展開図、眼鏡、気球、サリンジャー、そして『しししし』2020/06/14 14:02

先日、ひさしぶりに都心の大型書店に行った。もとめた本のひとつが、歌集『展開図』(小島なお)だった。まずは、タイトルと装幀に惹かれた。円錐の展開図が、カバーと扉に描かれ、表紙では、その図がエンボスになって刻印されている(装幀:日本ハイコムデザイン室)。これはかっこいい。しかし、われながらめんどうくさいのだが、シンプルな幾何図形を見ると、検証をしたくなる。
『展開図』(小島なお)

円錐の展開図では、底面の円周と円錐面になる扇形の円弧の長さが一致していなくてはならない。したがって、360度/扇形の内角=扇形の半径/底面の半径となるはずだ。しかし、この図から計測した値は、360/扇形の内角=3.08で、扇形の半径/底面の半径=3.25で、わずかなずれがあった。3.08と3.25の違いを一瞥で読み取れたはずもないが、あらためて図に示すと、円錐面に糊しろができた。
『展開図』表紙から

字余りもまた定型詩の魅力であるということを象徴しているのかもしれない…とか。

そもそも、球と違って無限のバリエーションがある円錐で、なぜこのかたちなのだろうか。値が3.1前後なので、比率を円周率にするのは、きれいかもしれない。底面の半径を1とすれば、円錐面の面積がπ^2となって、特別な円錐という気がしないでもない。

次に考えたのは、√10=3.16...という比率だ。これも悪くない。こうすると、円錐の高さがぴたり3になり、底面の半径を1として、体積がちょうどπになる。

しかし、もっと単純に3とするのが、やはりすっきりときれいである。扇形の内角も120度でわかりやすいほかに、半径が同じ球と表面積(円錐面と底面の合計)が同じになる。
球と同じ表面積の円錐
半径と表面積が同じ球と円錐

歌の中にも円錐がでてくるものがあった。

林道に青鳩が鳴き十和田湖の円錐空間に雲が湧き立つ

ほぼ円形の湖を円錐の底面として、その上空に大きな円錐を描いたということか、巨大なスポットライトのような情景が目に浮かんだ。ただし、十和田湖を確認してみると、より円形と言えるのは田沢湖で、十和田湖は、M.C.エッシャーのモノグラム(サイン)のEの字のようなかたちである。

この歌集には、次の、数学を詠んだ歌もあった。

数学はきれいと教えてくれたひと壜底めがねの上原早霧(うえはらさぎり)

上原早霧という美しい名は、架空なのか実在なのかと検索すると、数学オリンピックの出場者にその名があり、スポーツデータの解析を行う会社・データスタジアムで活躍している研究者になっているひとだった。小島さんと同年代の若いひとだ。小島さんの歌には、この歌の他にも、陸上の桐生祥秀氏の名前をそのまま詠んだものなどもあるので、ニュースなどで見た名前なのだろう。小島さんから上原さんへの、異なる方面での才能への畏敬と解釈できるが、壜底めがねという強い表現からは、アイザック・アシモフのエッセイ『無学礼賛』(『生命と非生命の間』山高昭訳、所収)も思い出した。

アシモフは、そのエッセイで、眼鏡をかけた女性がそれを外すと魅力が増すというハリウッドの類型描写を痛烈に批判している。眼鏡が女性の魅力を損なうという考えは、「教養が目立ちすぎると社会で邪魔になり不幸をもたらす」「知性の発達がおさえられれば幸せがくる」ことを示す悪習であると断罪する。アシモフ自身も度の強うそうな眼鏡をかけていたので、その意味での恨みもあったのだろう。

眼鏡といえば、感染症の緊急事態がとりあえず解除されて、眼鏡店が営業再開するのを待って、眼鏡をあたらしくつくった。緊急事態中、横づらを車の窓にぶつけて、眼鏡のツルの先の樹脂の部分が割れてしまっていたのだ。その部品は交換すればよいとして、長年使ってレンズやフレームに細かな傷もあるので、あらたにもうひとつつくることにした。遠近両用眼鏡は、振り向いて後ろを見たとき(車のバックなど)に、顎が上がって近距離焦点部分で見てしまい、視野がぼやけることがある。これに対応するには、意識的に顎をひくとよいのだが、いつもうまくできない。窓に顔をぶつけたのも、横を向いたときのフォーカスのずれだと思うが、いずれにせよ、加齢ゆえなので気をつけなくてはならない。

とまあ、話があっちこっちに飛んでいるが、『展開図』には眼鏡を詠んだ歌もあった。

甲虫の肢(あし)内側に折るように眼鏡を畳むきょうの終わりは

小島さんも眼鏡をかけているのだろうか。それにしても、眼鏡のツルが昆虫の肢に似ているというのは、膝をたたきなるような見立てだ。甲虫ではないが、先日見た、アカスジキンカメムシの肢もまた、金属光沢で眼鏡のツルみたいだった。アカスジキンカメムシは、とくに珍しい虫ではないはずだが、歩く宝石とも呼ばれ、ひさびさに見た。
アカスジキンカメムシ

