なんで動いていたの? ― 2015/03/01 01:05
2月4日 スーパープレゼンテーション
ロバート・ラングさんの「スーパープレゼンテーション」(NHK-Eテレ)を視て、「前川定理!」と言ったというひとを数人確認した。ちょっとうれしい。平坦折りの特徴が、折ること全般の特徴みたいになっていて、誤解するひとがいるかも、とは思った。
2月7日 外を吹く風
すこし前に、「和算は面白いが、欠点も多く、近世の日本もユートピアだったわけではない」みたいなことを、あるところに書いた。言わずもがなとも思うが、昨今のTV番組などに多い「日本は素晴らしい!」の風潮には、ちょっとうんざりしている。
例の過激組織、最近はISILと呼ぶことが多いが、ISISという呼びかたもある。対称性の学際的研究の国際学会(International Society for the Interdiscplinary Study of Symmetry:ISIS)や松岡正剛さんのISIS編集学校は、困っているだろうな、と。
2月14日『幾何学の血筋』
『伏見康治コレクション4 物理つみくさ集』で、以下のように紹介されていた『The Geometric Vein』(幾何学の血筋)を、古書店で見つけた。
幾何学の本はたいていの場合綺麗な絵や図がいっぱいあって、楽しいものであるが、この本も色刷りまであって、読まずに楽しめる本であったテープを編むことによってつくる多面体の論文などが載っている。伏見先生にしてこの言なので、本の絵を見て楽しむのはありなのだ。
「挿絵も会話もない本なんて、なにが面白いの?」(『不思議の国のアリス』ルイス・キャロル)
2月14日 ワイファイ
アメリカ人のPさんに再会した。彼女がWifiを探しているときにワイフを紹介してしまったことがある。
2月15日 ハンズフリーフォン
車を代えることになり、その電子機器化が進んでいるのを実感した。たとえば、ブルートゥースでスマートフォンと接続させ、ハンドルについたボタンを押せば、運転中もハンズフリーで電話に出ることができるようになっている。しかし、ちょうど読んでいる『錯覚の科学』(クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ著 木村博江訳)という本に、以下のことが書いてあったのだった。
じつのところ注意力への影響という点では、手動式の携帯もハンズフリーの携帯もほとんど差がない。どちらも同じように、そして同程度に注意力を失わせる。
2月16日『デバッグの理論と実践』
『デバッグの理論と実践 -なぜプログラムはうまく動かないのか』(Andreas Zeller著 中田秀基監訳)という本の第10章に、以下のエピグラフがあった。
プログラマの時間を節約する明白は方法の1つは、マシンにプログラミングにおける低レベルの仕事を多くさせることだ。 エリック・S・レイモンド(Eric S. Raymond) 「The Art of UNIX Programing」(1999)「明白は」が「明白な」の誤植であることが明白で、デバッグや校正が難しいことを自己言及的に示しているものになっている。
2章の次のものは、引用元がない「詠み人」知らずの文で、ほかでも見たことがあるが、実感がこもっている。
デバッグの6段階
1.起こるはずがない。
2.僕のマシンでは起こらない。
3.起こっちゃいけない。
4.なんで起こるわけ?
5.わかった。
6.なんで動いていたの?
