稲荷の狐の意外な使いかた2010/03/13 19:53

平田一式飾の力士
 以前、稲荷について書いた記事へ、「今戸焼の土の人形の再現をライフワークにしている」かたからのコメントがあった。
 別のところで紹介したことがあるが、陶器の狐と言えば、出雲で見た平田一式飾の力士が忘れ難いので、ここでも紹介しておこう。既存の陶器だけを使ってつくった、土俵入りをする力士と太刀持ちなのだが、目をこらして見ていただきたい。「さがり」というか化粧廻しの末端が、ひっくり返した狐の置物なのである。脚が亀の置物であるのもよいが、この狐の使いかたはすばらしい。神様の眷属を象った像にこの扱いは…とも思わなくもないが、まあ、お狐さんも、これなら笑うだろう。


 稲荷と言えば、上の記事を書いたあとに読んだ、『イエズス会宣教師が見た日本の神々』(ゲオルク・シュールハンマー著 安田一郎訳)という本も面白かった。たとえば、以下のようなことが書いてある。
彼らは太陽、月、星に祈ります。彼らは、木、石、蛇、狐、亀、そして最後に、多くの他のものに祈ります。

彼らはまたばかばかしい崇拝の対象をたくさん持っています。悪魔がそれを持ってきたかぎりでは、それらを崇拝します。狐を崇拝する人もいますし、蛇、雄牛、鹿、石を崇拝する人もいるからです。これよりもひどい盲目は疑いなくありえません。
(1565年と1571年のガスパル・ヴィレラの書簡から)
 西欧中心主義による偏見と言ってしまえばそれまでだが、日本列島に住むひとたちの、ある意味、底が抜けたような自然信仰に対する、唖然とする感じ、畏れのようなものも垣間見えなくもない。「石を崇拝する人」というのも、「丸石神研究家」(?)としてはいいなあ。まあ、西欧にも、キリスト教以前の、巨石信仰はあるんだけれどね。
 なお、わたしが、大航海時代の宣教師の記録に注目しているのは、折り紙に関する記述かないかどうかという関心にもよる。それらしきものは見つけてていないけれど、それらを読むうち、カルロ・スピノラと、日本の数学史・天文学史との関わりなども気になってきて、例によって、好奇心は拡散するいっぽうなのであった。