Cartesian Dual Origamiなど2015/12/02 22:16

◆水木しげるさん、幽冥界へ
水木さんを調布駅前の真光書店で見かけたときや、「妖怪折り紙コンテスト」( 2004、大賞:「河童」by 山田勝久さん)の審査でお目にかかったときは感激した。舞い上がって「折り畳み入道」について質問したのは、もう10年以上前なる。調布の散歩者として、市内のゆかりの場所を歩いて偲びたいと思う。

Cartesian Dual Origami
Cartesian Dual Origami
2枚組で3次元のデカルト座標ができた。一方が精神で一方が物質、組み合わせてデカルト的世界像。Cartesian dualism (デカルト的二元論)的なCartesian coordinate system(デカルト座標)である。...と、衒学的なネタになってしまった。

野坂昭如原作・水木しげる画2015/12/16 22:41

◆野坂昭如原作・水木しげる画
知るひとぞ知る作品(って、わたしもよく知らなかったのだが)として、野坂昭如原作・水木しげる画のマンガがある。そのひとつ『マッチ売りの少女』が載っている『野坂昭如の本』(KKベストセラーズ  1969)の装幀が、叔父(前川直)によるものであったことを知り、哀悼の感情が、叔父家族と同居していた昭和40年代の個人的な記憶に結びつけられた。しかし、この本の表紙画像をwebで見ると(手元にはないのである)、野坂風(?)でも水木風でもなく、奇妙にオシャレで、変な感じだ。

◆クラウドウォッチング
きれいな雲を見た。
12月6日正午ごろ、東京多摩地区から見た、富士山上空の波状雲。
波状雲

12月15日朝、八ヶ岳東麓のレンズ雲。
吊るし雲


『ある科学者の戦中日記』など2015/12/20 23:21

◆逃げ込み場所
数学を追求することは人間精神の神聖な狂気ともいうべきものであって、絶えずおそってくる俗事に追いまわされずにすむ逃げ込み場所である。
A. E.ホワイトヘッド:科学と近代世界(『伏見康治コレクション I 紋様の科学』から孫引き)
伏見さんがどういう思いでこれを引用したのかが気になった。これが書かれた1966-7年は、学術会議などで忙しくされていたようで、東海原子力発電所が営業運転を開始したころでもある。

◆『ある科学者の戦中日記』など
先日、折り紙の研究会で、1950年代の吉村慶丸さんの原論文を見た。航空機事故などで重要となる円柱の座屈、いわゆる「吉村パターン」をとりあげたもので、「ミウラ折り」の先駆研究である。そこでふと、吉村さんと堀越二郎さんは、航空研究所で重なっていたりするのだろうか、ということが気になった。吉村さんは、元は地震の研究者で、航空研究所勤務は1939年からということだったが、航空研究者の生没年をざっと確認してみた。人物の選択はきわめて恣意的である。

富塚清 1893 - 1988
堀越二郎 1903 - 1982(堀辰雄 1904 - 1953)
吉村慶丸 1912 - 1964
糸川英夫 1912 - 1999
近藤次郎 1917 - 2015

このように日本の航空宇宙関係者のことに関心を持った経緯で、富塚清さんというひとを知った。戦後はバイクのエンジンで有名なひとである。彼は、権力中枢近くの人間でありながら、戦前、そして日米開戦後も日本の負けを公言していたひとらしい。図書館で借りてきて読んだ『ある科学者の戦中日記』(1972年中公新書)には、たとえば、以下のような記述があった。

(1941年12月9日の日記から)
われわれの航研(東大航空研究所)あたりの仲間のひそひそ話では、日本の航空の勝味があるのはせいぜい半年だけ。それ以後はおそらく押されるだろう。

(1945年7月23日、学生との会話)
「......どうだ今日は? 何か問題を持ってきたかね?」
「いや何も......」
「するとただ漫然と、なんとか教えてくれるだろうと思ってきたわけ?」
「そうです」
「だめだよそんなことでは。もう将来生きられまいと、投げてしまっているの?」
「生きられはせんでしょう」
「いや、そうでもあるまいよ。ところで一体君たちは生きたくないの?」
「それはむろん生きたいです」
「なら、その方策を立てたまえよ」
日記には、石原莞爾や村岡花子、堀越二郎、谷川徹三や南原繁、八木・宇田アンテナの八木秀次の名前もでてくる。

