塙町ダリアの折り紙 など2021/01/11 10:01

◆塙町ダリアの折り紙
遅ればせながら、昨年末におこなわれた「塙町ダリアの折り紙募集」審査結果。よい作品がたくさんありました。

◆計算尺
古いものを整理をしていて、むかし、父から譲りうけた計算尺を見つけた。宮崎駿監督の『風立ちぬ』を観たさい、「鯖の骨と計算尺と高原の風が主役」との感想を持ち、父から貰ったあの計算尺はどこにいったのだろうと思いながら確認できずにいたのだが、それがでてきた。

わたしが理学部に入学したときに買った関数電卓は、たしか1万円近くして、それもまた時代の流れを感じさせるが、計算尺の時代は疾うのむかしに終わっていて、実用で使ったことはない。父が学生時代の戦中のものではなく、戦後のものだとは思うが、いずれにせよ、かるく半世紀以上は前のものである。しかし、道具としての精度はまったく劣化していない。主要素材が竹なのもよい味で、狂いなくスムーズに動くさまは、物としての魅力にあふれている。

計算尺

黄金比(1.618...)の逆数が黄金比マイナス1(=0.618...)であることを確認してみた。対数を用いた演算なので結果は6.18..になっており、桁は換算しないといけない。

◆折鶴型飛行機械
ひさしぶりに『鉄腕アトム』を読んで、『青騎士』の敵役・ブルグ伯爵の乗る飛行機械が折鶴のかたちをしていることに気がついた。ちょっとしたことろにも見どころがあって、手塚さんはやはりすごいなあ、と。
『青騎士』


◆谷折り線の謎

谷折り線をながめ一日 髭面の男の胸にウッドストック 東直子

谷折り線という、折り紙創作家にとって無視し難い言葉がでてくるので、気になる歌なのだが、歌意はきわめてわかりにくい。上の句の中で大きく切れていることは、分かち書きがあることで明白だが、その切れは、空白一文字ぶんよりはるかに大きい断絶になっている。なぜ谷折り線をながめているのか、誰がそうしているのか、後半がその解明のヒントになっているのかと期待すると、そういうわけではないので肩透かしをくらう。ウッドストックは、伝説的なあの音楽フェスティバルのことではなく、スヌーピーのともだちの黄色い鳥のことだろうが、それも解読のヒントにならない。

この歌が収録されている歌集『春原さんのリコーダー』に付されている解説でも、高野公彦さんが、東さんの多くの歌は「分からない」と率直に書いている。氏はその説明にアンドレ・ブルトンのオートマティスム(自動記述)の概念を援用している。東さんの歌の多くは、俳諧でいう「取合わせ」に偶発性を持ち込んだもので、「解剖台の上のミシンと傘の偶然の出逢い」のようなものだと、わたしも思う。理路をもって内容を読み取ろうとしても読み取れないのだ。わからないままに受けとり、ほとんど意味を剥奪されながら無視できない言葉の残響を味わうのが筋なのだろう。しかし、谷折り線という言葉に思いいれが強いので、わたしのもやもやはおさまらない。山折り線はどこに行ったのだ。たぶん、このもやもやを発生させることこそが彼女の歌柄の重要な部分で、わたしがその状態になったこと自体、すでに彼女の術中なのだろう。

わたしの最近の趣味のひとつは、折り紙や数学や天文のでてくる歌や句のコレクションだ。以下の歌もそうしたものなのだが、これまた、上下の句のつながりが特異で不連続だ。
(蛇足ながら、「特異」と「不連続」は、数学用語の singular と discontinuous の含意)

折鶴のかたちを残し火は消える たったひとりをたったひとりに 東直子
数式のほどけるように雪が降るこんなさびしいうれしい島に

上の句だけ抜き出して五七五にすると、かなり素直に受けとれる。

折鶴のかたちを残し火は消える
数式のほどけるように雪が降る

前者、江戸時代の奇術書『仙術日待種』(センジュツヒマチグサ、一七八四、花山人)に「火中より鶴を出す術」というものがある。コンニャク粉を水で溶いたものをひいた紙で折鶴を折り、まるめた紙の中に隠しておくと、燃えたあともかたちが残りやすいというタネの奇術だ。以前、コンニャク粉を買ってきて実験に成功したが、粉が大量に余った。一握りの粉から大量にコンニャクができるので、その後、余った粉でしばらくコンニャクを食べることになった。