眼鏡店での視力検査のさい、小さなカタカナのほかに、気球の映像が映る機械も用いた。これで視力がわかるのですかと訊くと、「だいたいはわかります」との回答だった。原理をあとで調べると、無限遠を見るような映像 -地平線まで続く道の果てに見える気球- を見せ、水晶体に赤外線をあてて屈折状態を見る機械ということだった。この映像については、伊波真人さんによる、次の歌がある。

眼鏡屋で視力検査のとき見える気球の浮かぶ場所にいきたい

彼の歌集は手元になく、この歌はたまたま知ったのだが、一度読むと、あの機械による視力検査のたびに思い出すのが必至となる。なお、伊波さんの歌は、4月末に出た『しししし』の3号にも載っていた。『しししし』は、「双子のライオン堂」書店さんが年に一回刊行している文芸誌だ。

その、「双子のライオン堂」書店が、『本の雑誌』7月号の連載『本棚が見たい!』に、店主の竹田信弥さんの笑顔の写真とともにとりあげられて、ページをめくって「おっ」と声をあげてしまった。
「双子のライオン堂」(『本の雑誌』より)と『しししし』3号

『しししし』3号はサリンジャーを特集としているのだが、『展開図』の小島さんの第二歌集の題名は『サリンジャーは死んでしまった』という。

というような、若干のシンクロニシティじみたこともあったので、『しししし』を再度宣伝しておく。同誌は、小説、評論などのほかに、上記にように短歌も載っている文芸誌で、大槻香奈さんの装画による表紙もクールだ。

なぜかそこに、わたしの文章も載っている。しかも、専門の折り紙にも、仕事の天文にも直接関係がない、サリンジャーについての文章だ。以前、『折る幾何学』に関するイベントを双子のライオン堂さんでした縁だが、どこにいても場違いな感じがするわたしの有り様がにじみでている。

菫程小さき人に生まれたし2020/05/30 21:14

◆錐面の接続
「超立体」という商標のマスクは、超立方体(四次元正八胞体)とは関係はなく、ふたつの錐面の接続である。
錐面の接続

◆Funghetto
ドラゴンポテト
コンビニエンスストアで、「ドラゴンポテト」というスナック菓子に遭遇した。「"カリッ"と"サクッ"の3D食感」とのキャッチコピーがあり、「3D食感ってなんぞ」と思ったものの、面白いかたちであることは間違いない。ただ、これは独自のものではなく、フンゲット(イタリア語でキノコの意味)というパスタと同じ曲面である。

Funghetto曲面
この曲面はどうなっているのかと、数式をつかって描いてみた。パスタの形状を幾何学的に解析する『Pasta by Design』(G. L. Legendre)という本があり、欲しいと思いながらまだ入手していないのだが、フンゲットも載っているのかどうか、とても気になっている。

◆渡らないジョウビタキ
オレンジ色が目立つ小鳥がいて、ヤマガラにしては鮮やかだなと思ったが、黒い羽の白いワンポイントなどから、ジョウビタキ(♂)であることがわかった。図鑑によると、夏にはロシア方面に渡る、いわゆる冬鳥のはずなのだが、鳴き声からも間違いなくジョウビタキである。火打石に似る鳴き声からヒタキ(火焚き)と名づけられたという説もあるようだが、バードコールの「キッ」という摩擦音が一番近い。昨年まではこの声を聞いた記憶がなく、なぜ冬鳥が夏にいるのか、帰りそこねた『幸福な王子』の逆バージョンかと心配したのだが、この10年、北に帰らずに留鳥となり繁殖している観察例が多いそうで、研究者や日本野鳥の会も注目しているらしい。
ジョウビタキ

なお、昨日求めた『俗信の辞典 動物編』(鈴木棠三)には、「ヤマガラの少ない年は流行病が多い」云々と書いてあった。しかし、ヤマガラも普通に来ているのであった。まさに俗信である。

◆タンポポの綿毛
タンポポの綿毛
タンポポの綿毛を多面体として見ると、「4価頂点」が目立っているということに気づいた。あらためて考えてみると、花は球状ではないのに、熟してくるときれいに球状になるというのも面白い。花が終わったばかりの綿毛はゆるいドーム状で、段階を追って球状になる。球状になる意味で考えられるのは、風を受ける面積を増やすことや、散布を無方向にするといったことだが、どうなのだろう。上述のように、種の幾何学的な配置も面白いが、これは、りんごの皮むきというか、下図のように、球面状の螺旋のそって等間隔に種が並んでいるように見えなくもない。(追記:この構造は、ヒマワリで有名な螺旋の重なった花序とも類似している。じっさいはそちらの構造なのだろう)
タンポポ種子の配置の推定

◆スミレほど小さき人
タチツボスミレ
スミレを見ると、漱石の句が思い浮かぶ。

菫程小さき人に生まれたし

気難しいおじさんという漱石のイメージゆえか、スミレと言っても、宝塚的、星菫派的なきらきらしたものではなく、幻覚のような奇妙な味がある句だ。英国で妖精の話を見聞きしたことが影響しているのかもと思ったが、渡英の前の句で、コナン・ドイルも騙されたという「コティングリー妖精写真事件」もずっと後年のことであった。

