ナンバープレートのハイフン2011/05/03 08:18

ナンバープレートのハイフン
 どうでもよいといえば、まあ、どうでもよい話なのだが、いままずっと見ていたのに、一昨日初めて気がついたことがあった。
 車のナンバープレートについてである。真ん中にハイフンがあることと、3桁以下の場合には使わない桁にドットがあることには、気がついていた。しかし、3桁以下の場合にハイフンがないということを、昨日初めて明確に認識したのであった。すれ違う車のナンバーを見ながら、「おお、知らなかった。いままで気がついていなかった。不覚だった」とまくしたてて、妻に呆れられた。それだけの話であるが、これはたぶん、とっさのときの読み取りを考えた心理的な意味がある表記法なのだろう。

アカゲラの巣作り2011/05/06 21:46

アカゲラの巣作り
 山荘の裏窓から2メートルという至近距離に、アカゲラが巣作り中だ。穴を開けられた木の根元には、かなりの量の木屑が散らかっている。開けられたばかりのこの穴に、後頭部の紅いオスと黒いメスが、互い違いに出入りしている。
 彼等(違う個体だけれど)には、以前、家の軒に穴を開けられたこともあり、閉口したが、いままさに巣作りをしているのを見ていて、『巣作り』(E・V・ルーカス著)というエッセイを連想した。小鳥の夫婦の会話を書いた、100年ぐらい前のイギリスのエッセイである。(『たいした問題じゃないが - イギリス・コラム傑作選』(行方昭夫編訳)所収)  
ツグミ妻:あのサンザシはどう?
ツグミ夫:あれは駄目だよ。他から孤立しているだろう? すぐ人目につくもの。
(略)
ミソサザイ夫:ねえ君、今年はどこにする? (略)
ミソサザイ妻:あなたに任せるわ。あなたの好みでいいわよ。
(略)
ツバメ夫:くたくたになるまで、都合のいい軒のある家を全部調べてみた。
ツバメ妻:それで、どこが一番いいと思う?
夫:いや、それがね、選ぶのが難しいのだよ。
(略)

 と、いうことで、アカゲラ夫婦の会話を想像してみた。

アカゲラ夫:いい穴が開いただろう。
アカゲラ妻:でも、人間の家に近過ぎない?
夫:この家の人間は、危害を加えそうな顔はしていないよ。
妻:人間は信用できないわよ。
夫:君は気にいらないのか? せっかくきれいに丸ぁるく開いたのに。なかなかこううまくはいかないんだぞ。
妻:様子を見ましょうか。あら、お腹が張ってきた。もうそろそろかも。
夫:えっ?

 なお、我が家では、キツツキ一家のことを石川さんと呼んでいる(啄木鳥=キツツキなので)。

大地震の確率計算2011/05/11 22:36

 竹中平蔵氏が、「30年で大地震の確率は87%・・浜岡停止の最大の理由だ。確率計算のプロセスは不明だが、 あえて単純計算すると、この1年で起こる確率は2.9%、この1カ月の確率は0.2%だ。 原発停止の様々な社会経済的コストを試算するために1カ月かけても、その間に地震が起こる確率は極めて低いはずだ。」と書いて、話題を呼んでいるのを知った。

 87÷30=2.9ということである。2.9%や0.2%は充分大きい値なので、それを「極めて低い」と見る論旨や、過酷事故の問題を経済的コストと天秤にするような思考自体に納得できないが、これを単純に数学の問題として見た場合に、意味のある計算か、確率を単純に割り算で計算してよいのか、ということだけを、頭の体操として考えてみた。

 30年間の確率が一様だとして、次のような計算も考えた。1年間に大地震が起きる確率をqとすれば、1年間に起きない確率は(1-q)である。したがって、30年間大地震が起きない確率は(1-q)^30となる。これが1-0.87に等しいとすれば、q=1-10^(log(0.13)/30)=約7%となる。2.9%と違う。なぜか?

