ミカンの房の数ーその後 ― 2009/02/20 22:51
『数のはなし』(バニー・クラムパッカー著、斉藤隆央・寺町朋子訳) によると、イタリア語、フランス語、スペイン語の「11」の語源は、日本語と同様「10と1」ということだが、英語とドイツ語のそれは、すこしニュアンスが異なって、「ひとつのこっている」ということだそうだ。まったく科学的ではないが、ミカンの11も、おまけの+1かも、なんて思った。
「おまけの11」と言えば、『ざしき童子のはなし』(宮沢賢治)の11人が、まさに「もうひとり」という話で、サッカーの11人も、ゴールキーパーはもうひとりという感じである。
わたしたちには12進法も深く染み付いているので、11という数は、「ひとつ余った数」であると同時に、「ひとつ足りない数」でもある。11月は年も押しつまったと思わせる月、11時は、あと少しで昼休み、あるいは、今日も終わりという時刻だ。いま、ほぼ11時で、今日も終わりである。
(このブログ内では、この記事とこの記事にも、11の話題あり)
などと、11という数に思いを巡らしているわけだが、話変わって、ものの数を数える傾向があるというわたしの質(たち)についてである。これは、ものが幾何学的な対称性に関わっているように思えた場合だけで、小さい頃からというものでもなく、さいわい、強迫的でもない。世の中には、眼に映るものを数えなければいられない、計算症(計算癖)という強迫神経症もあるらしい。これは、たいへんそうである。『カウントプラン』(黒川博行著) というミステリの「テーマ」がこれだった。
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