LH2O2012/02/11 15:56

LH2Oと十八面体
ポルトガルのデザイナーユニット・Pedritaによる「LH2O」という水のボトルが面白い。(写真もこのサイトから) Água de Lusoというメーカーと協力しての「実験」と書いてあるので、商品にはなっていないようだ。

空間を完全に埋め尽くせる菱形十二面体を基本にして、6個ある四価頂点を切り落とすと、六角形(正ではない)12面と正方形6面からなる立体になる。これを積むと、立方体のすきまができる。ここにキャップ部分がはいって、無駄なく空間を充填できるようになる、という理屈だ。

この立体の正方形部分を穴にしたモデルを、折り紙(√2長方形の12枚組)でもつくってみた。四価頂点の切り落としかたは任意だが、ボトルでも使っていると思われる目安のわかりやすい比率にした。

「則した」と「即した」 - 『本格折り紙√2』と『日本文化のかたち百科』の誤植2012/02/17 12:40

以下は、いずれも「則した」という文字を使っているが、これは「即した」に修正したい。
図形に則した考えかたをする、ギリシアの数学の面目躍如の「名品」と言えるでしょう。
→即した
『本格折り紙√2』の26ページ、ユークリッドの互除法に関して。

もっと造形に則した折り紙と数学の関係もある。
→即した
『日本文化のかたち百科』「折り紙をひろげる」

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これに気がついた経緯は次のようなことである。
ある日、かなりくだけた表現なのにもかかわらず、「則って」という表記を目にした。「のっとって」である。訓読み漢字を仮名でひらくことが多いわたしは、文体との対応に微妙な違和感を持ったのだが、音読みの単語は漢字も使うので、「則す」という言葉はわたしも使うな、とも思った。ここで、待てよ、となったのである。「そくす」には「即す」と「則す」がある。似たような意味だが、使い分けがあるのではないか? 過去にどう書いたのかが気になって、活字になった自分の文章をチェックした。すると、上のふたつがでてきたのである。

『大辞林 第三版』によると、「即する」と「則する」は、次のように説明される。
即する。:離れないで、ぴったりとつく。ぴったりあてはまる。「事実に即して考える」
則する。:あることを基準として、それに従う。手本にする。「前例に則する」
『大辞林 第三版』

「事実」には「即して」、「前例」には「則する」。これはややこしい。
『新明解国語辞典』では、以下のように記述される。
即する:[理論やたてまえにとらわれることなく]その時どきによって変わる現実の事態に合う対処をする。[表記]この意味で「則する」と書くのは、誤り。「現実(変化)に即して/実際に即して考える」
則する:何かをする際に、理論・規則・方針など、基準(規範)となるものをより所とする。「建築基準法に則して/平等思想に則した政策」
『新明解国語辞典 第六版』

いつものように、「新解さん」は自信満々である。表記の誤りも指摘しているが、事実や現実と理論との峻別はそう簡単でもない。たとえば、「前例」は、現実なのか規範なのか。あるいは、自然科学において、事実の中に論理性を見るような場合は、どう考えればよいのか、などである。

漢字の意味に立ち返ると、「即」は「つく、近く、ただちに」、「則」は、「規範」といったことである。これに基づいた言い換えを考えると、「即した」は「寄り添った」で、「則した」は「規範にした」などとなる。これを、「照らしあわせた」とすると、どちらにも通用する言い換えに「なってしまう」。

「則した」は、比較的新しい用法である可能性も高い。『広辞苑 初版』(1955)には、「即する」のみが項目としてあり、「則する」はない。登場するのは第二版(1979)からだ。また、やや古い文献においては「則した」の実例はすくない。青空文庫の検索で見つかったのは、以下の二例だけであった。
天地の大道に則した善き人間となりたいという願い
倉田百三 『学生と生活 --恋愛--』 1953

