『折る幾何学』91ページの図2016/12/04 20:29

『折る幾何学』91ページの図
『折る幾何学』91ページの図に誤りがありました。 工程番号13からできあがりまでが、12までの図と鏡像反転しています。

『折る幾何学』型紙選集2016/12/04 20:30

『折る幾何学』の変則型紙モデルのうち5点が、「型紙選集」として、販売されています。(価格:税込1080円)(こちらを参照

最適の素材と精度の高い加工技術によるもので、独立したパズルとして楽しめて、できあがったものは、オシャレな(!)オブジェとなります。

これはとてもよい。(作者なので、当然ひいき目はある)

『この青い空で君をつつもう』2016/12/08 00:45

瀬名秀明さんの『この青い空で君をつつもう』を読んだ。
全編これ折り紙の青春小説で、先日、静岡に行ったさいに、西川誠司さんと山口都さんから聞いて知った。

全編これ折り紙というのはなんなのだ、ということだが、じっさいにそういう小説なのである。

主人公の少女は静岡市の和紙店のひとり娘の高校生である。そして、この和紙店のモデルは、静岡市で山口都さんが切盛りする店「ますたけ」である。立地などが適合するだけでではなく、瀬名さんが取材に来たということなので間違いない。そして、もうひとりの主人公が、折り紙を生き甲斐にする少年である。

その少年の言葉として、「細長いテープのような紙も、ティーバッグの包み紙も、折ればすべて折り紙になる」なんてせりふが、ふつうにでてくる。作品や書籍に関して、あれがモデルだなと思いあたる記述が満載で、作者の折り紙愛(と藤子・F・不二雄愛)に感嘆することしきりであった。折り紙愛に関しては、当方は客観的評価ができず、ふつうの読者はついてこれるのかと心配になるほどだった。

静岡のご当地小説でもある。「静岡高校あるある」もたっぷりだ(たぶん)。東海大学海洋科学博物館も重要な役割で登場するが、同館がつい先日の折紙探偵団静岡コンベンションの懇親会の会場であったのも、シンクロニシティーじみていた。

もちろん、瀬名さんらしいセンス・オブ・ワンダーもある。

いずれにせよ、ここまで折り紙を本格的に扱った話はこれまでなかった。正方形に正六角形の部分をはめ込んで5弁の花をつくるアイデアはわたしのアレだとか、メインアイデアはやはりアレかと、と読んでいた。...などと書きたくなるのは専門家の矜持である。

専門家の矜持というか、以下は、自慢話である。
瀬名さんが、たぶんこの小説を執筆中の2月、週刊ダイヤモンドの書評で、『ドクター・ハルの折り紙数学教室』(トム・ハル著、羽鳥公士郎訳)、『本格折り紙』(前川淳)、『端正な折り紙』(山口真)の3冊をとりあげていた。ハルさんの本の編集さんから聞いて読んだのだが、その中で『本格折り紙』が「歴史的名著」とされていた。なんだかんだ言って、にやけた。

さらば昴よ2016/12/13 20:01

昨日、ラジオから谷村新司氏の「昴」から流れてきた。有名な歌だが、わたし自身、聞いたのは久しぶりで、「我は行く。さらば昴よ」という歌詞の「さらば」はどういう意味なのだろうと、ふと疑問にかられた。

★たとえば、「南極に行く」という解釈が可能である。すばる(プレアデス星団)は、赤緯(天体の座標で、天の北極が90、赤道が0)が約24度なので、90度からこれを引いた値の南緯66度以上の地に行くと、見ることができない。南緯66度以上にある土地と言えば、南極大陸である。つまりこれは、南極観測隊員の決意の歌だったのだ。すばるの赤緯が地軸の傾きにほぼ等しいのも興味深い偶然である。南緯66度というのは白夜になる境界に相当する。つまり、「昴とさよならした土地」は、季節によっては、一日中星空そのものが見えない土地でもある。
「タロー!ジロー! さらば、昴よ〜♪」

★すばるは、黄道(太陽の1年の通り道)の近くにある星である。5月の約1ヶ月間は、ほとんど太陽と重なって、日没の直後や日の出の直前であっても、太陽にかき消されて見えない。つまり、「さらば 昴よ」は、「ああ、5月だなあ」という意味でもある。
「夏も近づく八十八夜♪ さらば、昴よ〜♪」

★町で見上げた星空では、すばるの特徴、すなわち、多数の星が集まっている散開星団であることがわからない、ということもある。すばるの中で最も明るいアルキオネ(η Tau)は2.87等級であり、それ以外はみな3等級以上である。空の明るい東京では、条件がよい日でも、肉眼で確認できる星は3等級がぎりぎりぐらいなので、すばるは、薄暗いぼやっとしたものと認識することがせいぜいで、ほぼ見えない。つまりこの歌は、地方から都会にでていくひとの歌である。
「恋人よ僕は旅立つ〜♪ さらば、昴よ〜♪」

