正五角丸塔柱2012/09/06 00:50

正五角丸塔柱ランプシェード
妻のランプシェード(ステンドグラス)のデザインに協力し、ジグができた。このかたち(正十角形の面がとじたもの)には、正五角丸塔柱(Elongated pentagonal rotunda)という名前がついている。ジョンソンの立体(すべての面が正多角形からなる凸多面体で、正多面体、半正多面体、アルキメデス角柱、アルキメデス反角柱を除いたもの)のひとつで、ランプシェードに向いたかたちだと思うのだが、使用例を見たことはない。

凸多面体といえば、『Science』の7月号で『Predictive Self-Assembly of Polyhedra into Complex Structures』(多面体の自己組織化による複雑な構造の予想)という論文を見た。多面体の種類によって、液晶的、柔粘性結晶的、結晶的、ガラス質的な詰め込みかたができるということ(たぶん)なのだけれど、凸多面体の分類リストみたいになっている。上の正五角丸塔柱は、無秩序(ガラス質的)になる。

雑記2012/09/10 22:05

某月某日 15度鳳凰
鳳凰
角度が15度の倍数の折り目を使った鳳凰ができた。ひさしぶりに、幾何立体ではないモデルだ。とはいっても創作のモチーフはきわめて幾何学的である。じっさいの鳥の羽根はこんな構造ではない。幾何学的なかたちをそのままなにかに見立てるたのしさが中心にあってできた造形だ。15度折り目をやったひとならわかる、45、60、75の不等辺三角形という、どこかずれているようできっちりしている三角形が味である。
幾何学的なかたちをそのままなにかに見立てることがうまくいったと思っているのは、七面鳥(サブフラクタル)、孔雀(ミウラ折り)、ペンギン(円錐)、ニワトリとヒヨコ(デルタ多面体)などで、今回の鳳凰を含めて、なぜかみな鳥類である。思えば、折鶴もまたそうだ。鳥類は獣よりひとからの距離があるので、幾何学的形状の見立てによる違和感がすくない、ということもあるのだろうか。

某月某日 諏訪に丸石道祖神?
以前、図書館で見た『石仏調査ハンドブック』という本に載っていた「道祖神塔(丸石の道祖神)(年不明)長野県諏訪市小和田南」とキャプションのついた写真の道祖神を確認しにいった。甲斐の民俗である丸石道祖神が信州諏訪にあったら、それだけで発見なので、前から気になっていた。しかし、みつけることができなかった。何度か同じ場所をうろうろする不審者のような行動をしたのち、立ち話をしている地元のひとに「つかぬことをお訊きしますが」と訊いてみたのだが、思いあたるものはないということだった。八十代のカクシャクとしたお爺さんで、そのひとと話をしていたひとが「町内のことでこのひとが知らないことはないよ」という長老だったので、写真のキャプションの間違いで、やはり諏訪には丸石道祖神はないのだろう。なお、諏訪地方ではちいさな祠の周りにもちいさな柱が四本建っていた。つまり、ミニ御柱で、これには感心した。

某月某日 折鶴のシール
窓のシール
折紙探偵団コンベンションのオークションで競り落とした、マルシオ・ノグチさん提供の折鶴のシールを、はめごろしのガラス窓に貼ってみたら、これがなかなかよかった。

某月某日 折り紙の重心
『折紙探偵団』の原稿をふたつ書いた。ひとつは、書いている途中で思いついたことがあり、後半の内容が、当初想定していたことから大きく変わった。折り紙モデルの重心に関する話である。発展性があるテーマかもしれないという期待がすこしある。

某月某日 理論物理学教程
神保町の古書店で『ランダウ・リフシッツ理論物理学教程 弾性理論』を手にとって棚に戻した。20年以上読まねばと思っている本なのだが、すぐには読まない(読めない)し、古書価も高い。一生読めないような気もしてくる。

某月某日 八ヶ岳の鹿
八ヶ岳の鹿
山梨県道28号線(北杜八ヶ岳公園線)を長野県方面に向かい、八ヶ岳高原大橋を渡ってほぼ坂を登りきると、左側に牧草地がある。ここは、通称「鹿牧場」という。じっさい、棲んでいるんじゃないかというぐらい、高い確率で野生の鹿がいる。増えすぎて、食害に困っているとも聞く。

某月某日  すこしは働いた
ずっと遅れていたプログラムの修正ができて、データを処理したが、まだおかしいところがあるかもしれない。(なんてことをわざわざブログに書くと、仕事もしていますといういいわけみたいな感じになる)

