もやもやの解決など2019/04/15 21:28

以下、またまた長々と書いてしまった。

◆時代だと思わない
海部宣男さんの訃報があった。闘病中と聞いていたけれど、薬石効なく。この1年すこしの間に、間接直接にわたしの人生に関係したひとが、相ついで亡くなった。時代の区切りのように思えてしまうが、これは、わたしがそういう年齢になったということなのだろう。改元とシンクロナイズしているかに思えるのも、次の天皇とわたしの年齢が近いからにすぎないのだろう。

芥川龍之介が、『侏儒の言葉』の遺稿部分に、「昭和改元の第X日」などと書いているのは、どういう心境だったのだろう。なんで年号を気にしていたのだろう。たとえば、以下。

眠りは死よりも愉快である。少なくとも容易には違ひあるまい。(昭和改元の第二日)
『侏儒の言葉』遺稿 芥川龍之介)

わたしは、時代がどうだとか思わないように過ごしていきたい。ただ、さきに逝ったひとは、これからのひどい光景を見ないですんだのかもしれない、と思うことはなくもない。しかし、これは、若いひとにたいして申しわけない考えである。

(話は、まったく変わって)
◆ブラックホール
EHT(イベント・ホライズン・テレスコープ:事象の地平線望遠鏡)による、M87銀河の中心核(おとめ座A : Vir A)のブラックホールシャドウの画像が大きな話題になった。新聞の一面に載るほどに話題になった理由は正直よくわからないところもあるが、天文観測の一端にいる者として、こうした成果が大きくとりあげられるのはうれしく、文字通り「絵になる」成果であるのは間違いない。

すこし前、『数学セミナー』『数学短歌の時間』(題:原点)に、天の川銀河の中心(いて座A* : Sgr A*)を詠んだ歌を投稿した。選歌されなかったが、野辺山観測所の技術スタッフとしての実感を素直にこめた歌である。

仰ぎ見る銀河座標の原点(オリジン)の彼方にひそむブラックホールよ

銀河座標というのは、天の川銀河の中心を原点に、銀河面を銀緯0度にするようにして決めた天球座標だ。その原点、すなわち天の川銀河の中心にも、超大質量ブラックホールがある。

超大質量ブラックホールとして一番近くにあるのは、われわれの銀河の中心Sgr A*なのだ。それはM87の中心核よりずっと小さいが、近くにあるので、事象の地平線(面)の見た目の大きさ(視直径)は、M87の中心核と同じオーダーになるらしい。いずれにせよ、事象の地平線を見ようと思った場合、恒星質量ブラックホールは、近くにあっても小さすぎるので、銀河中心核の超大質量ブラックホールでないと、そもそも難しい。Sgr A*は、EHTの観測対象天体のひとつでもある。では、なんで今回の観測がSgr A*ではなかったのか。これは、ミリ波帯で観測したSgr A*の時間変動が大きいので、撮像が難しいからだという。

EHTで使われたVLBI(超長基線電波干渉計)は、遠く離れた複数のアンテナの同時観測のデータの相関をとり、それらから画像を合成し、空間の分解能を上げる観測である。M87の中心核も、Sgr A*も、地球大の規模のベースラインによる解像度がないと目的の構造は見えないのだが、その観測は、地球の動きも使って仮想的な望遠鏡の鏡面を埋めようとするので、基本的に長時間の観測を必要とする。よって、短時間のスナップショットには向いていないのである。ただし、Sgr A*のVLBI観測も、平均化や、逆に時間変動を含めた疎性モデリング(少ない情報量からのモデリング)で、興味深い成果が得られる可能性もあるという。

(またまた、話は、まったく変わって)
◆もやもやの解決その1
3年前、『数学セミナー』の別冊『数学ガイダンス2016』に、『折って楽しむ数学セミナー・番外編・円環七色地図』という記事(折り紙的工作+エッセイ)を書いた。そこで、作家・堀辰雄が少年時代に数学者を志望していたという話題に触れ、ポール・ヴァレリーが数学に憧れていたこともからめて、「数立ちぬ。いざ生きめやも」という地口でしめくくった。ただ、このエッセイを書いたさい、いろいろ調べたのだが、辰雄が数学者になりたかったという話のしっかりした典拠を確認できず、エッセイも、「数学者を志望していたそうです」と、推定文にした。

