地図を見る2018/07/02 21:06

◆久賀島
ユネスコ世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に含まれる五島列島の久賀島。久賀島と言えば教会なのだが、神社もある。その名も折紙(オリカミ)神社である。

下の写真と図は、10年前に訪島したときに書いた『折紙探偵団』の記事『折紙散歩 再訪・折紙の島』からの引用である。折紙神社と折紙鼻(岬)は離れているのだが、折紙鼻の立岩がピンポイントに見える地点が湾の最奥部にあって、神社はその近くにある。その位置関係は、きわめてパズルじみている。

折紙鼻

久賀島パズル

◆日本海∽琵琶湖、渤海+黄海=ラクダの上半身
琵琶湖と淡路島のかたちが似ていることは有名だが、日本海も琵琶湖に似ていることに、最近気がついた。鏡像にすれば、琵琶湖最大の島である沖島に対応する位置に佐渡があるのも面白い。
琵琶湖と淡路島

日本海
そして、渤海と黄海がラクダの上半身になっていることも、最近気がついた。

ワールドカップ2018の公式球2018/07/03 22:22


ワールドカップ2018の公式球の構造

サッカーワールドカップの公式球が、よくある正五角形×12+正六角形×20の切頂二十面体、いわゆるサッカーボール多面体ではなさそうなのが、気になっていた。モザイク状の模様が、「ふつう」とは違うのである。

写真を確認すると、革のかたちも正五角形と正六角形ではなく、図のような凸でない多角形6枚によるものだった。アルキメデスの半正多面体で一番近いのは、切頂六面体(正三角形8面、正八角形6面)であるが、頂点を結んでも、八角形は「正」ではなく、正三角形になる部分もねじれた配置で、切頂六面体にはならない構造である。

『曲線折り紙デザイン』(三谷純)など2018/07/16 08:27

7月24日(7月20日から訂正)発売の、三谷純さんの新刊・『曲線折り紙デザイン』。帯の推薦文を書いた。
『曲線折り紙デザイン』(三谷純)

曲線折り紙の初めてにして決定版の指南書!
数学に裏づけされながらも、アイデアと手を動かすことがものをいう、自由で豊かな造形世界。本書を手に取れば、魅力あふれる曲線折り紙を、豊富な作例とステップ・バイ・ステップの解説で、存分に楽しめます。類書のない画期的な本です。(折り紙作家・前川淳)

◆アトラスオオカブト
アトラスオオカブト
ここでは、案内しなかったけれど、地元でアトラスオオカブトの講習をした。

『数学短歌の時間』など2018/07/25 23:32

『数学セミナー』『数学短歌の時間』(永田紅さん、横山明日希さん)に、数学短歌の投稿を続けている。俳句や短歌は(ひとのものを)読むのは好きなのだが、つくることはほとんどなかった。しかし、数学+短歌(というよりも、数学∩短歌だろうか)というきわめてニッチな企画なので、誘われている(じっさい、誘われた)、出番かもしれない、と一歩踏み出た格好である。折り紙もそうなのだが、制約のある中でものをつくるのが好きなのかもしれない。

先ごろでた8月号では、「題:帰納法」で二首とってもらった。その一つが以下である。

「一つ落ちて二つ落たる椿哉」子規のこの句は帰納法かな

これは、以前このブログに書いた子規の句の感想を、そのまま歌にしたものだ。終助詞の「かな」は詠嘆というより疑問である。

このブログでは、なんどか子規先生に言及している(これとかこれとかこれなど)。読み返すことも多く、親しみが強くなり、「キョッキョッ キョキョキョキョ」とホトトギスの声が聞こえると「あ、正岡さん」と言っている。アカゲラが木を叩く音がすると、「あ、石川さん」ともらすのも習慣となっている。天文台の仕事で来ている高原では、彼らの「声」がよく聞こえるのだ。

投稿の筆名は、「紙鶴翁」という、急いでつけたものなのだが、これにもたまたま鳥の名がはいっていた。しかし、正岡さんと石川さんの顰みにならって、鳥の名そのものにし、五十の手習いなので前川五十雀(ゴジュウカラ)にすればよかったとも思う。前川信天翁(アホウドリ)というのも捨てがたい。上の筆名にもつけたように、充分「翁」なのである。それに、「天を信じる老人」って、格好いいじゃないか、アホウドリ。