後者は、五七五だけ抜き出しても奇抜な比喩だが、次のように想像すると物理的な感触が濃密になる。

数千メートルの上空、マイナス15度前後の大気において、飽和状態にあった水蒸気の平衡状態が相転移して結晶が発生する。自己相似的で平坦な六回回転対称の構造に成長した水の結晶は、上昇気流と重力のバランスが崩れて落下し始める。そのとき、平坦な結晶がいくつか絡まりあった複雑な形状もあって乱流が発生し、単純な落下ではなく舞うような運動をする。雪という現象は、このように、解析的には解きにくい、しかし、膨大な演算にしたがった理に適った現象として生まれ、そして消えてゆく。それはまさに「数式のほどけるよう」な感じ、といえなくもない。なお、東さんには「雛のある部屋に足し算教えつつ雪降るように切なさが降る」という歌もあって、これも上掲歌につながる。

東さんの歌がみなこんなにわかりにくいかというと、そうでもなく、『折紙探偵団』171号に書いたエッセイ『折紙歌合(おりがみうたあわせ)- 折り紙が詠み込まれた短歌と俳句 -』で引いた歌は、謎がありながらわかりやい。

気持ち悪いから持って帰ってくれと父 色とりどりの折り鶴を見て 東直子

このとき持ち帰った折り鶴を家で燃やしたときの歌が、「折鶴のかたちを残し…」であるという解釈はどうだろうか、とあらためて思った。ただ、中途半端に燃え残ったのでなければ、(コンニャクびきをされていない紙なので)燃え崩れてしまったはずなので、折鶴のかたちは灰の中に思念として残ったものと見たほうがよい。なんにしても、言葉の意味自体はとることができる。いっぽう、次のふたつの「数学短歌」は、またまた難問である。

数字から数字が生まれしんみつな灯芯としてひんやり燃える 東直子
マイナスになれば輝く数値あり瞼で割れる夢のたのしさ

一首目、自然数からゼロや負の数が生まれ、有理数や無理数が生まれ、複素数や四元数が生まれ、といった数学の歴史や、リヒャルト・デデキントの『数とは何かそして何であるべきか』という、それ自体が短詩のようでもある書名を連想した。二首目は、シャボン玉のような夢を瞼で割っているイメージだ。眼を閉じることではなく開けることで割るので、符号が反転するのか、夢のシャボン玉は非ユークリッド的な負曲率の「擬球」で、それが球である眼球と対比されているのか、などと。

こんなふうに読んでいると、詩歌に使われた専門用語から生じる連想と、科学用語の濫用、いわゆる「ファッショナブル・ナンセンス」は同種なのかという問題も頭をかすめる。そして、暗示や喚起が詩の核心だとしても、詩においては言葉が明晰でなくても許されるのはなぜか、という身も蓋もないことも考える。

寒星2021/01/01 22:10

あけましておめでとうございます。

職員にも配られた国立天文台の今年のカレンダー。暮れに掛け替えて、1月の「VERA 水沢観測局の20mと10m電波望遠鏡、そして冬の星座たち」と題された写真を見ると、オリオン座と並ぶふたご座の中央下部にひときわ明るい星がある。あれっと思ったが、ざっくり確認してみたら、2014年の1月ごろ、そこに木星があったので、その頃の写真なのだろうと納得した。
NAOJカレンダー1月

木星といえば、暮れの12月21日前後に、木星と土星が離角0.1度まで接近した。下の写真は、12月19日、野辺山45m電波望遠鏡(別の天体を観測中)越しに見た、離角がかなり小さくなっている木星と土星である。
野辺山:木星と土星

今日1月1日の日没直後、東京の自宅から富士山の左上を見ると、木星と土星、だいぶ離れたが、まだまだ近くに輝いていた。
木星と土星と地球

冬の星のことを俳句では寒星(かんぼし)という。中村草田男さんの句が有名だが、岸風三樓さんの句も気になる。

寒星や神の算盤たゞひそか 中村草田男

寒星や地上に逃ぐるところなし 岸風三樓

岸氏は、反戦俳句の弾圧事件「京大俳句事件」にも関係していたらしいので、そのときの句なのだろうか。冬の星の句では、加藤楸邨さんの句も強く印象に残っている。これは、出征する教え子を思って詠んだ句らしい。

