伏見先生のことなど2011/04/18 01:06

 幾何学を使った折り紙の設計法。その考え方や作品の実例を、折り紙作家・笠原邦彦さんに送り、氏との交流が始まったのは、四半世紀以上前のことになる。ちょうどそのころ、伏見康治・満枝著『折り紙の幾何学』が出版された。この本のもとになった『数学セミナー』での連載は知らなかったので、その内容は同書で初めて知った(と記憶している)。これには大きな刺激をうけた。「幾何学と折り紙」という同じテーマでも方向は異なっていたが、この本で扱われている内容にも挑戦を試みた。わたしの会心作「変形折鶴」(『折り紙の幾何学-増補版』掲載)は、その挑戦から生まれたものである。折り紙だけではなく、エッシャーの画や紋様の研究など、伏見先生は、わたしにとってほんとうに面白い研究をしている先達であることも知った。大好きだった『不思議の国のトムキンス』(ジョージ・ガモフ著)を訳されているのが先生であることも驚いた。

 さて。当時、笠原さんは、わたしを伏見先生に会わせたがっていたが、じつは、わたしは敬遠していた。相手が大物理学者(当時学術会議議長)で、自分が優秀じゃない物理科の学生だったから、…などではない。じっさい、優秀じゃない学生だったが、理由は次のようなことだった。

 わたしは、武谷三男さんや高木仁三郎さんの原子力の産業利用に批判的な学者の啓蒙書を読み、伏見先生を、原子力を推進した「向こう側」のひとと考えていたのである。そういうエライひとはいやだなあ、と。
 当時、こんなこともあった。笠原さんの紹介で「設計する折り紙」が新聞で取りあげられ、それを見た広告代理店から「広告に使いたい」という連絡があったが、わたしは「条件があります。広告主によります。たとえば電力会社の広告はお断りします」と答えた。左がかった学生と思われたのか、その話はなくなった。

 じっさいに会って、伏見先生の人柄等に接するようになったのは、だいぶ経って、さまざまな役職をリタイアされたあとだった。原子力の話はまったく訊かなかった。

 福島の大事故で、原子力の問題を考えることの多いこのごろ、あらためて、伏見先生の立場がどういうものであったかをよく知らないということに思いいたった。あの、ダ・ヴィンチ的な知性は、原子力にどう関わってきたのか。学術的なことというより、社会的なことを、一般向けの文章などからすこしあさってみた。

 受けた印象は、とにかく率直で、現実的であるということだった。回想は、自身のことも含めて客観的に書かれている。
 たとえば、『時代の証言 原子科学者の証言』には以下のような記述があった。まさに「歴史の一場面」であることには、目をみひらいてしまう。
一九五三年三月二日新聞を見ると、保守三党の予算折衝の中で、突如として中曽根・少壮代議士(改進党)が「原子炉築造予算二億三千五百万円」を計上したというのである。私は眼を疑い、藤岡さん宛に電報を打ってすぐ上京して相談しようと申し出たのであった。(略)新聞の伝えるところによると、中曽根氏は、「学術会議は原子力について何も動こうとしないから、科学者の横っ面を札束でなぐってやったのだ」と言った由である(もっとも当人は否定しているが) 二三五百万円の数字はウラン235から採ったのだというバカ話も流れていた。(略)原子力問題を議論したとき、学術会議が動かない限り、日本では原子力問題はありえないと思っていたのではないだろうか。それで、日本学術会議の外で、あるいは政治家や、あるいは経済人が、原子力研究開発のイニシアチブをとると、慌てざるをえないのであった。
 私は委員会の前夜悶々として寝つかれず、輾転反側してついに起き上がり、「原子力憲章草案」なるものを書いたのである。(略)

<原子力憲章 伏見案>
 日本国民は、原子爆弾によって多くの同胞を失った唯一無二の国民として、世界諸国民と共にこの残虐な兵器が再び使われることなく、科学の成果が人類の福祉と文化の向上のために開発利用されることを強く祈念する。日本国民は、原子力が将来の国民生活の重要な基盤のひとつとなることを期待し、自ら原子力研究開発利用に進む高邁な意図を持っている。この意図を実現するために、その事業の大綱を日本国憲法の精神にのっとり以下の条項によって規制する。
第一条 原子力の平和利用を目的とし、原子兵器についての研究開発利用は一切行わない
第二条 原子力の研究開発利用の情報は完全に公開され、国民が常に十分の情報に接しなければならない
第三条 諸外国の原子力に関する秘密情報を入手利用してはならない
第四条 原子力研究開発利用の施設に参与する人員の選択に当たっては、その研究技術能力以外の基準によってはならない
第五条 同施設に外国人の投資を許さない
第六条 原子力の研究開発利用に必要な物資機械の輸入には通常の商行為の方途以外の道を使ってはならない
第七条 分裂物質の国内搬入、国外輸出については、国会の承認を必要とする

 ここで注目すべきは、第二条に、「公開の原則」がはいっていることだろうか。いわゆる「原子力平和利用三原則 自主・民主・公開」の基礎になったものである。その後成立した原子力基本法(1955)にも、なんとかこの考えは盛り込まれた。このときのことについて、科学史家の鎮目恭夫さんは、伏見先生との対談で、「僕は、伏見さんが『俺がやらなきゃ、もっと悪いやつが原子力の研究を始める。たとえ危険があっても自分がやらなければ』と考えただろうと思った」と述べている。こういう立場にいなければいけないひとの感覚というのを、実感を持って想像するのは難しい。

