数ではないが「ジオデシック四面体数」である。この数が立方数の和(3^3+4^3)であることは、再認識した。ほんの2週間前にこのブログに、加藤文元さんの『宇宙と宇宙をつなぐ数学』の感想で、91と1729のことを書いたばかりというのは不思議な感じだ。

というわけで、土曜日は、折り紙の学術研究の集まりだったのだが、日曜日は、幼児や小児相手の折り紙の講師で、狭いようで広い折り紙の世界は面白いのであった。わたしが『オリガミの魔女と博士の四角い時間』の博士の「知り合い」だということを知った少女から「わたしをしょうかいしておいて」とも言われた。滝藤さん、子どもの好感度高いぞ。

◆三本の直方体B
三本の直方体(折り紙)
先週、上野で堀内正和さんの彫刻をひさしぶりに観たことをきっかけにつくった『三本の直方体B』の折り紙モデルを、長さも実物の比率にそろえて、マット銀紙でそれらしく折ってみたら、なかなかの金属感がでた。「堀内正和さんの彫刻に折り紙を思う」という話は、以前もエッセイに書いたことがあるが、また、まとまった話もしてみたい。

◆『方形の円』
幻想小説・『方形の円』ギョルゲ・ササルマン著、住谷春也訳)を入手、36編のうち、何編かを読んだ。「ル=グインも驚嘆! カルヴィーノ『見えない都市』に比肩する超現実的幻想小説集」という惹句で、各編に著者による図形のアイコンが印され、カバー裏や表紙に円積問題の図が描かれているとあっては、SFファン(ゆるいけれど)の図形マニアとしては、手にとらずにはいられない。ギョルゲ・ササルマンという名前もインパクトがささるまん。

原題の『Cuadratura Cercului』(ルーマニア語)は、いわゆる「円積問題」のことで、ル=グインさんの英訳も、それを示す『Squaring the Circle』であるが、『方形の円』という邦訳の題もカッコイイし、カバーのレタリングもよい。なお、円積問題というのは、解決(否定的解決)に2000年かかった「定規とコンパスで、円と同じ面積の正方形を作図せよ」という問題である。πが超越数なので、代数的には有限項ではもとめられないのだ。
『方形の円』(Cuadratura Cercului)

『方形の円』

三本の直方体2019/06/19 22:31

15日のエッシャー生誕121年記念テセレーション講演会の会場は、上野の東京都美術館のスタジオだった。同日、企画展示室で開催中のクリムト展で暴力事件があったらしいが、2階のスタジオでは、なごやかにエッシャー好きの集まりが催されていたのであった。

クリムト展は観ていない。『マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像』が展示されていれば、ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』を携帯音楽プレイヤーで聴きながら、絵の中に、マルガレーテと隻腕のピアニスト・パウルの弟であるルートヴィヒの面影を探してみたい気もする、…などとすかしたことを言ってみました。

「my sky hole 85-2」(井上武吉)と「三本の直方体B」(堀内正和)
同美術館のエントランスにある、井上武吉氏と堀内正和氏の彫刻を、ひさしぶりに見た。写真は、『my sky hole 85-2』(井上武吉)と『三本の直方体B』(堀内正和)である。ただ、15日は雨だったので、これは10年余り前に撮ったもので、『三本の直方体B』の設置場所の様子はすこし変わっていた。

『三本の直方体B』は、直交して接する3つの正四角柱を正六角形の断面で切って(図参照:円盤が切断面である)、60度、クリっと回転させただけのものだ。構造がわかると「なるほど」となる、じつに「堀内正和的」な作品だ。
三本の直方体

三本の直方体

折り紙でもつくってみた。彫刻に比べて四角柱がやや短く、上下の長さも異なるプロポーションになっているのは、わかりやすいように1:2の長方形の用紙にしたためで、長くするのは簡単である。折れ曲がった四角柱の凸凹が合わさってきれいにまとまる面白い構造になった。
三本の直方体(折り紙)