関連の話は、上記記事を書いたさい、このブログに「折り紙が苦手な堀辰雄 」としても書いた。(そこに、辰雄 の『羽ばたき』にジジとキキという少年が登場するということも書いたが、これに関しては、『魔女の宅急便』の原作者の角野栄子さんが、名前をそこからとったということを、あとから知った)

先日、辰雄が数学者になりたかったというこの話の証拠を見つけた。『文藝 1957年2月臨時増刊号・堀辰雄読本』掲載の『堀君と数学』(吉田洋一)というエッセイである。吉田洋一さん(1898 - 1989)は、岩波新書の古典『零の発見』や、第1回日本エッセイスト・クラブ賞の『数学の影絵』など、一般向けの文章の筆も立つ数学者だが、辰雄が一高の生徒だったときの数学教師で、その後の交流もあったというひとなのであった。その記述は以下である。

 この最後の会見(引用者注:辰雄が逝く前年1952年に会ったさい)のとき、何かの話のついでに、堀君が高等学校へはいるとき、どうして理科を志望したのかをたずねたことをおぼえている。そのときの答えによると「数学を専攻するつもりでした。中学時代には数学が学校中で一番よくできたんです。それが四年生から高等学校にはいったので三角や立体幾何をよく知らなかったため、だんだんわからなくなってしまったんです」というようなことであった。このとき、わたしは「数学のどういうところに興味をもったか」を詳しくきいてみたかったのだが、病人にあまりこみいった話をさせるのもどうかと思ってさしひかえてしまった。
 (略)
 こんなことをいったからといって、何も堀君の作品と数学の間に糸をむすべるだろう、などといっているのではないことを最後にことわっておきたい。ちかごろ、俳句を論ずるのにカントルの集合論をふりかざしたりする人などがいるが、わたしはこういう傾向を苦々しいことと思っている一人なのである。
『堀君と数学』1957:『堀辰雄全集別巻二』1980)

最後の苦言も、ほんものの数学者の面目躍如たるものがある。

◆もやもやの解決その2
ブルーノ・ムナーリさんの『正方形』(阿部雅世訳)に、「中国のことわざ」として載っていた「無限は正方形をしている。ただし角はない。」の出典が(たぶん)わかった。これも、出典はどこだろう、どこかで見た記憶もあるのだけれどと、気になっていたのである。

この「解明」は、先日このブログにも書いた話、「吾唯知足」が説教くさいので「足」を「呆」にするということを思いついたこと、それが始まりだった。これはこれで面白いと思ったのだが、まじめに「知足」ってなんだろう、とも考えた。「知足」は『老子』を典拠とする、という記述を見かけて気になったのだ。そこで、本棚から、二十歳のころに読んでいた『老子』を引っ張り出した。

全八十一章の『老子』で、「知足」がでてくるのは、ざっと見た限り、三十三、四十四、四十八章だった。このうち、四十四、四十八章は、「足るを知る」の一般的な印象に近いこと、すなわち、物欲が泥深い沼であることを述べていたが、三十三章はすこし違うニュアンスであった。意訳気味に訳すと、以下である。

ひとを知る者は聡いが、自分を知る者こそが賢い。ひとに勝つ者には力があるが、自分に勝つ者が強い。充ち足りたと思えば豊かな気持ちになるが、努力する者もあり、それは志があるからだ。いるべき場所を失わない者は長生きするが、死しても亡びない者を長寿という。

知人者智 自知明 勝人者有力 自勝者強 知足者富 強行者有志 不失其所者久 死而不亡者
寿

ふたつづつの文言を逆接で結ぶようにしたのは、だいぶ恣意的な訳だと思うが、それぞれの後者のほうが、より言いたいことではないか、ともとれる書きかたなのだ。「よいこと言ったでしょ。でも、さらにね」という修辞技法である。つまり、「知足者富」は、「強行者有志」の前振りのようにも読める。そのように読めば、これは、分相応のすすめなどではない。

