上円下方墳2007/12/20 22:59

上円下方墳
 2週間ほど前の朝日新聞に、国立天文台三鷹キャンパスの構内にある古墳が、(歴史的なものとしては)全国で4例目の上円下方墳であると確認された、との記事が掲載されていた。前方後円墳ではなく上円下方墳である。なお、「歴史的なものとしては」という注釈は、近代の天皇陵、つまり、京都伏見の明治天皇陵と東京八王子の大正天皇陵、および昭和天皇陵も上円下方墳で、上記4例にそれを含んでいないためである。
 今日の午後、仕事で天文台の三鷹キャンパスに行ったので、ついでにそれを見てきた。第一赤道儀室の隣りの丘がそれである。(ちなみに、この第一赤道儀室も、関東大震災前の1921年建造という建築物で、国の有形文化財に指定されている) 研究者の調査で明らかになったぐらいなので、見ただけで上円下方というかたちがわかるというものではなく、大きさも、古墳ということで思い浮かべるものからすると小さかった。じっさい、いままで何度も横を通っているのに、丘があったことに気がついていない。ただ、数ヶ月前に天文台の小久保英一郎さんから話は聞いていた。小久保さんの専門はシミュレーション天文学だが、子供の頃は考古学者になりたかったとのことで、『国立天文台ニュース』2007/06のインタビュー記事(『天文台Watching 第24回』 インタビュアー:高田裕行さん)でも、この話題に触れている。

 そして、である。上円下方というのは、見かたによっては、いまわたしがハマっている山梨の丸石道祖神と同じ図形構成、すなわち「天円地方」の象徴性を持っているとも言えるのだ。
 新聞記事にあった「都内や多摩丘陵に点在する円墳も、調べれば上円下方墳である可能性がある」という考古学者の池上悟さんの推測も興味深い。なお、この古墳は、前方後円墳などの巨大古墳の全盛期よりは時代が下って、7〜8世紀のものであるという。この時代は西日本と東日本の違いは大きいのかもしれないが、高松塚(二段式円墳)と同時期で、遣唐使の最盛期でもある。大陸からの思想輸入という面においても面白い時代である。
 また、古墳は、上記の新聞記事も触れているが、富士塚(白山の記事参照)とも関係がある。富士塚は江戸時代の流行だが、古墳を利用したものもあり、三鷹のそれもそうだったとの資料もあるらしい。近所にある武蔵境の杵築(きづき)神社や府中の浅間山の富士塚には、前から行こうと思っていたのだが、ぐっとその気が増した。こんどの休日にでも行ってみよう。

 それにしても、というか、まあ、いつものことだが、わたしの関心は、発散しているんだか、収束しているんだかわからない状態である。広い意味での「幾何学」への興味という、自分なりの核はあるのだけれど。
 上記の小久保さんも、考古学を語る言葉があまりに熱いので、「休みをとって(発掘を)手伝った方が、世の中のためになるから、行けば?」と冗談を言われたそうだが、わたしも、なにに集中すれば世の中のためになるのだろうか、と考えた。なんて、じっさいにはなにも考えていない。

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