この本を読み終わった翌日、水木しげるさんの訃報に接した。富塚さんが国の中枢近くで政府や軍の愚かさに呆れていたひとなら、水木さんは、前線でその愚かさによって殺されそうになっていたひとである。

水木さんと言えば、ずっと、父と水木さんは同い年だと思っていた。長い間水木さんの履歴で生年が数年遅くなっていたからだ。なお、父は、工業専門学校の学生だったので招集されておらず、上述の学生に近い心境だったとも思う。個人の資質も大きいだろうし、印象にすぎないが、この年代のひとには、勇ましさを厭っているタイプが多いような気もする。わたしはそれを「正しい」と思っている。

駒場にのこった航空研究所とは異なり、東大の物理科、天文科、数学科は、東京大空襲後の1945年4月、長野県の諏訪地方に疎開している。天文科の学生の日誌は、『されど天界は変わらず - 東京大学天文学教室疎開の記録』という本になっていて、天文台の図書室で見かけて目を通したことがある。1945年8月15日の日記には、以下の記述があった。
皆泣くに泣けぬ思ひなり。胸に期する所之有らんか。学生一同平穏なり。中には平和到来を喜ぶ者も之有らん。

数学科は、疎開先においても暗号解読に駆り出されていたという。その時代の学生のひとりであった武藤徹さんは、妻の高校時代の恩師で、その縁で、その著書も読んだ。先年出版された『きらめく知性・精神の自由』に記された、彌永昌吉さんのエピソードが興味深かった。
太平洋戦争が終わったとき、私たちのクラスは動員先で敗戦を告げる天皇の録音放送をきいたのですが、放送が終わるや否や、彌永さんは「めでたし、めでたし、これで世界の人々が、また仲良くなれる」といわれました。
同じ内容は、『戦中の日本暗号解読史における数学者の貢献』(木村洋)(数学史シンポジウム報告集pdf@津田塾大学)という文書にもある。そこには、「数学者はこうした悲嘆・衝撃から自由だったよう」とも記されている。

というわけで、冒頭のホワイトヘッドの言葉に、なんとなく通じるような話となる。ただ、わたしはこれらの話で、知性の高いひとたちには現状が見えていた、ということを言いたいわけではない。こういうひとたちも巻き込みながら、国家総動員の戦争があったということを考えてしまう。

May the Folding be with you.(フォールディングと共にあらんことを)2015/12/20 23:45

STAR WARSの新作の公開が始まった。土曜日、来日中のトム・ハルさんの講演を聴講したのだが、彼も、翌日映画館に行くと言っていた。駅での別れぎわに"May the Force be with you ."(「フォースと共にあらんことを」)と告げて、笑ってもらった。

わたしは、とりたててスターウォーズファンというわけではないのだが、以前、折紙探偵団の掲示板にSTAR WARSのネタを書いたことがあるのを思い出した。保存していたものから探してみたら、2001年5月27日のものだった。

ちょっとわかりにくいネタは、ハンガ・スロ(版画刷ろ:布施さんの夫の鳥海さんは版画家)と、Tess=テサレーション(モザイク)折り紙設計ソフトウェアだろうか。田中まさしさんが14年前からサイコロを折っていたことも味わい深い。なお、先日TVを視て、第1作(エピソードIV:A New Hope)には、ヨーダがでていないことに気づいた。
STAR WARS - A NEW JOKE - (かなりの内輪ネタ・・・)

そう遠くもない昔、ごくごくご近所で...