そもそも『老子』『老子道徳経』)は、思想や倫理を大系的に示した書というより、気の利いた箴言集のたぐいと考えたほうがよいものだ。老子そのひと自体、実在も定かでなく、前後矛盾することも書いてあり、一種の皮肉なのではないか、と思う言葉も多い。たとえば、三章の「常に民を無知無欲にして 知恵者にはあえてなにもさせない。何もしなければ、(世は)治まらなくもない(常使民無知無欲 使夫知者不敢為也 為無為 則無不治)」などは、すくなくとも現代人の感覚からは、皮肉にしか思えない。

『老子』が気の利いた言葉を集めた箴言集であるという話は、寺田寅彦も書いていたという記憶があった。探してみると、『変わった話 一電車で老子に会った話』の中にそんな記述があった。なお、『電車で..』という奇妙な題名は、電車の中で『老子』を読みふけってしまったという意味である。寅彦が熱中して読んだのは、アレクサンダー・ウラールというドイツ人の訳した『老子』である。

哲学の講義のようでもあり、また最も実用的な処世訓のようでもあり、どうかするとまた相対性理論や非ユークリッド幾何学の話のようでもある。そうかと思うと、また今の時節には少しどうかと心配されるような非戦論を滔々と述べ聞かすのであった。
(略)
このドイツ訳がどれくらい原著に忠実であるかということは自分には分かりかねるが、(略)このドイツ訳の方がともかくも話の筋がよく通っていて読んで分かりやすいことだけはたしかである。例えば「大方無隅。大器晩成。大音希声。大象無形。」というのを「無限に大きな四角には角がない。無限に大きい容器は何物をも包蔵しない。無限に大きい音は声がない。無限に大きな像には形態がない」と訳してある。「大器晩成」の訳は明らかにちがっているようではあるが、他の三句に対してはこの訳の方がぴったりよく適合するから妙である。

これを読んで、あっ!と思ったのだ。大方無隅! これこそが、「無限は正方形をしている。ただし角はない。」の出典なのではないか。まず間違いがない。そして、「吾唯知足」を真ん中を正方形にして配置するのも、一種の「天円地方」の「地方」、すなわち、世界を正方形としてみる思想と関係しているのかもしれない、とも思った。

もやもやが解決したという話はここまでなのだが、連想はまだ広がった。まず、ドイツ語訳された『老子』ということで、あれもそうか!と思ったのである。ブレヒトの詩『老子の亡命の途上で道徳経が成立するという伝説』である。彼が老子に接したのも、このウラールというひとの翻訳によってではないだろうか。

連想は、さらにひろがった。ブレヒトの詩は老子の亡命、いわゆる「老子出関」の伝説をもとにしているが、同じ伝説をもとにした別の話がある。魯迅の『出関』である。自宅の書架で、それを探した。これは見つからず、かわりにというか、カバーをかけたままの魯迅の『野草』を発見した。書店のカバーは外すことにしている(最近はつけてもらうこともない)ので、なんで、カバーがついているのかと思ったら、そこにレシートと硬貨の絵が書いてあり、それで捨てられなかったようであった。当時の自分の暇さというか、意味のない時間の使いかたに、妙に感心した。岩波文庫が星の数で価格が表示されていた時代のもので、白星ひとつ100円だが、生協の割引で90円である。
『野草』(魯迅)

というわけで、そのころの気分がさらによみがえった。そのころのわたしは、魯迅によるサンドールの詩の一節「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」(絶望なんてないよ。希望がないようにね)という言葉に惹かれていた。また、『老子』二十章の言葉にも、身をつまされていた。『老子』の二十章は、ある種の若者にかなり「くる」言葉なのだ。

(意訳)
学ぶことをやめてしまえば憂いはない。(略)世のひとは、楽しそうにしてご馳走を食べているようで、春の日に高台にいるようだ。わたしは独り怖気づいて何の兆しもなく、まだ笑わない嬰児のようだ。(略)世の中のひとはなにをするかを知っているのに、わたしだけは真っ暗だ。世の中のひとは何をするかわかっているのに、わたしだけは悶々としている。(略)だれもが自分を持っているのに、わたしだけは頑なに引きこもっている。わたしは独りひとと違っていて、乳母に生かされていることに甘えている。

