遊ぶ子供の声聞けば ― 2011/05/12 23:00
あらためて思うのは、子供というのは、どんなときにでも遊び、また、遊ばなければいけないということだ。
震災(引用者注:関東大震災)後、道路や家屋の修繕に使う砂がところどころの道端に積みあげられているのを利用して小さい子供たちの間に一種の遊びが流行り出した。それは砂を栄螺(さざえ)形に高く盛り上げて、その頂上から螺旋形の道を作って、それにボールを転がすのである(『権力の外にある世界 - 砂山をめぐる子供の共同の享楽』(『長谷川如是閑評論集』))
このエッセイの論旨は、子供の遊びなるものが民主的・自治的なものであるということなのだが、わたしはそれ以上に、関東大震災の後に瓦礫の街で子供たちが遊んでいるということ自体に感銘をうけた。
また、南原繁氏の歌集・『形相(エイドス)』には、こんな歌がある。1945年3月10日の東京大空襲の直後に詠んだものと思われる。
焼跡に土と石とを積み重ねこのうつつなを遊べる幼なら
「うつつな」(現実)と言いながら、賽の河原を連想させ、非現実的な彼岸の光景も思い浮かぶのだが、子供というのは、どんなときにでも遊ぶものだ、という印象も強くする。
遊ぶ子供は、大人の希望である。なので、放射線量の強い地域の子供たちが、砂遊びや泥遊びができないことを思うと、余計にこころ苦しい。
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