◆詰将棋
文庫で再刊された、詰将棋が題材の竹本健治さんの
『将棋殺人事件』を読んでいて、以前、詰将棋の話を書いたことを思いだした。1994年、『折紙探偵団新聞』に書いたエッセイで、以下は、その冒頭部分の引用である。
「手順の構成美」「配置の簡潔美・自然美・象形美」「パズル性を含んだ難解巧妙な作品」「趣向の持つ叙情や浪曼性」「数学的才能と芸術的才能」「誰もが手を出してみたくなる」「クラシック作品」「無駄を省く、不純を省く、簡素化する」「好ましい意外性と驚き」「すでに完成された作品に関する知識」…
以上は、コンピュータ雑誌「bit 」92年10月号に載った「詰将棋・詰チェスにみる知的作品の美」(井尻雄士氏)からの引用である。コンピュータ雑誌に載った以上、システム設計やプログラム作成に関連づけた話なのだが、ご覧のように「我々」にもけっして無縁の話ではない。本格ミステリ作家、ゲームデザイナー等々、この文章に首肯する向きは多々あろうが、「我々」以上にピッタリくるのは「詰将棋・詰チェス」を除けば、たぶん「詰碁」ぐらいなものだろう、と詰まらない冗談が言いたくなるほど、ここで述べられているのは「我々」のことだ。
(『折紙博物誌』(第一部)より)
◆伝統と言うけれど
折り紙や和算が、日本の伝統と文化のなんとかというネタにされても、うれしくないというか、警戒するというか、煩わしく感じる。なんてことを考えたのは、最近、「伝統」の記号として引っ張り出された和菓子屋さんの心中を忖度したためである。(「忖度」の正しい用例)
知性の自律的な活動なしには、新しい伝統となるべき文化の創造はもとより、旧い伝統が文化として存在するということも考えられないであろう。
(『哲学ノート』1941、三木清)
三木清は、1945年6月、政治犯を匿ったとして治安維持法で拘留され、終戦後の9月26日、劣悪な衛生環境の刑務所で46歳で獄死したひとである。
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