★明治末、文芸誌『スバル』(集英社の『すばる』とは異なる)の創刊に関わった石川啄木が、次第にそこから離れていったという話とも符合する。『スバル』の最終号より啄木の物故のほうが前になるので、「我は逝く」ということでもある。なお、谷村氏は、「呼吸(いき)をすれば、胸の中」のところ、啄木から、本歌取りというか、明白な引用をしている。
「呼吸(いき)すれば、胸の中(うち)にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音! さらばスバルよ」

★富士重工業の社員が、他社にヘッドハンティングされたときの感慨を歌った歌としてもぴったりだ。あるいは、富士重工業の車のユーザが他社に乗り換えたとか、運転者が高齢となって免許を返上して車も売ったということかもしれない。
「崖の上のスバル〜♪ さらば、スバルよ〜♪」

★身近なところで、国立天文台ハワイ観測所(すばる望遠鏡)での任期が終わって、他の観測所などに異動になった国立天文台職員の感慨でもある。
「いざ、その星影、窮めも行かむ♪ さらば、すばるよ〜♪」

アニメーション『算法少女』2016/12/25 01:42

『算法少女』
渋谷でプレミア上映中の『算法少女』(遠藤寛子原作、外村史郎監督)を観てきた。

18世紀の同名の和算書をもとにした遠藤寛子さんの原作は、ちくま文庫になっているが、我が家には、古い岩崎書店版もあって、映画公開を『数学セミナー』の編集者さんから聞いて、あの作品の映像化なら行かなくてはと、和算好きとして観にいった。すると、キーヴィジュアルに折鶴が使われていて、折り紙者としてびっくりすることになったのであった。(パンフレットの写真参照)

映画には登場しないが、原作に登場する鈴木彦助(のちの会田安明)の弟子の渡辺一が、折鶴を数学の問題として扱った最初のひとと考えられ、その問題が円周率(円積率)の問題に関係している可能性も高いなど、和算と折鶴は無縁ではないのだが、映画の折鶴は、どうやら、監督の外村さんの直感的な演出によるものらしい。

なお、このプレミア上映は、メールか電話で事前に申し込むかたちになっていたのだが、メールで申し込んだところ、プロデューサの三村渉氏から、同姓同名のアニメーション脚本家の前川淳(あつし)氏と勘違いされた返事があり、「いやいや違います」という話になったのであった。

読書日記的なあれこれ2016/12/26 00:20

瀬名秀明さんの折り紙青春小説『この青い空できみをつつもう』の記憶も新しいところで、近刊の折鶴小説をふたつ紹介しよう。昨年の『紙の動物園』(ケン・リュウ)といい、もろもろの映像作品といい、「折り紙 in 文芸」や「折り紙 in 映画」は来ているのか? などと。たまたまだろうけれど。

鏑木蓮さんの『黒い鶴』は、デビュー10周年記念短編集で、表題作は、12年前の幻のデビュー作とのことである。アイデアのてんこ盛りに意気込みを感じる一作だった。鏑木さんは『思い出探偵』でも折鶴を小道具に使用していた。

現役医師でもある浅ノ宮遼さんの短編集・『片翼の折鶴』の表題作は、意識不明となった女性のかたわらにあった翼がちぎれた折鶴の意味は?という話である。医療ものに「日常の謎」(ミステリ用語)というのは変かもしれないが、そんな感じの4編である。まあ、犯罪より病気のほうが、日常であるのは間違いがない。著者は、表題を「カタヨク」ではなく「ヘンヨク」と読ませている。また、「折鶴」のローマ字表記はoriduzuとなっていた。これに関連しては、先日、『千羽鶴折形』の研究をしているひとの集まりがあり、似たことが話題になった。『千羽鶴折形』を海外に紹介するとき、se[m n]ba[z d ts]uruのどの表記にするかということである。た行の濁音はDにすべしという話もあるが、かならずしもそうばかりでもないので、難しいのである。

という感じに、例によってだが、「忙しいときに読書」現象に陥っている。えい、ついでだ。この一ヶ月ぐらいに読んだ何冊かについて、書きたくなったので、由無し言を記そう。

まずは、松村由利子さんの『短歌を詠む科学者たち』。松村さんに、『31文字のなかの科学』『与謝野晶子』という著書があり、前者のみならず、後者の中にも科学と関連づけた内容があることを知り、せんだってこのブログに晶子の『颱風』の話を書いたので、シンクロニシティの感覚もあり、これも入手して読んだ。残念ながら同書の中に『颱風』に関する言及はなかった。

