内村鑑三と富士山と漱石2018/03/21 13:51

長野山梨県境は大雪である。
ここしばらく、さまざまの案件で呻吟していたが、それもいくつかを残してやっつけ(やっつけられて)、今日は久しぶりのなにもない(ないことにした)休日である。忙しい忙しいというその合間にも、さまざま逃避していたのではあるが。

『内村鑑三 悲しみの使徒』(若松英輔)を読んだ。これを読んだのは、1年近く前に鑑三を読んでいた関心の延長である。そのころなぜ鑑三を読んでいたかというと、『大辞林(三版)』の「扶翼(ふよく)」の引用文献がおかしいことに気づき、それを確認するためだった。その誤りに関しては、出版社の問い合わせフォームからも報せたのだが、何ヶ月もたっても返事がなかったので(うまく届いていないだけなのかもしれないが)、ここに書いてしまうこととする。

誤りは、「扶翼」の項の引用に、「天壌無窮の皇運を-する/求安録 鑑三)とあったことだ。これは、ほとんど悪い冗談に思えた。この文言は言うまでもなく、『教育勅語』(1890)のそれで、『求安録』(1893)にその引用があったとしても、引用の引用である。辞書は通常二次引用はしない。これを確認するために、『求安録』全文を確認し、その関連文献も読んだわけである。結果、この言葉自体が見あたらなかった。見落としがあるかもしれないが、国会図書館のデジタルコレクションにある初版をはじめとして、かなり綿密に見たので、まず間違いない。

鑑三と『教育勅語』と言えば、いわゆる「不敬事件」である。その経緯は以下だ。

『教育勅語』が渙発(公布)された翌年(1891年)、第一高等中学校の嘱託教員だった鑑三が、それに向かって最敬礼していない(礼はしていたらしい)として、同僚や生徒、そして新聞等で責められ、教員を辞することになった。非難の十字砲火を浴び、今でいう炎上となり、騒動中に病気となった妻も亡くし、彼はほとんど放浪の身となった。『求安録』はそのような中で書かれた信仰の書である。

彼への批判が苛烈となったのは、彼がキリスト者という、日本社会の異分子だったことが大きな理由だろうが、彼を取り囲んだ批判者が、皇威を借りて批判を拡大し、インテリを引き摺り下ろす感情に走ったことも大きかったと思われる。丸山眞男氏が「超国家主義」を論じて「倫理の内面化が行われぬために、それは絶えず権力化への衝動を持っている」とした分析(『超国家主義の論理と心理』)にあてはまる例だ。それは、全国津々浦々の学校で、勅語と真影が奉安殿という祠に納められ、日々子供たちがそれを拝礼するようになってゆく前史にあたる。

それから約10年後、鑑三は、こんなことを書いている。
余は明治政府を戴く日本の今日の社會とは縁の至て薄い者である。余は彼等とは主義、方針、目的、道徳、信仰を全く異にする者であつて、彼らの利害は余の利害ではなく、彼らの歓喜は反て余の悲痛である。余は陣を敵地に張るの心を以て彼らの中に棲息する者である。(略)余はその政府を嫌ひその貴族を嫌ひ、その議会と政治家とを嫌ひ、その教育家と哲学者と文學博士とを嫌ひ、その僧侶と神主と牧師と宣教師とを嫌ひ、その文學と技術と宗教と實業とを嫌ふ者である。
『よろづ短信』『余の従事しつゝある社會改良事業』、1901年、内村鑑三)

これほどまでに明治日本の体制を嫌いながら、鑑三は日本への愛着は捨てられない。
教育界を逐はれたる余は日本に於いて全く無要の人間となつた。この事を聞いたる米國の余の友人(宣教師ではない)は、余のために非常に心配して交々(こもごも)書を寄せて余に彼國への移住を促し來たつた。余も亦た思ふた、日本計りが世界ではない、亦た日本人計りが人類ではない(略)然し、余は終に富士山の聳ゆる日本國を捨てることが出來なかつた。(略)余もまた愚鈍なる感情家である。
(同上)

日本への愛着の象徴のひとつが富士山なのである。こんなことも書いている。
余は日本國の山を愛し、河を愛し、その谷を愛する。秋いたる毎にその富士山が新たなる純白の肩掛(ショール)を着けたときの風情は天が下に二つとない姿である。
(同上)

単なる修辞とは思えない富士山好きが、なんだか微笑ましい。富士山すごいな。

これらを読んで持った感想のひとつは、漱石もこうした鑑三の言葉を読んでいたのだろうな、ということである。わたしの中で、鑑三と、『三四郎』(1908)の廣田先生が重なったからだ。廣田先生のモデルは一高教師の岩元禎とも言われているが、鑑三をシニカルにしたひとしての廣田先生が頭に浮かんだ。
..あれより外に自慢するものは何もない。ところが其富士山は天然自然に昔からあつたものなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢやない」と云つてまたにやにや笑つてゐる。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢ふとは思いも寄らなかつた。どうも日本人ぢやない樣な氣がする。
「然し是からは日本も段然発展するでせう」と瓣護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」と云つた。
『三四郎』、1908年、夏目漱石)

日露戦争と言えば、鑑三は日露戦争にあたっての非戦論でも知られる。
小生は日露開戦に同意することを以て日本國の滅亡に同意することゝ確信いたし候。
(『よろづ短信』『朝報社退社に際し涙香兄に贈りし覺書』、1903年、内村鑑三)

日露戦争後にこれらの文を一書にまとめたときの前書きには以下のような言葉がある。
此書に載する所の余の痛罵の言を赦せよ、而して日本の將來をして全然余の言に反する者たらしめ、此小著をして、永く余の恥辱として存しせめよ。
(『よろづ短信』『自序第二』、1908年、内村鑑三)

漱石そのひとのみならず、当時の読者の多くも、廣田先生と鑑三を重ねていたのではないだろうか。

わたしの頭には「無神論者の内村鑑三としての廣田先生」というフレーズも頭をかすめた。まあ、さすがにその表現は逸脱である。

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