イタリアで見つけたものなど2011/12/20 12:56

12月11日、折り紙コンベンション終了後の夜、会場から近いパルマの町を歩いた。クリスマスイルミネーションがきらめき、多くの露店が並ぶ中、しとしとと雨も降っていたのに、楽しそうな老若男女で賑わっていて、経済状態最悪の国という雰囲気を感じ取ることは、まったくできなかった。広場には、直径20mほどの仮設のフラードームがあった。金属の骨組みの上にシートをのせたもので、中では、クリスマスの飾りや来年のカレンダーなどが売られていた。
Parma

パルマの雑貨屋さんで、折り紙をかたどった陶器を発見した(同様のものはアメリカのSakamotoさんが見つけてきたものを持っている)。また、ミラノの本屋さんでは、折り紙をあしらった栞や封筒をもとめた。これらの物や、コンベンションの雰囲気からも、折り紙が、エキゾチックな日本の文化というようなものではなく、彼の地にしっかりと根付いた文化としてあるということを、あらためて感じた。

パルマのショウウィンドウ

封筒など(ミラノの書店)

会場のホテルは旧い建物だったが、照明の多くがLEDか蛍光電球に変えられていた。原子力発電所を拒否した国ならではということだろう。

ホテルと、パルマ市中心の宮殿で、丸石を発見した。(丸い石というだけだけれど)

イタリアの丸石

丸とくれば、三角で、ミラノ中央駅の正面には、巨大な正四面体があった。
ミラノ中央駅

丸、三角とくれば、すこし前にこのブログにも書いた仙厓義梵の「○△□」が思い浮かぶが、コンベンションでのGian Dinhさんのプレゼンテーションに、禅の話にからめて、まさにその話があり、シンクロニシティー(偶然の一致)みたいなものを感じた。なお、パルマの町は、ピアチェンツァという町に住んでいる姪夫婦に案内してもらったのだが、彼等がすこし前から会場に近い町に住んでいたのも偶然で、わたしは偶然に恵まれている。

帰国後の土曜日、有楽町と銀座に出かけたのだが、ミラノやパルマ以上のたいへんな人出で、ここも、どこが不景気なのかわからなかった。まあ、そもそもわたしには、町の様子で経済状態を感じ取るような眼はない。それよりも、都会に住んでいると、細菌やウィルスにさらされて免疫力が強くなるんだろうな、なんてことのほうを強く思った風邪気味のわたしである。

丸石神その32 -再利用-2011/10/25 22:54

丸石石仏(北杜市高根町)
北杜市高根町村山西割で見た石仏は、頭が丸石になっていた。明治の廃仏毀釈で破壊された石仏と丸石神を、ほとぼりが冷めたころに合体させて再度祀ったものではないか、と推測した。当時、石仏の頭は割られたものが多かったという。隣りに、石祠に並んで、ごろんと丸石もあった。

『丸石神』(丸石調査グループ編 1980)にも、道祖神石像の頭が丸石になっている写真があり、中沢厚さんが「二基の四神像はいずれも頭部欠落で、代わりに丸石が四つちょこなんと乗って頭の役目を果たしています。そんなユーモラスな趣向は甲州ならではというべきでしょう」と記しているが、村山西割の石仏は、大きさが等身大のこともあって、ノッペラボーという感じが強く、彫刻造形的に、かなり奇妙な味わいになっている。

丸石神その31 -雪だるま型-2011/07/18 21:30

雪だるま型丸石神
 写真は、数ヶ月前、JR中央線塩崎駅(山梨県甲斐市下今井)近くで見つけた、ふたつの「雪だるま型」の丸石神である。
 重ねられらた丸石神は、ほかでも見たことはあるが、このように、「造形的」にきっちりとできあがっているものは珍しい。

 左は、自性院というお寺の参道の入口にある一座。転げ落ちたことがあったのか、コンクリで接着してある。
 右は、JR中央線と中部横断自動車道が交差する辺りにある一座。台座や下段の石が真新しいが、整備前にも、このかたちだったのだろう。台座に銘のようなものはない。

