150年前の白山2007/12/17 23:12

 昨日の会は白山のJOASホールが会場だったが、『切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩』(人文社編集部)の『東都駒込邊絵圖』(安政四年-1857-改版)を見ていて、あることに気がついた。
 ギャラリーおりがみはうすと隣りのJOASホールのある朝日マンションの建つ土地は、屋敷のない町家だが、折紙探偵団東京友の会の例会後に、若い創作家たちが集まる某ハンバーガーショップにあたるとおぼしき場所に、「神谷玄雄」というお屋敷があったのである。そう、「神谷」なのだ。ギャラリーおりがみはうすの従業員にして、折り紙の申し子、折り紙作家・神谷哲史さんと同姓である。土地の因縁というべきであろう 。なんて、因縁とかなんとか、まったく信じておらず、だからどうしたってなもんだが、ちょっと面白い。
 白山神社(白山権現)の富士塚が立派に描かれているのも目をひく。この富士塚には、わたしも紫陽花祭りのときに「登頂」したことがある。(普段は登れない)

<追記>
 ネットを検索して、東京人形倶楽部あかさたな漫筆『「ぞ」はZOOLOGISTのゾ4  リュウグウノツカイと人魚(3)』(釜野啓 著) によって、神谷玄雄(たぶん、カミヤゲンユウ)の素性が明らかになった。玄雄は医師である。そして、なんと、人魚に関することで記録にのこっていた。  概略すると、「辻川氏(不明)の所蔵する人魚のミイラを、医師の神谷玄雄が借り出して、博物学者の毛利梅園が写生した」ということである。詳細は、上のリンクを参照のこと。人魚という展開は意外だった。当時の学者や好事家の、好奇心のみで結びついたネットワークも垣間見える。16日の研究集会もそういう感じがなくもない。(人魚ほど怪しくはない?)(12/18 13:00)

コメント

_ 神谷令子 ― 2019/03/09 15:04

神谷の先祖が、江戸時代どこに住んでいたのか確かめたくてネット検索していました。思いがけず、前川様のブログに至りました。初めまして、神谷と申します。神谷玄雄は、夫の先祖です。芭蕉の美濃派の俳諧宗匠で医師でもありました。もし、興味がおありでしたら、神谷玄武坊で、検索するとでてきます。新潟県中条町に、玄武坊と、神谷家一族の墓があり、中条町の郷土史家が、詳しい歴史を調べ資料を送って下さいました。私は現在埼玉県に住んでいるので、江戸時代の古地図から、白山の地を見つけることができました。玄武坊は、長生きをしたので、白山老人と呼ばれていました。最近の前川様ブログに、歌が掲載されてたので、ご縁かしら、と、お便りさせていただきました。もうすぐ古希を迎え、先祖からのメッセージを、ありがたく感じています。白山神社、おりがみはうす、お尋ねしたいと思っています。最後に、玄武坊の代表作を 「めでたさや まことはさびし松のいろ」

_ maekawa ― 2019/03/09 20:55

神谷さま。
コメントをありがとうございます。おもいがけないかたからのメッセージに、驚きました。
ご教示のように、「神谷玄武坊」で検索すると、情報がたくさんあるので、見始めたところです。

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