Je pense, donc je suis. ― 2009/10/25 19:12
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、ラテン語の「Cogito, ergo sum.」として知られるが、もともとラテン語だったのではなく、デカルトの母語であるフランス語による「Je pense, donc je suis.」がオリジナルである、ということを最近知って、以下のようなことを考えたばかりだった。
「Je pense, donc je suis.」をラテン語に訳したのは、メルセンヌ素数で知られるメルセンヌ神父だとのことだ。それはさておき、ラテン語は動詞に人称語尾があって人称代名詞が省略されることが多いようで、まさに「Cogito,..」もそうなっていると見える。
で、このラテン語訳が本家本元のように流通しているのは、この「名言」にとって、あまり望ましい状況ではないのでは…、というのが、ここでの話である。
フランス語の「Je pense, donc je suis.」では人称代名詞のJeが2回でてくる。日本語訳の「我思う、ゆえに我あり」や英訳の「I think. therefore I am.」も同じだ。わたしはもちろん「我思う...」としてこの命題を知ったのだが、そのとき、「我」が2回でてくるところがキーであると感じた。そう思ったひとはほかにも多いはずで、じっさい、そのことを言っていた友人がいたことも思い出される。人称代名詞の繰り返しは、後段が「存在」の述語であることと相まって、この命題がトリッキーな自己言及構造であることを明示している、と言えなくもない。この命題は、それ自身が「ジェネレータ」(フラクタル幾何学で基本となる図形)となり、「我思う、ゆえに我あり、と我思う、ゆえに我あり、と我思う..」と無限に続く構造をつくる。これにより、この命題は、精神と物質を分ける単純な命題などではなくなっているのではないか。『方法序説』の文脈でどう語られているかを別にして、まあ、そんなことを思ったのである。
このような、言説や意識の無限の入れ子構造は、「文学青年」や日記をつけているひとには、なじみ深いものではないかと思う。たとえば、自分についてなにかを書くと、どこかにごまかしが生じるが、そのごまかしを、さらに書くことで否定しようとしても、有限のやりかたではおさまらなくなるもどかしさのようなものとして。
というような「問題」を、かつて「理科系の文学青年」であったわたしは、無限に発散する物理量を有限量として扱う「くりこみ理論」の考え方に対比させて、納得しようとしていた、なんてことを思い出す。
コメント
_ カトレア ― 2009/10/27 07:51
_ カトレア ― 2009/10/27 09:45
-全ての意識内容は疑いえて も 意識そのもの .. 意識する自分の存在 .. は、疑う事は出来ない- (の意味) も知 らしめ らりして・・
呆け防止に -感謝, サワヤマ- でございます。
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【『我』が二回でてくるところ が キーである】
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解りきった事,でしょうが -[然り々!!]- で、
【我】を除いてみれば どうなるか? 幼稚な好奇心を持つアタシ、様々に試して見ちゃいましたッ! ~【○想う ゆえに○あり】~
ルン! ♪ ~楽しませて戴けましたッ!~ ♪ ルン ルン♪