気がつけば2ヶ月ぶり2021/08/22 19:05

◆小さく固く折りたたんでゆく
相原かろ氏の歌集『浜竹』に、折り紙を詠んだ歌があった。

折り紙でエリマキトカゲを大量に作りき我は作れずもはや 相原かろ

エリマケトカゲが車のCMで人気者になったのは1984年のことである。相原さんの折ったエリマキトカゲはどんなものだったのだろうか。

『おりがみ新世界』(笠原邦彦、1989)に、わたしのエリマキトカゲが載っている(図:笠原氏)。この作品は、笠原さんの造形を参照して、辺の三等分を用いて効率的な構造を目指したもので、笠原さんは次のように記している。
「笠原の作品は、かなり難しい折り方のものです。それが、前川作品ではかくもやさしいものになったという次第です」
しかし、頭部の立体化にすこしわかりにくいところもあり、そんなに簡単に折れる作品でもない。
エリマキトカゲ

相原さんのこの歌は、幼少年時代の喪失などというには力が抜けている。歌論の用語に、見たまま感じたままを技巧をつかわずに投げ出すように歌う「ただごと歌」というものがあって、そんな歌だと言える。折り畳むことに関した歌は次のものもあり、これも「ただごと」というか、「あるある」だ。

ポケットの中で紙片の手ざわりを小さく固く折りたたんでゆく 相原かろ

次のような歌も、「そうそう。言われてみればそうだよなあ」というものだ。

測量の人が見ている測量の世界の中を通ってしまう 相原かろ
満員の電車のなかに頭より上の空間まだ詰め込める

相原さんは、神奈川生まれで生活圏も首都圏のようだが、山梨名物の信玄餅を詠んだ連作も四首あった。そのなかから二首をひく。

容器からモモっと注ぐ黒蜜を信玄餅のきな粉がはじく 相原かろ
扇風機の首振りが来て黒蜜になじんでいないきな粉は飛んだ

これらの歌には「桔梗屋」という小題がついているが、二拠点生活のひとつを峡北(山梨県西北)地域とする半・山梨県民としては、信玄餅といえば、桔梗屋ではなく、北杜市白州町台ヶ原の金精軒である。じっさい、信玄餅という商標は金精軒のもので、桔梗屋のものは桔梗信玄餅が正しい呼称だ。ただ、餅と黒蜜ときな粉を小さな風呂敷に包んだパッケージを最初に販売したのは桔梗屋のほうが先だったようで、いまは商標争いも和解している。
きな粉が飛んだということでは、高浜虚子の次の俳句も連想した。

草餅の黄粉落せし胸のへん 虚子

これには次のような本句取りを考えたことがある。

ナポリタン赤い点々胸のへん
カレーうどん黄色く飛んだ胸のへん

相原さんの歌は、全般にとぼけたような味があるのだが、やや苦みのある歌もある。1978年生まれの相原さんが社会にでたのは、いわゆる「失われた30年」の只中ということになり、それを反映している歌と見ることもできる。

部屋を出たあとに聞こえる嗤い声いまに見ていろ歌にしてやる 相原かろ
履歴書の空白期間訊いてくるそのまっとうが支える御社

「いまに見ていろ」という意趣返しが「歌にしてやる」であるのはいかにも弱く、その歌はわらい声の主にはとどかない可能性のほうが高い。しかし、それは歌として、歌集としてのこり、読む者もいる。それはある意味、芸術の勝利かもしれない。ただ、相原さんの詠む忘れがたい光景の多くは、批評性とは違い、これといった象徴性もなく、それゆえに印象が強いということがある。

階段を松ぼっくりが落ちてきてあと一段の所で止まる 相原かろ

◆12^3+1^3=9^3+10^3=1729
ラマヌジャンの「タクシー数」を視覚化してみた。してみたが、とくに新しい発見があったわけではない。
1729

なお、「タクシー数」のエピーソードは以下である。(『ある数学者の生涯と弁明』(G. H. ハーディー、柳生孝昭訳)掲載の『ハーディーの思い出』(C. P. スノー)より)