某月某日 小笠原流と人体文様付有孔鍔付土器と蛇籠
南アルプス市ふるさと文化伝承館小笠原流のこころとかたちという展示を観にいった。南アルプス市の旧櫛形町は、武家の礼法を伝える氏族・小笠原家の発祥の地なのである。この展示も面白かったが、同館の縄文遺物の展示もよかった。とくに鋳物師屋(いもじや)遺跡から出土した人体文様付有孔鍔付土器に惹かれた。愛嬌のあるひとのかたちのレリーフがついた土器である。興味深いのは、その指の数が3本であることだ。同じ遺跡の円錐形土偶などもそうで、館のスタッフのひとにも説明してもらったが、縄文土器の人物の指は、3本、4本、6本などまちまちだそうだ。ここで思い出されるのが、数概念を「1、2、3、たくさん」、「1、2、たくさん」とする言語があることだ。この土器の指の造形は、単に「さきがたくさん枝分かれしている」ということであり、何本という数の概念とは結びつかないということを示していそうである。ただ、縄文人の数の概念は、粘土板につけられた刻みなどからきわめて発達していたという話も聞いたこともあり、それとの関係はよくわからない。
蛇籠
南アルプス市の東部は、富士川水系の御勅使川(みだいがわ)の氾濫が歴史をかたちづくってきた土地である。ということで、堤をつくるための「蛇籠」も展示されていた。「蛇籠工法」は、中村哲さんのペシャワール会が、アフガニスタンの水路整備でもつかっているものだが、ここに展示されていた伝統の竹の蛇籠(中に砕石をいれて積む)は、末端が閉じたカーボンナノチューブにそっくりで、工芸品としても美しい。円筒状の六角の籠目の端を閉じるためには、五角形の穴があるのが幾何学の示すところで、じっさいそうなっている。

某月某日 ゆるキャラ化した半跏思惟像
半跏思惟像
北杜市高根町で見た半跏思惟像が、摩滅もあって、ゆるキャラのオーラを発していた。

某月某日 こんなところに五芒星
神楽殿の五芒星
北杜市高根町の伊勢大神社の神楽殿にのこっていた紙垂が陰陽道的な五色だった。(ただし、西は、ふつうみどりではなく白だとも思う。みどりは五色の吹き流しや幕などで黒のかわりに使われることが多い) こうした紙垂はほかでも見たことがあったのだが、見上げると、天井に五芒星があってちょっとびっくりした。

月並、そして正岡子規について2012/09/12 23:16

俳句と折り紙は似てなくもない。ということで、以前、『第二芸術』のことを書いたけれど、その興味の延長で、千野帽子さんの『俳句いきなり入門』を読んだ。

俳句の面白さは、作者の内面云々ではなく、言語の相互作用にあり、外に開かれたものである、といった主題が、肝心なのは作句よりも句会だという実践のすすめを中心に書いてある。とても面白い。また、千野さんは、ポエム嫌いの旨を述べる。「ポエム」というのは、正岡子規のいう「月並調」とニアリーイコールの概念だろう。これもまた、内面の表現より言語の面白さを、ということからくるのだが、ポエム嫌いを単純に教条化するのは、それはそれであやうい。これは、自戒としてそう思う。ポエムを嫌うと、無邪気な正面突破の持つ破壊力への道をふさいでしまうというマイナスがまずありそうだが、それよりも、スノッブに陥りやすいことがあやうい。これは、半可通ほどあやうい。

月並を嫌うと月並の逆襲をうけるということでは、「お前は歌うな お前は赤ままの花やとんぼの羽を歌うな 風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな (以下略)」(中野重治『歌』)に関して、 <歌うなって言うことで、赤ままの花を甘ったるく歌っているよ>というようなことを花田清輝さんが書いていた(出典未確認)ことを思い出した。

そして、子規はこんなことを書いている。
自分の俳句が月並調に落ちては居ぬかと自分で疑はるるが何としてよきものかと問ふ人あり。答へていふ、月並調に落ちんとするならば月並調に落つるがよし、月並調を恐るるといふは善く月並調を知らぬ故なり、月並調は監獄の如く恐るべきものに非ず、一度その中に這入つて善くその内部を研究し而して後に娑婆に出でなば再陥る憂なかるべし、月並調を知らずして徒に月並調を恐るるものはいつの間にか月並調に陥り居る者少からず、(以下略)
『墨汁一滴』 『墨汁一滴』(青空文庫)

ナイーブ(未熟で甘い)とスノッブはじつはよく似ている。波長が大きく違う赤と紫が、心理的な色相環においては隣りになるようなものかもしれない。そして、どっちに面白いものがあるかというと、断然ナイーブのほうだろう。

