月はどっちに出ている2015/02/03 22:24

題名にひかれて、時代小説『折鶴舞う』(鳥羽亮著)を読んだ。
帯の惹句は「残された血染めの折鶴。そこに隠されたものは-」
TVドラマを観る感じで楽しんだ。ただ、ひっかかったところもあった。「折鶴は回転してしまってきれいに飛ばないんだよなあ」などだが、それよりも気になったのは、月の描写だった。以下、野暮な考証である。

たとえば、冒頭に以下の文がある。
「頭上で、十六夜の月が皓々とかがやいている。(略)五ツ(午後八時)過ぎだった」

十六夜(いざよい)の月、すなわち月齢16の月は、地球を挟んで太陽とほぼ反対側からやや遅れた位置にあるので、日没からすこし遅れて昇る。「いざよい」という言葉は、いざよう(躊躇する)、つまり、日没と同時に昇る満月よりも、月の出が遅れることを表す。その遅れはおおまかに言って、24時間/30(周期)であるから、50分ぐらいである。

時刻の五ツというのは、暮れ六ツ(日没後、薄明がなくなる約30分後)から一時(いっとき:約2時間)経過した時刻である。不定時法なので、基準時刻(暮れ六ツ)も一時の長さも変わるが、文中に「秋の涼気」という記述があったので、9月頃とすれば、これはだいたい20時である。

問題は、秋の五ツどきの十六夜の月の高度である。月が出てから1時間半ぐらい経った時刻だ。この季節、南中時の月の仰角は60度であり、20時にはせいぜい15度ぐらいにしかならない。「頭上」という言葉は広く解釈できるので、間違いと言い切ることはできないが、ちょっと無理がある。ただ、「皓々」という表現は正しい。もっと高度が低ければ、月光が通過する大気が厚くなり、色温度も低く、「皓々」(白く光る)ではなく、より黄色ぽくなるだろう。

近代以前、月明かりは重要な夜の照明であり、時代小説にその描写があるのは、雰囲気を盛り立てる。しかし、街に住む現代人は月明かりを実感として感じることは稀なので、感覚がずれる。当時のひとなら、「五ツに頭上に十六夜の月」というのは、すぐに「変じゃないか」と思うのではないだろうか。
などと、月の光が好きな者として思うのだった。
今晩たった今も、ほぼ満月に近い小望月の月光が、中天近くから天窓に降り注ぎ、新聞の見出しが読めるぐらいに明るい。中天といっても仰角60度ぐらいだが、まさに頭上にかがやく月である。

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