現代川柳をまとめて読んで、けっこうな数の折り紙に関連する句を見つけた。どこかで紹介したい。折り紙には関連していないが、「鶴」でアンテナにかかった次の句もとても気にいった。銀婚の記念で求めた銀のスプーンを見るたびに思い出すだろう。
紙ひなハころぶ時にも夫婦連(めをとつれ)
紙雛に角力とらせる男の子
『柳多留』には、廓(くるわ)の話題が多く、解釈が難しいものも多いので、読んでいて、これもこれも面白いというものでもない。紙に関する句だけではなく、数字がでてくる句も気になるのだが、次の句は、最初まったく意味が不明だった。
ねぼけたで四百七人程に見へ
あれこれ悩んだのち、そうか忠臣蔵か、寝込みを襲われた上野介が、四十七人どころか四百七人もいるように感じたということか、と納得した。これは、絵を想像するとおかしい。
いっぽう、すんなり現代で通用する句もぽつぽつある。それらは、いわば生き残った句なので、どこかで聞いたものもある。
本ぶりに成(なつ)て出て行(ゆく)雨やとり
にげしなに覺て居ろハまけたやつ
ばけそうなのでもよしかと傘をかし
もてぬやついつそ地口をいひたがり
古いやつうしろから來て目をふさぎ
ひまな事せみのぬけるに二三人
三句目、蕪村の句「化けさうな傘かす寺のしぐれかな」に似ているが、『柳多留』のこの句ほうが好きだ。四句目、だじゃれ好きとしては、苦笑いをするしかない。五句目、目隠しをして「だーれだ」という戯れで、250年前にすでに古いと言われているのがおかしい。六句目、蝉の羽化を大の大人が見ているということだろう。蝉の羽化は、抜け出すまでに3、40分、翔べるようになるまでは4、5時間はかかるので、まさに閑なひとたちである。
さらに、入浴中に「ユリイカ!」と叫んだアルキメデスが文句を言いそうな句や、読書と昼寝の幸福を鮮やかに描く句もあった。
昔から湯殿は知惠の出ぬところ
うたゝ寝の書物ハ風がくつて居る
前出の「紙雛」はそれ自体が季語になる。そして、上の二句目も季節感があって、明確な「切れ」はないものの、これらの句は、近代、そして現代でも、俳句として提出されて違和感はない。当時も、蕉風に代表される高踏的な俳諧と、いわゆる雑俳に、そんなに大きい区別を持っていないひとも多かったと思う。川柳というと、風刺的なものを想像するが、必ずしもそればかりでもなく、俳句と川柳の区別は難しい。いまも昔も、「あるある」という感覚は、川柳に重要な要素と思われるが、「あるある」によってそれを突き抜けたものもあって、風刺や人情とも違った、一種シュールなものになっている句もある。
ぶん廻しあんまり人の持(もた)ぬもの
のし餅もよくよく見れば裏表
一句目の「ぶん廻し」はコンパスのことで、コンパスを持っているひとって案外すくないよねと、それだけである。二句目もだからなにというものだが、リアリティーというのはこんなところに宿る。
これらとはまた違って、背景を情報として分析すると面白い句もある。初編(明和二年、1765)にあった次の句などがそれだ。以下、長々と(ほんとうに長々だ。ヒマなのか←そんなことはないはずなのだが)その話になる。
流星の内に座頭ハめしにする
みなが流れ星を見ている間に、盲人が食事をとっているという句意だ。時代の制約ということを除いても、この句自体に障害者差別的なものはない、もしくは薄いだろう。『ねえ おそらのあれ なあに?』(さく:ほしのかたりべ え:みついやすし)という触図と点字の絵本があって、これをもとにしたプラネタリウムのプログラムもあったのも連想したが、わたしの思案の要点は、盲人と星空ということとはすこし違っていた。おもに考えたのは、この句の流星がなにかということについてだ。
この句の描写は、盲人以外の者が大勢で流星を見るという状況を表している。そんなことはあるのか、というのがそもそもの疑問だ。流星はランダムに現れて、まばたきする間に消える。複数のひとがそろって見るということは想像しにくい。この句は、思いつきを句にした、現実や写生の裏付けのないものなのか。
しかし、多人数で流星を見るという状況も、想定できなくはない。長時間見える、とりわけ明るい流星、すなわち火球や、一時間に千もの流星が見られる、流星雨や流星嵐と呼ばれる特別な現象だ。後者は、SF小説『トリフィドの日』(ジョン・ウィンダム)のプロローグのような情景である。ちなみに『トリフィドの日』は、緑色の流星雨に見とれたため盲目となったひとびとを、怪物が襲う話だ。そう言えば、この話も盲目が重要なモチーフであったが、それは措こう。