彼(ラマヌジャン)がパトニーの病院で死の床に伏せっていたとき、ハーディーはよく見舞いに行った。例のタクシーのナンバーのことがあったのも、ある日の見舞いの時の出来事であった。(略)彼はラマヌジャンの寝ている部屋へ入って行った。ハーディーは、いつも会話を始めるのが下手だった。恐らく挨拶などはしなかったのだろう。最初は、確かこうだろう。「私の乗った車のナンバーは1729だったよ。まあつまらない数だが」ラマヌジャンはこれに対して「いや、面白いですよ。ハーディー。とても面白い数です。二数の立方数の和で表す表し方が二通りある最小の数ですよ」と答えた。
 これはハーディーの記録している二人のやりとりである。肝心の所は正確に違いない。彼は真に正直であったし、しかも、誰もこんな話を創作できなかっただろう。

◆中からは見えない
野辺山観測所の公開日(8月28日)は今年もオンラインである。そのコンテンツのひとつとして、「棒渦巻銀河」の折り紙のビデオを撮った。われわれの天の川銀河の形状も「棒渦巻銀河」なのだが、中にいるとその全体の構造はわかりにくい。

で、ふと思った。
戦争のただ中を生きたひとの話を聞いたり、『方丈記』の天災や飢饉の記述を読むと、今の世の平穏を感じてきた。基本その思いは変わらないが、将来1990年代-2020年代の日本を振り返ると、カルト宗教のテロがあり、大地震や気象災害が頻発し、経済は停滞し、感染症も蔓延して、たいへんな時代だったと思われるのではないかと。

最近のこの国は、堅牢だったものが傾いたというより、歴史を参照すれば聞いたことのある話で、地金がでたというか、もともとこんなものだったのだろうと、妙に納得している。しかしそれを、冷笑的態度で終わらせ、傍観者を気取ってすむ話でもない。自分もその共同体の一員であるからだ。

第30回折り紙の科学・数学・教育研究集会 ほか2021/06/15 21:44

◆第30回折り紙の科学・数学・教育研究集会
6/20(日)10:00-17:00に上記の会があります。参加費1000円のオンラインの会で、どなたでも聴講できます。詳細は下記のURLからどうぞ。

◆「折」の字
折りパケ
カルビー食品のスナックの袋に「折」の字が書いてあって、なんのことか思ったら、ゴミの体積減のために袋を折り畳もうというキャンペーンだった。
わたしは、以前から袋を畳んで結んで捨てることがほぼ習慣化している。

◆ヤマハタザオと軽量構造
ヤマハタザオ
1メートル近くの高さで亭々と立つこの草の名は、ハタザオ(ヤマハタザオ)といって、見たままの命名である。天辺にはちいさな白い花が咲いていて、旗竿の先端の「冠頭」の趣きがある。英名も、タワー・マスタード(マスタード=芥子菜)、タワー・ロックレス(ロック・クレス=岩・クレソン)と、タワーの名を持つ。この写真でも根元が画面から外れているぐらいひょろりと高い。茎の直径は2ミリぐらいの細さで、高さを約80センチとして、電信柱の直径30センチで計算すると100メートル超のスケールになる。むろん、構造力学的に比例計算にはならないが、写真のうしろに写っているアカマツに比べても高く見えて、大げさにいえば、軌道エレベーターかジャックの豆の木みたいな感じだ。

次号の『折紙探偵団マガジン』に、『Forms and Concepts for Lightweight Structures』(Koryo Miura and Sergio Pelegrino)(『軽量構造のための形状とコンセプト』三浦公亮、セルヒオ・ペルグリーノ著)の紹介記事を書いたあとに、このヤマハタザオを見て、まさに軽量構造で、バイオミメティクス(生物模倣工学)のタネになりそうだなあ、などとも考えた。

