逃避的読書2015/04/20 21:47

◆逃避
このブログで、なんども同じようなことを書いているような気もするが、最近読んだメールの文面にあった、「忙しいのでつい読み耽ってしまいます」という言葉に強く共感した。なお、この言葉を含むメールを書いたU氏は、わたしの数倍忙しいのではないかと思われるひとである。

本は読むもの
北村薫さんの「私」シリーズの約20年ぶりの最新作『太宰治の辞書』を読んだ。北村さんのデビュー作でもある「私」シリーズの『空飛ぶ馬』を読んだときは、疑問符をつけながらも、著者はじっさいに若い女性かなあと思っていたが、作中の「私」と北村さんの関係は、まさに本作で語られている『女生徒』と太宰の関係に似たものなのであった。

献辞が「本に-」となっている今作では、年齢を重ねた「私」が、本の蒐集をするような記述がある。北村さんの正体を知らずにこれを読んだとしたら、違和感を持ったかもしれない、と思った。そういう女性がいてもまったく不思議はないのだが、この違和感は、長く妻を見てきたことからきている。彼女も、作中の「私」と同様、まさに「水を呑むように本を読む」ひとなのだが、モノとしての本にはほとんど興味がなく、書くことにも興味がなく、批評もとくにしない。ただ読む。外れもあるようだが、だいたいにおいて、しあわせそうに読む。

先日、小説を上梓した又吉直樹さんが「本は書くものじゃなくて、読むものです」という名言を発しているのをTVで視た。本に関する至福というのは、それなのだ。ご飯を食べるように、日差しを浴びるように、朝起きてまどろみながら鳥の声に耳をすますように、あかね空や星空に見いってしまうように、習慣というか、第二の本能として本を読む。感想を語ることもあるが、別に語らなくても、読むことだけで完結して充足している。なんのためでもないのである。

わたしは、妻よりやや不純に、なにかのきっかけにならないかとか、お勉強のために本を読むことがあるが、ほかのことをするべきときに逃避的に本を読むことは多い。それは、わたしの一番純粋な読書なのだろう。

『カジョリ初等数学史』
『初等数学史』(カジョリ)
ちくま学芸文庫にはいった『初等数学史』(フロリアン・カジョリ著 小倉金之助訳 中村滋校訂)の表紙デザインが、とてもクールだった。折った紙がつくる図形の写真に記号を加えたものなのである。上巻に使われている特殊紙は、あまりみかけない紙だが「レイチェルGA」、下巻は「NTストライプ」だと思われる。デザインは、工藤強勝さんと勝田亜加里さんで、写真は蝦名悟さん、とあった。