 甲斐地方に「丸石道祖神」という民俗があるという知識なしに、この造形を見た場合、「なんじゃこれ」度は、より高くなるだろう。

 …まさしく「なんじゃこれ」で、これらの造形は、簡単な意味づけを拒絶していると思っていたのだが、震災を考えることが多いためか、いま、妙な説を思いついた。すなわち、「丸石神は天変地異の観測装置である」という説である。
 紀元前の中国に、龍の像がくわえた玉が落ちることで地震を感知した装置があったという。これらの丸石道祖神にも似たような意味があるのでないか。つまり、これらは、「不安定な造形が崩れないことにより、世界の安寧を確認している」という意味があるのではないか、なんて。

丸石神その302011/01/25 21:22

山梨県立博物館の丸石神
 先週末、山梨県立博物館の企画展・「甲府道祖神祭り」を観てきた。幕絵と呼ばれる、陣幕のような幕に描かれた絵(歌川広重筆)の展示を主としたものである。
 道祖神そのものを扱った展示ではなかったが、初めて見る資料など、いくつか新しい知識を得た。

 ひとつは、明治五年の、門松、削りかけ、節分の鬼やらい、道祖神祭りを禁止する布告が、以前ここに書いた藤村紫朗氏ではなく、土肥実匡氏の署名によるものだったことである。藤村紫朗氏が県令(権令)になったのは明治六年だった。
 美術財産であったこれらの幕絵は、数点を除き、この布告などにより、廃棄されたというから、もったいない。
 山梨県立博物館の観覧は3回目だったが、敷地内に丸石神があることを今回初めて知った。写真がそれで、昭和はじめにつくられた「本物」を「遷座」したものだそうだ。ミュージアムショップでは、道祖神祭りの絵葉書とクリアフォルダーを買った。

丸石神その292010/12/12 14:48

丸石神その29
 先週末、韮崎市本町三丁目の姫宮神社境内で見つけた立派な丸石神である。正確な年代は不明だが、幕末のもので、別の場所から遷座したものと思われる。

 同神社境内には、穴の空いた石もある。台座の銘によると、鏡石という名で、宝暦七年九月(1758年)に造られたものだ。韮崎市のサイトによると、富士講(富士山信仰)の信者によるものだ。境内は釜無川の河岸の高台で、富士山もよく見える。だが、不思議なことに、穴の方向は富士山からはわずかにずれている。創立時から動いてしまったのかもしれない。現在も、やや斜めからなら、穴を通して富士山を見ることは可能だが、隣接する墓地の塀に裾野が遮られたかたちになる。

石子順造と丸石神2010/10/17 13:52

石子順造と丸石神
 四谷のCCAAアートプラザランプ坂ギャラリーで行われたシンポジウム「石子順造と丸石神」というイベントを観てきた。中沢新一さん、椹木野衣さん、本阿弥清さんの講演と、鼎談である。
 丸石神をテーマにしたシンポジウムがあるということ自体、丸石好きとしてたいへんうれしかったのだが、講演は淡々と聴いていた。主に評論家の石子順造さんの再評価という動機による会なので、丸石神「自体」の面白さが語られることはあまりないだろうと予想しており、内容はその想定内であった。

 わたし自身の丸石神への関心も、「折り紙のマージナルアート性→キッチュ論への興味→石子さんの著作を通して丸石神を知る→山梨でじっさいの丸石との遭遇し、幾何アート好きの琴線に触れる」ということで、石子順造さんの影響なのだが、石子さんの評論を読み返すと、論旨は錯綜しており、正直、情熱は伝わるが共感はできないことのほうが多い。

 今回の会で一番面白かったのは、中沢新一さんが紹介した、氏の父上にして民俗学研究者の中沢厚さんのエピソードだった。石子さんらを案内した中沢厚さんは、丸石神を前に「近代を超える。近代を否定する」等々と口角泡を飛ばして議論する彼らを見ながら、「愛情のある皮肉」を込めて、「あのひとたちは近代に反発しているけれど、近代的なひとだねえ」と言ったというのだ。

 鼎談の中で椹木さんが、「石子さんは、反近代、非近代を考え続けるがゆえに、逆に近代に呪縛されていたのかもしれない」といったことを発言されていたが、そうした強迫的な心性の解毒剤として最も有効なのも、わたしには、中沢厚さんのような態度としか思えない。それは、じっさいに現場で多くの実物に接し、さまざまな視点からそれについて考えているものの強みである。また「外」にいるものの強みである。中沢厚さんも丸石の美しさを語るが、美術の「外」にも「美しい」ものがあるのは、考えてみれば、当たり前なのである。

 会に、質問の時間がなかったのは残念だった。