◆『三体III』の折り紙の舟
大作SFの完結編『三体III 死神永生』劉慈欣著、大森望他訳)に折り紙がでてきた。重要な展開への伏線にもなっている。

一枚の白い紙を振りながら程心に言った。「これで舟を折れる?」
「折り紙も忘れられた技術ってこと?」程心は紙を受けとって訊ねた。
「もちろん。いまどき、紙だってめったに見かけないんだから」
程心は腰を下ろして舟を折った。

西暦でいうと2300年ごろの設定だ。2200年ごろに全人類が難民化したさいの記述には、以下の比喩もあった。

正午の陽射しのもと、合板と薄い金属板でできた住宅は、真新しいと同時にいかにも壊れやすそうで、砂漠に散らばる折り紙の箱のようだった。

「折り紙」の原文は「摺紙」だと思うが、「折紙」かもしれない。わたしの『折る幾何学』の繁体版のタイトルは『摺紙幾何學』で、簡体版は、訳者の案では『折畳几何学』だったのだが、『折紙几何学』になった。「摺紙」と「折紙」なのである。「折」はbreakの意味が強いようだが、日本と同様にfoldingの意味もある。

『三体』は、大ボラ話としてのSFの王道。ディテイルをあれこれつつくのは野暮かな、と。

第10回折紙探偵団九州コンベンションほか2021/05/10 19:40

◆第10回折紙探偵団九州コンベンション
5/15(土)-16(日)は、第10回折紙探偵団九州コンベンション。
参加申し込みはこちら。http://q-syu.squares.net/blog.cgi 
申し込みは5/13(木)深夜まで。

当初、佐賀大学の会場とオンラインを結ぶハイブリッド形式で構想されていたのが、感染症の蔓延状況により完全オンラインとなった。オンラインなので、九州コンベンションの意味はなんぞということだが、佐賀在住の川村みゆきさんがチェアでスタッフが九州のひとが中心なので、たしかに九州コンベンションなのである。

わたしの講習作品は「ブルドッグ」。たぶん時間に余裕があるので、関連作品も用意した。

◆すべりやすい
バナナ「WET FLOOR」
1ヶ月ほど前に某所で見た「すべりやすい」の標識が面白かった。検索すると、けっこう普及しているものらしい。「WET FLOOR」 より、せっかくバナナなので「SLIPPERY」(すべりやすい)のほうがよいのに。(なお、写真のものは、「CAUTION」のCの文字が欠けている)

◆ミミズク
ミミズク
近作から「ミミズク」。小松英夫さんのミミズクへのオマージュ的なモデルで、ぐらい折りゼロと立体化の構造がうまくできた。

◆「脅威に関する情報を伝えると、伝えた人がより有能であると見なされる」
最近読んだ『人は簡単には騙されない』(ヒューゴ・メルシエ著、高橋洋訳)は、ひとは簡単に騙されるという人口に膾炙された話を、いやいや、ひとは案外と騙されにくく、それは、ひとが「開かれた警戒メカニズム」(有益なメッセージを受け入れ、有害なものは捨てる認識のメカニズム)を持っているからだと述べる、認知科学の本である。

ただ、同書中に示される例には、ひとは簡単に騙されないが前例踏襲的であるという話も多い。開かれていないじゃないか…と。そもそも開放性と警戒性は相反するので、「開かれた警戒メカニズム」という概念自体が撞着的だ。そのような機構があるとしても、微妙な均衡に基づいていると考えるほかはなく、知りたいのはその均衡の力学の詳細だが、その部分はもやもやしている。同書には、ひとが騙されるケースに関する記述も多くあって、むしろそれが興味深かった。下の引用もそうした一例である。

(認知科学者の)パスカル・ボイヤーと心理学者のノラ・パレンは一連の実験を行って、脅威に関する情報を伝えると、他のタイプの情報を伝えた場合と比べ、伝えた人がより有能であると見なされることを示した。