翁といえば、自分で言うことでもないが、なんとまあ、数年前、「生きる伝説」扱いされることがあって、それだと格好よすぎるので、自らを「生きている化石」に例えるとなにがよいだろうかと考えたことがある。ゴキブリはやっぱり却下で、シーラカンスもぴんとこない。カモノハシとライチョウが有力候補だったが、オキナエビスがよいという結論となった。カンブリア紀から似た種がいた「翁恵比寿」の名を持つ貝である。4円切手にも描かれていた。この名で進化系統的に古参というのもぴったりで、貝世界の老賢人の風格の貝である。以後、職場のディスプレイの上には、そのフィギュアをつけている。
オキナエビス

とまあ、話がそれまくっているが、『数学セミナー』のこの連載は、驚いたことに文芸誌にも取りげられた。『文藝』2018年秋号、山本貴光さんの文芸時評である。引用されたのは、わたしの下記の歌(題:ベクトル)であった。

壁にある時計の針のベクトルはゼロにはならず我を追い立つ

文芸←→数学という軸で数学よりなので、典型としてとられたのであろうと推測した。蛇足ながら解説すると、文字盤にゼロがないからゼロにはならないという意味ではない。そうとってもよいのだが、分針と時針をベクトルに見立て、それらの和は、反対方向に一直線になっても長さの違いでゼロベクトルにはならない、という理屈である。秒針までいれてどういう周期でゼロベクトルが生じるかを考えると、それはそれでパズルとなる。というわけで、完全に考え落ちなのである。子規先生に「もし感情を本(もと)とせずして理窟を本としたる者あらばそれは歌にても文学にてもあるまじく候」(『歌よみに与ふる書』)と言われそうだ。むろん、わたし自身は面白いと思ってつくったのだが、一般性がない自覚もある。

いっぽう、前回とってもらった、以下の歌(題:ピタゴラス)は、やや無理して若い気分で詠んだが、できたときに、広くひとにも伝わるんじゃないかとうれしくなり、とってもらい、その後、わるくないという感想も漏れ聞いて、さらにうれしくなったものである。

万物は数と言うのかピタゴラス風も夜空も我も彼女も

まあしかし、これもまた理が勝った歌だ。ピタゴラスでは、次の折句もつくったが、こちらは、読み返すと、伝わらない歌の典型である。

ピアニズム高き音(ね)低き音轟たる音籟(らい)たる音にも数式ひそめる

ピアノの一般的な調律がピタゴラス音階ではなく平均律であることを隠し味にして、句の頭をとるとピタゴラスになるというもので、考えすぎである。「むやみに縁語を入れたがる歌よみは、むやみに地口駄洒落を並べたがる半可通と同じく、御当人は大得意なれども側より見れば品の悪き事夥候」(『歌よみに与ふる書』)である。しかし、わたしは、こういうのが好きなのだ。「りっぽウオ体」(『折る幾何学』所収)などの折り紙作品の題名からも知れるように、ダジャレおじさんなのである。御当人は大得意なのである。

さて。いま『知の果てへの旅』マーカス・デュ・ソートイ、冨永星訳)という本をちびちび読んでいる。その裏表紙に紹介文を寄せているのが、上の時評を書いた山本貴光さんであることに気づいた。文芸誌の時評で『数学セミナー』を取り上げるのだから、変化球の使い手であるのはわかっていたが、なるほど、いわゆる文理越境のひとなのかと納得した。そもそもデュ・ソートイさんの一連の本はポピュラーサイエンスなので、文芸の叢書である新潮クレストブックスから出ているのもすこし不思議である。

と、さらに話がそれていったが、もとに戻すと、数学短歌は面白い。数学も短歌も、わたしなどより、若いひとにこそ向いている。われはと思うひとは、どんどん投稿しましょう。

短歌と算学(和算)はもともと縁が深かったので、この企画は温故知新とも言える。たとえば、和算史研究の先駆である三上義夫氏(1875-1950)の『文化史上より見たる日本の数学』(1922)には、「和算と和歌」という一節がある。

和算は趣味の問題たるにおいて和歌と同じい。日本人は元来趣味に生くるものである。(略)この趣味の国において初めて和歌があんなに発達し得た。そうしてそこに和算が発達した。和算は全く和歌も同様な精神でできている。歌を詠むからといって、人にあまり尊ばれるわけでもないが、和算も同様にこれに通ずればとて、さまで尊ばれたのでない。(略)これらの人達について考うるに年少の頃に数学を修め、壮年時代に数学に苦心したのと全く同じ心持ちで俳句を作ったらしい。萩原禎助翁から現に聞いたことであるが、数学も俳句も別に変わったことはない、面白いことは同じだといわれたことがある。