静かな日曜日2019/06/16 11:02

◆冠雪
今朝、ベランダから見た富士山が冠雪していた。
富士再冠雪

◆『趣味摺紙大全』
台湾版(繁体中国語版)の『本格折り紙』が届いた。綾辻行人さん「盛讃」とあるのが、綾辻さんの彼の地での人気の高さ、知名度を示している。
『趣味摺紙大全』

◆大きな水滴
先日、窓際の水滴が直径が2センチメートル近くになっていて、そのまるまると太っているさまに見とれてしまった。この窓枠は、それほど特別な撥水加工がされているとも思えないのだが、ぬれやすさを示す「接触角」が、不思議に大きい。
大きな水滴

◆鬼太郎ひろば
東京都調布市。京王線が地下化したあとの土地(下石原2-56)に「鬼太郎ひろば」という児童遊園ができた。鬼太郎の家、ぬりかべのボルダリング、一反木綿の滑り台(?)など、遊具の意匠が面白い。ベンチにあるぬらりひょんの像は、夜に見るとこどもが泣くんじゃないか。
鬼太郎ひろば

◆『黒白く』(鳥越眞生也)
昨日参加したエッシャー生誕121年記念テセレーション 講演会に集まったひとたちが濃かった。わたし自身は名刺持っていくのを忘れてしまったのだが、いただいた名刺がみな面白いのが、さすがエッシャー好きのひとたちであった。その昔、ひとりで敷き詰め絵を描いているとき、まったく情報がなく、ひとに見せる思いすら希薄で、想像上でエッシャーそのひとに見てもらうという思いだったが、同好の士というのは、どこかにいるものなのだなあ、と。

写真は、懇親会で、グラフィックデザイナーの鳥越眞生也さんからいただいた、回文の本で、絵も「さかさ絵」になっている。
『黒白く』

『黒白く』

親バカの心境 など2019/06/07 17:54

NHK-Eテレ。今晩も放送があるが、6月は、毎週末金曜(6/7、6/14、6/21、6/28)22:45-23:00に4回放映されるということだ。

◆親バカの心境
『エッシャー生誕121年記念 テセレーション講演会』6/15(土)13:30-16:00(東京都美術館(上野) 2F スタジオ)で、発表させてもらえることになったので、スライドをつくるため、昔描いた絵をひっくりかえしていたら、親バカの心境というか、若いころの自分の絵が面白くて、感心してしまった。
テセレーション講演会のスライドから
こういうのだけではなく、テセレーション(敷き詰め絵)もたくさん描いている。

◆42と43
『ビバ!おりがみ』(1983)の収録作品は42で、『本格折り紙』(2009)の収録作品は43だ。42は「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」(『銀河ヒッチハイクガイド』ダグラス・アダムス)であり、43はそれに+1した素数で、味わい深い数字である。

『折紙探偵団』に書いているエッセイ『折り紙四六時中』は、「数」の話題にするというしばりを自らかけてしまったので、次は、この42と43の話にしようと思った。しかし、うーんと考えて、別の話(0.1mmの話)を思いついたのでそちらにした。

『折紙探偵団』の次号では、上のエッセイのほかに、布施、川村、川崎さんと交代で連載しているユニット折り紙の図が、わたしの担当だ。今回は、ひとつ、トピカルなネタ(?)をいれてみた。M87ブラックホールシャドウ撮像記念、「相対論的ジェットキューブ」(「スーパーウィンド銀河キューブ」)である。

◆ゴジラ
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(マイケル・ドハティ監督)は、公開日(伊福部昭さんの誕生日)に観た。キングギドラをモンスター・ゼロと呼んだり、『地球最大の決戦』の鳥居を前景したギドラを彷彿とさせる十字架が前景のアングルがあったり、あの秘密兵器、双子の女性博士、伊福部&古関旋律など、予算潤沢なファンムービーの感があった。あそこまでやるのなら、次のようなオマージュも無理なくできたのになあ、とも。