時事的だ。

◆ゲルフォントの定数
二酸化炭素排出の削減で、「おぼろげながら浮かんできたんです。46という数字が」という小泉環境大臣の意味不明な発言に「ラマヌジャン的なお告げ」か!」という指摘があったらしい。e^πという、ラマヌジャンが好きそうなふたつの超越数からなる超越数(であることは証明できる)があり、ゲルフォントの定数と呼ばれるその値は、46のほぼ半分の23.140...なので、「浮かんできたんです。46.281385...という数字が」と言ったのなら感心したけれど。

◆Covid ergo sum
「Covid ergo sum」(新型コロナウイルス感染症、ゆえに我あり)というダジャレを思いつき、不謹慎ながらも味わい深いと、ひとり悦にいっていたのだが、同名の書籍が既にでているのを発見した。イタリア語の本で、しかも二種あり、パンデミック化におけるジョーク集と、看護師のドキュメントのようである。
なお、前にもこのブログに書いたが、ラテン語の「Cogito ergo sum」は、デカルトのオリジナルではないという。

『生きる水』など2021/04/13 20:24

◆『生きる水』
『生きる水』
詩人の高塚かず子さんと版画家の鳥海太郎さん(布施知子さんの伴侶)による詩画集『生きる水』が刊行された。

『生きる水』は1994年にH氏賞(いわゆる詩壇の芥川賞)を受賞した詩集で、それに感銘を受けた鳥海さんが版画を寄せたことでできたのが、今回の詩画集である。
序文は加藤登紀子さんと新川和江さんが書いている。新川さんが「シリアスな高塚作品」と評していて、たしかに硬質な感じもする詩だ。いっぽう、太郎さんの画はやわらかい。そして説明的ではないので、両者から広がる世界が味わい深い。

元・理系のブンガクセーネンとしては、『流体』という詩に「流体方程式」という言葉が出てくるのに惹かれた。 (この詩句は、カバーのそでにも引用されている)

水や風のはるかな流れがくりかえす
流体方程式のさなかで いま
ひとりひとりが
とくべつにみつめあう 発光する
千年ののち
ちがう生命体でめぐりあっても
きっとわかる

「流体方程式」はナヴィエ・ストークス方程式、決定論的なのに混沌(カオティック)、混沌なのに決定論的で、ときどき垣間見える定常解が、みつめあう視線になる、ということを思った。

◆九州大学附属図書館「折り紙の歴史と現在」
九州大学附属図書館に勤務されている中村智晴さんから、「折り紙の歴史と現在」というページをつくったという連絡があった。
◆FoldFest Spring 2021
先週末、OrigamiUSAのFoldFestというオンラインイベントに参加した。教室は、zoomのウェビナー(セミナー形式)だったが、gather.townというプラットフォームによる、ひと昔前のゲームの画面みたいなビット絵のアバターでの仮想雑談室もあって、いろいろ工夫されていた。

◆22.5
22.5度は、直角の1/4なので、折り紙で重要な角度だ。FoldFest の講習でもtwenty two point five degreesと何度も言ったが、すこし長くて言いづらいフレーズである。

すこし前、ここしばらくのダイエットが功を奏し、体脂肪率が22.5%になったので、記念写真を撮った。以降それを下回っていて、近く予定している健康診断がすこしたのしみになっている。できれば、BMIを22.5にしたいが、散歩以外の運動をしてないのでこれは難しい。
22.5

◆アスリート
棒高跳び女子で何度も表彰台にも立っている、日本体育大学の前川淳さんという女性がいる。横文字のJunやJuneというのはほぼ女性名で、本邦でもジュンという名の女性は多いので、不思議はない。ちなみに、アニメーション脚本家の前川淳さんはアツシさんだ。

関連してというのでもないが、女子100mの日本記録は11秒台だが、これは、80年ほど前に父の出した九州地方の中学記録とほぼ同じだ。父はその後にけがをしたので、記録は伸びず、わたしは、その運動神経を受け継いでいない、というか、運動は苦手なほうで、上に書いたように最近は散歩以外の運動をしてない。