「日本人は元来趣味に生くるもの」かどうかはわからないが、数学も俳句も、役には立たねえんだ、そんなに褒められることもねえんだ、面白いからやってたんだ、という感じはすばらしい。萩原禎助翁(1828−1909、算学者、わたしも会えれば聞いてみたいことがあるひとだ)に関しては、『芸術と数学及び科学』(1929))に、「最も緻密な数学の研究家であり、風流気などありそうもない人であったけれど、それでも俳諧は盛んにやったものであった」と書かれている。

わたしも4年ほど前、折り紙に関係する和算の資料調査のため、幕末の算学者・佐久間庸件の旧居を訪ねてご子孫に話をうかがったさい、上記のことを実感する資料を見たことがある。庸件と彼と交流のあったひとたちの書いた、たくさんの句や歌の短冊を見せていただいたのだ。子孫の佐久間求さんは、「和算の資料はほとんど山形大学に寄付したのだが、短冊は、そのまま遺っている。なかなか読むのも難しい。だれか、これを整理してくれるひとはいないだろうか」と話していた。

なお、問題の解きかたを七五調で歌う『因帰算歌』(1640 、今村知商)などを除き、数学そのものを詠む短歌や俳句はそう多くない。現代の数学短歌は、それをなす試みかと思うと、また興味深いが、まあ、重要なのは、「面白いことは同じだ」の精神だ。

多くの歌や句や命題や解法は、歴史の中に消えてゆく。それはそういうものなのだろう。ただ、ここにひとつ、佐久間庸件が幕末に訪れた下総國関宿蓮華院の住職(?)の句をあげておく。読むひとがいたとき、言葉はよみがえる。それが、わたしであっても。この短冊に注目したのは、南関東ゆかりで、短冊に折鶴の意匠があったというだけのことである(写真右から二番目)。句自体もふつうだろう。しかし、読む(翻字には岡村昌夫さんの力を借りた)と、この句は、わたしの中に刻まれた。
佐久間庸件の短冊

池水の見へぬほど散る木の葉かな

伊藤左千夫の「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」を連想し、エッシャーの、たくさんの落ち葉が浮いた水面を描く版画「三つの世界」を連想し、とてもよい句に思えてきたのだ。

つづきの話など2018/07/27 21:49

◆オリガミの魔女と博士の四角い時間
第十五話:7月28日(土)、22:45-23:00 NHK-Eテレ

◆宝井其角は折鶴を折ったか?(つづき)
岩波文庫の『新編 俳諧博物誌』(柴田宵曲)を読んでいると、さきごろこのブログ「宝井其角は折鶴を折ったか?」に書いた句がでてきた。しかも、「問題の句」のみならず、参考にあげた「日の春」の句が並んでいた。「日の春」の句は、たしかネットで知ったもので、『俳諧博物誌』を読むのは初めてである。

 日の春をさすがに鶴の歩かな 其角
  聖代
 鶴おりて日こそ多きに大晦日 同
「日の春」の句は其角としては格別奇想でもない。
 春立つや静に鶴の一歩より 召波
は其角の句より得来ったものであろうが、独造、模造の問題は別にしても、句の厚みにおいて遠く及ばぬ。大三十日の方は尋常に安ぜぬところに、其角らしい面目が窺われる。元禄の昔でも大三十日の鶴は不調和だから、「日こそ多きに」といったものらしいが、存外こんな事実があったのかもしれない。
『俳諧博物誌』)

...というように、「問題の句」は、「鶴おりて」(すなわち「鶴降りて」)とされている。(この本(岩波文庫)において、句は歴史的仮名遣いである。つまり、「をりて」ではなく「おりて」である) しかし、前にこのブログに書いたように、『五元集拾遺』(1747)の原本には、「鶴折りて」と、「折」の字がしっかり書いてあるのだ。柴田さんがどう解釈したのか、『五元集拾遺』にとられる前の資料があるのかが気になる。

なお、ルナールの『博物誌』に着想を得て、古句から動植物を詠んだ句を集めたという『俳諧博物誌』は、とてもたのしい本である。

◆2+2=4の話(つづき)
すこし前、このブログに、東京外語大学キャンパスで見かけた「2+2=4」といういたずら書きから、オーウェルの『1984』を連想したという話を書いた

明白に誤りようがないことを「1+1=2」ではなく「2+2=4」と表現することは、以前、数学者のエッセイで読んだ記憶があったのだが、それが誰か思い出せず、すこしもやもやしていた。これが、小平邦彦さんの『怠け数学者の記』所収の『ノートをつくりながら』であったことを確認できた。