えーと。俳句そのものではなく、それを参照して折り紙のことを考えていたはずなのに、なんだかよくわからなくなってきた。
「折り紙の場合、俳句における言語が幾何学に相当し、句会が折り図に相当する」などと続けようか、それはそれで、広がりがある話だろうと思うのだが、どうも面倒くさくなってしまった。俳句の論で折り紙を語るというのは、アナロジーだが、アナロジーというのは、語源的に言っても「論理じゃない(反ロゴス)」ということだ。それよりも、本棚からひきだした『墨汁一滴』。それに読みはまってしまった。

ところで、子規に「一つ落ちて二つ落たる椿哉」という句がある。
これは、まず一つ落ちて、つぎに二つ落ちて合計三つ落ちたともとれるが、そうではなく、1+1=2と考えたい。つまり、「一つ落ちて三つ落たる椿哉」「一つ落ちて四つ落たる椿哉」...「一つ落ちてn+1落たる椿哉」と続くのである。数学的帰納法である。椿の句といえば、漱石の句「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」から、寺田寅彦が『空気中を落下する特殊な形の物体 -椿の花- の運動について』という論文を書いた話が有名だが、子規のこの句は、物理ではなく数学、「ペアノの自然数の公理」の俳句版なのである。なんてね。椿は、無限までは続かず、最後は「すべて落たる椿哉」で終わってしまうしね。

ということで、句から数学を感じたのだが、子規は、東京大学の予備門のときに数学で落第したということが、『墨汁一滴』に書いてある。彼を落第させたのは隈本有尚というひとである。このひとは『坊ちゃん』の山嵐のモデルとも推定され、晩年は、ルドルフ・シュタイナーの神秘学や占星術にはまった、かなり変わった人物だったようだ。
しかし余の最も困つたのは英語の科でなくて数学の科であつた。この時数学の先生は隈本有尚先生であつて数学の時間には英語より外の語は使はれぬといふ制規であつた。数学の説明を英語でやる位の事は格別むつかしい事でもないのであるが余にはそれが非常にむつかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない、とうとう学年試験の結果幾何学の点が足らないで落第した。
(中略)
 余が落第したのは幾何学に落第したといふよりもむしろ英語に落第したといふ方が適当であらう。それは幾何学の初にあるコンヴアース、オツポジトなどといふ事を英語で言ふのが余には出来なんだのでそのほか二行三行のセンテンスは暗記する事も容易でなかつた位に英語が分らなかつた。落第してからは二度目の復習であるから初のやうにない、よほど分りやすい。コンヴアースやオツポジトを英語でしやべる位は無造作に出来るやうになつたが、惜しい事にはこの時の先生はもう隈本先生ではなく、日本語づくめの平凡な先生であつた。しかしこの落第のために幾何学の初歩が心に会得せられ、従つてこの幾何学の初歩に非常に趣味を感ずるやうになり、それにつづいては、数学は非常に下手でかつ無知識であるけれど試験さへなくば理論を聞くのも面白いであらうといふ考を今に持つて居る。これは隈本先生の御蔭かも知れない。
(『墨汁一滴』)
なんてところを読みながら、「数学は非常に下手でかつ無知識であるけれど、…理論を聞くのも面白い」といったこととか、英語がたいへんという話に、親近感を持つわたしなのであった。

アヒルの悪魔とか2012/09/23 20:07

アヒルの悪魔
某月某日
国立天文台のとある部屋にあったアヒルの悪魔が面白い(尾は黒いけれど)。FreeBSDのキャラクターか?

某月某日
いろいろと怠けている。

某月某日
「abc予想」が証明されたということがニュースになっていた。すこし前、「ゴールドバッハの弱い予想」の証明にすこし近づいたという記事が『日経サイエンス』の7月号にあったけれど、それとは別に、こんなブレイクスルーが進行していたとは。
数学ファンとしては不覚だが、abc予想の内容はよく知らなかった。検索してみると、予想自体はわたしでも理解できるもので、「操作はわかるがとんでもなく難しく深い」という一番わくわくどきどきするものであった。しかも、今回その証明に使われた数学がほとんどまったく新しいものらしい。

この予想がなりたつとフェルマーの最終定理も簡単に導かれるということなので、確かめてみた。オイラー他によって別に証明されていることを使うと、ほんとうにあっさりフェルマーの最終定理が示される。『Science』の記事ABC Proof Could Be Mathematical Jackpot(Barry Cipra)にあるジャックポット(スロットマシンの大当たり)という表現が相応しい感じだ。なお、この記事の中でコメントしているのが、上記のゴールドバッハの弱い予想の証明に近づいたというテレンス・タオ氏で、「abc予想の証明を確かめるのは、ペレルマンやワイルズ(ポアンカレ予想とフェルマーの最終定理)よりもすっと時間がかかる」「究極に難しい分野」と言っている。