そこの風土に則した工業を興すという点
三澤勝衛 『自力更生より自然力更生へ』 1979

倉田氏のものは、「理念にのっとった」ということで、「天地の大道を規範にした」という言い換えに適合するが、三澤氏のものは「風土を規範にした工業を興す」となって、やや解釈が難しい。「風土に寄り添った工業を興す」ならばより意味が通じやすいだろう。したがって、「即」がふさわしいと言える。単純な誤記の可能性も高い。しかし、「を規範にした」と似た意味の「に適合した」を使って、「風土に適合した工業を興す」とすれば、意味が通じる。誤用かどうかの見極めは、やはり難しい。さきに挙げた『大辞林』の「前例に則した」にも、この難しさがあるが、『日本国語大辞典 第二版 第八巻』の「則する」の用例もその例である。
その時作られる百科辞典は概ね、当該思想に則して編まれるのを常とする
渡辺一夫『フランスの百科辞典について』 1950

唯物史観の定式に則して社会の発展をとらえるとき
伊東光晴「現代経済を考える』1973

後者は、「定式」という言葉があり「規範にして」と解釈しやすいが、前者の「当該思想」は、「規範」を広義に考えて、「当該思想というパラダイム(範型)によって」というふうに解釈することになる。(1950年には、「パラダイム」のそういう用法はないけれど)

規範にも広義と狭義があることで、判断が難しくなるのだ。しかし、それだけでもない。法や方針など狭義の規範の用例をみるために、法律の条文も見たところ、そこにも混用があったのだ。まず、以下のようなものがあった。「則した」を使っても問題がないと広く認められた例だろうが、どちらも、新しい例である。
同法第二条の基本理念に則した東日本大震災からの復興の円滑かつ迅速な推進
『東日本大震災復興特別区域法』(平成二十三年十二月十六日法律第百二十五号 (未施行))

前項の服務の本旨に則して職務を遂行する旨
『日本年金機構法』(平成二一年五月一日法律第三六号)

いっぽうで、30年以上前のものになると、法令の場合も、方針や規程に対して「即した」を使うものが多い。

基本構想並びに都市計画区域の整備、開発及び保全の方針に即し、
『都市計画法』(昭和四十三年六月十五日法律第百号)

その内容は、卸売市場整備基本方針に即するものでなければならない。
『卸売市場法』(昭和四十六年四月三日法律第三十五号)

当該協定が共同施業規程に即していると認められるときは、
『森林組合法』(昭和五十三年五月一日法律第三十六号)

ほかにも多々あるので、これらは誤記とは言えない。「則した」という用法が、比較的新しいことを示しているのだろう。ただ、混用が古いか新しいかということでは、次のようなこともある。

漢文においては、則と即がほとんど同じように扱われる、ということである。訓み下しは「すなわち」だ。典型的な例が、『史記』の有名な一節である。
先即制人 後則為人所制 (先んずれば即ち人を制す、後るれば則ち人に制せらる)
『史記』

前者が即で、後者が則なのである。即も則も、「A→B」という同じ順接の副詞で、たぶん、単に同じ語の繰り返しに芸がないということだけで、即と則となっている。
細かくみれば、違いはあるらしい。「レバ則」(「であれば」のレバのこと)ともいわれるように、論理関係で説明がつくものは「則」、類似的、直感的、時系列的に直後に起きるといった関連づけには「即」のようだ。しかし、上の『史記』の例のように、明確に使い分けられているわけではない。ちなみに、「すなわち」という日本語は、もともとは「そのとき」という意味だそうで、則より即に近いと言える。
漢字ということでは、「則」を旁を持つ「側」が、「即」の意味にも通じる「近い」という意味であるのも、ややこしい。ただ、これは、意味を表す「意符」ではなく、発音を表す「音符(声符)」として使われたもののようである。

◎まとめ
とまあ、いろいろ考えたが、わたしの結論は次である。
・「則した」は、比較的新しい用法と考えられる。つまり、「即した」が基本で、せいぜい、ある場合は「則」を使ってもよい、使うようになってきた、といったものである。
・「則した」は、「狭義の規範(法、理念、理論)にのっとった」という意味の場合のみに使うほうがよい。
・紛らわしい場合は、「照らしあわせた」など、別の表現に置き換えたほうがよい。
・わたしの例は、どちらも「即」にするべきである。