・芹沢博士が目を負傷し眼帯をする。
・エマ・ラッセル博士が「こんなものつくるんじゃなかった」と頭を抱える。
・芹沢博士が「幸福に暮らせよ」と言う。

ゴジラに触れるシーンで「先生、直接手を触れないほうがいいです」という声も聞こえてしまった。ストーリー上、この言葉がでる必然性はないので、この幻聴は、完全に初代ゴジラ教の信徒のものである。
以上のような感想は、「またじいさまのゴジラかよ」現象ともいう。
「終わりっ!」

◆六芒星と三角形
瀬名秀明さんの『魔法を召し上がれ』に続いて、やはりマジックがモチーフの『トリック』(エマヌエル・ベルクマン著 、浅井晶子訳)を読んだ。謎を解こうとして読んでしまう癖があるので、プロットが読めてしまったが、よい小説だった。黄色い六芒星(とピンクの三角形)という重いテーマを扱っているのだが、ほのかなユーモアがあって、短い章立てのテンポも読みやすかった。

◆幸福を語ることが…
すこし前、穂高明さんから、文庫化された『青と白と』をご恵贈いただいた。宮城県出身の穂高さんが震災を描いた、自伝的な部分もある小説だ。単行本で読んでいたのだが、文庫でより広く読まれることになって、穂高さんのファンとしてとてもうれしい。…と思ったのに、紹介していなかった。

これは、震災の被害を直接受けていないひとでも、世界と日常の関わり合いという意味で、こころに響く小説だ。

わたし自身も震災の直接の被害は受けていない。しかし、震災後、関連のニュースに接すると、宮澤賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』1926)という言葉を思い出すのが条件反射化していた。じっさいにそう思うというより、この言葉を思い浮かべるのが自動化していた。

賢治のこの言葉を論理命題のように考えると、幸福の不可能性が結論となるだけだ。こうした言明は、高潔であるほど、ときに、ひとをしばるドグマとなる。三木清は、『人生論ノート』(1941)に、「幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのやうに感じられる今の世の中は不幸に充ちてゐるのではあるまいか」と書いた。三木のこの言葉は、認識の言葉であって教条的な言葉ではない。賢治の言葉もそのようにも読めばよいのだ。世界が不幸に満ちているという認識は、個人が幸福であろうとする実践を妨げるようなものではない。三木は、次のようにも書いている。
「我々は我々の愛する者に對して、自分が幸福であることよりなほ以上の善いことを爲し得るであらうか。」

わたしは、『青と白と』という小説のテーマもそういうことかもしれない、と思って読んだ。なお、穂高さんとは、彼女がかなりの天文好きで、彼女の夫君が折り紙好きということから、知り合った。

◆イトゲン
先日、阪神タイガースの糸原健斗内野手の活躍を見ていて、糸原をイトゲンと読むと、ウィトゲンシュタインぽいなと思った。上本博紀内野手がタイガースファンの間でウエポンと呼ばれていることからの連想である。そこで、20世紀の天才たちで、ほかにもそれらしい名前を考えてみた。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン: 糸原飛雄(イトハラ トビオ)
アラン・チューリング: 中林新太(ナカバヤシ アラタ)
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン: 原沼翼(ハラヌマ ツバサ)
ジョン・フォン・ノイマン: 野間純(ノマ ジュン)
クルト・ゲーデル: 鯨出拓人(クジライデ タクト)
ダフィット・ヒルベルト: 蛭本旅人(ヒルモト タビト)
エルヴィン・シュレディンガー: 守礼院川照敏(シュレインガワ テルトシ)

しょうもない。しかしこういう名前の見立ては、江戸川乱歩以来の、本邦ミステリ界の伝統をひきつぐと言えなくもない。ということで、これらを登場人物として、ミステリを考えてみた。