2月19日 太陰太陽暦
2月19日は太陰太陽暦の1月1日だった。その前後を休日としている中国や台湾からの観光客が多いことがニュースになっていたが、太陰太陽暦の1月1日に基づく記念日は日本にもある。建国記念日である。『日本書紀』に記された「辛酉年春正月庚辰朔」を、紀元前660年2月11日と計算したのである。1873年に制定され、1948年の廃止後、再び1967年に制定されたものである。
この計算のことを知って思ったのは、近世ヨーロッパの、聖書の解釈から地球の年齢を求めた計算に似ている、ということだった。ファンタジーと細かい計算の混淆という奇妙なアマルガム(合金)である。さらに考えると、そもそもなぜ『日本書紀』に日付がそこまで詳しく書いてあるのか、ということが疑問となる。
そこから読みとれるのは、8世紀の『日本書紀』成立時、当時の陰陽寮の暦博士が、その知識に基づいて後付け計算を行ったということだ。古代中国の讖緯説に基づき、革命の年として辛酉という年が相応しいとしたこと、1月1日にすること、古事記に示された長命の神代の天皇の年齢に合わせるなどで計算した、と推察される。後年、紀元前660年2月11日と計算したひとは、8世紀の暦博士の計算を検算したようなものだ。
なお、こうした『日本書紀』の暦日に関しては、小川清彦氏の研究がある。東京天文台(現国立天文台)の暦計算室にいたひとだというので、広く考えれば、先輩と言える。戦前はその研究の結果を発表できなかったとのことだ。
2月23日 ミレニアム問題
TVドラマ『デート 恋とはどんなものかしら』で、数学者の依子さんとその母親が解こうしたミレニアム問題というのは、クレイ数学研究所のミレニアム懸賞問題(7つあって、ひとつはペレルマンがすでに解いたポアンカレ予想(定理))のどれかだと思うけれど、劇中にちらっと出た白板の数式からはなんの問題かはわからなかった。P≠NPでもリーマン予想でもなさそうだった。
このドラマ、毎週楽しみにしている。わたしは、世間的にはいわゆる理系だけれど、「高等遊民」の巧くんもよくわかる。内心のつぶやきで、「by だれそれ」をつかうこともある。「私たちは生きていさえすればいい by 太宰」とか。『サイボーグ009』のコスプレがでてきたときに、「あとは勇気だけだ by 島村ジョー」のせりふがなかったのは残念だった。
2月25日 『火星の人』
たぶん、この国の読書は、電車内のそれに支えられている。電車の中や飛行機内での読書は楽しい。長距離だと、読書がはかどるという感じになる。
ということで、関西への日帰り出張の往復で、評判のSF・『火星の人』(アンディ・ウィアー著 小野田和子訳)を読んだ。火星に置き去りにされた宇宙飛行士のサバイバルの話である。
著述の半分以上は、三人称視点ではない、宇宙飛行士の記録日記で、これが面白い。くだけた口調の中に突然「ですます調」をいれると、「(棒)」(棒読み)や「(笑)」になるという翻訳の技はうまい。
ストーリー上で重要なものになるある機械の起動メッセージが、じっさいに使われていた「VxWorks」ではなく、「VxWare」という名前なっているのは、意図的なのか、なにかのネタなのか。会社の名前はWind River Systemsでそのままなのに。
NASAの「この機械」がつくられたのと同じ20年ぐらい前、リアルタイムOSならVxWorksだよね、ということで、それほどシビアではない制御だったのだけれど、同OS上にアンテナ制御プログラムを組んだことがある。というようなことを、読んでいて思い出したわけである。で、宇宙に行って修理が難しいものや人命が関わるものではないから、わたしの書いたプログラムでも務まっているんだよなあと、いつもの感想がわいて...きましたです。
ちなみにマークさん(小説の主人公)、UNIX系OSがあれば、ASCIIのコード表はman asciiですぐ出るよ。
2月25日 東京駅
東京駅は、新幹線の乗り換え駅という位置づけで、通り過ぎるだけだったが、ふと思いたって、丸の内中央口から外に出て、新装なった夜の東京駅を外から眺めたら、これはたしかに絵になる風景なのであった。
2月27日 迷路の味わい
機能追加に機能追加を重ねたプログラムというのは、宮田珠己さんのいう四次元温泉(『四次元温泉日記』)的な迷路構造になる。この日修正していたプログラムは、こんがらがっていて、逆に味わい深いような気もした。
連鶴新資料に関する研究会 ― 2015/03/10 01:16
半世紀前の伊勢湾台風で水浸しになり、そのまま朽ち果てても不思議はなかった200年以上前の資料。他の資料との関連で読み解くことは知的興奮を呼び、創作家的には、堀口さんが試みていたような、泉下の作家にシンクロしようとする感覚もわくわくする。水木しげる先生ふうに「オモチロイ!」と言いたくなるぐらい、面白いのであった。(謎の表現だが、興奮した!ということである)
長円寺の住職・義道は、広いネットワークを持った知識人だったので、彼の考案したつなぎ折鶴の記録や出版物が遺ったわけだが、歴史に埋もれた創作家もいたのかもしれない、などとも考えた。