証明を発表した望月新一さんが16才でプリンストン大学入学、22才で学位ということも話題になっているが、上述のタオ氏も、16歳で大学卒業、20歳で学位、25歳で教授、31歳でフィールズ賞の、うひゃーという天才である。折り紙界にもそういうひとがいる。14才で大学入学、20才で学位を得てMITの教員、27歳で教授というエリック・ドメインさんだ。エリックさんは、なんだかいつもたのしそうにしているひとである。

秋彼岸
「暑さ寒さも彼岸まで」は、「死ねば、暑い寒いもない」という意味とも解釈できる。

次の話は、秋彼岸ではなく、春彼岸だが、そのころになると、妻は必ず「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」という句を口にする。
毎年よ彼岸の入りに寒いのは この句思うもまた毎年よ
これはつまり、「反復の概念が反復される」ということ(?)である。ちなみに、「毎年よ」は子規の句だが、これは子規の母の口癖をそのまま句にしたものという。

某月某日
映画の『天地明察』(冲方丁原作 滝田洋二郎監督)で、会津藩邸の庭が、近代の作庭家・重森三玲作の東福寺方丈北庭(市松の庭)みたいになっていた。史実の考証、天文の考証はどうなの?という描写はほかにも多いので、この庭も史実に基づいたものではないのだろう。東福寺方丈東庭が「北斗七星の庭」であることから思いついた演出と思われる。

17世紀後半に京都でも江戸でも皆既日食も金環食もなかったでしょということを筆頭に、明らかにフィクションであるさまざまを除いて、最近「算額」を考えることが多いので、あらためて気になったこととして、以下があった。

他の和算を扱った小説にもでてくるが、小絵馬の算額(数学の問題等を記した絵馬)はじっさいにどれぐらいあったのだろうか、ということである。現在遺っている算額は、「額」というぐらいで、今日絵馬という言葉から連想する小絵馬ではなく、大きな扁額である。だからと言って、当時、算法を記した小絵馬がなかったということにはならない。小絵馬は、主に流行神の祈願に用いるものだが、江戸初期にすでにあったのも事実であり、そうしたものが後の世に遺りにくいのもたしかではある。『算法勿憚改』(延宝元年 1673年 村瀬義益(映画で佐藤隆太さんが演じていたひと))という本に、「扨又(さてまた)時のはやり事にや惣て(すべて)爰(ここ)かしこの神社に算法を記掛侍る(しるしかけはべる?)事多し」という記述がある。「吊」の意味もある「掛」という文字を使っているので、小絵馬の可能性もありかとも思ったのだが、漢字の使い分けなどあてにならず、「掛額」という表現もあり、けっきょくは、よくわからない。

とか言いつつ、映画はたのしく観た。ただ、つくりごとの部分はそれでよいので、星空をもっと気合いをいれて撮ってほしかった。できれば、CGで描くのではなく、ほんものを撮ってほしかった。ひとが、畏怖しながらも宇宙に対峙する画を観せてほしかった。

区別して2012/09/24 22:10

某月某日
まだ、いろいろと怠けている。

某月某日
「電波望遠鏡の下部機器室」と入力しようとして、「電波望遠鏡の歌舞伎気質」と変換された。傾く(カブク)って、仰角駆動精度やXY傾斜計に問題ありということか。まずいじゃないか。

某月某日
『短歌の友人』(穂村弘著)を読んだ。密度の高い評論で、いいなあという歌の引用もたくさんあったのだが、次の歌のインパクトが大きくて、ほかのことをあまり覚えていない。

「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ
(松村正直)

折り紙バージョン
雄の鶴と雌の鶴とに区別してきみが言う雌の鶴とはふくら雀

茅ヶ岳とサント・ヴィクトワール山は似ている?2012/09/26 00:06

茅ヶ岳
過日、甲府盆地西部から見る茅ヶ岳(かやがたけ)が、前景の農村風景とあいまって、セザンヌの描くサント・ヴィクトワール山に似ているような気がした。
「名画となにそれが似ている」ということで、内心に「メモ」していた、美術に関する与太話がいくつか呼び起こされた。

(1)エル・グレコの描いた人物と、アニメーター・金田伊功さんの描いたキャラクターは、歪みかたが似ている。
(2)小磯良平の『斉唱』は、『ゴジラ』(1954)の女子学生の合唱シーンのヒントになったのではないだろうか。
(3)鑑賞者が男の場合、『真珠の耳飾りの少女』(フェルメール)が好きなひとはロリコン、『忘れえぬ女』(クラムスコイ)が好きなひとはマゾ、『ポーリーヌ・オノの肖像』(ミレー)が好きなひとは庇護者願望(カメリアコンプレックス)、『モナリザ』が好きな人はマザコン、という判定方法は、もっともらしくないか。(『忘れえぬ女』の作者を、イリヤ・レーピンだとずっと思っていた)