舞台は、とある大学。事件の発端は、物理科の学生・守礼院川が可愛がっていた猫が密室で殺されていたことだった。数学科の鯨出は論理的に考察するが袋小路にはまる。同じく数学科の原沼は、ホームシックにかかっていてぶつぶつと呟くだけだ。哲学科の糸原と情報工学科の中林は、言い合っているだけで話が進まない。じれた中林が、同じ学科の後輩・野間に相談するが、猫が死んだことの何が問題なんだと、非情な対応をするばかりである。中林は教授の蛭本にも相談するが、「この問題は解かれなければらなない。そして、解かれるであろう」などと言うだけで、埒があかない。そんな中、中林の死体が齧りかけの毒リンゴとともに発見される。果たして事件の真相は? 才気あふれる若き研究者の卵たちが交錯する本格探偵小説『語りえぬもの』! 乞うご期待! (嘘)

◆アイルランド
阪神タイガースといえば、先日、こんなことも考えた。「超常恋愛サスペンス」と銘打った『クロストーク』(コニー・ウィリス著、大森望訳)を読んで、どうやらアイルランド人には超能力があるらしい(!)、という話からの連想である。元阪神タイガースのトーマス・オマリー氏は、O'で始まる苗字で、ミドルネームがアイルランドの聖人・聖パトリックのパトリックなので、アイルランド系のどまんなかで、マット・マートン氏も赤毛なのでアイルランド系かもしれない。そうか! 彼らの投球の「読み」がよかったのはそれなのか、ということだ。というふうに、人種というセンシティブな話題も、こういうジョークのネタになっているぶんには、微笑ましい。

◆Θリンクと91
『宇宙と宇宙をつなぐ数学』(加藤文元)。これはさくさくは読めないだろうなと思って読み始めると、ぐいぐい読めるのでびっくりした。なんとなくわかった気にさせてもらえる加藤さんの文章力がすばらしく、グレッグ・イーガンの『ルミナス』なども連想した。しかし、加藤さんは、この本自体を、IUT理論の世界から数学ファンへの「Θリンク」には例えてはいない。別の宇宙をつなぐということで、ぴったりとは言えないまでも、よいアナロジーだと思うのだけれど、言い過ぎになるのだろうか。じっさい、数学の内容が簡単に腑に落ちるなんてことはありえないので、この本を読むのは、絵葉書を見て登山を想像するみたいなものだろう。ただ、たいへん魅力的な絵葉書である。

なお、わたしが読んだのは、91が素数の例になっている誤記のある初版であった。57をグロタンディーク素数という「故事」にならって、加藤文元さんの名から、91はブンゲン素数ということになったらしい。ブンゲン素数のようなエピソードは、個々の図形や数を愛でる数学ファンと、それらを抽象化して数学世界を見渡す数学者の違いを示す例かもしれない。星座に詳しい天文ファンとそうでもない天文学者みたいに。ただし、たとえばラマヌジャンは、前者が突き抜けたひとだったと思う。

91は、数字好きには面白い数である。まず、91は7×13であり、13は暦と親和性の高い数、1年52週の1/4である。よって、91を4倍すると、364で、+1で平年の日数になる。そして、もうひとつ面白いのが、これを19倍すると、ラマヌジャンのタクシー数1729になることだ。つまり、1729は、91×19という、「ひっくり返した」数の積でもあるのだ。かつ、なんと、1+7+2+9=19なのである。1729という数字の面白さは、ふたとおりの立法数の和で表せる(1^3+12^3=9^3+10^3)最小の数というだけではないのである。(「ふたとおり…」は、「タクシー数」の由来である。病床のラマヌジャンを見舞ったハーディ「今日のタクシーの番号は1729だった。つまらない数だったよ」 ラマヌジャン「そんなことはありません。ふたとおりの…」という話) なお、この19という数も暦と親和性のある数だ。19太陽年は、月相と日付がほぼ一致するメトン周期なのだ。次の満月は6月17日だが、19年前の2000年6月17日も満月である。まあ、だからどうしたという話。