絶学無憂 (略) 衆人煕煕 如享太牢 如春登台 我独怕兮其未兆 如嬰児之未孩(略)俗人昭昭 我独昏昏 俗人察察 我独悶悶 (略)衆人皆有以 而我独頑似鄙 我独異於人 而貴食母

このモラトリアム感! 最後の「我独異於人 而貴食母」は、「だが、わたしはひとと違い、母なる「道」に生かされていることに感謝しているのだ」などと、哲学的な言葉に解釈されるのが通常で、そういうものなのかとも思うが、「嬰児のようだ」という比喩に対応して「乳母(や家族)の世話になっている」と、そのままにとってしまったほうがよい気がするし、そのほうがぐさりときた。

さて。「老子出関」に題をとった魯迅の『出関』であるが、これは、読んだつもりでいたが、未読だった。花田清輝さんの『魯迅』という題のエッセイに、戦中にこの『出関』を愛読していたということが書かれていて、わたしは、それを読んで、魯迅のものも読んだ気になっていたのようだ。花田さんはそこに、「黄塵の渦まくなかを、のろのろと、砂漠にむかって消えていく老子のすがたを、私は愛した」と書いていてる。

あらためて『出関』を読んでみると、ブレヒトより皮肉や戯画化の面が強く、魯迅自身の自嘲のようにもとれる話だった。魯迅は、自嘲ということは否定しているようだが、自身を含めた知識人というものに対する皮肉が含まれているのはまず間違いない。しかし、そうであっても、そこに描かれる老子そのひとは、情けないがゆえに魅力的なのであった。だいたい、伝説などから読み取れる老子の人物像も、まったく聖人などではない。なにせ、我独悶悶である。魯迅の筆は、そうしたニュアンスをきちんとすくい取っている。『老子道徳経』を「道徳」の元祖として持ち上げるのもずれているが、魯迅の『出関』を、空理空論の非実践者への批判とのみ読む見かたもつまらないものだ。

◆『老子図』と『百福図』
というわけで、老子がにわかにマイブームとなったこともあって、昨日、府中市美術館で開催中の『へそまがり日本美術』展に行ってきた。入れ替えの多い展示の前期最終日であった。同展は、徳川家光の脱力する絵が大きな話題になっているが、仙厓と蘆雪の『老子図』も展示されているという情報があったのだ。残念ながら仙厓のそれは展示がなかった(詳細な事情は不明で、後期も展示がないらしい)が、蘆雪のそれはよかった。これらの絵にも、老子の情けない感じが描かれている。(図録には仙厓も載っている)

『へそまがり日本美術』展@府中市美術館 図録より、長沢蘆雪(左)と仙厓義梵(右)の『老子図』
『へそまがり日本美術』展@府中市美術館 図録より、長沢蘆雪(左)と仙厓義梵(右)の『老子図』

同展は、キュレーションの勝利というべき展示で、ほかにも面白い絵がたくさんあった。きわめて個人的な興味での収穫のひとつは、岸礼(1816-1883)というひとの『百福図』である。百福と言いながら、じっさいには145人のお多福さんが描かれ、彼女らが思い思いのことをしている絵だ。その中に、折鶴を発見したのである。いせ辰の江戸千代紙『大吉百福』の中にも折鶴があったので、ここにもあるかと思って探して見つけた。

『へそまがり日本美術』展@府中市美術館 図録より、岸礼『百福図』の部分。
『へそまがり日本美術』展@府中市美術館 図録より、岸礼『百福図』の部分。

コメント

_ 堤 政継 ― 2019/05/02 12:59

話しは長かったので、何となく分かった気でいます。「無限は正方形をしている。ただし角はない。」折り紙が正方形からが必然で、無限の可能性を秘めてると感じました。古銭の「吾唯知足」穴の形が正方形なのが解明しました。『百福図』懲りずに折り鶴見つけていますね。ところで、折り鶴の猪口晩酌に使ってますか?温故知新、酔って閃いて下さい。

_ maekawa ― 2019/05/04 10:58

堤さん。九州コンベンションに参加されるのであれば、お会いできると思います。

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