『幻覚の脳科学 - 見てしまう人びと』(オリヴァー・サックス著、大田直子訳)によると、偏頭痛は、小人が見える幻覚を伴うこともあるらしい。偏頭痛持ちのルイス・キャロルが、『不思議の国のアリス』において、身体の拡大縮小を描写したのは、その影響ではないかともいう。ということで、漱石の小人感覚も偏頭痛のためか!と思った。芥川の歯車の幻覚が「閃輝暗点」の典型的な症状であることはよく知られているが、「スミレほど小さき人」は、その漱石版ではないか、と。しかし、漱石の愁訴は胃痛と肩こりと追跡妄想で、書簡等をつらつら見ても、比喩としての頭痛はあってもじっさいの頭痛の描写は見当たらないのであった。

とりとめのない話2020/05/24 16:41

◆幻の池
南アルプスと田植え前の水田
苗を植える前の水を張った水田が好きだ。見慣れた風景の中に、代掻きから田植えまでの短い間、多数の池が生まれる。写真は一週間ほど前のもので、山は、甲斐駒ケ岳から鳳凰山へと続く峰と、その向こうに白く輝く北岳である。

◆県外ナンバー
最近、ずっと職場(観測所)の近くにいるのだが、二地域居住者なので、車のナンバーは県外だ。これへの差別(!)を不安に思うひとのために、当地の自治体が、車に表示する「在住カード」を用意した。親切だが、それが必要となる世間というのは、なんだか息苦しい。

車の運転ということでは、次のような妙な心配もした。マスクに消毒アルコールをスプレイして乾燥前に装着したとき、飲酒運転検査にかかってしまう例はないのだろうか、と。

◆クラリネット協奏曲
隣家に、クラリネットのソリストが住んでいる。いまは、商売あがったりで、雌伏の状態だが、先日、その家から、モーツァルトのクラリネット協奏曲の練習の音がかすかに聞こえてきた。得した気分になり、しばらく家の外に出て聴いていた。昨今の自粛生活では、近隣の騒音トラブルもあるというのに、わたしはなんだか恵まれていて、大好きな曲の生演奏にうっとりしていた。

◆ヒヨコの変更版
ヒヨコ
先日できた折り紙のヒヨコの短い翼の出しかたを変更した。翼を上げたり下げたりさせることで、雛の何も考えていないバタバタ感がでて、愛らしくなった。

◆取材
5/17の『朝日中高生新聞』と、5/21の『朝日小学生新聞』で、『折る幾何学』が紹介された。電話取材と写真および図の提供であった。合目的的には、こういう取材で充分で、いままでの取材や会議でじっさいに会っていたのはなんだったのだろうと、この世相の中で、あらためて思う。ネットでのやりとりのほうが、言いたいことがうまく伝わることさえある。しかし、ひとに会うというのは、気が重いこともあるが、目的の決まったなにかのためだけではなく、きっかけであり、気分転換であり、そこから派生することが重要な場合もあるのを忘れてはいけない。

◆Unconvention
毎年NYで行われるOrigami USAのコンベンション(大会)が、テレビ会議システムをつかったunconventionとして開催されるという。unconventionという名詞は辞書にはないが、convention(大会、集会)という単語には「しきたり」という意味もあり、それの否定の形容詞化であるunconventionalという単語は、「慣習に従わない、型にはまらない、風変わりな」といった意味を持つ。ネイティブか英語に堪能でないと思いつかない、洒落た言葉遊びだ。より説明的には、unconventional conventionだろうか。いつも通りではない大会。

「unなになに」という名詞が存在せず、「unなになにal」という形容詞がある単語をほかにも探して、constitutionを見つけた。unconstitutionalには「憲法違反の」以外の意味はないようで、constitutionのほうに「憲法、規約、体質、構成、組織、政治体制」などの意味がある。unconstitutional constitutionは、憲法違反の政治体制といった意味になるのだろうか。なんだか笑えない。

◆福祉のパラドクス
『日本国憲法』第二十五条は、個人にたいして生存権(「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」)を保証し、国に「すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」ことを義務づける。思い出すのは、次の、福祉のパラドクスだ。

福祉のパラドクス:本当に困っているひとをだけを救おうとする政策は、本当に困っているひとを助けることはできない。

次のような言葉も連想する。

義務的なことは可能でなければならず、したがって不可能なことは義務的であってはならない『パラドクスの匣』(P・ヒューズ、G・ブレヒト著、柳瀬尚紀訳)より)

これは、解釈によっては、論理パズル的にも面白い命題になる。

◆あのひとと感染症
1665年、英国でペストが蔓延し、ロンドンだけで死者の数が3万人を超える惨状となった。ケンブリッジの各カレッジも閉鎖され、トリニティ・カレッジを卒業したばかりの23才の青年アイザック・ニュートンは、故郷ウルソープに帰ることになった。彼は2年間ひきこもって、ひとり研究に没頭し、科学史を塗り替える、というよりも、近代の扉を開く革命的な業績、すなわち、微積分、光に関する理論、万有引力の法則をつくりあげた。

