PCOC2007 ― 2007/11/12 00:56
日本からの参加者は、山口真さんと、わたしと前川純子の3人。山口さんは正式なゲストだが、わたしと妻は完全に観光気分での参加で、あまりにも自分を楽しませることばかり考えているので、ホテルの部屋に帰ってちょっと反省、みたいな時間を過ごしている。
写真は、左から、わたしの講習作品・Dual Module Rhombic Dodecahedron。透明プラスチックフィルムは、構造も見せたい幾何作品にぴったりで、講習の役にもたつ。
そして、右上が、数ある展示作品のなかでも、一番魅かれたBernard Peytonさんの「Swimming Polar Bear」。写実志向の作品でも、「折り紙ぽい」ところを残してあるほうが魅力的なのだろう、という自己分析である。
左下は、ディテイルまったくわからない写真だけれど、会場とは別のカッコイイ展示会場。そして、右端は空いた時間とあれば「勝手に折り紙教室」を始めるひとたちという、どこの折り紙コンベンションにもある風景である。10日の夜は、珍しくわたしもそんな感じだった。
Joseph Wuさんのアトリエ ― 2007/11/17 10:43
写真左は、Wuさんのアトリエで、じっさいにはもっと渾沌としている。小さく見える青い星型は、折り紙でつくった企業のロゴマークである。
そして写真右は、愛息Michaelくん(現在3歳)のよだれかけだ。Michaelくんは、山口さんの名前をすっかり覚えて、「Hello Mr. Yamaguchi」と挨拶をするなどして、とてもかわいい。よだれかけはもう不要になったので、サインをして(Wuさんの手を添えながらだけれど)、わたしの「折鶴コレクション」に加わったのである。
イヌクシュクその2 ― 2007/11/17 10:47
二冊目のNorman Hallendyさんの本は、イヌクシュクに関する最も優れた研究者(「Apirsuqti=好奇心の強い者」というイヌイット名ももっている)による、最も優れたイヌクシュクの本と思われる。日本で買うととても高いみたいだ。なお、INUKSUIT(イヌクスウィト) というのは、イヌクシュクの複数形である。ふたつの場合はまた別で、イヌクスークという。イヌイット語は日本語と違って、名詞の複数形がしっかりあるらしい。文法的には膠着語である日本語とは違い、アイヌ語と同じ抱合語というものに属するようだ。
イヌクシュクには、上記写真(右上)にもあるように、丸石神を彷彿とさせるものもあり、鳥居とそっくりなものもある。
写真下は、イングリッシュベイビーチのイヌクシュクの近くで見つけたミニ・イヌクシュクというか積石である。積石という習俗は汎世界的なものだが、本邦では、洞窟葬の死霊の封鎖や賽の河原のように、他界との境界を強く思い起こさせるものが多い。五輪塔などにも引き継がれたとされ(五来重氏の説など)、「ひとえ積んでは父のため…」という和讃(仏徳賛美の歌)もあって、どうも哀感に満ちているが、バンクーバーのそれは、違う雰囲気である。
映画のセットその2 ― 2007/11/17 10:57
十一角形と五角形 ― 2007/11/18 13:44
十一角形というかたちは、七角形以上に珍しく、綾辻行人さんの小説にでてきた以外、記憶がない。十一という数字では十一面観音もあるが、これは1+3+3+3+1で、幾何学的なものとは言い難い。
なお、この硬貨が十一角形であることは、不覚にも、帰りの飛行機で気がついた。十二角形のような気がしていたのである。
バンクバーのイングリッシュベイビーチのイヌクシュクの近くには、珍しい正五角形の建物があった。写真右上の右端の建物で、108度をなすウィンドウ(写真左下)からも確認できるが、GoogleMapで見るとよくわかる。
また、アメリカやカナダでは、消火栓のボルトは正五角形である。ふつうのスパナで簡単に開けられないためだという。(写真は以前、アメリカで撮ったもの)
<追記> 十一角形はほとんど記憶がないと書いたが、ごく最近、十一角形の話を読んでいたのを忘れていた。今年七月に出た『江戸の<かたち>を歩く』(宮崎興二著)に、日光大猷院(たいゆういん)にあるオランダから贈られた十一角形の鉄製の灯籠が紹介されている。(11/19 22:22)
白旗神社 ― 2007/11/22 01:26
昨日あらためて見てきたが、これは、じつにイヌクシュク的な造形センスの構造物である。(ふたつ並んでいるので、イヌクシュクではなく、複数形(ふたつ)のイヌクスークと呼ぶべきか?)
まったく神社らしくない神社、あるいは、古代の神社はかくあったかと思わせるかたちとも言える。かなり珍しいもののようだ。貴重な文化財で、今では周辺も整備され、大泉村(現在、大泉村は北杜市の一部)の案内板もあるが、十何年前こちらに来るようなったころには、すぐ近くに廃車が投棄されていたのを覚えている。
伝承では、甲斐源氏・逸見四郎有義(?-1200)が、巨石の下に白旗などを埋め、それゆえ白旗神社なる社名であるとされる。しかし、そもそもはもっと古いもので、道祖神的な意味もあったのかもしれない、と空想してみたくなる。ふたつ並んでいるので双体道祖神(信州に多い男女の像の道祖神)だ。もっとも、五層になっているその構成を見れば、中世・近世以降に多く造られるようになった多層の石塔を、自然石で模したと考えるほうが妥当なのだろう。なお、岩の前にある石祠は、江戸中期・宝暦年間のものであるとのことだ。岩の周囲をたたくと太鼓のような音がするという話もあることから、内部に石室のような空洞があるのかもしれず、来歴もまた「多層」であることも想像させる。
まあ、そうしたことを除外しても、この造形は、丸石神とは違うセンスだが、アートである。かっこいい。
ちなみに、周辺には石に関係する地名が並ぶ。石堂と姥神である。(『石神問答』に、姥神が石神に関係することが多い旨が記されている) わたしの山荘も石堂地区にあり、庭を掘るとすぐに大小の岩や礫にあたる。列石、積石などの石造物をつくる材料には事欠かない土地なのである。姥神と石堂には縄文の遺跡もある。
ここで、山と里の境界を考えてみる。八ケ岳の南麓は同じようなスロープがずっと続くので、境界はほとんど標高だけで決まるようなところがある。その境は1000m前後だろう。近世以前の里は姥神集落(標高900mぐらい)のあたりが一番上になる。白旗神社は、ここから先は山であることを示すように、その境界あたりに建っている。
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