◆オリガミの魔女と博士の四角い時間
第十五話:7月28日(土)、22:45-23:00 NHK-Eテレ
◆宝井其角は折鶴を折ったか?(つづき)
岩波文庫の
『新編 俳諧博物誌』(柴田宵曲)を読んでいると、さきごろこのブログ
「宝井其角は折鶴を折ったか?」に書いた句がでてきた。しかも、「問題の句」のみならず、参考にあげた「日の春」の句が並んでいた。「日の春」の句は、たしかネットで知ったもので、
『俳諧博物誌』を読むのは初めてである。
日の春をさすがに鶴の歩かな 其角
聖代
鶴おりて日こそ多きに大晦日 同
「日の春」の句は其角としては格別奇想でもない。
春立つや静に鶴の一歩より 召波
は其角の句より得来ったものであろうが、独造、模造の問題は別にしても、句の厚みにおいて遠く及ばぬ。大三十日の方は尋常に安ぜぬところに、其角らしい面目が窺われる。元禄の昔でも大三十日の鶴は不調和だから、「日こそ多きに」といったものらしいが、存外こんな事実があったのかもしれない。
(『俳諧博物誌』)
...というように、「問題の句」は、「鶴おりて」(すなわち「鶴降りて」)とされている。(この本(岩波文庫)において、句は歴史的仮名遣いである。つまり、「をりて」ではなく「おりて」である) しかし、前にこのブログに書いたように、『五元集拾遺』(1747)の原本には、「鶴折りて」と、「折」の字がしっかり書いてあるのだ。柴田さんがどう解釈したのか、『五元集拾遺』にとられる前の資料があるのかが気になる。
なお、ルナールの
『博物誌』に着想を得て、古句から動植物を詠んだ句を集めたという
『俳諧博物誌』は、とてもたのしい本である。
◆2+2=4の話(つづき)
すこし前、このブログに、東京外語大学キャンパスで見かけた「2+2=4」といういたずら書きから、オーウェルの
『1984』を連想したという話を
書いた。
明白に誤りようがないことを「1+1=2」ではなく「2+2=4」と表現することは、以前、数学者のエッセイで読んだ記憶があったのだが、それが誰か思い出せず、すこしもやもやしていた。これが、小平邦彦さんの
『怠け数学者の記』所収の
『ノートをつくりながら』であったことを確認できた。
自分の専門とぜんぜん関係のない数学の本を読んでみると、証明の論証を確かめても、わからない定理はやはりわからないことに気がつく。証明は確かであるが、何となく全体の印象がぼやけて判然としない。これに反して自分の専門分野の定理ならば、証明を忘れてしまっても、わかるものは明晰判明にわかる。2+2=4になることがわかると同じように明晰判明にわかるのである。われわれが2+2=4なることを理解するのは、2+2=4なる数学的事実を感覚的に把握するのであって、論証によるのではない。
(『ノートをつくりながら』)
天才数学者の感覚なので、多分に想像するしかないが、「2+2=4」という表現自体は、滞米期間が長い小平さんなので、英語の慣用表現かもしれない。16世紀からそういう表現があるという話は、
英語版のwikipediaの「2+2=5」の項にもある。いっぽう本邦には、戦時ポスターに
『東條首相の算術 2+2=80』(1943)なんてものがあった。それより前のソヴィエト連邦の、増産を謳う
『2+2=5』というポスターを援用したものと思われるが、桁が違うのが、大日本帝國らしい大言壮語である。
『1984』の「2+2=5」も、ソヴィエトのものがモチーフらしい。
これを機会に、ぱらぱらと再読した
『怠け数学者の記』では、
『プリンストンだより』が、あらためて面白かった。1949年、小平さん30代の日記である。オッペンハイマーの前で恐縮し、ホームシックになっている朝永さん、親切なワイル、茶目っ気たっぷりのヴェイユ、ヴェイユと正反対なフォン・ノイマン。ゲーデルとアインシュタインがドイツ語でなにやら話しながら歩くの見たり、岡潔さんの消息を聞かれたり、湯川さんのノーベル賞に朝永さんと祝杯をあげたりしている。ほかにも綺羅星ばかりで、20世紀版
『アテナイの聖堂』(ラファエロ)みたいだ。朝永さんは、高野文子さんの
『ドミトリーともきんす』のトモナガくんみたいでもある。
渡米したばかりの小平さんが、英語がさっぱりわかないとこぼし、いっぽうで、スイスの数学者ド・ラーム氏のブロークンきわまる英語をあげて、夫人のセイさんに、これでも困らないのだから、君ぐらい英語を知っていればこっちで大丈夫だと書き送ったりもしている。毎度英語のプレゼンテーションに苦労する身には、すこし勇気づけられる話である。なお、当初1年だった予定の小平さんの滞米は20年近くに及ぶことになる。
小平セイさんは、彌永昌吉さんの妹で、ピアノを弾く。そして、小平さんもそうとうのピアノの腕だったという。そういえば、天文台にも、研究者とクラシック音楽関係者という夫婦が何組かいる。これは、お互いに自分にないものを見るというより、ピタゴラス以来の伝統というか、数理科学と音楽が案外似ているということの表れと思わなくもない。天王星や赤外線の発見などの業績を持つハーシェル(父)が、もともとは音楽家であったという有名な例もある。どっちも浮世離れ、といえば、まあ、そんなものかもしれない。で、ふと気がついたのは、周回積分(閉路積分)の記号とト音記号が似ているということなのだが、SJISやJISコードにないト音記号を、周回積分で代用するというのは、けっこう知られた話らしい。
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