自分の専門とぜんぜん関係のない数学の本を読んでみると、証明の論証を確かめても、わからない定理はやはりわからないことに気がつく。証明は確かであるが、何となく全体の印象がぼやけて判然としない。これに反して自分の専門分野の定理ならば、証明を忘れてしまっても、わかるものは明晰判明にわかる。2+2=4になることがわかると同じように明晰判明にわかるのである。われわれが2+2=4なることを理解するのは、2+2=4なる数学的事実を感覚的に把握するのであって、論証によるのではない。
『ノートをつくりながら』)

天才数学者の感覚なので、多分に想像するしかないが、「2+2=4」という表現自体は、滞米期間が長い小平さんなので、英語の慣用表現かもしれない。16世紀からそういう表現があるという話は、英語版のwikipediaの「2+2=5」の項にもある。いっぽう本邦には、戦時ポスターに『東條首相の算術 2+2=80』(1943)なんてものがあった。それより前のソヴィエト連邦の、増産を謳う『2+2=5』というポスターを援用したものと思われるが、桁が違うのが、大日本帝國らしい大言壮語である。『1984』の「2+2=5」も、ソヴィエトのものがモチーフらしい。

これを機会に、ぱらぱらと再読した『怠け数学者の記』では、『プリンストンだより』が、あらためて面白かった。1949年、小平さん30代の日記である。オッペンハイマーの前で恐縮し、ホームシックになっている朝永さん、親切なワイル、茶目っ気たっぷりのヴェイユ、ヴェイユと正反対なフォン・ノイマン。ゲーデルとアインシュタインがドイツ語でなにやら話しながら歩くの見たり、岡潔さんの消息を聞かれたり、湯川さんのノーベル賞に朝永さんと祝杯をあげたりしている。ほかにも綺羅星ばかりで、20世紀版『アテナイの聖堂』(ラファエロ)みたいだ。朝永さんは、高野文子さんの『ドミトリーともきんす』のトモナガくんみたいでもある。

渡米したばかりの小平さんが、英語がさっぱりわかないとこぼし、いっぽうで、スイスの数学者ド・ラーム氏のブロークンきわまる英語をあげて、夫人のセイさんに、これでも困らないのだから、君ぐらい英語を知っていればこっちで大丈夫だと書き送ったりもしている。毎度英語のプレゼンテーションに苦労する身には、すこし勇気づけられる話である。なお、当初1年だった予定の小平さんの滞米は20年近くに及ぶことになる。

小平セイさんは、彌永昌吉さんの妹で、ピアノを弾く。そして、小平さんもそうとうのピアノの腕だったという。そういえば、天文台にも、研究者とクラシック音楽関係者という夫婦が何組かいる。これは、お互いに自分にないものを見るというより、ピタゴラス以来の伝統というか、数理科学と音楽が案外似ているということの表れと思わなくもない。天王星や赤外線の発見などの業績を持つハーシェル(父)が、もともとは音楽家であったという有名な例もある。どっちも浮世離れ、といえば、まあ、そんなものかもしれない。で、ふと気がついたのは、周回積分(閉路積分)の記号とト音記号が似ているということなのだが、SJISやJISコードにないト音記号を、周回積分で代用するというのは、けっこう知られた話らしい。
周回積分とト音記号

月、ミジンコ、深海魚、めかぶ2018/07/30 22:31

◆見えなかった月食と千羽鶴
一昨日、関東に台風のせまる明けがた、雲間に皆既月食の月が見えるのではないかと寝床を抜け出し、ベランダから空を見たが、月影はまったく見えず、ふたたび眠りについた。雲の向こうの月食となったが、最近知った次の歌を紹介したい。

月蝕のくらき部分は蝕すすむままにあはれに明るみてゆく 佐藤佐太郎
『佐藤佐太郎歌集』 佐藤志満編)

食の進んだ暗い部分が、暗黒ではなく、地球大気による散乱と屈折により、明るく(赤く)見えるさまを詠んでいる。ここでの「あわれ」はpityではなく「もののあわれ」的なことだろう。影は欠けはじめでも赤いはずだが、輝面比が下がると、暗い部分の赤さが目立つので、「すすむままに」「明るみてゆく」ことになる。

関連した話がある。先日ラジオでかかっていた『ガラスの林檎』(松本隆作詞、細野晴臣作曲、松田聖子歌)を聴いて思ったことだ。「蒼ざめた月が東からのぼるわ」という歌詞なのである。昔は別になんとも思わなかったが、まさに月がのぼろうとするとき、朝日が赤いように、蒼ざめることは考えにくい。ひとの色覚は単純ではないので、周囲との比較で青く見えることもあるかもしれないが、地平線近くの月は、だいたい赤い。などと、もやもやと考えた。まあ、そもそも、たとえば松本さんの「はっぴいえんど」時代の歌詞は、リアリティーなんぞ知るかてなもんであり、それもまたよい。