◆折り紙が趣味
アスリートといえば、阪神タイガースの新人・佐藤輝明選手の趣味が折り紙であるという情報を得た。何ヶ月か前のニュースのスポーツコーナーで紹介されたらしい。どんなものを折るのだろう。

タイガース戦は観ているし、今年はいけるかもという気分になっているけれど、この状況で観客をいれてプロ野球をやっているのは大丈夫なのかという気もする。

あの市松模様2021/02/23 20:36

実家を整理して見つけた、少なくとも半世紀前の猿回しの人形。
よく見ると、羽織の柄がアレだった。ということは、背中の猿に見えるのは…。
あの市松模様

3/6(土)14:00-16:00、折紙探偵団東京友の会で講師をします。
参加資格は『折紙探偵団』購読者です。

塙町ダリアの折り紙 など2021/01/11 10:01

◆塙町ダリアの折り紙
遅ればせながら、昨年末におこなわれた「塙町ダリアの折り紙募集」審査結果。よい作品がたくさんありました。

◆計算尺
古いものを整理をしていて、むかし、父から譲りうけた計算尺を見つけた。宮崎駿監督の『風立ちぬ』を観たさい、「鯖の骨と計算尺と高原の風が主役」との感想を持ち、父から貰ったあの計算尺はどこにいったのだろうと思いながら確認できずにいたのだが、それがでてきた。

わたしが理学部に入学したときに買った関数電卓は、たしか1万円近くして、それもまた時代の流れを感じさせるが、計算尺の時代は疾うのむかしに終わっていて、実用で使ったことはない。父が学生時代の戦中のものではなく、戦後のものだとは思うが、いずれにせよ、かるく半世紀以上は前のものである。しかし、道具としての精度はまったく劣化していない。主要素材が竹なのもよい味で、狂いなくスムーズに動くさまは、物としての魅力にあふれている。

計算尺

黄金比(1.618...)の逆数が黄金比マイナス1(=0.618...)であることを確認してみた。対数を用いた演算なので結果は6.18..になっており、桁は換算しないといけない。

◆折鶴型飛行機械
ひさしぶりに『鉄腕アトム』を読んで、『青騎士』の敵役・ブルグ伯爵の乗る飛行機械が折鶴のかたちをしていることに気がついた。ちょっとしたことろにも見どころがあって、手塚さんはやはりすごいなあ、と。
『青騎士』


◆谷折り線の謎

谷折り線をながめ一日 髭面の男の胸にウッドストック 東直子

谷折り線という、折り紙創作家にとって無視し難い言葉がでてくるので、気になる歌なのだが、歌意はきわめてわかりにくい。上の句の中で大きく切れていることは、分かち書きがあることで明白だが、その切れは、空白一文字ぶんよりはるかに大きい断絶になっている。なぜ谷折り線をながめているのか、誰がそうしているのか、後半がその解明のヒントになっているのかと期待すると、そういうわけではないので肩透かしをくらう。ウッドストックは、伝説的なあの音楽フェスティバルのことではなく、スヌーピーのともだちの黄色い鳥のことだろうが、それも解読のヒントにならない。

この歌が収録されている歌集『春原さんのリコーダー』に付されている解説でも、高野公彦さんが、東さんの多くの歌は「分からない」と率直に書いている。氏はその説明にアンドレ・ブルトンのオートマティスム(自動記述)の概念を援用している。東さんの歌の多くは、俳諧でいう「取合わせ」に偶発性を持ち込んだもので、「解剖台の上のミシンと傘の偶然の出逢い」のようなものだと、わたしも思う。理路をもって内容を読み取ろうとしても読み取れないのだ。わからないままに受けとり、ほとんど意味を剥奪されながら無視できない言葉の残響を味わうのが筋なのだろう。しかし、谷折り線という言葉に思いいれが強いので、わたしのもやもやはおさまらない。山折り線はどこに行ったのだ。たぶん、このもやもやを発生させることこそが彼女の歌柄の重要な部分で、わたしがその状態になったこと自体、すでに彼女の術中なのだろう。