わたしの関心は、このころに火球や流星雨があったのかということだ。まず「このころ」がいつかということだが、岩波文庫版『誹風柳多留』の山澤英雄氏の注によると、この句の初出は、宝暦十年の『川柳評万句合』、西暦では1760年、作句はそのすこし前ということになる。
暦算家の西村遠里 (1726?-1787年) がまとめた
『本朝天文志』に、宝暦七年四月二十五日(1757年5月31日)に「大流星」があったという記録がある。火球と思われる。これはかなり気になるが、それとても、1783年のヨーロッパの大流星のような、数分も夜空を焦がしたものではなさそうだ。そうした現象であれば、もっと大きく記録されているのではないか。いっぽう、流星雨であるが、これもそこそこ記録が遺っているが、
『本朝天文志』にそれらしい記録はなく、古記録も載せている
『理科年表』によっても、うまくあてはまるものはない。
では、いったいなにかということだが、1760年というと、前年に大きな天文現象があったことがわかっている。ハレー彗星の回帰である。ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』に基づき、エドモンド・ハレー(1656-1742)が1758年に彗星が現れると予測し、彼の死後、予測よりやや遅れたものの、それが観測された。近代科学の勝利として自然科学の歴史に大書されることになったイベントだ。これが、1758年から1759年のことなのである。
このときのハレー彗星は、前出の『本朝天文志』にも記録がある。曰く「(宝暦)九年己卯二月朔夜見孛星干虚危間暦十四五夜消滅」。訳せば、「宝暦九年二月一日(1759年2月27日)夜、彗星が見えた。方角は二十八宿の虚宿と危宿の間で、十四、五日の夜に消えた」となる。近日点(太陽に最も近づく点)は3月13日(イギリス時間)だったので、2月末に彗星が見え、3月中旬には太陽に近くなり過ぎて見えなくなったということを記したものと解釈できる。夜とあるが、近日点通過前で見えるのは夜明け前だったはずで、近日点通過後に南天に動いたさいも見えたはずだが、『本朝天文志』にその記録はない。
当たり前なのだが、ハレー彗星は日本からもちゃんと見えていたということである。というわけで、上の句で流星とされた星もハレー彗星のことと考えられないだろうか、というのがわたしの推測である。流星と彗星(孛星、箒星)の混同は今日でもよくある話で、この川柳を詠んだひともそうだったのではないか。時刻を夜明け前として、以下のような情景を想像した。
朝焼けが暗闇を払いはじめるすこし前、東の空にほうき星が昇る。当時のひとびとの朝は早く、まして、まだ昼時間の短い春先のこと、長屋の町衆は、夜明け前から目覚めはじている。ちなみに、夜明け前から飯炊きの準備をし、朝早くに食事をとるということは、当時の習慣としてあったようだ。三々五々に井戸の周りに集まった彼らは、やや白み始めた空に、数日前から現れた見慣れない星が今日もあるのを見て、「占いの先生が不吉だと言っていたよ」「ご隠居によれば、世が乱れる徴だそうだ」「京でお公家さまの揉め事があったらしいじゃないか」などと噂をする。宝暦年間、幕藩体制はまだ安泰だが、飢饉もあり、京都で尊王論者の弾圧事件も起きている。先の見えない不安はどの時代にもあり、ときにそれは星に託される。しかし、星を見ることのできない盲人は、我関せずと食事をしているのであった。
1759年のハレー彗星の回帰は大彗星ではなかった。近地点(彗星と地球の最短距離)は、地球と太陽の距離の1/8と、かなり近く、位置関係がうまく合えば、夜空に明るい姿を見せたのだろうが、このときは、近日点時、地球から見た太陽との角距離(見た目の距離)が近かったため、観測条件はあまりよくなかったようだ。近日点後のよりよい観測地点も南半球であった。しかし、ひとびとの注意をひいた天文現象であったのも間違いない。既述のようにヨーロッパではニュートンの理論の検証として注目され、イギリスの風景画家・サミュエル・スコット(1702-1772)による絵も残っている。また、ハワイの英雄キング・カメハメハ1世(1758?-1819)の誕生のころ、「白い炎の尾を持った奇妙な星」があったという伝説があり、これもハレー彗星のことではないかとも推測されている(『Comet of the Century』 Fred Schaaf、1996)。
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