それは、戦いのひとつの節目だった。秘密でもなんでもない”ベース”から攻撃を開始した反乱軍は、邪悪な銀紙一枚折帝国に対して、初めての勝利を勝ち取った。

戦闘の中で、反乱軍のスパイは、帝国の究極兵器テス・スターの秘密設計図を奪うことに成功した。それは、どんな幾何図形の一枚折りも可能にし、ユニット折り紙を完全に破滅させる力を持っていた。

帝国の執拗な追跡のなか、設計図を携えたプリンセス・レイヤーは、ユニット折り紙の自由を取り戻すため、故郷オルデランへと急ぐのだった...

○キャスト
レイヤー・オーガミ 布施知子
ハンガ・スロ 鳥海太郎
ルーク・ツリーメーカー Robert. J. Lang
ダイス・フォルダー 田中まさし
オリ=ガミ・タターミ 薗部光伸
プロトコル・ドロイドC3-PO 立石浩一
アストロメカ・ドロイドR2-D2 前川淳
クーバッカ 羽鳥公士郎
ベヴェル・レメリスク(Tess Star 設計者) Alex Bateman
ツーダ 津田良夫

○スタッフ
特殊効果 隅谷和夫

『和紙』(東野辺薫)2015/12/26 20:59

東北本線安達駅
二本松市在住の五輪教一さんから、東北本線安達駅(福島県二本松市)の写真を送っていただいた。安達駅については、『陸奥の安達の原の駅前に折鶴あると聞くはまことか』と題して『折紙探偵団 106号』(2007)にエッセイを書いたことがあるのだが、折鶴の電飾が灯ったところは見ることができていない。「ありがとう」の文字がある意味は、安達駅が改築中で、大正6年(1917年)建築の駅舎が来年までだからということである。

そもそも、安達駅になぜ折鶴のモニュメントがあるのかというと、千年の歴史を持つ和紙生産地が近くにあるからだ。このことに、同地出身の高村智恵子が、入院中に何羽も何羽も折鶴を折ったというエピソードも加わって、モニュメントやマンホールの蓋に折鶴の意匠が使われているのだと思われる。

今回、五輪さんから、その紙漉きを題材にして、安達駅も描かれる『和紙』(東野辺薫)という小説があることも教えていただた。昭和18年(1943年)の芥川賞受賞作で、川端康成ら、審査員の満場一致だったという。

それを入手して読んだ。できれば、東野辺薫(1902-1962)さんの著作集を読みたかったのだが、同作が収録された、昨年3月10日に出版の『福島の文学 11人の作家』(宍戸芳夫編)を手にとった。

一枚一枚漉いてゆくうちに、やがて我知らずいつもの漉き三昧の境に入ってしまって、ふと足音が漉屋の前にとまった時も、友太の心は淵のように静かであった。
「あした行くってのに漉いてんの?」
「んだから漉いてるで。」

文中の「行く」は出征の意味である。(新仮名遣いとなっているのは引用元に基づく)

これは、心に染みる小説だった。紙漉き作業の細部が、小説の中にまさに漉きこまれ、時代に翻弄されるひとたちの姿が静謐に描写されている。戦時下に評価されたことを思うと正直意外だったのだが、戦争の不条理も仄めかされている。

静かな筆致のため、自然の厳しい東北の山間の小さな村が、世界から切り離された桃源郷のようにも、涅槃の世界のようにも思えてくる。

登場人物の女性の何人かが、一人称として「おら」、そして「おれ」を使っているのも興味深かかった。亡くなった義母が磐城地方の出身なので、妻に訊いてみると、田舎の親戚と話すときは、たしかに「オレ」になっていたという。上京前は小学校の先生をしていたひとなので、標準語への矯正圧力もあったと思うが、それでもそうだったのだ。

手持ちの和紙関連文献を調べて、興味深いこともわかった。この地方(上川崎)の製紙は、たしかに約千年前に土地に根付いたようで、幕藩時代も盛んだった。『源氏物語』や『枕草子』で言及されている、いわゆる「みちのく紙」の発祥地のひとつとも推定されている。しかし、最も栄えたのは、『和紙』に描かれた時代を含む大正から昭和の時期なのである。最盛期の昭和初期、500世帯の半分が製紙に従事していた。ところが、昭和の末には、ほとんど絶滅と言えるまでに衰退する。(参考文献:『和紙の里』林正巳 1986)いま現在、数軒が伝統を継いでいるのは、二本松和紙伝承館という施設も造っての努力の結果である。

