丸石神、朝ドラデビュー2014/04/06 19:39

丸石神、朝ドラデビュー
土曜日、朝寝をしていると、妻の「丸石が出た!」の声に起こされた。きくと、連続TV小説『花子とアン』のいちシーンに、丸石神(丸石道祖神)が映ったのだという。その後確認すると、たしかに映っていた。どうやら本物ではなく大道具のようだが、丸石神好きとして、たいへんうれしい。

ORI など2014/04/14 22:08

マイナス9度
今朝も、野辺山観測所の地上1.5m気温がマイナス9度ぐらいまで気温が下がっていた。「下界」と違いすぎて笑ってしまった。

ORI
折紙者として、「折」や、よく似た「祈」という文字をみるとはっとする。『祈りの造形』などである。しかし、「Ori」はそうでもない。オリオン座の略符としてよく見るからだろうか。ただ、昨今の剽窃捏造騒動の関連で、米国研究公正局(Office of Research Integrity:科学における改竄・捏造・剽窃を監視する機関)もORIであることを知ったときは、ちょっと「おっ」と思った。「折目正しい」という言葉も連想した。

『折り紙の科学』第3号
編集作業に関わった、日本折紙学会の『折り紙の科学』の第3号が刊行された。某氏いわく「どっかよりちゃんと査読している」。『数学セミナー』4月号掲載の西村保三さんの『折り紙で5次方程式を解く』には、この第3号に載った、同じく西村さんの『2重折り紙による2の5乗根の作図』が、審査中として、参考文献にあがっていた。

会議
週末も含めて会議に継ぐ会議という毎日になっている。会議にちゃんと参加していることを自ら確認するためにも、「気のきいたことを言おう」という欲求が生じることがあるが、なんというか、いろいろな意味で間違った方向に向いた感情であるような気がする。

決定不能
31歳で行方不明となった、伝説の天才物理学者エットーレ・マヨラナの伝記『マヨラナ-消えた物理学者を追う』(ジョアオ・マゲイジョ著 塩原通緒訳)を読んだ。マヨラナの甥で同名の物理学者の次の言葉が印象に残った。
人はどうして決定することのできないものを、そのありのままに受け入れないんでしょうね? 数学ではそうしているのに。

誤植など2014/04/19 02:04

誤植
『折り紙の科学』第3号に付録として載せさせてもらった「Iso-area Octahedron」の図で、Disign => Design, baloon => balloonの修正が抜けていたことに気がついた。『Czech Origami Society - Collection Book 2012』に載ったさいの誤りのままである。

次元
「異次元の金融緩和」という表現を見聞きするたび、量が異なるだけで自由度が変わったとは思えないので、どこが異次元なんだ、ともやもやする。たしかに英語のdimensionには、sizeの意味もある。日本語の「次元が違う」も単に「大きな違い」の意味で使われることはある。しかし、これが、はったりじみた表現であるのは間違いない。

数学者ではない
Wikipedia英語版の「Jun Maekawa」に「日本人のソフトウェア技術者、数学者、折り紙アーティスト」と書いてあるのを見つけた。わたしは数学者ではないので、落ちつかない。
私は数学の専門家ではなく一人の崇拝者にすぎない。学問のなかでの最たるこの美女にほれこんだ失意の男だ。
(ポール・ヴァレリー:『数学名言集』(H.A.ヴィルチェンコ著 松野武、山崎昇訳))
むろん、わたしは詩人でもない。
『ビバ! おりがみ』の刊行年も違っていた(1985 => 1983)。

『算法截籠集』2014/04/20 22:18

機会があれば見たいと思っていた、江戸時代の多面体の本・『算法截籠集』(サンポウキリコシュウ 会田安明編 1798年頃)が、ウェブで閲覧可能(山形大学附属図書館 貴重資料コレクション 佐久間文庫)になっていることを知り、読みふけってしまった。

佐久間文庫『算法截籠集』(山形大学附属図書館 貴重資料コレクション)

『算法截籠集』には、東・西・南・北の四巻があって、たとえば、「東」巻の冒頭には、切頂(切頭)十二面体(サッカーボール多面体)が登場し、以下の記述がある。
今有如圖五角一十二面六角二十面之混面截籠只云面一寸問積幾何
答曰積五十五歩二分釐七毫七絲三忽零七繊五沙八塵一埃二二五有奇
(ここに、図のような正五角形12面、正六角形20面の多面体がある。辺の長さを一寸としたとき体積はいくらか。
答え。体積は55.2877307581225...である)

検算してみたところ、55.287730758122739...で、小数点13桁目は異なっていたが、ほぼ正しい値であった。
多面体を系統的に理解しようというよりも、ただただ計算の結果を示しているのが和算らしい。いっぽうで、以下のような、「六角等面截籠」が「虚題」であることを示す論証的な記述もあり、興味深かった。

「三角四等面截籠」(正四面体)の展開図、「四角六等面截籠」(立方体)の一面を欠いた展開図、「五角十二等面截籠」(正十二面体)の半分の展開図の類推から「六角等面截籠」の展開図を考える。しかし、これを立体化することは不可能である。以上のことから、正六角形のみからなる立体はないことがわかる、といった論旨である。
ここで扱われた「多面体の展開図」という考えかたは、デューラー(1471-1528)を嚆矢とするらしいので、和算における展開図の例としても興味深い。しかし、これを進めて、どのような多面体が可能かを網羅するといったことはなかったようだ。