という話は、今回の感染症の蔓延においても、「創造的休暇」として言及するひとが多かったエピソードだ。状況を奇貨として、自らの研鑽や学習、研究に励みなさいと。

しかし、これはかなり粉飾した話である、ということを、ずいぶん昔に読んだ記憶があった。書棚を探すと、岩波新書『ニュートン』(島尾永康、1979)にこのことが書いてあるのを見つけた。ニュートン自身の手帳、ケンブリッジの閉鎖状況などをつぶさに調べた研究(ホワイトサイド)よると、彼が1665年から1666年に驚異的な成果を出しているは間違いないが、この2年ずっと田舎にいたわけではなく、「重要な数学研究もまたほとんどケンブリッジ滞在中に、大学やコレッジの図書館を利用してなされたという結論は避けられない」というのだ。

感染症の蔓延からの疎開が、そのひとの転機になったという話が疑わしいということでは、以前調べたデューラーもそうだった。そもそも、デューラーの故郷ニュルンベルグでペストの蔓延は起きていないのではないか、と。

世の中がどうであっても、やるひとはやるというだけなのかもしれない。

◆スペイン風邪
とは言え、感染症の流行や戦争が、個人史に与える影響は大きい。『カルカッタの殺人』(A Rising Man、アビール・ムカジー著、田村義進訳)というミステリを最近読んだのだが、これはたいへんよくできた近代歴史ミステリで、物語の背景にスペイン風邪もでてきた。主人公が、インドに赴任したばかりの元スコットランド・ヤードの警部なのだが、第一次大戦の従軍と、スペイン風邪で妻を喪ったトラウマの中にある、という設定なのだ。舞台となる年は1919年である。

第一次世界大戦と1919年のインドとなると、警部が塹壕で対峙していた反対側には、オーストリー・ハンガリー帝国の兵士で、戦場で『論理哲学論考』の草稿を書いていたルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがいて、警部がインドに向かった船には、ケンブリッジで病んだ天才数学者・シュリニバーサ・ラマヌジャンが帰国するために乗っていたかもしれない、などと想像した。なお、ラマヌジャンの命を奪った病気は、インフルエンザではなく、結核かアメーバ性の肺炎だという。

上に、やるひとはやると書いたけれど、ウィトゲンシュタインの思索は、極限状態でなければ深まらず、ラマヌジャンは、イングランドでハーディーやリトルウッドと仕事をしなければ成果は残せなかった、とも思う。

◆柳田國男と永井荷風
スペイン風邪と言えば、柳田國男による、1920年の夏から秋の旅行の記録をもとにした『雪国の春』には、お盆の切子灯籠に関して、以下の記述がある。

不幸のあった翌々年の盆まで、この燈籠は掲げる習いになっている。(略)吉里吉里村などは、小高い所から振り返ってみると、ほとんど一戸として燈籠の木を立てぬ家はない。どうしてまたこのようなおびただしい数かと思うと、やはり昨年の流行感冒のためであったのだ。

井上ひさし氏の小説のモデルとして有名になる、岩手県の吉里吉里(きりきり)における、スペイン風邪の「後遺症」である。これは、以前、多面体(切子というのは多面体一般を意味することがある)や紙に関わる民俗を調べていたさいに見つけた。わたしは、こうした伝統的習俗と切れたところで育ったので、お盆の切子燈籠が、毎年ではなく、新盆とその翌年だったことを知って、へぇと思った。

なお、柳田の記述には「昨年の」とあるが、これはいわゆる第二波で、翌年には第三波がくる。永井荷風が罹患したのは、この第三波だ。(『断腸亭日乗』大正九年

正月十三日。体温四十度に昇る。

正月十九日。病床万一の事を慮りて遺書をしたゝむ。

正月廿二日。悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。
正月廿五日。母上余の病軽からざるを知り見舞に来らる。

正月卅一日。病後衰弱甚しく未起つ能はず。卻て書巻に親しむ。

荷風、このとき40歳。憔悴しきった時にかえって読書にふけるというのはリアルだ。

ふと、「命をとりとめる」と、「とりとめのない」が、いずれも「とりとめ」という言葉を使うことが気になって、考えた。いずれも「ちょっとしたきっかけ」という意味であるとすると、納得できる。

以上、とりとめのない話でした。

妖怪転じてヒヨコとなる2020/05/04 16:15

5月2日、第2回の折紙探偵団オンライン例会に参加した。講師は萩原元さんだった。
次は、約1ヶ月後の予定。こちらをチェックされたい。

萩原さんは、講習のほかにも、幕末の『暴瀉病流行日記』(山梨県立博物館蔵)という資料に記述されている、感染症退散の幻獣、ヨゲンノトリ(命名:山梨県立博物館)を折って、紹介していた。新作紹介の時間には、織田さんのアマビエもあった。

折り紙とは関係がないが、わたしは、アマビエの親戚であるアマビコの一種・尼彦入道と、そのまた親戚のアリエの図が載っている『帝都妖怪新聞』(湯本豪一)という本が手元にあったので、紹介した。アマビエと同様(というかアマビエはアマビコの派生らしい)、感染症の流行を予言し、その絵を写せば難から逃れられると言って去ったという幻獣たちである。
尼彦入道とアリエ(『

アマビエとアマビコの絵は、つい先日発売され、送っていただいた文芸誌『しししし』同封の、双子のライオン堂さんの絵葉書にも描いてあった。(すこし前にも書いたが、この文芸誌に、なぜか、わたしの文芸評論(?)が掲載されているのである)
アマビエとアマビコ(双子のライオン堂)

