紙燭と藤原定家、そして、「紅旗征戎非吾事」のこと2017/11/18 00:10

以下、『折紙探偵団』の記事のために、江戸時代の奇術を調べていてわかったことからの、こぼれ話である。

『続懺悔袋』(ぞくざんげぶくろ、1727、環中仙(かんちゅうせん))という、江戸中期の座敷芸・奇術指南書に「はしを紙そくにて折ル」というものがあった。「紙そく」は紙の束のことなのか、折り紙的な奇術の話題として使えるかと、わたしの「折り紙アンテナ」にかかったわけである。

しかし、「紙そく」というのは、紙燭、脂燭などと書く、室内灯火の一種なのであった。細く縒った紙などに油を染み込ませたものである。ちなみに、「紙そくにて箸を折る」のタネ明かしは、それを湿らせて鞭のように勢いよく振ると箸を折ることができるというものだった。

...という知識を得た数週間後、『定家明月記私抄』(堀田善衛)を読んでいると、脂燭でひとを叩いたという話がでてきた。江戸の奇術からさかのぼることおよそ500年、九条兼実の日記『玉葉』に、藤原定家の若き日の、以下の話が記されているという。
伝へ聞ク、御前試夜、少将雅行ト侍従定家ト闘諍(トウジョウ)ノ事有リ。雅行定家ヲ嘲哢スルノ間、頗(スコブ)ル濫吸(ランスイ)ニ及ビ、仍(モッ)テ定家忿怒ニ堪ヘズ、脂燭ヲ以テ打チ了ンヌ。

雅行は、あまり歴史に名を残してはいないが、源雅行という、定家より年少だが官位は高いひとである。濫吸(ランスイ)というのは、場違いな狼藉のことで、御前試(ゴゼンのココロミ)というのは、新嘗祭の儀式のひとつだ。

これは、宮廷行事の日、定家(二十四歳)が侮辱され、灯芯を振り回して、自分より位の高いの青年(十九歳)を叩いたという話だ。その後、定家は除籍処分も受ける。

なお、『玉葉』の表記は「脂燭」のようで、平安時代後期のそれが紙でできていたのかは不明だ。当時の紙の貴重さを考えると、違うような気もする。

若き定家のこの癇癪は、有名な話のようだ。好事家・環中仙はシャレの効いた人なので、奇術本『続懺悔袋』にも「箸を紙そくにて折ル術の源は、歌聖・定家にあり」と書きそうだな、とも思ったのだが、そんなことはないのであった。

この事件は、文治元年(1185年)十一月のことである。「御前の試み」は、いまは無くなった行事のようだが、十一月の中旬の寅の日と決まっていた。むろん太陰太陽暦(いわゆる旧暦)である。
(11/21追記:堀田さんの『玉葉』の引用と思われる記述では、文治元年十一月二十五日とあったが、あらためて計算してみると、文治元年十一月中旬の寅の日は、1185年12月6日の壬寅、十一月二十三日であった。これに基づき、上の文は、すこし変えた。日記の『玉葉』の日付が十一月二十五日で、事件自体は二十三日ということと思われる)

そういえば、明日18日(あ、もう今日か?)は二の酉だが、熊手を売る酉の市の決めかたは、すこし奇妙なものになっている。年末近くの行事ということが重要なので無理もないのだが、太陽歴の11月に含まれる酉の日という、新旧折衷なのだ。もちろん、これも、もとは旧暦の十一月だ。今年のように閏月のある十三ヶ月の年ではずれは大きくなる。旧暦だと今はまだ九月末なので、正統の酉の市(?)は、実はまだまだ先だ。一の酉が12月24日(旧暦十一月七日 乙酉)で、二の酉が1月5日だ。年が開けてもまだ十一月と考えると、締め切りを日延べした感じになって、すこしうれしい。

などと、話がずれていったついでに、以下、『明月記』の話である。

なぜ『定家明月記私抄』を読んでいたかというと、これは奇術の歴史への興味とはなんの関係もない。『明月記』は、天体現象や気象現象の記述が多いことでも知られ、それはそれで面白いのだが、今回は、そういう関心でもない。震災以降に強くなった、戦中の日記を読みたい気分の延長線で読んでいたのだ。『明月記』もまた戦乱の時代(源氏vs平家)の日記なのだ。ただし、『明月記』における戦乱の扱いは、以下の言葉が通奏低音となっていることで知られる。
世上乱逆追討雖満耳不注之 紅旗征戎非吾事
(世上乱逆追討、耳ニ満ツトイヘドモ、之ヲ注セズ。
紅旗征戎、吾ガ事ニ非ズ。)
(反逆者を討つという話が耳にはいってくるが、それは記さない。天皇の旗を揚げて夷狄を征することは、わたしの関与することではない)

白楽天(白居易)の「紅旗破賊非吾事」を援用した言葉である。キレて、脂燭を振り回すひとにしては、随分とクールな書きぶりだが、芸術至上主義者・定家のイメージを決定づけた言葉として知られる。堀田善衛さんは、戦中、この言葉に胸を射抜かれたという。
自分がはじめたわけでもない戦争によって、まだ文学の仕事をはじめてもいないのに戦場でとり殺されをかもしれぬ時に、戦争などおれの知ったことか、とは、もとより言いたくても言えぬことであり、それは胸の張裂けるような思いを経験させたものであった。
(『定家明月記私抄』-序の記-より)

氏が戦後に、朝鮮戦争時のアンガージュマン(コミットメント)の問題をテーマにした『広場の孤独』で筆名を高めることになるのも、「吾ガ事ニ非ズ」をどう考えるかということの別の面とも言える。なお、堀田さんは、『方丈記私記』でもそうだったが、『定家明月記私抄』でも、定家にたいして、けっこう批判的な視点もある。

さらに、もとの白楽天(白居易)の詩を見ると、自己憐憫の趣きもあって、またニュアンスが異なっていた。
紅旗破賊非吾事
黄紙除書無我名
唯共嵩陽劉處士
圍棋賭酒到天明
(旗を掲げて敵を破ることは、わたしの務めではない。詔書には、わたしの名はない。ただ、嵩陽(地名)の無位の劉さんと共に、酒を賭けて、夜明けまで碁を打っている)

まあ、定家も白楽天もエスタブリッシュメントなんだよね。

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