 東海地震のような、ある地域を震源とする「周期的な」大地震というのは、余震を含めてひとつの地震とすれば、30年の間には1回しか起きないと考えられる。つまり、30年間でいえば、ある年に起きることと別の年に起きることには、排他的関係がある。その場合、確率の加法定理がなりたつ。上記7%というのはこれに合わない。じっさい、上記の計算は、30年間に大地震が2回以上起きる可能性が仮定された計算なのである。

 30年で1回しか起きないと仮定し、30年の確率が一様であると仮定すれば、1年の確率を単純な割り算で概算するのは間違いではない。東海地震の周期を100から150年と考えれば、30年は充分に長い期間で、その間の確率密度関数が一様だというモデルはおおざっぱだが、単純な割り算に意味はなくはない。

遊ぶ子供の声聞けば2011/05/12 23:00

 先日、山口真さんから、東北の被災地で折り紙用紙や折り紙の本を配り、折り紙教室をしたときの写真を見せてもらった。
 あらためて思うのは、子供というのは、どんなときにでも遊び、また、遊ばなければいけないということだ。

震災(引用者注:関東大震災)後、道路や家屋の修繕に使う砂がところどころの道端に積みあげられているのを利用して小さい子供たちの間に一種の遊びが流行り出した。それは砂を栄螺(さざえ)形に高く盛り上げて、その頂上から螺旋形の道を作って、それにボールを転がすのである
(『権力の外にある世界 - 砂山をめぐる子供の共同の享楽』(『長谷川如是閑評論集』))

 このエッセイの論旨は、子供の遊びなるものが民主的・自治的なものであるということなのだが、わたしはそれ以上に、関東大震災の後に瓦礫の街で子供たちが遊んでいるということ自体に感銘をうけた。

 また、南原繁氏の歌集・『形相(エイドス)』には、こんな歌がある。1945年3月10日の東京大空襲の直後に詠んだものと思われる。

焼跡に土と石とを積み重ねこのうつつなを遊べる幼なら

 「うつつな」(現実)と言いながら、賽の河原を連想させ、非現実的な彼岸の光景も思い浮かぶのだが、子供というのは、どんなときにでも遊ぶものだ、という印象も強くする。

 遊ぶ子供は、大人の希望である。なので、放射線量の強い地域の子供たちが、砂遊びや泥遊びができないことを思うと、余計にこころ苦しい。

五角形の雪2011/05/14 21:54

五角の雪
 以前、このブログで、カップヌードルのデザインに五回対称の雪の図らしきものが使われていることを取り上げて、「残念」と書いた(五出ナル説、取リ難シ 翌日翌々日の記事もちょっと関連)が、名古屋大学理学部・大学院理学研究科広報誌『理』20号に、『五角形の雪は作れるか』(松本正和さん)という講演録を見つけ、意表をつかれ、面白かった。

雪は、六花ともよばれ、美しい六角形の結晶で知られていますが、雑誌やディスプレイのデザインでは、五角形や八角形の雪を見ることがあります。氷や雪の研究者は、デザイナーが描いた五角形の雪を見ると、「また間違った雪を描いている」と笑うのでしょうが、本当にこういう雪はありえないのでしょうか。我々の生活している環境では、たまたま雪は六角形ですが、遠い宇宙のどこかには、圧力や温度が違う環境があって、そこでは雪は五角形なのかもしれません。本当に、五角形の結晶をつくることはできないのか、あらゆる可能性を考えてみたいと思います。

と前振りをしたあと、準結晶(五回対称になりうる)の説明をし、水の準結晶は難しいが、メタンハイドレートなら、五回対称軸のある準結晶ができるかもしれないとして、最後は、以下のように結んでいる。

準結晶ハイドレートは、誰もまだ見たことがないものですから、それを理論で予測し、実験で実際につくることができれば大きな驚きです。氷が五回対称性をもつわけがない、という常識を打ちやぶることこそ理学の使命と私は考えています。

 メタンハイドレートは、水の結晶格子のなかにメタンを取り込んだ、燃える氷と呼ばれる物質である。たしかにその構造は、たとえばI型ハイドレートでは、五角形×12の十二面体と、五角形×12+六角形×2の十四面体を組み合わせた格子になっている。準結晶の期待が持てそうな構造だ。そして、松本さんの計算によると、きちんとした5回対称軸を持つ準結晶構造ハイドレートも準安定的な構造になるというのである。

燃える雪ということか…。