『第二芸術』のこと2011/08/29 00:08

 以前このブログに、「当時(注:四半世紀前)、笠原邦彦さんから「折り紙限界芸術説」を聞いた」と書いたが、正確には、「限界芸術」(鶴見俊輔さんの用語)ではなく、桑原武夫さんが終戦直後(1946)に発表した、俳句を「第二芸術」とした論考に引き寄せて、「折り紙は第二芸術か?」ということを笠原さんが話題にしていた、ということであった。

 この、『第二芸術』という論考、読みたいと思いつつ、そのままになっていたのだが、二週間ぐらい前に入手した。読んでみると、正直なところ、漏れ聞いた内容で読んだと同様になっていて、さほど新しい感興はなかったが、文庫にまとめるさいに付加された、桑原さんのまえがき(1971)の、以下の文章が面白かった。
 昭和二十二年ごろ、虚子の言葉というのが私の耳にもとどいた。—「第二芸術」といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか。
 いかにも「うそぶいた」という感じなのだが、「芸術だと思っているものはなかった」という断言が興味深く、また、折り紙は第いくつ芸術ぐらいかと、思わず考えてしまうのであった。いっぽう、坂口安吾さんは、この『第二芸術』に端を発した論争(?)において、以下のように書いている。(『第二芸術論について』 1947)
 第一芸術、第二芸術、あたりまえの考え方から、見当のつきかねる分類で、一流の作品とか二流の芸術品とかいう出来栄えの上のことなら分るが、芸術に第一とか第二とかいう、便利な、いかにも有りそうな言葉のようだが、実際そんな分類のなりたつわけが分らない言葉のように思われる。
 むろん、俳句も短歌も芸術だ。きまってるじゃないか。芭蕉の作品は芸術だ。蕪村の作品も芸術だ。啄木も人麿も芸術だ。第一も第二もありやせぬ。
(略)
 本当の詩魂をもたない俳人歌人の名人達人諸先生が、俳人であり歌人であっても、詩人でない、芸術家でないというだけの話なのである。
 同じころ、俳句よりも芸術から遠いと思われていたであろう「探偵小説」を背負っていた乱歩さんは、次のように書いた(『一人の芭蕉の問題』 1947)。
もし探偵小説界に一人の芭蕉の出ずるあらんか、あらゆる文学をしりえに、探偵小説が最高至上の王座につくこと、必ずしも不可能ではないからである。
 これらの文章から、60年前は「芸術」が今より高みに輝いていた時代だったのだなあ、ということも透かして見える。
 なお、わたしは、芸術とは、これは芸術だ!と名乗ったもの、あるいは、そう呼ばれたもののことだと考えている。これは、自由こそが芸術のキイワードであるという考えに基づいている。結果として普遍的な価値を持ったものであっても、芸術は、きわめて個別的なものである。
 ともあれ、安吾さんの言うように、第一第二など言ってみても、なんだかわからなくなるばかりだ。序列を思わせる言葉には、だいたいよいことはない。しかし、これらの論争から四十年後、笠原さんが、「第二芸術」という概念に言寄せて、折り紙のことを考えた動機もわかる。たしか「吉澤章氏は芭蕉に比せられるか?」という問題設定もあったと記憶する。

 ここでまず思うのは、わたし自身はどうなのかということだ。わたしは、折り紙のマセマティカルアート(数学美術)のようなところ、パズル的なところが一番好きなわけだが、二十代前半、笠原さんの編集で作品集『ビバ!おりがみ』が上梓されたとき、そのあとがきには、こう書いた。
わたしの若旦那のような自惚れは、笠原邦彦さんの骨折りにささえられています。
 韜晦とはいえ、わたしは、折り紙を「旦那芸」のようなものだと考えてきたということなのだろうか、と、そんなことを考えるわけである。旦那芸と言えば、『脱出と回帰』(1951)という、これもまた『第二芸術』を踏まえたと思われる評論(『中井正一評論集』)に、次のような文章がある。
 尺八で首ふり三年ということがあるが、もし娯楽なる言葉が正当にまたプリミティヴに用いられるとすれば、この三年間が、一番楽しい時である。
 「旦那芸」というのは、この首ふり三年が一生続く芸である。この言葉は、それが示すごとく市民社会の娯楽の一つの典型的表現語である。清元、浄瑠璃を、落語にあるように、人に語りたく、聴かせたくてたまらない、実に楽しいほほえましい娯楽の本格的な期間である。自分のものがよく見え、聞こえてしようがない時である。
(略)
 この首ふり三年が、ともすると物のけに憑かれたように、その芸の中に沈んでいく時、旦那はそのために身を滅ぼすか、素人は、その芸の怖ろしさに戦慄するという瞬間に面するのである。芭蕉といえども、その一生の大半の後に、これに直面するのである。この時、人々はディレッタントから蝉脱せしめられるのである。
(ちなみに「蝉脱」は、「蝉蛻」(せんぜい)の誤記が定着した表現で、セミの抜け殻の意味である。超俗の境地のことだが、ここでは「生まれ変わる」という意味で使われている、と思われる)

 「自分のものがよく見え、聞こえてしようがない」なんて、自分のことを言われたようでむずむずするが、それはおく。ここで著者が言いたいような、素人と玄人に画然と差のある分野というものは、たしかにある。命を削るようなことをしないと、ひとを振り向かせるものがでてこない、そんな分野も多いだろう。
 しかし、それでもやはり、目の離せない「素人芸」はあるのではないか。あっけらかんとしてあるのではないか。その一例が折り紙なのではないか、とも思うのだ。専門家とアマチュアの垣根が低く、かつ、俳諧のような宗匠制を免れているために、風通しがよい。分野が未熟であるためとも言えるだろうが、それだけではなく、「フラットさ」をひとつの利点としている文化。折り紙は、そんなものとしてあるのではないか。我が田に水を引きまくりの、薔薇色の色眼鏡のような気もするけれど。

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