コンベンションの会場のT大学の黒板に、グリッド線があることに気づいた。大学や高校に行く機会はたまにあるが、使うのがスライドやホワイトボードのことが多いので、黒板がこうなっていることに気づいていなかった。いま、これは当たり前なのだろうか。これなら、字がまっすぐに書ける。また、アメリカから参加のKさんが、黒板拭きのクリーナーを見て、「こんなもの初めて見た」とはしゃいでいたのも、たいへん面白かった。
ひとつきほど前、瀬名秀明さんから、新著『小説ブラック・ジャック』をご恵贈いただいた。AIやiPS細胞が臨床・実用化した世界でメスをふるうブラック・ジャックという話である。オリジナルの『ブラック・ジャック』の登場人物だけでなく、作中のバイプレイヤーも「手塚式スターシステム」で手塚作品から「出演」しており、瀬名さんの手塚愛があふれていた。ピノコのちょっとマイナーなセリフもでてくるが、なぜか「あのセリフ」は取っておかれている。読むと、オリジナルの『ブラック・ジャック』も読みたくなる。本棚を見ると、うちにあったのは1975年(初版ではない)の「手塚治虫マンガ家生活30周年記念作品」と記されたものであった。
◆華文小説
評判の中国の小説二冊、SFの
『三体』(劉慈欣著、立原透耶、光吉さくら、大森望訳)と、ミステリの
『黄』(雷鈞著、稲村文吾訳)を読んだ。
電波望遠鏡がリアルな日常である観測所で働く者なので、
『三体』の設定の諸々には、なんじゃそれとも思ったけれど、荒唐無稽さをたのしんだ。三体問題といえば、少し前このブログに、モリアティーの論文
『小惑星の力学』のテーマは
三体問題であろうということを書いた。
『黄』は、ドイツ人の養子になった中国出身の主人公の名前が、ベンヤミン・ウィトシュタインということに、にやりとした。漢字では本傑明・維特施泰因で、ウィトゲンシュタインではなく、ウィトシュタインである。じっさいにWittesteinという姓があるのかどうかを調べたら、これはちゃんとあった。ミステリとしての大ネタとテーマの融合がすばらしく、島田荘司推理小説賞に相応しい物語であった。折紙探偵団コンベンションのゲストのうちのひとりが、中国からの黄(ホアン)さんで、この小説も現地での発音はホアンなのだろう、などと思った。黄さんは『名探偵コナン』が好きということだったので、現代華文ミステリも読んでいる可能性は高く、話題にすればよかった。
◆お酉さま
ちくま文庫の
『落ち穂拾い・犬の生活』(小山清)を読んでいて、
『安い頭』のルビに、え?となった。鷲神社(おおとりじんじゃ)に「わしじんじゃ」というルビが振られていたのだ。全国各地にある「鷲神社」には、「わししんじゃ」と読むものもあるが、
『安い頭』にでてくるのは、台東区千束にある、通称「お酉さま」の「おおとり神社」である。一葉の
『たけくらべ』にも、大鳥神社、もしくは大鳥大明神として登場する神社で、あの社を「わしじんじゃ」と呼ぶのは聞いたことがない。「難読と思われる漢字にはルビを付しました」という編集での誤植だろう。
酉の市で有名なこの神社の祭神は、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)とされる。この神様は紡績や製紙の神様、すなわち紙の神様でもある。今年の二月、入谷での展覧会のさい、そういえば鷲神社が近いなあと参拝し、折り紙界の発展を祈念した。そのとき、境内に其角と子規の句碑があることに気がついた。一葉の文学碑があることは、なんとなく見知っていたのだが、この句碑はあまり気にとめていなかった。
春をまつ事のはじめや酉の市 其角
其角の句は、一読、彼らしい奇想はなさそうに思える。しかし、あの其角だからなあ、とすこし調べてみると、「酉の市の売れ残り」が客のつかない遊女を意味するという話があるとわかり、「春」や「事」が色ごとも意味しているのか、と腑に落ちた。となると、かなりきわどい句である。そもそも鷲神社は、吉原遊郭に接した、聖俗のあわいに建つ社だ。一葉の『たけくらべ』でも、そうした背景が重く、作中に描かれるこどもたちにたいして緊張感を生んでいる。あの地を舞台にした文学は、すくなくとも、現代の読者であるわたしの感覚では、そう読める。上記の小山清さんの小説のいくつかもそうだ。
そんな背景を持った句が立派な句碑になって、善男善女がこれをながめているということには、一種のアイロニーを感じなくもない。泉下の其角も苦笑しているのではないか。そうでなくても、文学碑というのは、歌枕(歌に詠まれた名所旧跡)の伝統の近代版であり、散歩者のマイルストーンとしても便利なものだが、引用された文言が必ずしもその土地を称揚しているわけではないことを思うと、奇妙なものでもある。文学者の側からしても、碑に刻まれることがうれしくなさそうなものも多い。鷲神社の一葉の碑は、『たけくらべ』からの一文のみならず、桃水あての書簡までが刻まれていて、一葉にいま口あれば、やめてくださいと言うのは必定だろう。
とまあ、いろいろ考えてしまった其角の句にたいして、子規の句は、いかにも子規という写生句だ。子規は、
『獺祭書屋俳話』の中で、其角の才を高く評価しながら、「
巧者巧を弄し、智者智を逞(たくま)しふする所にして、其角が一吟、人を瞞着するの手段なり」とか、「
