ヴァレリー2014/04/23 22:42

「私は数学の専門家ではなく...学問のなかでの最たるこの美女にほれこんだ失意の男だ」という文を引用してから、ヴァレリーが読みたくなって、書店を数軒探して見つけた『ヴァレリー・セレクション 上』(東宏治、松田浩則編訳)や、書棚の奥から引っぱり出した『科学者たちのポール・ヴァレリー』(J.ロビンソン=ヴァレリー編 菅野昭正、恒川邦夫、松田浩則、塚本昌則 訳)を読んでいた。
もちろんヴァレリーは自ら数学者であると称したことは一度もない。彼はあくまで専門家ではなく、その意味で、専門家でない人々がえてして示すような反応、たとえば、四原色の問題(引用者注:四色問題のことか?)だとか、コンパスを使う幾何の作図の問題だとか、たしかに一見ユニークに思われるにせよ、結局はマージナルな問題に妙に感心するという一面がある。
(『ヴァレリーにおける数学の概念』ジャン・デュードネ)(恒川邦夫訳)
デュードネ氏、偉そうというか、さすがにブルバキの中心人物、一般化・抽象化以外は数学にあらずという感じだが、わたしがじっさいに接したことのある数学者の「数学らしさ」の感覚も、図形を愛でたりする感覚とは違うものだった。このあたりの機微を伝える数学者の名言に、「あなたの話は具体的なのでわかりにくい。もっと抽象的に話してください」(吉田耕作)というものがある。
と、書いていて思ったけれど、「個別の図形を愛でる」というのは、「和算」の味わいなのかもしれない。そういう意味でも和算は数学ではないのかもしれない。

『ヴァレリー・セレクション』の中にはこんな文もあった。
きみの神を隠せ。
他人を攻撃するのではなく、彼らの神たちを攻撃すべきだ。叩くべきなのは敵の神々だ。しかし当然その前にその神々を見つけだす必要がある。自分たちの本当の神々を、人々は注意深く隠している。
『言わないでおいたこと』(東宏治訳)
どこかで読んだことがあるとひっかかったのだが、すぐに思い出した。太宰治の『如是我聞』の冒頭である。
 他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。
 これは、仏人ヴァレリイの呟つぶやきらしいが、...
太宰が、この文の一番最初の「きみの神を隠せ」を省略していることを、はじめて知った。文脈上こうした引用にしないとリズムがよくないのはたしかである。ヴァレリーの文も、どうしてこういう順になっているのか、いまひとつわかりにくい。が、これこそ太宰が隠したかった「神」なのかもしれない、などとも思ったわけである。つまり、太宰は「わたしはわたしの神を隠している」ということを隠している、と。