道祖神祭り禁止と擬洋風 ― 2010/10/04 22:55

道祖神祭りの禁令に関しても記述されていたが、明治五年の山梨県の布告で、門松や追儺(節分の豆まき)なども禁止されたというのは、驚いた。
このような禁令は、当時の県令(現在の県知事にあたる)であった藤村紫朗氏による。(追記:藤村紫朗氏が県令(権令)になったのは、明治6年からであったが、藤村紫朗氏が民俗信仰を抑圧したのはたしかである)
この藤村という名前に聞き覚えがあった。山梨には、明治初期の「擬洋風建築」、すなわち、日本の職人が建てた西洋風の建築が多いのだが、それらが、このような建築を奨励した県令の名に因んで「藤村式」と呼ばれているのである。
擬洋風建築では、信州松本の開智学校が有名だが、山梨の津金学校や舂米(つきよね)小学校も、なかなか味がある。たとえば、写真の富士川町増穂にある舂米小学校である。中央に六角形の鐘楼のような「太鼓堂」があり、そのてっぺんにシャチホコがひとつだけついているというものだ。愛らしいが、どこか奇妙な建築である。
民俗信仰を根こぎにするかのような禁令を出した「開明派」の県令の名をとどめ、じっさいに文明開化の拠点であった学校。それが、いま見ると、国籍不明であることによって、きわめて「日本的」に見えるというのは、じつに面白い。
丸石神その28 ― 2010/09/23 11:16

『甲斐路 ふるさとの石造物』(山梨県編)によると、そもそもは道祖神として集落の辻々にあったものが、「道祖神祭廃止の通達」(明治五年:四年という資料もある)のさいに、神社境内に集められたものであるという。
明治の初めは、いわゆる国家神道による、他宗教や民俗信仰への淫祠邪教扱いが苛烈だった時期である。五島崩れなど潜伏キリシタン(隠れキリシタン)の殉教もこの時代だ。
甲斐の山村の民俗信仰も、そこで一部断ち切られたわけである。神社が「六社神社」なのも、小祠が集められたためかもしれない。
金精軒の丸い石 ― 2010/09/05 19:55

これもそのときに気がついたのだが、金精軒の読みは、「きんせいけん」なのであった。「こんせい」だと思っていたのである。道祖神と関係が深いとも言えなくもない金精神は、ふつう「こんせい」だが、北杜市大泉町にある、縄文遺跡・金生遺跡も「きんせい」だ。なお、金精軒の名前のいわれは知らない。
丸石神関連文献 ― 2010/08/01 16:53

石上堅さんの名前は知らなかったが、万葉集に名が遺る石上堅魚(いそのかみのかつを)からとった名なのか、この名前でこの本の著者というのはすばらしい。折口信夫さんのお弟子のようで、見開きに以下の歌があった。
「しづかなる いこひなりけり 山岸に 石を撫でつゝ 時經つ と思ふ 釈迢空」
(釈迢空は折口信夫の号)
古書市は、神保町をぶらぶら歩いているだけでは遭遇しない本に出会うことがあるので、たいへんありがたい。京都の店が出店しているのも大きい。
この日は、新刊書店でも、折り紙本や和算関係の本で散財した。
寛永通宝 ― 2010/07/29 19:17

この日は、ちょっと旧甲州街道等をたどって、道祖神を探したのである。道祖神発見のひとつの目安になるのが、前にも書いたが、「火の見櫓・道祖神隣接の経験則」である。この武川町の道祖神もそのひとつで、火の見櫓のすぐ下にあった。火の見櫓というのは近代になってからのものだが、これは、道祖神が火伏せ霊験を持つ秋葉権現を兼ねる場合があることに関係しているようにも思われる。
散歩の日々 ― 2010/06/20 10:12




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