玉鹿石2008/09/08 21:19

 武蔵境駅や吉祥寺駅にはなじみがあるが、それに挟まれた三鷹駅周辺をほとんど知らないということに、ふと気がついた。予定が空いてしまった天気のよい日の散歩に、自宅から近いけれど知らない街というのは、ぴったりである。ということで、先日、三鷹駅近辺を歩いてきた。気になったのは、駅前の周辺案内板で見つけた「玉鹿石」なるものだった。
 最近執心の「丸石神」とは関係はないだろうなあと思いつつ、探し当ててみると、「青森県北津軽郡金木町産 1996年(平成8年)6月 」というプレートが添えられているだけで、それ以外の由来書きはなにもない石だった。これはなにか。玉川上水の脇にあると言えば、ははあと思うひとは多いかもしれない。青森県の金木と玉川上水。つまりこれは、太宰治と山崎富栄が入水したと思われる場所にある、銘のない墓碑なのであった。玉鹿石(ギョッカセキ)というのは石の種類の名前で、当地の特産らしい。
 ここ連日の雨にもかかわらず、これで自死ができたとは想像のつかない少ない水量、そして、当時に比べて草木の茂っているであろう岸。この日も、水面を覗き込むようにして、「ここなのか」というふうに写真を撮っていた青年がいたが、風景は変わり、生々しさは60年の歳月で洗われている。上水に沿った道は「風の散歩道」と名付けられ、三鷹の森ジブリ美術館に向かう道として、キャラクターの案内標識が並んでいる。
 太宰はここでは道祖神になっているのかもしれない、と思ったら、辛気くさいブンガク的感傷が吹き飛んだ。

『「かたち」の哲学』2008/09/08 21:22

 『「かたち」の哲学』(加藤尚武著)を読んだ。10年以上前、『形の哲学-見ることのテマトロジー』という題だった単行本でも読んだのだが、今回文庫になったものを買い、読み出すと引き込まれた。
 その中に、恋人同士が抱き合うときに目をつぶるのはなぜかということにたいして、相手の存在そのものをたしかめようとするためかもしれない、といった旨の記述があった。結論のように断言しているわけではなく、詩的な喚起力もある表現だが、これに関してわたしの頭に浮かんだのは、もっと生理的、単純な考えだった。視覚というものは、遠隔知覚なので、近距離すぎると役にたたない。むしろ、邪魔になる。その意味で、眼をつぶるのは当然なのではないか、と。そして、ここから、近視の不思議体験(?)を連想した。
 わたしは、それほど強くないが近視である。(早々に老眼がくるだろうが、まだそうなってはいない)目が疲れると、この近視状態が強くなるような気がする。そんなときだ。ごく近くのものにピントが合ってしまい、たとえば自分の指先や紙の表面などが、奇妙なものに見えることがあった、という経験を思い出したのだ。一種のジャメビュ(デジャビュの反対:見なれたものが不思議なものに見える心理現象)と言えるだろうか。子供のとき、簡易顕微鏡を持っていて、ありふれたものが拡大するだけで異様なものとなるのが面白くてしかたなかったが、近視の眼は、そんな感覚を裸眼で体験させることがあった。これは、一般的な感覚なのだろうか。特殊なものだろうか。

 同書に、ディドロの『盲人書簡』からの引用があり、それが、最近のわたしの折り紙モデルの主要テーマである「立方体の分割」に関係していたことも、あらためて知るかたちになった。そして、今日、その『盲人書簡』を図書館で借りたのだが、その本でちょっとした不思議を味わった。なにげなく開いたまさにそのページに、ちょうど「探していた」以下の文があったのだ。
 彼女は幾何学が本当に盲人に適した学問だと主張していた。(略)『幾何学者はほとんどその全生涯を眼を閉じて過ごしているのです。』と、彼女はつけ加えて云ったものだ。(略)私は或る日彼女に云った。『お嬢さん、正六面体を一つ頭に描いて御覧なさい。- はい、それを思い浮かべました。- その正六面体の中心に一つの点を想像なさって下さい。-そういたしました。-この点から各頂点に向かって直線を引くこと、そうすれば、あなたはその正六面体を区分したことになるでしょう。-各々が同じ斜面と、正六面体の底面と、正六面体の半分の高さをもった、相ひとしい六箇の角錐(ピラミッド)になります、と彼女は自分でつけ加えた。-その通りです。だが、あなたはそれをどこで御覧になるのですか?-あたしの頭のなかですわ、あなたも同じだと思いますが。』
ヂィドロ『盲人書簡』(吉村道夫・加藤美雄訳)
 この部分は『「かたち」の哲学』でもそうであったように引用されやすい箇所で、本にわずかな開き癖があっただけなのだろうけれど。
 なお、この本(岩波文庫)は、1949年の版である。仮名遣いは新仮名遣いなものの、文字は「幾何學」といったように旧字になっていたが、引用は新字に変えた。ヂィドロのヂは、そのまま写したもので、タイプミスではない。