わたしの最近の趣味のひとつは、折り紙や数学や天文のでてくる歌や句のコレクションだ。以下の歌もそうしたものなのだが、これまた、上下の句のつながりが特異で不連続だ。
(蛇足ながら、「特異」と「不連続」は、数学用語の singular と discontinuous の含意)

折鶴のかたちを残し火は消える たったひとりをたったひとりに 東直子
数式のほどけるように雪が降るこんなさびしいうれしい島に

上の句だけ抜き出して五七五にすると、かなり素直に受けとれる。

折鶴のかたちを残し火は消える
数式のほどけるように雪が降る

前者、江戸時代の奇術書『仙術日待種』(センジュツヒマチグサ、一七八四、花山人)に「火中より鶴を出す術」というものがある。コンニャク粉を水で溶いたものをひいた紙で折鶴を折り、まるめた紙の中に隠しておくと、燃えたあともかたちが残りやすいというタネの奇術だ。以前、コンニャク粉を買ってきて実験に成功したが、粉が大量に余った。一握りの粉から大量にコンニャクができるので、その後、余った粉でしばらくコンニャクを食べることになった。

後者は、五七五だけ抜き出しても奇抜な比喩だが、次のように想像すると物理的な感触が濃密になる。

数千メートルの上空、マイナス15度前後の大気において、飽和状態にあった水蒸気の平衡状態が相転移して結晶が発生する。自己相似的で平坦な六回回転対称の構造に成長した水の結晶は、上昇気流と重力のバランスが崩れて落下し始める。そのとき、平坦な結晶がいくつか絡まりあった複雑な形状もあって乱流が発生し、単純な落下ではなく舞うような運動をする。雪という現象は、このように、解析的には解きにくい、しかし、膨大な演算にしたがった理に適った現象として生まれ、そして消えてゆく。それはまさに「数式のほどけるよう」な感じ、といえなくもない。なお、東さんには「雛のある部屋に足し算教えつつ雪降るように切なさが降る」という歌もあって、これも上掲歌につながる。

東さんの歌がみなこんなにわかりにくいかというと、そうでもなく、『折紙探偵団』171号に書いたエッセイ『折紙歌合(おりがみうたあわせ)- 折り紙が詠み込まれた短歌と俳句 -』で引いた歌は、謎がありながらわかりやい。

気持ち悪いから持って帰ってくれと父 色とりどりの折り鶴を見て 東直子

このとき持ち帰った折り鶴を家で燃やしたときの歌が、「折鶴のかたちを残し…」であるという解釈はどうだろうか、とあらためて思った。ただ、中途半端に燃え残ったのでなければ、(コンニャクびきをされていない紙なので)燃え崩れてしまったはずなので、折鶴のかたちは灰の中に思念として残ったものと見たほうがよい。なんにしても、言葉の意味自体はとることができる。いっぽう、次のふたつの「数学短歌」は、またまた難問である。

数字から数字が生まれしんみつな灯芯としてひんやり燃える 東直子
マイナスになれば輝く数値あり瞼で割れる夢のたのしさ

一首目、自然数からゼロや負の数が生まれ、有理数や無理数が生まれ、複素数や四元数が生まれ、といった数学の歴史や、リヒャルト・デデキントの『数とは何かそして何であるべきか』という、それ自体が短詩のようでもある書名を連想した。二首目は、シャボン玉のような夢を瞼で割っているイメージだ。眼を閉じることではなく開けることで割るので、符号が反転するのか、夢のシャボン玉は非ユークリッド的な負曲率の「擬球」で、それが球である眼球と対比されているのか、などと。

こんなふうに読んでいると、詩歌に使われた専門用語から生じる連想と、科学用語の濫用、いわゆる「ファッショナブル・ナンセンス」は同種なのかという問題も頭をかすめる。そして、暗示や喚起が詩の核心だとしても、詩においては言葉が明晰でなくても許されるのはなぜか、という身も蓋もないことも考える。