凍るシャボン玉など ― 2013/02/03 13:45
1月13日、山梨に移動するさいに秩父から雁坂峠のルートを使い、峡東地区の道祖神祭りの飾り付けをいくつか見た。写真は、山梨市三富川浦のものである。

多摩の自宅から、ダイヤモンド富士が見えた。より理想的には、前日か、前々日がよかったが、その日は、自宅にいなかった。

以前から試してみたかった、シャボン玉を凍らせるということをやってみた。気温はマイナス7度ぐらい、冷えきった車のフロントグラスに接触すると、それは凍った。より低温のときにも試してみたい。

『時の地図』 ― 2013/02/03 13:57
折りヅルの折り目を広げて、どういう手順で作られたのか探る人のように、ウエルズもいまの自分が形成された瞬間を分解し、製造過程で付け加えられた部品を見つける方法を知っている。実際、なにかができあがるまでの節目節目を記録した樹系図をたどるのが昔から好きで、気が向くとよくやっている。
折り紙モデルを、工程の連鎖として見ているわけだが、折り紙マニアは、むしろそれを、一瞥可能な全体構造として見ることのほうが多い。そこではプロセス(≒時間)が捨象されるのである。
雪の結晶 ― 2013/02/09 22:57

オクラの話 ― 2013/02/09 23:05

半年ぐらい前の写真に、オクラを撮ったものがあった。ダビデの星という品種である。野菜の品種名にこの名は大胆だ。そもそも、ダビデの星は六芒星(六点星)だが、このオクラの断面は九芒星である。ウェブを検索すると、個体差ではなく、どれも九芒星になっていて、別名・九角オクラというらしい。一般的なオクラの断面は五角形で、花弁も五弁なので、この品種は九つの花弁という珍しいものなのかとも思ったが、五弁だった。しかし、花芯は九回の回転対称になっていた。(はるなつあきふゆ夕菅の庭参照) 花芯と花弁の対称性のずれという問題にも興味はつきないのだが、品種の命名のことでいえば、イスラエル原産ということでこの名がついているというのもあるらしいが、九芒星なら、ダビデの星というより「バハイの星」か「ガラテヤの星」「大本の星」では? と思うのであった。
バハイ教は、選挙された9人の代表で物事を決めるなど、9がマジックナンバーで、シンボルも九芒星である。また、新約聖書『ガラテヤの信徒への手紙』には、九つの霊的な果実(愛、喜び、平安、忍耐、慈悲、善意、誠実、温良、節制)という話があって、それを象徴する図像が九芒星である。そして、大本教の神紋は、家紋でいう「十曜」で、中央の大きい円の周りを九個の小円が取り囲む9回回転対称の紋なのである。
その2:オクラをついて知らなかったこと
和紙に使われる粘材を採る植物・トロロアオイと、オクラが同じ属(アオイ科トロロアオイ属)であることを知って驚いた。サトウキビの繊維とオクラの「ネリ」で和紙を漉くと、おいしそうな紙ができるんじゃないだろうか。
もうひとつ意外だったのが、オクラという言葉が、和語起源ではなく、英語のOkra(さらなる語源は、ガーナのトウィ語)からきているということであった。そういえば、わたしの小さいころ、オクラという食材を見たことはなかった。日本でこれが一般的になったのは、ここ四半世紀内ぐらいのことだろうか。ただ、初めて食べたときのことは覚えておらず、いつのまにか、昔からある食べ物のような印象になっている。いっぽう、初めての記憶が鮮明な農産物もある。キウイフルーツだ。普及が始まったころ、果物屋さんの店先で見つけて、これはなんだ、食べてみたいと、ひとつだけ買ったことをよく覚えている。
『怖い俳句』 ― 2013/02/12 23:23
帰り花鶴折るうちに折り殺す
赤尾兜子(あかおとうし)
帰り花というのは、初冬に咲く桜など、いわゆる狂い咲きのことである。句は上の句で大きく切れて、折鶴のことが語られる。倉阪さんの解説を引用する。
「祈る」と「折る」は字面が似ています。祈りをこめて折りあげようとした鶴は、致命的な失敗の果てに放棄されます。
折り殺され、棄てられたもの。鶴になれなかった鶴。その痛ましい残骸には、晩年は鬱に苦しんだ作者の内面のほの暗い光が照射されています。
わたしもここ数日、狂い咲きのようにユニット折り紙や変則用紙折り紙のアイデアが浮かんで、何枚もの紙を折り殺していた。折り殺した果てによいモデルができたのはさいわいだった。
次の句も気になった。
半円をかきおそろしくなりぬ
阿部青鞋(あべせいあい)
「かき」は「欠き」とかけているのかもしれないが、半円を描いていてふと恐怖にかられて筆が止まるという解釈のほうが、こころがざわつく。文字が文字に見えなくなる「文字のゲシュタルト崩壊」の図形版だ。作者がなぜ半円を描いていたのか謎で、意味不明といえば意味不明な句なのだが、そのぶん、おそろしさが純化されている。
わたしは図形を描くことが多いが、半円ならぬ、正三角形を禍々しく感じることがある。正三角形からすこしずれた二等辺三角形ならば、頂角が鋭角でも鈍角でも安心する。直角三角形ならもっと安心である。ほとんど共感を得ることのない感覚だろう。と、思っていたら、『怖い俳句』を読みすすむと、正三角形という記述はないが、次の川柳が選ばれていた。
三角形のどの角からも死が匂う
樋口由紀子
倉阪さんは、次のように解説する。
これは気絶級の怖さです。三角形という形は見ているうちに引きこまれてしまうような不気味さと不安さがありますが、その本質的な理由を言い当てられたような気がします。
気絶級の怖さということに多くにひとの賛同を得られるかは疑問である。しかし、わからなくはない。三角形への恐怖は、先端恐怖症と関係があるのかもしれないが、もっと違うものも含んでいる。
正方形を安心の図形とするのは、折紙者だからということもあるだろうが、わたしが持つのは、次のような感覚だ。
正方形:安定、世界。正三角形を除く三角形:世界の破片。正三角形:別の世界。
この感覚に普遍性はあるのだろうか。たとえば、ほとんどのコンピュータのデスクトップデザインで、スクロールバーやプルダウンメニューの三角形が正三角形からわずかにずれているのは、正三角形を忌避する感覚が一般的なためだろうか。
以下の川柳も引用されていた。
誰か見ています三角形の中
時実新子
これに関する倉阪さんの解説は以下だ。
これは三角関係ではなく。字義どおりの図形の三角でしょう。<直線がこわい別れてすぐの部屋>などもそうですが、抽象化された図形に対するそこはかとない恐れが随所に見て取れます。この解説は、先の解説ともあいまって、むしろ倉阪さんが持つ図形恐怖をきわだたせるものになっている。時実さんの川柳は、もっと即物的なことかもしれない。つまり、ドル札の絵の「プロビデンスの目」とか、お城の鉄砲狭間などである。
『三角形の恐怖』 ― 2013/02/14 12:57
ある学生が、他人に恐怖症を植えつける「実験」を思いたつ。そして、<「単純で、至るところに存在するもの」であって、人間が「うっかり忘れているもの」>として、三角形を恐怖の対象に選び、その「実験」を実行する。
1927年の発表、江戸川乱歩の『心理試験』などと同時期で、テイストも似ているが、抽象的な概念にたいする強迫観念という設定は斬新だ。
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