 伏見先生が、その後の原子力の産業化にどう関わり、どう思っておられたのかは、いまひとつあたりきれていないが、つまりは「負け続けた」ということのようにも思える。以下に、そのあたりの消息がみえる。
日本の原子力開発は明らかに自主的でない。原子力委員会は無定見で、その決定のどこにも自主的な政策樹立の跡が見えない。核物理を修めた者は基礎から応用に至るまでの研究開発の過程を重視するのに、原子力研究所が実用原子炉の直輸入では、要員の教育機関にすぎない全くの飾り物になってしまう。
(『原子力平和利用三原則の四半世紀』『朝日ジャーナル』 1977年5月20日号)

 もうひとつ興味深かった文章は、『本来安全な原子炉を求めて』(『アラジンの灯は消えたか』所収)というエッセイだった。これは、チェルノブイリ(1986)後に書かれたものだが、恩師・菊池正士博士の「遺言」に沿って、次のようなことが書いある。なお、菊池正士博士が亡くなられた1974年は、スリーマイル事故(1979)より前で、オイルショックなどを契機として、原子力発電所建設を促進する電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法(旧)、発電用施設周辺地域整備法という交付金の法が成立した年である。
 私の師匠に当たる菊池正士先生は、一九七四年一一月一二日に亡くなりましたが、亡くなられる二〜三年前から、原子炉の安全性について非常な関心を寄せられておられました。(略)

菊池先生は、原子炉の中に大量に溜まっている放射能が、放出される事故をイメージして、これは真剣に考えなければならない問題だと思われたのでしょう。(略)菊池先生に言わせると、原子力委員の多くは、何も本当のことはわかっていない、話の相手にならないということでした。委員会の連中も、原子力局の役人たちも、ことなかれ主義で、原子力は安全と主張するだけで、何も真剣には考えていないと言うのでした。

 菊池先生は業を煮やされたのでしょうか。亡くなられる一年前の四月名大で開催された原子力学会年会に原子力の安全性についての論文を呈出されたのです。(略)
 今この論文を拝見しますと、災害規模Qの事故が起こる確率をPとすれば、ΣP i Q iが災害規模の期待値となり、Q iが大きくてもP iの方を充分小さくできれば期待値は小さくできるというのが、普通の考えなのでしょうが、Qが大変大きくなりますと、Pをいくら小さくとっても、0×∞ の不確定になります。このような場合には期待値なるものを指標として考えることが不適当なのであって、Qを有限にしておくこと、つまり、どんな小さな確率であろうとも、ある「許されない」規模の災害は起こらないようにすべきであると考えられます。(略)以上は菊池先生の書かれたことを私流の言い方で表現したものですが、先生は論文の最後に、何か原子炉の出力に上限をつけること、換言すると、炉内の放射能に上限をつけることを、皆さんが考えてくださることを要請しておられます。(略)

 リリエンソールによると、アメリカの軽水炉というのは、潜水艦用の炉をいわば陸に上げただけのもので、安全性は二の次にし、もっぱら計量小型を目指した設計になっていると看做されます。炉心部が焼けて放射性物質を大量に出すことがないように初めから設計するというよりは、そういう事故が起こりかかったら応急処置で炉心を冷却するという、安全性が後追いになっています。方々の原子炉が事故をおこすごとに、これは危険だということで後追いの安全装置が附け加えられてきましたので、現在の軽水炉は、複雑極まるものになり、花魁のかんざしのようになっています。(略)たとえば経済第一主義で行けば、いわゆるスケール・メリットで、原子炉は大きいほどよいことになるのでしょうが、もし安全第一主義ならば、炉の出力に上限を附けるべきです。(略)

 原子炉の大事故が起こるのは、アメリカやソ連であって、日本では起こらないのだという主張は必ずしも根拠のないことではないのかも知れません。昔の国鉄は世界中で一番すぐれた運転実績を持っていました。日本人技術者の物事をきちんとやる精神のお陰で、それがある限り日本の原子力は安全実績を誇れるはずという主張です。(略)日本人技術者の性格が、安全性を支えてきた一角であることは疑いありません。そして、私はこの日本人の特質が、やがて変るときがあると見ているのです。(略)
 現場から離れた視点だが、菊池博士の焦燥のようなものを共有しているようにも読める。

 ちなみに、今回読んだもので、『放射線:二つの話題』というエッセイは、納得できないものだった。低線量放射線について、定量的な情報がなく、そのプラスマイナス両方を記述しているのだが、「たいしたことがない」という印象を与えるものになっている。

 全般に、伏見先生は、ひとの理性、善性というものを信用しすぎていたのかもしれないとも感じた。つまり、ご自身の頭がよすぎるので、他人もまた基本的には合理的に行動すると思っていたのではないか、と。いや、政治的な世界も経験されたのでそんなことはないのかもしれないが。

 とにかく、じっさいの原子力発電所は、合理的どころか、さまざまなところに愚かさの陥穽があったことが、白日のもとになった。公開性も決定的に欠けていて「情報は完全に公開され、国民が常に十分の情報に接しなければならない」などは、果たされていなかった。

 菊池博士の式におけるQはきわめて大きくなっているが、最悪と言われた柏崎刈羽が最悪でなかったように、いまの福島第一ですら最悪ではない。将来、このQをゼロにする(追記:すでに出た廃棄物のことを考えれば、「少なくする」とすべきか)方法はある。誰にでもわかる簡単な話である。つまり、止めればよいのだ。