生きてあれ冬の北斗の柄の下に 加藤楸邨

読書で折り紙に遭遇した話をふたつ2020/11/08 22:09

いつも本を読んでいる、そして、天文台の仕事をしているわたしには、次の言葉は、ちょっとした呪いの言葉だ。

探偵小説、詩、天文学は、すべて、いわゆる「現実」からの逃避の異なったかたちを表している。
(バートランド・ラッセル 『Flight from Reality』

わたしも「現実」から逃げているらしい。ただ、ラッセルは、escapeを、必ずしも否定的な意味で使っているわけではない。

以下、読書で折り紙に遭遇した話をふたつ。

◆その1
『時間旅行者のキャンディーボックス』(ケイト・マスカレナス著、茂木健訳)
1960年代にタイムマシンが実現した世界を舞台にした、タイムトラベルがひとの心理に与える影響を描くSFである。冒頭早々にこんな記述があった。

「こんなものが、玄関の前に置いてあった」 彼女は、祖母が座るピクニックテーブルの上に折り紙のウサギを立てた。

このウサギは、殺人事件の死因調査の通知書で折られたもので、物語は、ハウダニット(どうやって)と被害者と犯人にたいするフーダニット(誰が)のミステリとして進行する。イギリス人(父アイルランド系、母セーシェル系)の作者がオリガミに馴染みがあるのは間違いないようで、以下のような比喩もでてきた。

手や首は今にも折れそうだし、皮膚もひどく薄いため、まるで全身が折り紙でできているみたいだった。

タイムマシンの燃料となる物質「アトロポジウム」は柘榴石から採取するという設定だ。
というわけで、シンプルなウサギの折り紙と柘榴石の標本と一緒に記念写真を撮ってみた。
『時間旅行者のキャンディーボックス』

◆その2
銀紙で折ればいよいよ寂しくて何犬だらう目を持たぬ犬

石川美南さんの歌集『体内飛行』の一首だ。

現代折り紙では、紙の裏表の色の違いなどを用いて、目を表現する折り紙作品もすくなくはない。龍の図を描いたさいは、目を開く工程を最後にして「折龍点睛」を意識したこともある。しかし、多くの折り紙の動物に目がないのはたしかだ。講習会で小さい子供たちに簡単な動物の折り紙を教えたとき、かれらがそれに目を描きたがることもしばしば経験する。

石川さんにおける「銀紙の寂しさ」は、生き物らしさとかけ離れてしまうという感覚だろうか。折り紙者としては、これに近い感情として次のようなものもある。
フォイル紙は、折り目が安定しやすいので、粘土細工的な造形が可能で、それをうまく使うこともできる。しかし、厚みもあり弾性反発もある紙の特性をも含んだ造形のほうが、より「折り紙らしく」、かつ生き生きしていると感じる。

この歌からは、次の有名な歌も連想した。

海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の戀しかりけり
『路上』 若山牧水 より)

最近、夢野久作がこれに想をとった歌をつくっていることも知った。

深海の盲目の魚が
戀しいと歌つた牧水も
死んでしまつた
『猟奇歌』 夢野久作 より)

牧水の歌の「海底」は「かいてい」ではなく「うなそこ」であろうことから、久作の歌の上の句も、「わたつみのめしひのうおがこひしいと」と読よみたいところだが、久作の歌はあえて破調なのでそのまま読むのがよいのだろう。

これらの歌は、立原道造の『白紙』という掌編のつぎ文章も連想させる。少年が電車の中で会った少女に手紙を渡すという、初恋物語のプロトタイプのような話で、牧水の歌を意識した表現であるのは、たぶん間違いない。

やがて僕は、海の底にゐるメクラの魚のやうに苦しくなり出す。
これが、僕の愛情のきざしだつた。
『白紙』立原道造 より)

石川さんの歌から想をとった歌と折り紙作品もつくってみた。見ると、キース・ヘリング氏の描く犬にも似ていた。思えば、彼の犬のイラストレーションにも眼がない。

銀紙の盲(めしひ)の犬の愛(いと)ほしく彼のねぐらの屋根に空色
銀紙の盲の犬

「盲目」と「折り」ということでは、盲目の折り紙作家・加瀬三郎さんや葛原勾当も連想した。

葛原勾当といえば、最後に折り紙の歴史研究の第一人者・岡村昌夫さんと話をしたときも、彼が話題になった。そう、いまわたしは、岡村昌夫さんが亡くなったという喪失感の中にある。思えば、こういう(文芸がらみの)話は、どこかで、岡村さんに読まれること、岡村さんが面白がるだろうかという思いをもって、書いてきたような気がする。

