「変わりました」「そうですか」 ― 2016/01/03 18:25
非ユークリッド幾何学的キノコ等 ― 2016/01/04 22:18
以前このブログで、ボタンイボタケというキノコが螺旋面で、タヌキのチャブクロはみごとに球だ、という話を書いた。先日、友人の家でラッパタケ科(?)のキノコを食べ、その収穫の写真を見て、擬球(pseudo sphere:曲率が負で一定の曲面:図右)に近いキノコもあることを知った。キノコの非ユークリッド幾何学ぶりは、たいへんすばらしい。
◆NRO
丸善のPR誌『學燈』のエッセイ『科学徒然草』(小山慶太著)の導入に、冒険小説『デセプション・ポイント』(ダン・ブラウン著 越前敏弥訳)が紹介され、面白そうだったので、正月休みの読書本にした。
期待通りのハリウッド映画のような話だった。ラングドンシリーズより面白かったかもしれない。で、アメリカ国家偵察局の略称がNROで、野辺山宇宙電波観測所と同じであることを知った。
「NROの仕事をしています」
「え! NSA(国家安全保障局)とかCIAのお仲間なの...」
なお、地上の節足動物の大きさに重力によるリミットがあるという話は、それはそうなのだろうけれど、アースロプレウラ(3mのムカデ状生物)とかメガネウラ(幅75cmのトンボ)を考えると、スケール感が違うのではないだろうか。
◆混乱と弛緩
『小説のように』(アリス・マンロー著 小竹由美子訳)所収の『あまりに幸せ』は、ロシアの数学者・ソフィア・コワレフスカヤを扱った小説で、ワイエルシュトラスの言葉として、次のようなものがでてきた。
(一流の数学者は)厳密、細心であらねばならないが、また偉大なる詩人でもあらねばならないのだ。『数学名言集』(ヴィルチェンコ編 松野武、山崎昇訳)にも、「ある程度、詩人にならずには、本当の数学者になることはできない。」というワイエルシュトラスの言葉があるが、上記は、マンローさんの創作か、引用元があるのか、後半の「自分たちの思考の混乱や弛緩を弁護しようとして...」に味がある。
ついに思い切ってこうしたことをすべてソフィアに語ったとき、彼はまた、数理科学に関連して「詩人」などという言葉を使うと小馬鹿にする者たちもいるのだと言った。そしてまた、自分たちの思考の混乱や弛緩を弁護しようとしてそういう概念にすぐさま飛びつく者たちもいるのだ、とも言ったのだった。
幾何モデルをいくつか ― 2016/01/31 23:01
グレン・フライとブーレーズ ― 2016/01/31 23:06
Desperadoは「ならず者」や「無法者」ではなく、「あんちゃん」と訳したい。
あんちゃん、いまより若くなることなんてできないんだぜ。
痛みと飢え、それが、あんたを故郷に駆り立てているのだろうさ。
自由、自由、そんなことを言うやつらもいるけどよ。
あんたの牢獄、それは、ひとりでこの世界を彷徨い歩くことだよ。
冬の日に、あんたの足は凍えていないのか?
雪は落ちてこないけど、太陽も輝かない。
あんたは夜も昼もわからなくなっている。
なにもかも喪ってしまったんだ。
心がどっかに行っちまったなんて、笑えないぜ。
あんちゃん、正気にもどれよ。柵を越えて、門を開けろよ。
雨だってか。でも、虹が架かるかもよ。
だれかに愛してもらうんだ。だれかに愛してもらうんだ。だれかに愛してもらうんだ。
手遅れになる前にな。
なぜか指摘しているひとがいないのだが、『Desperado』(1973)と『誰かか風の中で』(和田夏十作詞、小室等作曲、1972、『木枯らし紋次郎』のテーマ曲)は、洋の東西で、双子のような曲である。『誰かか風の中で』のほうが1年早いのも面白い。アルバムの『Deperado』が、西部のならず者がコンセプトだったように、『木枯らし紋次郎』は、股旅もの時代劇を西部劇のように演出するドラマだった。どちらの曲も、過酷な世界をたったひとりで希望なく彷徨い歩く者を、慰撫する詩である。
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そして、これは1ヶ月ほど前。作曲家のピエール・ブーレーズ氏が亡くなったと聞いて、こちらは、『本格折り紙』のエピグラフを思い出した。
私にとってもっとも重要な教訓は、時にはあえて想像力のもたらす現象を言わば「幾何学された」基本的な問題に還元せよということだ。
『クレーの絵と音楽』(笠羽映子訳)ピエール・ブーレーズ(作曲家)
かなり格好つけた引用である。『クレーの絵と音楽』は、ブーレーズ氏ではなくクレーへの興味で読んだ本である。
先ごろ翻訳出版された大著『プリンストン数学大全』の「第V||部数学の影響」に、数学と音楽、数学と美術の項があったのだが、前者の中にブーレーズに関する記述、後者の中にクレーに関する記述はなかった。じっさい、クレーの幾何学というのは、扱うのが難しいだろう。それは、わたしの中では、次のようなものと親和している。
伝説の中でアルキメデスが死の間際に描いていてローマの兵士に踏まれた図。
教室の黒板に描かれた図と数式。
なんというか、心の中にかなり明晰な構造があって、その一端の表出として図があるという感じである。アルキメデスの図からの連想では「路上に工事関係者が描いた記号」も近いのだが、あれに詩情を感じることに、あまり一般性はないようにも思う。
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