この絵を見ても、アマビエやアマビコのキャラクター性が高いことがわかるが、明治九年六月十七日の『甲府日日新聞』(現・山梨日日新聞)に載ったアリエ(上の『帝都妖怪新聞』の図参照)も負けていない。ヨゲンノトリをつくった萩原さんに、アリエも折ってみてと無茶振りをしたのだが、じつは、わたしも折ってみようと試行してみた。しかし、妖怪アリエ用に考えた顔の輪郭の構造が、ヒヨコぽくなっていって、当初の目的を離れてヒヨコが完成した。
ニワトリとヒヨコ

「背骨」を正方形用紙の対角線にすることでも、辺と辺の二等分線にすることでも、同じ輪郭、同じ大きさができるのが、このヒヨコの構造の面白さである。下の写真のお尻が可愛いのが辺の二等分線構造で、脚を三本にした「ヤタガラスの雛(!)」が対角線構造である。
ヒヨコとヤタガラスの雛

このヒヨコ、ちょっとした風でも倒れない安定感があるので、小鳥の餌場にヒマワリの種と一緒においたところ、シジュウカラとツーショットになった写真を撮ることができた。シジュウカラくん、初めは警戒していたが、くちばしの部分を正面からつつくなど、折り紙のヒヨコに喧嘩を売っていた。決定的瞬間を撮り損ねてしまったのが惜しい。
シジュウカラと折り紙のヒヨコ

ついでに、「小鳥」とヒマワリのタネの写真も。こちらは風ですぐ倒れる。
小鳥

風ひかぬ魘(まじない)2020/04/18 20:39

日本折紙学会のオンライン例会で講師を担当した。まずはやってみようということだが、会の関係者には有能なひとが多いので、とてもたのもしい。

オンライン例会・講習作品
講習作品は「(ちょっとかっこいい)兜」と「折り紙作品を飾る台」という、シンプルな作品とした。「兜」は、中央の「鍬形台」のかたちにバリエーションがあって、正八角形の半分になっているもの(左)は、下に折り返すと、顔のガードである「面頬(めんぽお)」みたいにもなる。「台」は、ネコが乗っているもので、きっちりした角錐台である。

写真の後ろに置いた絵は、『北斎漫画三編』(青幻社の文庫版より)から、鍾馗と疫神である。五月人形で知られる鍾馗は、病魔退散の神でもある。なぜ端午の節句に、鍾馗や兜が関わるようになったのかは、調べるといろいろ興味深い。

江戸末期の考証随筆『嬉遊笑覧』にも「鍾馗画、風神送り」の項があり、「風ひかぬ魘(まじない)に鍾馗の画像を用ること」という記述にはじまり、『東海談』(大田南畝編)から以下の文章が引用されている。

享保十八年七月上旬より、東都に疫癘(えきれい)行り、上下貴賎みな此気に中(あた)りて病(やむ)。十三・十四日の頃、大路往来もたえだえ也。これは医書のいはゆる天行時疫といふものか。邑里(ゆうり)ともに藁にて疫神の形を作り、かね太鼓をならして是を送り、南海に流しぬ。官もゆるして咎めず。是(これ)戯(たわむれ)なりといへども、又三代の遺風なりと思はる

「天行」も「時疫」も、いまでいう感染症のことである。これは、1733年、数年前にヨーロッパで流行したインフルエンザが日本にも上陸したことを記したものだ。この年、江戸では1ヶ月に8万人のひとが死んだという。そして、隅田川の花火は、この年から死者を弔う施餓鬼として始まったのだそうだ。現在の世界もたいへんな状態だが、ご先祖さまも同様のことを生き延びてきたのである。関連する話として、次号『折紙探偵団』の連載コラムに、「ユニット折り紙は感染症を避けるおまじないの伝統につながって…いなくもない」という話を書いた。

ユニット折り紙もソーシャル・ディスタンス(その2)
ソーシャル・ディスタンスをとるユニット折り紙(作品:犇犇薗部(ひしひしそのべ))のCGその2も載せておく。

オンライン例会(日本折紙学会)など2020/04/12 21:21

◆オンライン例会(日本折紙学会)
4/18(土) 14:00-17:00、日本折紙学会が「オンライン例会」を企画しました。
そこで講師をします。 日本折紙学会のおしらせ

「双子のライオン堂」という本屋さんが出している、近日(4月27日)刊行の文芸誌『しししし』の3号に、ひょんなことからエッセイを書いた。折り紙とは関係のない文章で、サリンジャーについてである。

◆数学の魔術師去る
Mathematician (数学者)ならぬ、Mathemagician(数学の魔術師)こと、ジョン・ホートン・コンウェイさんが、新型肺炎で亡くなったというニュースがあった。うーん。高齢ではあったけれど。