献本拝謝など2020/10/12 23:32

なんか、ひさしぶりの更新になった。

◆ハート鶴
北杜市地域振興券
山梨県北杜市の地域振興券に使われているマークが、折り紙のハートと折鶴である。デザイナーは三井宏美さんいうかただという。

◆柘榴石
11月末刊行の『折紙探偵団』184号のユニット折り紙の図は、凧形二十四面体の骨格とその関連作品にした。
柘榴石骨格、八目

凧形二十四面体の骨格は、柘榴石の結晶にこの形状があるので「柘榴石骨格」という題名にした。下の写真は、このモデルの記念(?)に、新宿紀伊国屋ビル1Fにある「東京サイエンス」で買った柘榴石の標本である。貴石なので値が張るのかというと、そんなことはなく数百円である。なお、同店のレジ横には、Tレックスの折り紙が飾ってあって、わたしのモデルだったので「おっ」と思った。
柘榴石

図を描くために「柘榴石骨格」の工程を整理しているうちに、その構造の応用(?)で、海亀とスカラベができた。ユニット折り紙から具象作品に発展するケースはあまり記憶がない。
カメ、スカラベ

◆だじゃれ
「柘榴石骨格」とその関連モデル「八目(やつめ)」は、6枚組の直交座標を基本構造としたモデルだが、似た構造で、だじゃれネタのモデルも思いついた。名づけて「新撰『組み』」。
新撰「組み」

◆献本拝謝その1
綾辻行人さんからご恵贈いただいた、大部800ページの一冊『Another 2001』を読み終わった。若いひとを生き生きと描く(…ひとがばたばた死ぬストーリーで「生き生きと」もないが)綾辻さん、感性が若いなあと感心することしきりだった。伏線の張りかたがたいへん大胆。

◆献本拝謝その2
『月間みすず』『空想の補助線』というエッセイを隔月連載している縁で、みすず書房さんから『「第二の不可能」を追え!』(ポール・J・スタインハート著、斉藤隆央訳)をいただいた。めっぽう面白いサイエンス・ノンフィクション。準結晶の話なので、ペンローズ・タイルが重要な役割を持つ。

ペンローズ御大といえば、今年のノーベル物理学賞のひとりが彼で、なんでいまなのだろうと思ったが、昨年のイベント・ホライズン・テレスコープによるM87中心の撮像が影響しているということなのだろうな、と。そして、ゲンツェルさんらの天の川銀河中心のブラックホール確認が受賞対象になるなら、同時期、野辺山45m鏡を用いた中井直正さんらによる、NGC4258の水メーザーによる確認も、評価対象なのになあ、と。

国立天文台野辺山 特別公開2020『今年はおうちで特別公開』2020/08/28 17:51


折り紙のビデオも公開しています。(今日から先行公開中です
今年は「電波望遠鏡」と「日時計」のふたつです。

日時計は、プリントした紙でつくるもので、使ってみてください。

夏らしい雨が
ゆれうごく高い梢の中から
降りそそぐとき 日時計は暫く休む
なぜなら 日時計にはその時間をどう表していいか分からないからだ
(ライナー・マリア・リルケ『日時計』富士川英郎訳より)

紙袋2020/08/09 10:25

柴崎友香さんの『百年と一日』。もっとゆっくり読むべきだったが、読み終わってしまった。ジョイスの『ダブリン市民』をさらに断片化したような、褪色して消え去ってゆくような話を、すくい取るように、しかし淡々と描いた短編集だ。

ここ何冊か、ハリウッド映画の脚本みたいな小説ばかり読んでいたので(それはそれで面白いのだけれど)、小説を読むこと以外では得られない時間をくれる小説にひさしぶりに触れた気がした。

カバーの紙袋の絵もすばらしい。毛並みのみごとな茶虎猫の絵『猫』で有名な長谷川潾二郎氏の絵だ(装幀:名久井直子)。並んだ瓶ばかりを描くジョルジョ・モランディの静物画を連想した。

紙袋といえば、工芸家・小松誠さんデザインの、紙袋をモチーフにした陶器をひとつ持っている。
『百年と一日』

そしてさらに紙袋といえば、思い出すことがある。直方体型の紙袋の側面の畳みかたは、谷折り3本のY字+山折り1本が典型だが、これについて、D. J. BalkcomさんやE. D. Demaineさんらの論文『Folding Paper Shopping Bags』に示されている次の定理があるのだ。
ショッピングバッグは、伝統的な折り目による剛体折りはできない
Y字+1の折り目では、面を歪めることなく畳むことはできないということである。