『短歌を詠む科学者たち』で取り上げられた科学者はバラエティーに富んでいて、懐石料理に招待された感じだった。ただ、斉藤茂吉の負の側面(戦争詠など)の記述がないことなどが、妙に気になってしまった。一冊の本になにもかも書くことはできないので、ないものねだりなのだが、読んでいて、なぜか頭の中に強迫的に浮かぶ「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(アドルノ)という言葉に呪縛された感じになった。同様の思いは、冒頭の湯川さんに関する記述から感じたものなのだが、これはたぶんかなり特殊な感想である。

『短歌を詠む...』の第1章は湯川さんである。そして、『詩と科学 -子供たちのために-』という湯川さんのエッセイにある「詩と科学は遠いようで近い。近いようで遠い。」という言葉が、書物全体の基調になっている、と読める。高野文子さんの『ドミトリーともきんす』にも出てきたこのエッセイは、名編で、ポオやキーツという詩人からの科学に対するアンチテーゼを、ドーキンス(『虹の解体』の中でキーツを批判している)よりも慎重に止揚した言葉として読むことができる。しかし、わたしには屈折がある。

湯川秀樹博士や朝永振一郎博士は偶像だ。とりわけ日本で物理を学んだ者にはそうで、物理の業績のみならず、人格や平和運動への姿勢、文章の気品などにおいて、仰ぎ見る存在である。しかし、批判するひとも当然いる。たとえば、唐木順三さんの『「科学者の社会的責任」についての覚え書』がそれだ。わたしはこれを、まさに物理科の学生だったときに読んで、すくなからぬ衝撃を受けた。この本の中で、唐木さんは、朝永さんと対比させて、湯川さんを激烈に非難している。

その論旨をきわめておおざっぱに要約すると、「科学者は、科学そのものが内包する原罪性や危険性を強く自覚すべきだが、湯川博士にはそれが欠けている」といったものだ。かなり一方的な論難で、いまより純真だったわたしでも言葉通りには受けいれなかったが、ある種のトゲとして刺さった。たぶんわたしはこのとき、ひとを尊敬することと偶像化することは違うということを学んだ。

わたしは、湯川さんがそうだったとは思ってないが、原爆の効果的な使用法を示したフォン・ノイマンや、水爆の父・テラーのように、天才というものが、無邪気に虚無を抱えることがある、とは思っている。話が単純でないのは、彼らがわかりやすい悪人や阿呆ではなく、美と真の探求者で、その才能が眩いばかりに輝いていたひとたちだったことにある。これは恐ろしい話で、恐ろしいがゆえのリアリティーがある。思うに、科学の美しさの言挙げの中には、世界の終わりのような極端なものを見たいという欲望に通底するものがあるのではないか。そうしたことを考えるとき、科学は価値中立であるという「弁解」がうわすべりした言葉に思えるのもたしかだ。

『短歌を詠む科学者たち』にも、そういう科学の非倫理性、没倫理性を詠んだ歌はでてくる。たとえば、次のような、一種露悪的な歌だ。
「科学者も科学も人をほろぼさず十九世紀をわが嘲笑す」(坂井修一)
というふうに、科学者の社会的責任の問題がこころの片隅でもやもやしていたところ、近刊に『ヒトラーと物理学者たち』(フィリップ・ボール著、 池内了、小畑史哉訳)という本があったので、これも手に取った。著者が、『かたち』シリーズのフィリップ・ボール氏だったのが意外だった。『かたち』シリーズの過不足ない記述もすばらしかったが、調査の行き届いた本書の内容にも感心した。本書の「主要登場人物」である、プランク、ハイゼンベルグ、デバイには、まだ、苦悩や葛藤があるが、レーナルトやシュタルクの道化ぶりには呆れた。後世から見た評価ではあるが、それは滑稽ですらあった。しかし、彼らとて「偉い」学者だったのだ。こういうのを読むと、自分が偉いひとでなくてよかったなあ、という小市民的感想も浮かぶ。しかし、平凡な者でも、いつなんどき自分が加害者になるのかわからないのが、現代社会でもある。以下は、『ヒトラーと物理学者たち』からの引用の引用で、科学史家ヨーゼフ・ハーベラーの言葉である。素朴にも聞こえる言葉だが、正鵠を射ていると思う。
真の問題は、レーナルトやシュタルクのような科学の訓練を受けた人たちが、いかにして狂信的な国家社会主義者(引用者注:ナチスのこと)となり得たのか、ということだ。ノーベル賞受賞者があのように染まりうるのならば、科学の訓練や実践によって、行き過ぎた非論理的で、私的で、経済的、社会的、政治的な行動を、どのようにして防ぐことができるのだろうか? 
以下も引用されていたもので、ちょっとわかりにくい訳(あるいは、原文も?)だが、直球で痛いところをついてくる。ヤスパースの言葉である。
私たちは、オッペンハイマーのような科学者から風変わりな言葉を耳にする。・・・彼は「美」について語る。すなわち美を、遠くにある奇妙でなじみのない場所や、あるいは広大に開かれた風の強い世界において存在し続ける道の中に見出す、という人間の能力について語る。(略)そうした文章のなかに、洗練された耽美主義への逃避、(略)惰眠性のある言葉づかいへの逃避しか見出すことはできない。

