『PEN』など2015/04/01 23:56

『PEN』
雑誌『PEN』の特集「世界に誇るべきニッポンの100人」に、三浦公亮先生がでている。
記事の中で、「折り紙は日本のお家芸を超えて世界中で応用されています。日本人も固定観念を捨てて、もっと自由に発想していくべきでしょう」と述べているのが、 なんかかっこよかった。

収束
やらなければいけないことが多いのだけれど、ぼんやりと休む時間もほしいと思案中である。などと思案するのは、休むうちにはいるのではないか、ということを思案しているのは、バカな考え休むに似たりということで、休むこととほとんど同じではないか、なんて書いているのも休んでいると同じことで、
というような再帰的な思考が収束せず発散するばかりになって困ったのだが、疲れたので休むことにしよう、と収束した。

養蚕の神など2015/04/13 21:32

穴あきソーサー
穴あきソーサー
以前、中央が出っ張っている受け皿(ソーサー)を「阿蘇山様複式火山型受け皿」、略してアソーサーと名づけたが、先日喫茶店で、その発展したかたちを見た。盛り上がった受け皿の中央に穴が空いているのだ。取っ手のついたカップと、位相幾何学的に同相の受け皿である。意表をつかれた。皿としての機能はかなり失われているが、ドーナツ専用の皿としても使える。

養蚕の神
養蚕神
北杜市須玉町下津金の津金学校の裏手にある神社(諏訪神社)にあった石像が面白かった。雲の上に乗り、木の枝を持っている。なんだこれはと思ったのだが、どこかで見た記憶もあった。その記憶をもとに調べてみると、常陸の国の「うつろ舟」事件に関連した、神栖市の金色姫伝説(養蚕の神)の図像と同じであることがわかった。持っているのは桑の木で、これは養蚕の神である。

逃避的読書2015/04/20 21:47

◆逃避
このブログで、なんども同じようなことを書いているような気もするが、最近読んだメールの文面にあった、「忙しいのでつい読み耽ってしまいます」という言葉に強く共感した。なお、この言葉を含むメールを書いたU氏は、わたしの数倍忙しいのではないかと思われるひとである。

本は読むもの
北村薫さんの「私」シリーズの約20年ぶりの最新作『太宰治の辞書』を読んだ。北村さんのデビュー作でもある「私」シリーズの『空飛ぶ馬』を読んだときは、疑問符をつけながらも、著者はじっさいに若い女性かなあと思っていたが、作中の「私」と北村さんの関係は、まさに本作で語られている『女生徒』と太宰の関係に似たものなのであった。

献辞が「本に-」となっている今作では、年齢を重ねた「私」が、本の蒐集をするような記述がある。北村さんの正体を知らずにこれを読んだとしたら、違和感を持ったかもしれない、と思った。そういう女性がいてもまったく不思議はないのだが、この違和感は、長く妻を見てきたことからきている。彼女も、作中の「私」と同様、まさに「水を呑むように本を読む」ひとなのだが、モノとしての本にはほとんど興味がなく、書くことにも興味がなく、批評もとくにしない。ただ読む。外れもあるようだが、だいたいにおいて、しあわせそうに読む。

先日、小説を上梓した又吉直樹さんが「本は書くものじゃなくて、読むものです」という名言を発しているのをTVで視た。本に関する至福というのは、それなのだ。ご飯を食べるように、日差しを浴びるように、朝起きてまどろみながら鳥の声に耳をすますように、あかね空や星空に見いってしまうように、習慣というか、第二の本能として本を読む。感想を語ることもあるが、別に語らなくても、読むことだけで完結して充足している。なんのためでもないのである。

わたしは、妻よりやや不純に、なにかのきっかけにならないかとか、お勉強のために本を読むことがあるが、ほかのことをするべきときに逃避的に本を読むことは多い。それは、わたしの一番純粋な読書なのだろう。

『カジョリ初等数学史』
『初等数学史』(カジョリ)
ちくま学芸文庫にはいった『初等数学史』(フロリアン・カジョリ著 小倉金之助訳 中村滋校訂)の表紙デザインが、とてもクールだった。折った紙がつくる図形の写真に記号を加えたものなのである。上巻に使われている特殊紙は、あまりみかけない紙だが「レイチェルGA」、下巻は「NTストライプ」だと思われる。デザインは、工藤強勝さんと勝田亜加里さんで、写真は蝦名悟さん、とあった。