たとえば、昨年、若き数学者を扱った小説、岩井圭也さんの『永遠についての証明』を読んだときにも、コンウェイさんを連想した。数学者が登場人物になる小説では、才能はギフトでもあるが呪いでもあるというテーマが王道だ。同書には「お前みたいな才能が手に入るんなら、なんだってする」というセリフも出てきて、登場人物の瞭司くんは、そういう「呪い」を受けた人物として描かれる。しかし、作中にムーンシャイン理論がでてきたことからの連想だが、ムーンシャイン予想を考えたコンウェイさんに会っていれば、瞭司くんも、もっと幸せになれたかもしれない、などと、わたしは思ったのだ。天才・コンウェイさんは、深さに触れながら、命がけの緊張の中にいるのではなく、戯れるようにたのしそうで、そのたのしさを広く伝えたいと考えているひとだった。数学好きのイベントで遠くから見たことがあるだけだったけれど、そういうオーラがあった。だいたい、数学の予想の名前がムーンシャイン(月の光、たわ言、密造酒)なのである。ふざけている。そういう、こころを軽くしてくれる天才もどこかにちゃんといるのが、この世界のありがたさなのだが…

◆読書に逃避
このパンデミックの中、人口密集地での通勤がなく、生活圏の半分が僻地で、リモート作業の環境もあるというわたしは、きわめて恵まれている。緊迫感がまだ薄い2ヶ月前に参加した会合でも、異なる集団をつなぐハブになる恐れもあることから、若干浮いているぐらいに用心深い態度を取ったが、そのような振るまいができたこと自体、つまりは、恵まれていたからである、といまになって思う。

読書に逃避できるのも恵まれているからである。しかし、これは習い性となっているので、どうしようもない。たとえば、『ドゥームズデイ・ブック』(コニー・ウィリス著、大森望訳)を25年ぶりに再読した。黒死病が猖獗を極める14世紀のイングランドにタイムトラベルした学生と、彼女を過去に送った21世紀側でも未知のウィルスが広まる、という話だ。EC(EUではない)離脱運動や、わずか1.5Gbの音声レコーダなど、近未来を書くのは難しいとも思ったが、2054年でもトイレットペーパーを心配するのはリアルであった。

「疫病がやってくると聞いた人たちはみんな逃げ出した。それでペストが広がったんだよ」
『ドゥームズデイ・ブック』からコリン少年のせりふ)

ポオの『ペスト王』『赤死病の仮面』、梶井基次郎の『のんきな患者』も読み返した。さらに、手にとってぱらぱらめくったのは、『異星人の郷』(マイケル・フリン)、『ホットゾーン』(リチャード・プレストン)などである。『復活の日』(小松左京)と『ペスト』(カミュ)は、手元になかった。

あやめなど2020/04/08 22:35

◆ユニット折り紙でもソーシャル・ディスタンス
Social distance of modular origami
『折紙探偵団』の最新号に載ったユニット折り紙作品は「犇犇薗部」(ひしひしそのべ:Jam-packed Sonobe)というものだが、時節柄、ひしめいていてはまずいので、ソーシャル・ディスタンスを取らせてみた。ついでに、悪魔を封印した(『折紙探偵団』56号表紙、1999)の写真もおいて、病魔退散を祈念することにしよう。
『折り紙探偵団』56号

◆あやめ
ステイ・アット・ホームのみなさまに図を提供します。正方形から三弁の花を折るトリッキーなところが気にいっている作品です。入手可能な書籍には載っていないものです。
あやめ1

あやめ2


あやめ3

あやめ4

小鳥など2020/03/20 16:09

◆小鳥
小鳥
お腹がふっくらした小鳥のバリエーションで、尾羽を長くしたものができた。
そのうちに図を描こう。

◆自己相似
フラクタル的スカーフ
一昨年の暮れに亡くなった母の遺品を整理していて、フラクタルぽい模様のスカーフを見つけた。これは面白い。

◆大津絵の瓢箪鯰
大津絵
同じく母の遺品の中に大津絵があって、瓢箪鯰(ひょうたんなまず)の絵が気にいった。文化人類学者アウエハントの『鯰絵』に掲載されている大津絵の瓢箪鯰(写真の下)と比べてみても、こちらのナマズのほうが可愛い。なお、『鯰絵』(岩波文庫)は、訳者の中に小松和彦さんと中沢新一さんがいることに、へぇと思う本でもある。

◆文庫版
瀬名秀明さんの「折り紙小説」『この青い空で君をつつもう』の文庫版が出た。解説は西川誠司さん。わたしにもすこし触れられている。この小説でもナマズが活躍するよ。

◆折り紙小説
2年ぐらい前に出たのに気がついていなかった、折り紙を扱ったライト・ノベル『折紙堂来客帖 折り紙の思ひ出紐解きます』(路生よる)を読んだ。参考資料に『折るこころ』(龍野市立歴史文化資料館、1999)があるのがポイントが高く、折り紙の扱いがきちんとしている。テイストとしては、最近のアニメーション版の『ゲゲゲの鬼太郎』みたいな感じ。

◆新美の巨人たち
3/7(土)テレビ東京『新美の巨人たち』は、吉澤章さん。よくまとまっていた。吉澤さんが、幼少期に、壊されてしまった折り紙の船をつくりなおしたというエピソードは、聞いたことがあったような気もするが、「帆掛け船」より「宝船」のほうがそれらしい気がした。真相は知らないけれど。

◆マスク
感染されるのを恐れるより、感染していると仮定して感染させないように振る舞うとよい、と述べているひとがいて、これには納得した。なんとなく『マタイによる福音書』の「汝の隣人」を連想したが、今回の感染症は無症状感染者が多いということからも、合理的だ。