多能なるものは必ず失す。其角の句、巧に失し、俗に失し、奇に失し、豪に失する者少からず」などとも書いている。この評からも、詩句としての力は、ありのままに見て書いて投げ出したもののほうが強いという、俳句の革新をめざした子規の思いが知れる。其角と子規のふたつの句碑が並んでいるのは、なかなか乙なのである。
(『獺祭書屋俳話』の引用の表記、句点、ふりがなは、復本一郎氏校訂の岩波文庫版による)
なお、東京西南部生まれとしては、おおとり神社というと、千束のお酉さまではなく、目黒の大鳥神社も思い浮かぶ。しかし、こちらの「鳥」は、天日鷲命ではなく、日本武尊の白鳥伝説が縁起だ。どちらも酉の市で有名な神社なのだが、おおとり信仰(?)の来歴は、いろいろ錯綜していて、おおとり神社だからといって紙の神様かというと、そうでもない。
◆中井英夫さんの日記
最近、中井英夫さんの日記を読み返した。近現代短歌史への興味からだったのだが、戦中の記述や太宰との関わりが興味深く、ほぼ端から端まで読みとおしてしまった。時代は繰り返すというか、1945年8月8日に、吉本興業への不快を綴った記述もあった。
ゆきどまりならゆきどまりで、よどみならよどみで、何らそこにせい一杯の全身をなげかけた哀切といふもののない現代娯楽を苦々しくかんじた。ましてかゝる娯楽を恬然として並べて恥ぢぬ吉本興業に到つては−。わたしらはもういちど低級娯楽に寸時も愉安されつことがあつてはならない。われらはこれを敵とし、正当にこれを憎まなければならない。
学徒出陣で市ヶ谷の陸軍参謀本部に勤務していた中井英夫青年は、敗戦直前、腸チフスに罹患して東京第二陸軍病院に入院する。上の感想のきっかけになったのは、その病院で、瀕死に近い状態で古川緑波氏の「ひげのうた」を小声で歌う男を見たことである。なお、ロッパ氏は吉本興業ではない。また、「ひげのうた」は『髭に未練はないけれど』のことと思われる。傷つき病んだ兵隊が、呆けたように流行歌を歌う状況は、逆に底の抜けた悲惨さを印象づけるようにも思えるし、吉本興業のどこが癇に障ったのかもよくわかないのだが、中井青年は、それらが、ただただ腹立たしかったようだ。
彼が憎むのはそればかりではない。ソヴィエトの参戦で大日本帝国の滅亡を確信した8月9日には、以下の記述がある。
「これやで−」両手をあげて見せ乍ら、関西弁のきれいな一等兵が入つてき、みなわらつた。
かうして、日本は確実に滅びの門をくぐつた。
昭和二十年八月九日である。
もはや、いつさいの伝へるべき日本の愛は失せ果てねばならぬ。いつさいの、見知らぬ、そこらに無数に輝いてゐた小さな幸福、小さい愛情。それらは飛散した。
日本民族の感じる大きい愛情、といふものは、由来たいした意味はもたないし、又かゝる邪宗的宗教国家といふものは、規模こそ異なれ、世界各国の蛮地に点在してゐる。
戦中の、しかも市ヶ谷の参謀本部にいた学生の記述と思うと、日本を邪宗的宗教国家と言い切っているのは驚く。日記刊行時(1971年)の前書きにある、「当時の学生のあらかたは、いま伝えられるようなものではなく、反戦の気風は意外なほど強かった」というのは事実なのだろうが、やはり異端と思われる。あるいは、じっさいに反戦の気風が強かったとしても、号令にかき消されるひそひそ話であったということだろう。
ソヴィエトの参戦だけが地獄の門が開いたこととされているのは、じっさいそうでもあったのだろうが、参謀本部にいても、周辺が既に焼け野原でも、一介の学徒兵には、新型爆弾のことも詳しく知らされておらず、沖縄や外地の状況も実感ではなかったからだろう。しかし、お手上げですなあ、とみなで笑っている風景は、集団的なガルゲン・フモール(絞首台での冗談)がきわまった感があって、生々しい。
そして、8月11日、「誰があの、血みどろな闘争をしたのだ? わたしの記憶では中井の家は、古い時計のやうにしづまりかへつてゐるのに−」と記したのを最後に、彼の病状は悪化し、15日の敗戦も、14日の文書焼却の閣議決定を受けて市ヶ谷で書類を燃す煙があがり続けたことも知らずに、意識不明となる。回復したのは9月にはいってからだという。何の象徴かと思ってしまうような話だ。
同じころ、医師であったわたしの父方の祖父は、患者から感染した腸チフスで命を落とした。ちなみに、中井さんの日記には前川というひとがでてくるが、これは、植物学者の前川文夫氏の関係者で、わたしと親戚関係はまったくない。
と書いて思ったのは、1945年、祖父はどこの病院にいたのだろうか、ということだ。父も叔父たちも鬼籍にはいったいま、調べるのがやや難しいが、世田谷区在住だった祖父は、同区の東京第二陸軍病院に顔を出していた可能性がある。祖父の罹患した腸チフスというのは… まあこれは、考えすぎというか、関係妄想というものだ。
ただ、この病院は、のちに国立小児病院(現・国立成育医療センター)となり、少年時代のわたしが喘息の治療のために通った病院でもある。偶然からなにかを読みとろうとしてしまうことから、時代が地続きであることを実感することはある。
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