つまりこういうことだ。この地方の製紙は、多くの紙漉きの里でそうであったように、そして、考えてみれば当たり前なのだが、伝統工芸という言葉から想像されるものではなく、時代に合った産業だったのだ。その産業としての紙漉きは、1930年ごろをピークとして状況が変わった。同じころ、柳宗悦らによって、伝統産業の中に美を見出す民芸運動が起き、和紙にも焦点があてられているが、そうした視線の向けられかたは、一面において、産業としての衰退の指標でもある。そのような状況で、上川崎和紙は、山梨県市川大門や愛媛県川之江のように機械製紙に移行はしなかった。できなかった。そして、養蚕と同じように急速に衰退したのである。民芸運動の賛同者のひとりである寿岳文章・しづ夫妻は、『紙漉村旅日記』(1943、1986復刻)で、上川崎に近い山舟生(やまふにゅう)和紙を以下のように述べている。

こんなに質朴で美しい村では、醜い紙の漉かれやうがない。(略)山舟生のやうな村では、悪い紙を漉かうと云う意識のないのは勿論だが、良い紙を漉くことに専念していゐるのでもない。先祖代々伝へてきた技術を、忠実に守つてゐるだけである。明治四十二年に土佐から教師を招いて改良漉をやつてみたが、紙が悪くなったのでいつの間にか古法に帰つた。

いっぽう、上川崎和紙については以下のように書いている。

明治十九年、下川崎の野地勝吉が東京へ行き、製紙原料の研究を積み、苛性曹達、晒粉、塩酸加里などの化学薬品を購入し、井上廉五郎と云ふ技術家も雇ひ、改良漉を始めたので、本村も明治二十二年野地勝吉を師として大判製紙の伝習を受けたが、成績思はしからず、更に土佐から土井伊太郎を聘し、爾来年と共に重ねた苦心が漸く実を結び、色艶も佳く価格低廉なので販路が広がり、県内各地は勿論、東京、茨城、栃木、群馬、長野、新潟、宮城、山形、秋田の各府県に及んだ。殊に明治三十五年と同三十八年の大凶作にも、製紙に従事してゐたればこそ上川崎は無事に切り抜けることができ、副業としての紙漉きの有難さを痛感している。(略)私たちが想像してゐたほど、又他村で聞かされてゐたほど、質は悪くなかった。役場で戸籍簿等に使つている延紙なども、寧ろ推奨に値するであらう。

民芸の視点では山舟生に肩入れしている感じだが、上川崎和紙が、時代に合わせて改良されていたこともわかる。それゆえに、他の産地から、本式でない廉い紙と見られていたというふうでもある。時代への適応の奮闘は、前出の『和紙の里』によると、以下である。

昭和二四年(一九四九年)、上川崎に福島県和紙工芸指導所が設立され、品質改良、機械化の技術指導などがおこなわれたが、衰勢をとどめることはできなかった。そして今日(昭和六一年)、この上川崎地区には四戸が副業として、一二月から三月ごろまで、注文により生産するにすぎない。

多くの和紙産地は時代のままに衰滅したが、上川崎は、時代に追いつこうとしてもがいたのだが、時代に追い越されたのだ。(ちなみに、上述の山舟生和紙は一度途完全に絶えてしまったようだが、20年前から文化の継承として、有志によって漉かれているという)

しかし、ひとの晩年がただ寂しいものでないように、衰えていったものの中に光が宿ることがある。あまりに急速に喪われたために、残骸しか残らないものもあるが、手漉きの和紙は、多品種少量生産が見直される時代において、踏みとどまる、というか、復活の力を持った文化だろう。

思えば、安達や二本松周辺でかつて盛んで、ほとんど滅びてしまったものには和算もある。同地は和算が盛んな土地だった。紙と(遊戯的な)数学。わたしにとっての桃源郷的な組み合わせである。