各国に比べて検査数がきわだって少ないとは言え、日本での感染が爆発的ではないように見えるのはなぜなのかと考えて、(予防効果は薄いとされながらも)マスクの装着率の高さ、掃除好き、挨拶が非接触的、自粛ムードに染まりやすいなど、感染させないようにする行動が、結果的に実践されていることも影響しているかもしれないとも思った。そんなに甘くない気もするけれど。

確認された国内感染者が100人足らずのとき、小イベントに参加するさいの自分の感染確率を計算するために、再生産数(感染者が感染させる数)を多めの2、非顕在を含む感染者も、かなり高めの安全率という感覚で、100倍の1万人と見積もった。現在約1000人とされている国内感染者(回復したひと含む)だが、確認されている亡くなったひとの数、クルーズ船や各国の死亡率、検査件数などから見ると、現状の実数がそのぐらいではないだろうか。

折鶴マスク
写真は折鶴コレクションの秘蔵品。使う機会がくるとは。

◆多面体マニア
最近あった、幾何学好きのひと同士の会話である。(記憶で書いているが、実話である)
A:「コロナウィルスの電子顕微鏡写真、対称性がいまひとつわかりにくいですね」
B:「そうそう。スパイクのでかたがランダムに見えるんです。さっそくユニット折り紙でつくったひとがいて、やるなあと思ったけれど、あれは対称性が高すぎるように思えました」
A:「電子顕微鏡写真に鮮明なものがないためかもしれませんが、なんかよくわからない構造ですね」
B:「風邪のライノウィルスにはきれいなねじれ二十面体のものがあるんですけれどね。コロナウィルスもカプシドは二十面体構造なのでしょうけれど」

休校お見舞いなど2020/03/03 21:33

先週は、応用物理学会、折紙探偵団関西コンベンション、天文学会と、中止の報せが次々に届いた。児童館職員だった妻は、児童館や学童保育の現場の大変さを心配している。

休校お見舞い(?)で、書籍には載っていない作品の図を以下に置いたので、どうぞ。
小さい本

中央政府からの「自粛」要請前、50人規模のパズる会なるものに参加した。感染者がひとりでもいる確率をフェルミ推定(大雑把な見積もり)し、他のリスクと比較し、その後の予定も含めてリスクは充分低いということを確認した上で参加した。直後に予定されていた子供相手の折り紙教室が中止になったのには正直ほっとしたが、主催者は最大限の対応をしていて、会そのものは楽しんだ。講演では主につなぎ折鶴(連鶴)の話をして、松雪利昭さん考案のつなぎ折鶴に関するパズルも紹介した。簡単な問題ではないのだが、5分ぐらいで解いたひとがいて驚いていたら、世界パズル選手権優勝者でもある有松太郎さんなので、納得であった。

などと書くと、平和だった日々という感じさえしてくるが、日常は続く。

先週は、作家の古井由吉氏逝去の報もあった。古井さんのよい読者ではないが、最後の作であろう『この道』は読んだ。昨年3月某日のメモに、以下の記述があった。
- 『この道』(古井由吉)を読みおわる。教養のある老人の繰り言を聞いている感じで落ち着く。どんなときでも読書にすがっているわたしである。-

そして、日常は続く。確定申告も終了した。吾妻ひでおさんのマンガで、妄想にひたっている吾妻さんが「確定申告です」のひとことで現実に引き戻されるシーンがあったように記憶するのだが、詳しくは思い出せない。

ぎゅぎゅう詰めなど2020/02/05 21:32

◆紙の鑑定
紙の鑑定についての話が出てくるミステリを読んだ。

まずは、ずばり『紙鑑定士の事件ファイル 模型の家の殺人』(歌田年)。主人公が紙鑑定士という、きわめて珍しい肩書きで、プロのモデラー(模型製作者)も出てくる。特殊紙という言葉が出てきたりして、紙に興味があるものとして高揚した。「特殊」といえば、紙業界には、特殊ならぬ特種という文字遣いもある。特種東海製紙の社名によるものだ。レザック66は、特種東海製紙製なので特種紙と呼んでもよいが、OKゴールデンリバーは王子エフテックス製なので特種紙とは呼んではいけない、なんて。そんな話は聞いたこともないし、じっさい、それらの紙を、ファンシーペーパーではなく、特種紙と呼ぶことがあるのかは知らない。ちなみにOKは、王子製紙春日井工場の略だというが、昔は、ゴールデンリバーにOKはついていなかった。皮革ふうのエンボスのあるなかで一番薄いので、折り紙に向いた紙である。

そして、アメリカと日本を舞台にする、アクションたっぷりの私立探偵もの『ジャパン・タウン』(バリー・ランセット著、白石朗訳)。こちらには、和紙にも大量生産と手漉きがあって、手漉きなら産地の鑑定ができるのだが、という話がでてきた。日本在住が長い著者で、日本の描きかたに、ジャンジラ市(『ゴジラ』、何語起源だ?)やイノウエ・サトウ(『ロスト・シンボル』、どっちも苗字かい!)のような杜撰さはなく、作者の知識は厚い。しかし、最高級の和紙の簀桁(すけた)を「目の細かな金網を張った木枠」としているのは、校閲が指摘して修正してほしかった。紙漉きに関心がなければ知らないことだろうが、本格的な簀桁は、金網ではなく、きわめて細い竹ひごや萱ひごを絹糸で編んだもので、それ自体が工芸品である。