わたしの例の前者は、「ギリシアの数学は、代数的な概念よりも図形(幾何)的な概念が基本にある」という文脈なので、「図形(的実在)という規範にのっとった」ということで、「則した」を使っても通じる例であると言える。しかし、「図形に寄り添った考えかた」、つまり「図形に即した考えかた」でも、言いたいことは伝わる。

後者は、「造形という現実に寄り添った」ということであり「造形の思想を規範とした折り紙と数学の関わり」とすると、きわめてわかりにくくなる。「則した」でよいと考えるのは難しい。

ジッポー体2012/02/19 02:08

ジッポー体
立方体のオイルライター、その名もジッポー体。
という、ダジャレを思いついた。

ロッポー体2012/02/19 18:11

ロッポー体
立方体の六法全書、その名もロッポー体。

閑そうにしか見えない日々2012/02/29 00:49


ニンジンとウサギ
某月某日
講習会用の難しくない折り紙作品を考えた。「キツツキ」をつくっていたのだが、なぜか「ニンジン」ができた。ニンジンとくればウサギかなと、似た構造(?)の折り目で、「ウサギ」もつくってみた。

Bow tie Unit
某月某日
ボツにしていた正二十面体構造のモデルが、ちょっとしたアイデアの変更でよみがえった。ボツにしていたのは糊づけが必要だったからである。ユニット折り紙において糊を使うことは、一枚折りで鋏を使うことよりもはるかに抵抗が大きいのだが、ほかのひとはどうなのだろうか。このモデルには、別の組み方もあった。

某月某日
3Dの見せ場なんだろうな、と考えながら3D映画の2D版を観るのは、ちょっとくやしい。

某月某日
読みかけの本が何冊もあるのに、また、本を買って読み始めてしまった。『枝分かれ 自然が創り出す美しいパターン』(フィリップ・ボール著 桃井緑美子訳)と、『白秋望景』(川本三郎著)。並べて書くと、いかにも脈絡がない。

『種子のデザイン 旅するかたち』
某月某日
『寺田寅彦 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学』(小山慶太著)で、寅彦の論文「藤の種子の自然放散機構について」の概要を知った。植物の種の不思議に関しては、先月、INAXギャラリーの「種子のデザイン‐旅するかたち‐ 展」(図録)を見て、その播種機構の多様性に感心してきたばかりだ。オーストリアに生息するハケアやバンクシアは、山火事による乾燥でしか実が弾けないという。図録の表紙の写真・北アフリカ産のツノゴマもすごい。

某月某日
フェルマーの最終定理の現代数学的でない証明があったら面白いけれど、まあ、ないだろうなあ、と、『数学に魅せられた明治人の生涯』(保阪正康著)を読みながら、考えた。この本は、ノンフィクションというより、モデル小説に近い感じだが、波瀾万丈でもあり平凡でもある、主人公の一生が味わい深い。

某月某日
某氏から、オランダでの研究生活の話を聞いた。ライデン市にシーボルトハウスという日本コレクションを展示する施設があるそうだ。シーボルトコレクションのリストには、和紙関係、折り紙関係のものはあったはずだが、展示物にそれはあるだろうか。

某月某日
「生きて行くことは案外むずかしくないのかも知れない」という文章を、『才子佳人』(武田泰淳)の冒頭だと思っていたが、『蝮のすえ』のそれだった。「あれは太宰をまねたんだよ」と武田氏がどこかに書いていたようにも記憶するのだが、それが何だったのかは見つからない。

某月某日
カレイダグラフは、重回帰分析はできないのか…。(と思ったら、table関数というものを使うと、できることが判明。便利。 3/1)

某月某日
天球座標に、緯度経度の組み合わせ(赤経赤緯、銀経銀緯)ではなく、北極南極を通る経線と東極西極を通る横経線(?)という二種の大円の組み合わせによるものがないのはなぜだろうかと、ふと思った。そのほうがすっきりしないかと。しかし、これがだめな理由はすぐにわかった。経線と「横経線(?)」が重なるところがあり、その線上では、座標位置を示すことができないのだ。

2月29日
一日得したという日をすごしたいものである。