科学者が詩をつくることは、科学にも詩があるというより、もっと単純に、逃げ場であることも多いだろう。水爆の父・テラーのピアノのようなもの、心理学でいうところの補償作用である。しかし、逃げ込み場所であったはずのものが、精神を削るようになることもあるのが、またややこしい。そういう点では、いわゆる余技を完全に超えているひとの話が興味深い。たとえば、『短歌を詠む科学者たち』中の、永田和宏さんの以下の話である。
インタビューなどでどうして二つを両立しているのか訊ねられると「どちらにも発見の喜びがある」などと答えていたものの、自分にそう信じ込ませたかったというのが本当のところで、実際には納得していなかった。
 しかし、あるとき不意に「サイエンスと文学はまったく違ったものなのだ」という当たり前のことに気づいた。「二つは何の関係もなく、二つのことを一人の人間が生涯をかけてやることに何の必然もない」と思った瞬間、科学と短歌を「同じ重さでやってきたというスタンスと、その時間の累積」が、初めて自分の中でかけがえのないものであったと思えた。
この話には、個人的にも共感した。スケールはちいさいが、わたしにも似たような感覚があるためだ。...と、極私的な話となる。

この1ヶ月も、なんやかんや折り紙の活動が多い。本来怠け者なのに、ぼんやりとした週末がほとんどない。もろもろの会議のほか、先月末は折紙探偵団・静岡コンベンション、先週は、第21回折り紙の科学・数学・教育研究集会と『千羽鶴折形』に関する座談会だった。そして、先月の第2週は、天文台の仕事を休んで、「数学的モデリングと解析の国際会議2016 - 折り紙を基にしたモデリングと解析」という会に出席していた。こちらは科学や工学の研究会だが、ウィークデイだったので、仕事を休んで行った。数学を使うといっても、天文と折り紙では、頭を切り替えるし、こういう研究会で、天文台のソフトウェアエンジニアですと言っても話が発展することはあまりないので、折り紙アーティストなどと名乗ることになる。まさに、「二つは何の関係もなく、二つのことを一人の人間が生涯をかけてやることに何の必然もない」のである。

研究会そのものは、幅広い研究者に会えるのと、自分のまとめの機会、若いひとの成果に触れることができるのでたのしい。文化としても研究としても、マージナル(周辺的)なものであった折り紙が、偉くなったよなあと感慨も深い。しかし、自分が偉くなったわけではないので、ふわふわとした奇妙な立ち位置にいるなあ、とも思うのである。

話が妙なほうに流れてしまったが、読書日記的なものに戻ると、前にこのブログにも書いた(1 2,3)竹本健治さんの『涙香迷宮』が、年末の各種ミステリベスト10で上位(1位も!)だったのには驚いた。万人受けとは思えないので、心配である。「なんで、あんたが心配するのか」と、いうことではあるけれど。

そして、いまさっき読み終わった、森見登美彦さんの『夜行』には、以下の文章があった。
「これらは『夜行』と呼ばれる連作で四十八作あります。」
天鵞絨(ビロード)のような黒の背景に白い濃淡だけで描きだされた風景は、永遠に続く夜を思わせた。いずれの作品にも一人の女性が描かれている。目も口もなく、滑らかな白いマネキンのような顔を傾けている女性たち。「尾道」「伊勢」「野辺山」「奈良」「会津」「奥飛騨」「松本」「長崎」「青森」「天竜峡」・・・・一つ一つの作品を見ていくと、同じ一つの夜がどこまでも広がっているという不思議な感覚にとらわれた。
フィクションの中に野辺山という地名がでてくることはなくはなないけれど、多くはない。『夜行』の中でじっさいに語られるのは、尾道、奥飛騨、津軽、天竜峡、鞍馬で、野辺山は語られぬエピソードだったが、夜の闇の物語は似合う。星空は、まさに降るごとくだ。最近、闇に隠れた事件もあったのは嫌な感じだけれど。なお、作中に描写されている版画は、長谷川潔さんのイメージ(氏は静物が多く、風景画はすくないが)だが、表紙絵はなぜかいまどきのアニメーションぽい絵であった。

というわけで、明日から野辺山か。