なお、研究会の呼びかけ人のひとりとして、会があることをもっと広報しておけばよかったと、反省した。
本の話など ― 2015/03/13 23:44
『数学セミナー』の表紙が大きく変わって、数学に関係ある切手についての記事になっていた。で、『数学の切手コレクション』(R.J.ウィルソン著)というニッチな(!)本があったはずと検索したら、数セミのこの記事を書いているのは、その本の訳者である数学者・熊原啓作さんなのであった。
そう言えば、わたしも、『季刊をる』に、折り紙が描かれた切手のことを書いたことがある。
数セミのわたしの連載『折って楽しむ折り紙セミナー』は、ありがたいことに続くことになったが、今号から趣向を変えて、展開図ではなく工程図にした。折り紙の作図問題的なたのしさを味わってもらえれば、と思う。初回は正八面体をもとにしたモデルだが、これは、これまでの2回の4月号も正八面体だったからという、著者以外にはどうでもよいこだわりに基づく。
『新しい折り紙の教科書』
宮島登さんの『古典から創作まで なつかしくて新しい折り紙の教科書』が刊行される。
『現象数理学の冒険 』
『現象数理学の冒険 』(三村昌泰編)の第7章は、「折紙技術の工学への応用」(萩原一郎著)である。
一般化
無神論、一神教、二神教(ゾロアスター教等)、多神教を、n神教(n>=0)という概念で一般化して、不変なものを見出すというバカなアイデアが浮かんだ。
『イミテーション・ゲーム』
13日封切りの映画、アラン・チューリングを描いた『イミテーション・ゲーム』が楽しみだ。チューリングと言えば、昨年読んだSF小説『オール・クリア』(コニー・ウィリス著 大森望訳)にもチューリングがでてきて、重要な脇役になるのかと期待して読みすすめたのだが、カメオ出演みたいなものでちょっとがっかりした。がっかりには、『オール・クリア』などの「オックスフォード史学生・タイムトラベルシリーズ」を手放しで好きになれないということも影響している(ウィリスさんの語りは抜群で、すばらしい小説家だと思うのだけれど)。理由のひとつは、わたしがタイムトラベルものに思弁的なアクロバットを期待しすぎるからである。そして、この作に関してはもうひとつ、空襲を耐えた先にあったのが廃墟以外何もなかった敗戦国の生まれなので、ロンドン空襲とVEデイ(ヨーロッパ戦勝記念日)という話を読んでも、「そうですか。VEデイですか。よかったですね」という感想を避けがたく持ってしまうからである。
チューリングが重要な役割で登場する『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇 ケンブリッジ 1939年』(コーラ・ダイアモンド編 大谷弘、古田徹也訳)も最近出版された。この講義の内容を大きなネタもとにしたであろう小説『ケンブリッジ・クインテット』(ジョン・キャスティ著 藤原正彦 、藤原美子訳)は、ウィトちゃんほんとうにこんな言いかたでこんなことを言うか?という、フィクションならではのもやもやがあったが、『講義 数学の基礎篇』は、講義ノートからおこしたものとはいえ、ウィトゲンシュタインやチューリングの声を写したものなので、そうしたもやもやは少なそうだ。しかし、気合をいれないと読み始められない本なので、積ん読になっている。
折り紙の宇宙@西脇市 ― 2015/03/16 12:40
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「いままでぼくたちが旅行したところが全部、北緯三五度、東経一三五度の線にはいってくる。浜中君、これは一体どうしたことかね?」
89とソフィ・ジェルマン など ― 2015/03/18 21:55
2月4週、3月2週、そして来週(3月4週)が関西行きと、関西づいている。例年は、関西に行くのは年に1回なので、この集中は珍しい。今週も、天文学会(大阪大)と情報処理学会の折り紙セッション(京都大)があり、行くことも考えたのだけれど、都合がつかなかった。
89とソフィ・ジェルマン
TVドラマの『デート』が面白い。本格ミステリ風の読みをしてしまう癖があるので、プロットの多くを先読みしてしまうが、「やっぱりそうきたか」という満足感がある。
そしてなにより、せりふの「あるある」感、たとえば、「数字と幾何学模様と複雑な構造物への情熱がある」、「89は11番目のフィボナッチ数」、「スティーブン・キングは一気に読むことにしているんだ」、「『海辺の叙景』だ」などの選択がうまくて、吹き出してしまう。「by サン=テグジュペリ」なんて、「きたね」と、TVを視ながら声をそろえてしまった。