『本の雑誌』5月号2014/04/21 22:27

『本の雑誌』5月号の、円城塔さんの書評連載『書籍化まで二光年』で、『折り紙のすうり』(ジョセフ・オルーク著 上原隆平訳)がとりあげられていた。

円城さんは、折り紙の数学では、作図問題より、折り畳み構造とか折り畳み可能性といった問題設定のほうが面白いよね、という感覚を持っているようだ。

というわけで、「おっ」と思ったのだけれど、円城さんはほかでも『折り紙のすうり』をとりあげていたので不意打ちではなかった。『本の雑誌』の同号では、津田淳子さんの本の装幀をあつかったエッセイが、『半世紀前の紙「レザック66」の華麗なる復活』というものだったことに不意をつかれた。

紙工芸好きの多くは、津田淳子さんいうところの「紙マニア」である。折紙者としては、レザックは66やレザック75はやや厚いので、エンボス仕様の紙なら、よほど大きいモデルを折るとき以外では、レザック66の製造元である特種東海製紙のTANTや、王子エフテックスのOKゴールデンリバーを使うけれど、レザック66といった文字を見ると、妙にテンションがあがるのだ。

特種製紙PAM内部
で、もう7年前になるけれど、レザック66の製造元・特種東海製紙(当時は特種製紙)の資料館・PAM(三島市:写真上)を訪ねたことを思い出した。ここは、紙好きがわくわくする場所である。そして、建物もめっぽうかっこいい。それもそのはず、先日、建築界のノーベル賞ことプリツカー賞を受賞した坂茂さんの設計なのである。紙管を使った建築でも有名な坂さんの設計は、紙会社の建物に相応しく、中には紙管をつかった椅子もあった。
特種製紙PAMの紙管の椅子

特種製紙PAMの天井
写真のように、PAMの吹き抜け部の天井は膜構造になっているが、これは、阪神大震災後に坂さんが建てたカトリック鷹取教会(のちにたかとり教会に改称)の天井部分(写真下)にも似ている。(同教会は2005年に台湾に移築。写真は2005年4月)

神戸カトリックたかとり教会

なお、特種東海製紙という社名は、なぜか「特殊」ではなく、「特種」なのだが、PAMの近所を散歩したさいに、「特種踏切」という不思議な名前の踏切も発見して、なんじゃこりゃと思ったことも、当時の写真を見ていて思い出した。これは、特種製紙の近くにある踏切ということであるらしい。

特種踏切

ヴァレリー2014/04/23 22:42

「私は数学の専門家ではなく...学問のなかでの最たるこの美女にほれこんだ失意の男だ」という文を引用してから、ヴァレリーが読みたくなって、書店を数軒探して見つけた『ヴァレリー・セレクション 上』(東宏治、松田浩則編訳)や、書棚の奥から引っぱり出した『科学者たちのポール・ヴァレリー』(J.ロビンソン=ヴァレリー編 菅野昭正、恒川邦夫、松田浩則、塚本昌則 訳)を読んでいた。
もちろんヴァレリーは自ら数学者であると称したことは一度もない。彼はあくまで専門家ではなく、その意味で、専門家でない人々がえてして示すような反応、たとえば、四原色の問題(引用者注:四色問題のことか?)だとか、コンパスを使う幾何の作図の問題だとか、たしかに一見ユニークに思われるにせよ、結局はマージナルな問題に妙に感心するという一面がある。
(『ヴァレリーにおける数学の概念』ジャン・デュードネ)(恒川邦夫訳)
デュードネ氏、偉そうというか、さすがにブルバキの中心人物、一般化・抽象化以外は数学にあらずという感じだが、わたしがじっさいに接したことのある数学者の「数学らしさ」の感覚も、図形を愛でたりする感覚とは違うものだった。このあたりの機微を伝える数学者の名言に、「あなたの話は具体的なのでわかりにくい。もっと抽象的に話してください」(吉田耕作)というものがある。
と、書いていて思ったけれど、「個別の図形を愛でる」というのは、「和算」の味わいなのかもしれない。そういう意味でも和算は数学ではないのかもしれない。

『ヴァレリー・セレクション』の中にはこんな文もあった。
きみの神を隠せ。
他人を攻撃するのではなく、彼らの神たちを攻撃すべきだ。叩くべきなのは敵の神々だ。しかし当然その前にその神々を見つけだす必要がある。自分たちの本当の神々を、人々は注意深く隠している。
『言わないでおいたこと』(東宏治訳)
どこかで読んだことがあるとひっかかったのだが、すぐに思い出した。太宰治の『如是我聞』の冒頭である。
 他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。
 これは、仏人ヴァレリイの呟つぶやきらしいが、...
太宰が、この文の一番最初の「きみの神を隠せ」を省略していることを、はじめて知った。文脈上こうした引用にしないとリズムがよくないのはたしかである。ヴァレリーの文も、どうしてこういう順になっているのか、いまひとつわかりにくい。が、これこそ太宰が隠したかった「神」なのかもしれない、などとも思ったわけである。つまり、太宰は「わたしはわたしの神を隠している」ということを隠している、と。