グレン・フライとブーレーズ2016/01/31 23:06

もう2週間になるが、グレン・フライ氏が亡くなった。グレイ・フライ&ドン・ヘンリーのDesperado(Eagles、1973)は、わたしが歌詞をすべて覚えている唯一の英語の曲である。昔のレコードのライナーノートはかなりいい加減だったので、正確ではないと思うが、10代の頃に覚えたものが染み付いている。学校を出て就職せずに自転車で放浪していたときは、これが一種のテーマソングだった。自己憐憫的だが、若かったのである。以下、後半部分の訳詞である。
Desperadoは「ならず者」や「無法者」ではなく、「あんちゃん」と訳したい。

あんちゃん、いまより若くなることなんてできないんだぜ。
痛みと飢え、それが、あんたを故郷に駆り立てているのだろうさ。
自由、自由、そんなことを言うやつらもいるけどよ。
あんたの牢獄、それは、ひとりでこの世界を彷徨い歩くことだよ。
冬の日に、あんたの足は凍えていないのか?
雪は落ちてこないけど、太陽も輝かない。
あんたは夜も昼もわからなくなっている。
なにもかも喪ってしまったんだ。
心がどっかに行っちまったなんて、笑えないぜ。

あんちゃん、正気にもどれよ。柵を越えて、門を開けろよ。
雨だってか。でも、虹が架かるかもよ。
だれかに愛してもらうんだ。だれかに愛してもらうんだ。だれかに愛してもらうんだ。
手遅れになる前にな。

なぜか指摘しているひとがいないのだが、『Desperado』(1973)と『誰かか風の中で』(和田夏十作詞、小室等作曲、1972、『木枯らし紋次郎』のテーマ曲)は、洋の東西で、双子のような曲である。『誰かか風の中で』のほうが1年早いのも面白い。アルバムの『Deperado』が、西部のならず者がコンセプトだったように、『木枯らし紋次郎』は、股旅もの時代劇を西部劇のように演出するドラマだった。どちらの曲も、過酷な世界をたったひとりで希望なく彷徨い歩く者を、慰撫する詩である。

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そして、これは1ヶ月ほど前。作曲家のピエール・ブーレーズ氏が亡くなったと聞いて、こちらは、『本格折り紙』のエピグラフを思い出した。
私にとってもっとも重要な教訓は、時にはあえて想像力のもたらす現象を言わば「幾何学された」基本的な問題に還元せよということだ。
『クレーの絵と音楽』(笠羽映子訳)ピエール・ブーレーズ(作曲家)

かなり格好つけた引用である。『クレーの絵と音楽』は、ブーレーズ氏ではなくクレーへの興味で読んだ本である。

先ごろ翻訳出版された大著『プリンストン数学大全』の「第V||部数学の影響」に、数学と音楽、数学と美術の項があったのだが、前者の中にブーレーズに関する記述、後者の中にクレーに関する記述はなかった。じっさい、クレーの幾何学というのは、扱うのが難しいだろう。それは、わたしの中では、次のようなものと親和している。
伝説の中でアルキメデスが死の間際に描いていてローマの兵士に踏まれた図。
教室の黒板に描かれた図と数式。
なんというか、心の中にかなり明晰な構造があって、その一端の表出として図があるという感じである。アルキメデスの図からの連想では「路上に工事関係者が描いた記号」も近いのだが、あれに詩情を感じることに、あまり一般性はないようにも思う。

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