主演のふたりである依子(数学好き)の要素も巧(文学青年くずれの自称高等遊民)の要素も共に持つひとも多いはずである。秩序だったものがあると幾何学的対称性を読み取ろうとし、乱雑になっている調味料の瓶などは整頓せずにいられず、いっぽうで、キングの『11/22/63』を一気読みし、つげ義春や漱石を愛読している実例は、ここにもある。数理的審美趣味と文芸好きの心性は、わたしのなかでは相似したものだ。このドラマにおいても、文学青年の挫折と対になるように、ヒロインは数学者として挫折していて、一見まったく異なる主人公同士が似ていることが、物語の基本構造となっている。数学と文学は、屍累々の分野でもある。
89という数は、ドラマの依子さんの言っていたように、11番目のフィボナッチ数であり、自然数の各桁の二乗を足していくことを繰り返すと現れるふたつの数(1と89)のうちのひとつであり、さらに、2p+1が素数となる10番目のソフィ・ジェルマン素数でもある。
マリー=ソフィ・ジェルマンは、フェルマーの最終定理の証明に、第2の大きなステップを刻んだことなどで知られる、今から約200年前のフランスの数学者だ。ソフィ・ジェルマン素数は、そのときに重要な意味をもつ数である。ソフィは、物静かで内気なひとだったというが、数学への情熱を捨てがたく、女性であることを隠して別の学生の替え玉として、フランス随一の数学者であるラグランジェに学んだ。そのさい、解答があまりに優秀だったことで面会を求められ、替え玉であることがわかってしまったというエピソードがある。その後も、名前を偽ってガウスと文通(かなり一方的だが)するなどして研究を続けた。ここでも、ナポレオンの対ドイツ戦のさい、ガウスに危険がおよばないように将軍に手紙を書いたことからガウスに素性がわかり、彼を驚かせたという話が伝わっている。ガウスとはまったく別に、曲面と曲率の幾何学も構想していたとか、「無作法ですがよい資質を示しているあのガロアという学生」と書いている文章もあるとか、「これは!」という逸話が多い。
フランス革命の13年前に生まれ、7月革命の翌年に亡くなった天才数学者。晩年に彼女に関わることになった、イタリアから来たリブリ・カルドゥッチ伯爵なる人物もキャラクターが立っている(詐欺師的なのでマイナスの意味でだけれど)し、ジェンダーロールというアクチュアルなテーマもあるので、誰か、映画かマンガか小説にしてくれないかなあ。...と思ったら、『Sophie's Diary』(Dora Musielak)という小説があったことを、いまさっき見つけた。
(参考資料:『数学者列伝 I』(I.ジェイムズ著 蟹江幸博訳)
フィボナッチ数の89といえば、日本の名刺のサイズは55mm対91mmで、10番目と11番目のフィボナッチ数である55と89を使っていない。隣接するフィボナッチ数の比は黄金比に近づいていき、当然そのほうが黄金比の近似がよいのにである(名刺は黄金比の近似の例として有名である)。ただ、55と91を素因数分解して並べ替えると、5,7,11,13という連続する素数になるのは、ちょっと美しい。
リンゴと数字とヒッチハイク ― 2015/03/24 21:45
チューリングのあのエピソードは、いかに「事実はフィクションより奇だ」と言っても、嘘っぽくなるということで、映画では採用しなかったのだろう。別の場面でリンゴを出していたのは、エピソードを知っているひとへの目配せかもしれない。なお、『イミテーション・ゲーム』をあえて手短かにまとめると、天才の孤独と、戦争の虚無と、差別の残酷を描いた、期待どおりの心にしみる映画だった。
さて、そのリンゴの出てきた『デート』だけれど、4つの数字から四則演算で10をつくる遊びも、重要な小道具になっていた。劇中の3478の組は、解けるとうれしい問題なのは間違いないが、お守りとなった特別なものを、なぜ、3748や8374という設定にしなかったのかには、ちいさな疑問符が浮かんだ。この遊びでは、順番を変えないで数式ができたほうがきれい、ということもあるからだ。
この「4桁の数字を見ると10をつくりたくなる」は、『理系あるある』(小谷太郎著)という本の「数学あるある」の一番最初にでてくるものでもある。著者の小谷氏はプログラムを組んで、解けないものが約20%あることを計算している。また、8115が、解がひととおりしかなく、よい問題であると述べる。たしかにこれは意外性のある式で10になる。なお、わたしは1199も好きだ。
4桁の数字と言えば、切符の番号の他に、車のナンバーがあり、渋滞のときなどにこのゲームをする。ちなみに、わたしの車の番号もよい数で、ちゃんと10になる。
話変わって、「車と言えば」ということなのだが、先週長野から東京に戻るさい、ヒッチハイクの青年を乗せた。
会話の中で「ゆとり世代といわれるぼくらのことどう思いますか」と問われ、
「最近の若いひと-すくなくともわたしの周りにいるひと- はまじめだ。わたしは、若いひとの脚を引っ張らないようにという思いが強い」などと答えた。
彼らの親の世代の発言として、貫禄がないこと甚だしいが、じっさい、そういう心境だ。邪魔になることはあるだろうけれど、せめて、新しい世代の脚を引っ張ることはしないように...と。
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