4と82011/01/31 00:26

 『数覚とは何か - 心が数を創り、操る仕組み』(スタニスラス・ドゥアンヌ著 長谷川眞理子小林哲生訳)という本を読んだ。
 動物やヒトが数を扱う能力について、認知科学者が書いた本で、数を把握する感覚が生得的なものであることが主題である。直感に反さないかたちでの数学教育という観点から、公理主義的な構成のカリキュラムに対する批判も述べられている。

 いわゆる文明化される以前の人類の数概念が、「ひとつ、ふたつ、みっつ、たくさん」であるという話をよく聞くが、計測能力が、4より大きくなると概数的になるのは、じっさいにたしからしいことなども書いてある。

 ここで思い出したのが、以前、『数(日本の名随筆89)』(安野光雅編)で読んだ、『日本人の数概念の成立』(大矢真一著)というエッセイだった。日本語の数詞 - 中国語起源の「いち、に、さん、し…」ではなく、やまとことばの「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…」- に関する興味深い話があったのだ。
…これに最初に気づいたのは、江戸時代の儒者荻生徂徠であって、彼はその著書『南留別志』のなかで、
「『ふたつ』は『ひとつ』の音の転ぜるなり。『むつ』は『みつ』の転ぜるなり。『やつ』は『よつ』の転ぜるなり。『いつつ』『ななつ』は『いずれ』『なに』ということなり。『ここのつ』は『ここら』『ここだく』の『ここ』なるべし。『とお』は『つづ』の転ぜるなり。『つづ』とは、ここにいたりて、算をつづめて、一にするなり」
と述べている。ここで、「ここら」「ここだく」はどちらも「いくばく・いくら」という意味で、転じて「多数」の意味にももちいられる。
『日本人の数概念の成立』(大矢真一)

 ここで一番面白いのは、1,2,3,4,5,6,7,8,9において、1と2がH音、3と6がM音、4と8がY音という対応があるという指摘である。これを読むまでは、考えたこともなかったが、たしかにそうで、これはなにかがありそうだなあと思う。

 エッセイで示されていた、本邦の数詞の成立をわたしなりに解釈すると、次のようにまとめることができる。

一、二
「ひとつ」「ふたつ」という数詞ができた。(上記エッセイには説が示されていたが、とりあえず、これの起源は問わない)
「ひとつ」「ふたつ」に「ます(増す)」「むれ(群れ)」「みつ(満つ)」などの「多く」を意味するM音の「みっつ」が加わった。(白鳥庫吉説から)
「みっつ」までで足りなくなったとき、「いや」「いよいよ」など、やはり「多数、おわり」を意味するY音の「よっつ」が加わった。(白鳥庫吉説から)
さらに新しい数詞が必要になったとき、「いずれ」、つまり「よくわからん」という意味で「多数」を意味する「いつつ」が加わった。(徂徠説から)
六、八
「ひとつ」と「ふたつ」という語の子音が同じで、かつ「値」が倍であることを参照して、「みっつ」→「むっつ」と「よっつ」→「やっつ」がうまれた。(すでにあった「ひとつ」と「ふたつ」を参照したというのはわたしの解釈)
「むっつ」と「やっつ」ができたとき、7は倍数で解釈できなかったので、「なんだかわからん」の「な」になった。(徂徠説から)
 つまり、8までで考えると、素数ではない4と8は、名前としても「合成数」になっている(?)ということである。
 以上、あくまでも、上記エッセイを参照したわたしの解釈で、現在の説がどうなっているのかも、まったく知らない。