小水力発電のことなど2011/04/06 21:16

小水力発電
 被災地から離れた地で日常をすごしながら、その日常でもさまざまなことがあることを痛感する日々だが、地震や原子力のことを考えることも多い。

 野辺山観測所のある長野県佐久地方には、山間地なのにもかかわらず、小海、海ノ口、海尻など「海」のつく地名が多い。これは何故かというと、かつてここに、大きな湖があったことによる。昔といえば昔だが、地名にも残っているように、地質年代的な遥かな過去などではない。887年の北八ヶ岳の大崩落によって千曲川が堰きとめられたことで出現し、1011年に決壊により大水害を起こして消えた天然ダム湖である。
 八ヶ岳大崩落の原因には諸説あるようだが、東海・東南海・南海連動型とも推定される巨大地震・仁和地震がそれであるという説が有力なようだ。(参考:『八ヶ岳大月岩屑なだれ(887)によって形成・決壊した天然ダム』@砂防フロンティア整備推進機構)
 この仁和地震の約20年前に、今回の地震で注目を集めている貞観地震が発生している。つまり、1100年ほど前、約20年をおいて、巨大地震が連続して起きたことになる。
 巨大地震は、日本列島にとっては異常なことではないのだろう。そうした土地では、巨大なシステムの危険性はより高い。そのような土地では、エネルギーも地産地消がよい。

 認知度があまり高くない「新エネルギー」として、小水力発電というものがある。我が家(山荘)の近くに日本小水力発電株式会社という会社がある。同社と敷地を接する(地区で唯一の)スーパーマーケットが、わずか数kWぐらいだが発電をしていて、これを見て、へえと思っていた。近くにある村山六ヶ村堰水力発電所では、320kWの発電がなされている。
 ある見積もりによれば、適地を探せば(下水でもよい)、全国で300-500万kWの可能性があるという。福島第一原子力発電所と同じぐらいだが、小規模分散型の発電は、ほかにもさまざまな方式の可能性があるはずだ。なにより、小規模なものを分散させることは、システムとして安全で、送電ロスも少ないだろう。

 わたしは、小学校の卒業文集の「将来」に、原子力技術者と書いた理科少年であった。東海村の施設の前でにっこり笑う写真も残っている。当時も、原子力発電は、クリーンなエネルギーなどと呼ばれ、公害解決の救世主のように宣伝されていた。小さなわたしは、科学技術の弊害を、より進んだ大掛かりな科学技術で解決するという考えを信じた。その後、原子力に関する広報のきれいごとを知って幻滅し、それを「嫌う」ようになったが、原子力への関心は、どこかトラウマのように持ち続けていた。
 実験でも難しい技術を、巨大化し商用化している無理と危険。それが広報によって隠蔽され、安全を強調するために、危険ということ自体が忌み言葉のようになり、それへの対応が薄くなっていく。原子力発電所は、過去も現在もそんな施設であった。
 しかし、かつては強い関心を持っていたのに、どこか遠い世界のことのようになっていた。事故を知ったときも、ぎりぎりでは踏みとどまるだろうと考えていた。潜在的な危険性や、それによるコストの高さがひろく認知され、広報のきれいごとを暴くという側面もあると考えた。現場のシステムを、最低限では信用していたのだろう。しかし、システムは、ハードもソフトも想像以上に脆弱だった。最悪の最悪ではないだけ、という今の事態は、ほんとうに先見のあったひとほど、悔しく、無力を思うだろう。とにかく、いまは事態の収束を願っている。

 最近、寺田寅彦のエッセイもよく読み返している。先見のある名言の宝庫だが、草葉の陰の寅彦もその明を誇ってなどはいないだろう。津波の危険性など、ここに語られているような知恵を生かしたひともたしかにいた、ということを考えたい。

地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。
『津浪と人間』

 西欧諸国を歩いたときに自分の感じたことの一つは、これらの国で自然の慈母の慈愛が案外に欠乏していることであった。(略)また一方で自然の厳父の威厳の物足りなさも感ぜられた。地震も台風も知らない国がたくさんあった。自然を恐れることなしに自然を克服しようとする科学の発達には真に格好の地盤であろうと思われたのである。
 こうして発達した西欧科学の成果を、なんの骨折りもなくそっくり継承した日本人が、もしも日本の自然の特異性を深く認識し自覚した上でこの利器を適当に利用することを学び、そうしてたださえ豊富な天恵をいっそう有利に享有すると同時にわが国に特異な天変地異の災禍を軽減し回避するように努力すれば、おそらく世界じゅうでわが国ほど都合よくできている国はまれであろうと思われるのである。しかるに現代の日本ではただ天恵の享楽にのみ夢中になって天災の回避のほうを全然忘れているように見えるのはまことに惜しむべきことと思われる。
『日本人の自然観』

文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
『天災と国防』

ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。
『小爆発二件』

コメント

_ NISHIKAWA ― 2011/04/07 03:10

沁みます。

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