◆『千羽びらき』
『千羽びらき』(酉島伝法)
図書館で『すばる』のバックナンバー(2017.9)を借りて、酉島伝法さんの『千羽びらき』を読んだ。スピリチュアルな代替医療が日常となっている世界の話で、黒い千羽鶴を反転して白い折鶴に折りなおし、折ったひとにお礼を述べると、大病も癒えるという習俗がでてくる。千羽鶴が善意に満ちたディストピアの象徴として使われることは面白いし、代替医療を声高に糾弾するのではなく、そういう世界として描くことで、ぞわぞわした感じが表現される。しかし、現実世界における「千羽鶴の置き場所に困る」問題のほとんどはデマなんだよなあ、ということは、折鶴の味方、折鶴の追っかけ(!)としては、どこかでまとめておきたい気もする。

◆ジャケ買い
『金四郎の妻ですが2』(神楽坂淳)
表紙に折鶴が描かれていると手が伸びる。『金四郎の妻ですが2』(神楽坂淳)もその伝で、一作目の『金四郎の妻ですが』と合わせて読んだ。遠山金四郎の伝記的事実をうまくつかっていて、期待以上に面白かった。本文中にも折鶴、そして「千代紙で折った狐」がでてくる。江戸後期の狐の折り紙ってどんなものだろう(フィクションなんだけれどね)。

◆誤植
千代紙といえば、先日、調布PARCOの古本市で、『日本の紙芸』(1969)という本を購入した。江戸千代紙の老舗・伊勢辰の主人である広瀬辰五郎さん(三代目)の著作である。内容と関係なく面白いと思ったのは、目次の「折紙」のページ番号だ。「三」の字の天地が逆になっているのだ。活字の植字だったがゆえのミスである。活字には向きを示す溝(ネッキ)もあるのだけれど、対称性が高く見える文字は、間違いをする可能性が高いのかもしれない。
『日本の紙芸』(広瀬辰五郎)

◆空集合
先日、『ハマスホイとデンマーク絵画展』(東京都美術館)を観てきた。表記が、ハンマースホイでもハンマスホイでもなく、ハマスホイで、あれっと思った。アルファベット表記では、Hammershφiである。oに斜め線がはいったこの文字、ギリシア文字のφ(ファイ)で代用したが、正しくは、ノルウェーやデンマークで使われるアルファベットの一文字である。空集合の記号になっている文字だ。空集合の記号を決めたのは、フランスのアンドレ・ヴェイユで、彼はなぜか、その文字をノルウェー語の文字からとった。ノルウェイの天才数学者・アーベルへの敬意だろうか。そう、空集合の記号はファイと呼ばれることが多いが、そのでどころは、北欧の文字で、ファイではないのだ。
ハマスホイ
ハマスホイの名前が空集合の記号を含むのは象徴的だ。誰もいない部屋の絵は、まさに空集合である。仕事机の横に絵葉書を貼った。

◆クランチ
最近、ダークエネルギー(宇宙の膨張を加速している斥力)はないかもしれないという説がニュースになった。であれば、ビッグ・バンの逆のビッグ・クランチはやはりあるのだろうか。…というような、宇宙が縮小するかという話とはべつに、野辺山観測所は縮小中なのであった。立松所長のこの記事が、かなりつっこんで書いている。

◆レンズ雲と暖冬
今日の野辺山はとても風が強く、30m/s近くにもなっていた。立春過ぎの南風なので春一番になるのか。一昨日も風が強く、川上村の上空あたり(?)にきれいなレンズ雲ができていた。レンズ雲の発生には地形の影響が大きいが、これは、北相木と南相木にまたがる御座山(おぐらさん)と川上の盆地地形によるものだろうか。強風は観測条件としては最悪だが、今日はそもそも観測のない「ホワイト・スロット」であった。
レンズ雲

南風ということもあり、野辺山は今日も零度を上回った。この冬、真冬日(全日零下の日)は、たぶん、12/5、12/27、1/4、1/18、1/21、1/31の6日だけである。まだ寒い日はあるだろうが、例年だと40日はあるのできわめてすくない。

レンズ雲では、昨年の12月1日、中央道の初狩PAから富士山上空に見えたそれもみごとだった。
富士山とレンズ雲

◆ぎゅぎゅう詰め
次の『折紙探偵団』に載るユニット折り紙のタイトルを、「犇犇薗部」(ひしひしそのべ)という奇妙なものにした。ぎっしり詰まった薗部ユニット風のモデルという意味である。犇めくという字が牛×3であることから、ぎゅぎゅう詰めという言葉が生まれた、というのは嘘だけれど、汗牛充棟という四字熟語もあって、なんで牛はいつも詰め込まれるのだろうか。草原でのびのびさせてあげればよいのに。西欧ではこういうとき、オイル・サーディンのイメージで、パックド・ライク・サーディンズなどと、鰯を使うみたいだ。そういえば、本邦にはすし詰めという言葉もある。