と書いて、あっ!となった。はっぴいえんどの『風街ろまん』所収の『あしたてんきになあれ』の歌詞に、折鶴がでてきたことを、唐突に思い出したのだ。アナログレコードで繰り返し聴いていたアルバムなのだが、「折鶴コレクター」として忘れていた。その後、テープも買ったお気に入りであるが、30年ぐらい聞いていなかった。テープはすぐに見つかって、ひさしぶりに聞いてみた。

さっきまで駆逐艦の浮かんでた通りに のっぴきならなぬ虹がかかった
その虹で千羽鶴折った少女は ふけもしない口笛 ひゅうひゅう
『あしたてんきになあれ』松本隆作詞)

八ヶ岳山麓に戻る途中、韮崎大村美術館に寄った。ノーベル生理学・医学賞受賞者にして、女子美術大学の名誉理事長でもある大村智さんが収集した絵画などを展示する美術館である。想像以上のコレクション(展示されているのはほんの一部)の中で、堀文子さんの『極微の宇宙』に惹かれた。
「極微の宇宙」堀文子 絵葉書

わたしは、小学5-6年生のころ、プランクトン少年だった。安い顕微鏡で、身の回りの池の水などをかたっぱしからのぞいていた。昆虫少年のプランクトン版である。鼻先が長いゾウミジンコや、柄がバネみたいになっているツリガネムシ、ちょっと非対称で不思議なかたちのツノモなどが好きだった。接着用のバルサムやメチレンブルーなどの染色剤なども入手して、プレパラートもつくっていた。

この絵に描かれているのは、オオミジンコ、ケンミジンコ(タマゴあるなし)、ミドリムシ、アオミドロに付着したツリガネムシなどだ。右下のはボルボックスで、ほかの丸いものや折れ線状のものは珪藻だろうか。アオミドロの中身の葉緑体は螺旋状なのだが、たしかにこの絵のようにも見える。太陽電池パネルのようで、宇宙感が強まって、ミジンコはミクロ宇宙のスターチャイルド(『2001年宇宙の旅』のアレ)のようだ。

この絵は人気のようで、ミュージアムショップで、絵葉書とクリアケースも売っていた。ただし、それらは『極微の宇宙に生きるものたちII』で、今回展示されていたのは、『極微の宇宙』であった。「II」に比べると、ミジンコがもう一体と、三角の珪藻、クンショウモのようなものが描かれているほか、ミドリムシの配置が変わっていた。

◆深海魚の目
台風の様子を確認するためにつけていたTVで深海生物の番組をやっていた。そこにでてきた、8000m超の海底に棲むマリアナスネイルフィッシュという白いナマズのような魚には目があった。赤外線が見える目とかなのだろうか。

海底(うなぞこ)に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり 若山牧水

海底に眼のある魚も棲むといふいつたい何をどうして見るのか

『ねみみにみみず』(東江一紀著、越前敏弥編)
東江一紀(あがりえかずき)さんのエッセイ集『ねみみにみみず』を読んだ。東江さんは、4年前に60少し過ぎで亡くなった翻訳家だ。このエッセイ集は、「デジタルは及ばさるがごとし」、「神経をサカナで擦る」など、ダジャレ満載である。中でも章タイトルにもなっている「待て馬鹿色の日和あり」はすばらしく、色紙に大書して、日々の指針として、壁にかけておきたい。
「待て馬鹿色の日和あり」東江一紀

東江さんの駄洒落では、どこに書いてあったのか忘れたが、"「めかぶの酢の物ください」 「『め』か『ぶ』かはっきりしろ」" というものも忘れがたく、我が家では、めかぶを見るたびに、「『め』か『ぶ』かはっきりしろ」が口の端にのぼることが習慣化している。ありがとう、東江さん。

東江さんは、フィリップ・カー氏(このひとも今年の春に、60少しで亡くなった)とか、『数学小説 確固たる曖昧さ』(スリ&バル)とか、爆発的に売れることはなさそうな、しかし、読みたくなる小説を訳してくれるひとなので、ありがたかった。デイブ・バリー氏のエッセイに大笑いしたのも、もう20年前になるのか。ありがとう、東江さん。

しかし、命を削っていたような仕事ぶりを見ると、哀しくなり、ひとごとでもないと思ったのだが、考えてみれば、わたしはそんなに働いていないのであった。